悶着


 世界の終わりだ。


「.......」


 車の座席の上で膝を抱え、顔を膝のあいだに埋めて絶望していた。地球はもう終わりだ。人類滅亡、生命断絶さようならー。


「おい、和臣。お前本当にどうしたんだ」


 絶望のあまり京都の定例会議をすっぽかそうとしていた俺を、ギリギリで家に戻ってきて車に詰め込んだ兄貴が聞いてくる。地球が終わるんだから仕事なんて行かなくたっていいじゃないか。


「どうした、腹減ったか? それか葉月ちゃんと喧嘩でもしたか? はは」


「.......。」


「.......え、本気か?」


 とりあえず兄貴の脇腹にパンチをお見舞いした。抱えていたランプの中で、トカゲが心配そうに首を傾げる。助手席に座った監視の人のため息が聞こえた。


「珍しいな、その場で終わらない喧嘩なんて。葉月ちゃんは許してくれなかったのか? お前、一体何したんだ」


「.......俺なんもしてないし。今回は葉月が悪いんだし」


「は!? ま、まさか、お前から葉月ちゃんに喧嘩ふっかけたのか!? お前どうしたんだ!! 頭打ったか!?」


「うっさいバカ兄貴」


 絶望の発端は今日、大学の昼休みだ。そこからこの世界の希望は失われた。


 あの時の俺は、食堂で自作弁当を食べながら、目の前のラグビー部3人のむさくるしさにげんなりしていた。割と日常になりつつあるそこに。


「し、七条さん!!」


「.......えっへへーい」


 思わず箸を片手に天を仰いだ。

 目の前には、いつかの春先、トンネル近くの崖から一緒にフォーリングしたような女性が、頬を染めて立っていた。ゆかりんのライブ前に腕を折った記憶が蘇ってくる。そう言えばこの人同じ大学だったよ。


「七条さん!! やっと会えて良かった!! お、同じ大学って、この間、知ったんです!」


「.......ぼくは全然知らなかったなぁー」


 犯罪者を見る目で俺を見ているラグビー部3人は役に立たなそうなので、もう早くこの場から逃げようと弁当に蓋をする。せっかくの唐揚げ弁当が。


「七条さん、あの時は本当にありがとうございました。あの、怪我は大丈夫でしたか.......? あの後私、あの高さの崖から落ちて捻挫だけだったのは、奇跡だって言われて。でも、それは七条さんが庇ってくれ」


「わあすごい奇跡だったんですね! 良かった良かったお互いラッキーで! じゃ、俺はこれで失れ」


「え、あの! せめて連絡先を! で、できれば、今度お食事とか.......あ、あの! お礼に! お礼にお食事でも! もちろん、こんなことじゃお礼にはならないんですけど! それは.......あの、追々」


 その日はお腹が痛いから、と口を開きかけた時。


「.......随分嬉しそうね。可愛らしい女性に、食事に誘われるなんて」


「ひいっ」


 背後に立った同じ弁当箱を片手に下げた葉月が、無表情で腕を組んで俺を見下していた。ラグビー部3人は学食のお盆を持ってコソコソと席を変えた。待ってお願い俺も連れてって。


「七条さん? どうしたんですか?」


「ごめんなさい、この人はこれからずっと腹痛の予定なの。だからお食事には行けないわ」


「.......? あの、あなた誰かな? 1年生? 私、七条さんと話してるんだけどな」


 びきり、と葉月の頭上3センチから音がした。なんだ今の。ポルターガイスト現象か。


「私の和臣に、何かご用かしら?」


「そんな、物みたいに.......! 七条さんは私の命の恩人なの! そんなふうに言うのは許さないから!」


 目立ってる。この昼時の学食の中で、無表情で殺気立った美少女が先輩女子と言い争う姿に、周りのほとんどが箸を止めていた。目立ってますよお嬢さん方。その隣に突っ立っている俺も巻き添えで目立ってますよ。泣きそう。


「和臣。あなた、この人からお礼が欲しいの?」


「欲しくないです.......」


「そう。じゃあ、話は終りね。私と和臣はこれで失礼するわ」


 ぐいっと葉月に手を引かれ、訂正、ずるずると引きずられながら食堂を出ていく。もう目立ちまくりだよ、俺は変な目をつけられたくないんだよ。穏やかに、友達たくさんの大学生活送りたいんだよ。


「あ、あの! これ、私の連絡先! あとで連絡ください!」


 小走りで追いかけてきた先輩女子が、俺のシャツの胸ポケットに小さな薄ピンクのメモを押し込む。それから、ぎゅっと右手を取られた。あーあーあーあー。


「私! 再会できたの、運命だと思ってますから!」


 たっと去っていった女性。

 俺は、遠くに見えるラグビー部3人に軽蔑の目を向けられながら、ザワつく食堂を後にした。


「.......和臣」


「.......目立ちすぎですよ、葉月さぁん.......」


 ぴたり、と俺を引きずっていた葉月が立ち止まる。俺は半べそで立ち上がった。

 恐ろしい程の無表情で、俺より低い頭の位置から俺を見下す離れ業をやってのける葉月は。


「あら、本当にお邪魔だったかしら。女子大生とのお食事の機会を奪ってしまって」


「別にそれはどうでもいいんだけどさ、」


 俺の言葉の途中で、びき、とまた葉月からラップ音がした。ラップ音の原因が俺の知ってる怪異や霊力の飽和ではないことに戦慄しかない。どうなってんだ。


「.......随分熱烈に、アピールされてたじゃない。手まで握って。そのメモも、大事そうにポケットに入れたままにしちゃって」


「!?」


 慌ててポケットからメモを取り出し、その場に捨てようとしてポイ捨てと個人情報の漏えいが怖くて手を止める。せめてゴミ箱とシュレッダーがある場所で処理しよう。仕方なくポケットにメモをしまいなおす。


「っ! なによ! 本当に大事だったの!? やっぱり男の子はたくさんの女の人と遊びたいだけなのね!?」


「誤解しかないその情報は誰から手に入れた!?」


「ネットよ!」


 膝から崩れ落ちた。崩壊しろインターネット。


「.......葉月、ネットの情報は」


「あっれー? 水瀬さんじゃーん! この時間までいるの珍しくなーい?」


 色々チャラチャラとした男が、馴れ馴れしく葉月の隣にやってきた。去れ、今は取り込み中だ。


「ねえねえ、やっぱり次の日曜日空いてない? それか火曜。水瀬さん来たら合コン、マジ盛り上がるんだけどなー。いっつも断られるの、俺もさすがに辛いっつーかさぁ」


 チャラ男退治の術ってどんなんだったかな。彼氏の目の前で彼女をいかがわしい合コンに誘うな見知らぬクズ。あと距離が無駄に近いんだよ離れろ。そのチャラついたピアスもぐぞ。


 というか葉月さん、こんなチャラ男と接点あったんですね。


「ね、行こうよ葉月ちゃーん」


 おいこらてめぇ今なんつった。


「.......」


 葉月は、じ、と俺を見てから。


「.......行くわ。合コン」


「!?!?!?」


 思わず尻もちを着いた。わなわなと震える指で、なんとか葉月を指さす。なんですと。


「え! マジ!? やったマジか!! うわマジか!! じゃああとで詳しい場所とか連絡するからさ! おっしゃーーー!! 水瀬さんが来るぞー!!」


 チャラ男は小躍りしながら消えた。俺は、未だ痙攣する喉を無理やり動かして。


「は、はづ、葉月さん? 合、合コン行くん、ですか?」


「ええ。私だって、他の男の子と喋ったっていいでしょう? あなたと同じよ」


 いやいや、合コンと日常のお喋りは違うだろ。そもそも俺は女子とはほとんど話していない。学校に女の子の友達いないからな。今日はたまたまだ。たまたま特殊な方が現れて、手を握ってきただけで。

 というかそんなことではなくて。

 焦りと混乱でぐちゃぐちゃの頭で、なんとか喉に声を発するよう命令しようとした時。


「.......本当に、私ばかり騒いで、バカみたいだわ」


 そう言うやいなや踵を返した葉月を、慌てて立ち上がって追いかける。


「葉月! ちょ、待てって!」


「.......」


 葉月はまた、今度は校門の前でぴたりと足を止めた。そして、ば、と真っ赤な目元でこちらを振り向く。思わず怯んだ。


「.......あなたはフラフラしすぎなのよ!」


 そこからが長かった。

 怒っているのに理路整然、あくまでロジカルに隙なく俺のダメな点を並べられ、今までのダメエピソードまで振り返られ、最終的に俺が悪いとしっかり結論づけた。パーフェクトな論証だ。大学での勉強が生きてる。

 しかし、俺にだって言い分はある。


「で、でも! 合コン行くじゃんか葉月は! 俺は、あ、謝らないからな! 葉月も悪いんだからな!」


 既に心が折れそうだが、あのチャラ男の顔が頭から離れず、絶対に謝るものかという意地が生まれていた。しかし、葉月の顔がみるみる怒りに染まっていったのが怖すぎてもう無理かもしれない。腰抜けそう。


「そう。わかったわ」


「な、何がだよ」


「お互い引く気はないのね。ならこの戦い、私が勝つわ」


 喧嘩を戦いって呼ぶのやめませんか。お互いごめんなさい、と一言言えば今から仲良く2人で帰れるのに。


「覚悟していてちょうだい」


 冷たくそう言って、葉月は俺を置いて帰った。その間いくら電話してもメッセージを送っても返事はなく、夕飯も食べにくる気配がなかった。仲裁を頼んだはずの妹は、夕飯は葉月と外食してくる、と笑顔いっぱいで買収されて行った。



 そうして、絶望の今に至る。


「だから俺は今、仕事とかしてる場合じゃないんだよ.......!!」


「仕事はしている場合だろ。はぁ、ホントにお前は.......」


「嫌だ嫌だ嫌だ仕事したくない帰りたい葉月と仲直りしたい」


 狭い車内でじたばたと暴れ回ったのを、嫌そうに兄貴に押さえつけられる。離してくれ、仕事に連れてくならせめて暴れさせてくれ。


「お前.......自分から謝らないって決めたのに仲直りはしたいのか。葉月ちゃんに怒ってるんじゃなかったのか?」


「舐めるなよ。俺が葉月に怒るわけないだろ。顔見るだけでいつもハッピーだわ。今あるのは悲しみだけだ」


「はぁ.......お前、我が弟ながら、はぁ.......ダメだな.......」


「はっ! そうだよ、俺には兄貴と同じ血が流れてるんだ! チャラ男に取られる!! は、え!? 葉月、チャラ男に取られる!?!?」


 動いた拍子にごちん、と窓に頭を打った。その痛みとは違う涙が出てくる。


「落ち着け! あと俺との血の繋がりからそんなことを連想するな! 俺か!? 結局俺が悪いのか!?」


「うわあああ!! 俺たちは終わりだあああ!!」


「なんで俺もだ! なあ、俺は終わってるのか!? なあ!! まだ始まったばかりなのに終わってるのか!?」


 兄弟でいつもの白い掛け軸のある部屋に入った時には、2人とも心身ともに撃沈していた。 

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