さよなら、ジャパン。
天敵
Verweile doch! Du bist so schön.
時よ止まれ! 汝はあまりに美しい!
「ぎゃああああああ!!」
鉄のフライパンと英単語帳を持って台所から転がり出た。ヘルプ。へるぷみー。
「和兄うるさい!! 子供じゃないんだから落ち着いてよね!」
「清香助けて! 姉貴、姉貴はいないのか!?」
「もうっ! お姉ちゃんは夕方まで帰ってこないって言ってたでしょ! ちゃんと聞いて!」
「あああああ!! 終わりだ!! この家は終わりだああ!!」
英単語帳を投げ捨てた。こんなものなんの役にも立たない。誰だペンは剣よりも強しとか言ったやつ。剣が勝つ時もあるんだよバカ野郎。
「どうしたの?」
「ご」
冷たいフライパンを棚の上に置く。フライパンの上の冷たい米を見て涙が出た。
「ゴキブリが.......!」
「いやーーーー!!! お姉ちゃーーん!」
妹がだっと走って行った。待って。置いていかないで。1人にしないで。
つま先立ちで廊下を進んでいると、腰に妹が抱きついた父がやってきた。助かった。今日は父がいたのか。もうファザコンと言われようがなんでもいい。父さん大好きありがとう!
「どうしたんだ2人とも。落ち着きなさい」
「父さん! ご、ゴキブリ出た! 台所に!」
「あぁ.......。父さんも嫌いなんだけどな」
そう言いつつ父が殺虫剤を持って来て、台所へと向かう。すごい、かっこいい。尊敬する。
3人で台所を覗いたところで。
「あっ!」
俺の大声に2人がビクッと肩を跳ね上げて、妹はばしばしと俺の事を叩いてきた。
「ご、ごめん!! でもトカゲ、トカゲいるから! 殺虫剤ダメだ! 死んじゃう!」
コンロの火を見せてやろうと連れてきたトカゲがいた。ああ、なんでこんなことに。
「じゃあ、父さん雑誌とかでアレを叩き潰すのか.......?」
「ご、ごめん父さん、ごめん」
「お父さぁん.......!」
妹と2人で泣きながら父に縋る。
「私は泣いてないもんっ」
訂正。俺だけ泣いて父に縋る。
「.......父さんはな、この家を守る責任があるんだ!」
父が雑誌を丸めて台所へ入って行った。本当にかっこいい。惚れそう。俺だったら結婚してるね。母さんさすが、いい人捕まえてるよ。
「ん? いないぞ?」
父がランプを片手に戻ってきた。それを受け取って抱きしめる。内側に張り付いたトカゲが、ブンブン尻尾をふっていた。俺も会いたかった。ごめんよ、もう二度と君を離さない。
「和臣、見間違いじゃないのか?」
「いる。絶対。こんなにデカかった」
「やぁだぁああ!! 和兄のバカー!!」
妹に全力で殴られる。そこそこ痛いし、俺だってあんな大きなゴキブリ嫌だ。ただ、台所を安心して使えないのは俺にとって死活問題なのだ。父さん助けて。
「.......殺虫剤貸しなさい」
父は殺虫剤を持ってまた台所へ入った。片手に握りしめているのは、女性物の結婚雑誌。もちろん姉のものでは無い。一昨日難しい顔で帰ってきた兄貴が、30分ほど表紙を眺めて捨てたという呪いの品だ。なんのために買ったんだ兄貴。
「.......っそろそろ孫ーーー!!」
それからしばらくして、がだんっ。と音がして、殺虫剤が撒かれる音がした。
「お前もう30になっちゃうだろーーー!!」
べしん。と何かを叩きつける音がした。
「せめて恋人を紹介してくれー!!!」
ガサガサと、ビニールの音がして。
「.......確かに、デカかった」
げっそりした顔の父が、固く口を結んだビニール袋を持って台所から出てきた。
「父さん! ありがとう! 俺父さんの子でよかった!!」
「お父さんありがとう、大好き、お父さん大好き」
父と2メートルの距離を保ちながら妹と感謝を伝える。父がそのまま外へ出て、ゴミ箱にビニール袋を突っ込んだ。そして、外の蛇口と石鹸でものすごい勢いで手を洗う。皮むけそう。
「あら? みんな何してるの?」
「お邪魔します」
買い物袋を下げた姉と葉月が、玄関から回り込んで不思議そうにこちらを見ていた。
「あと、5分.......!」
父がびしょびしょの手で顔を覆った。
ごめんなさい父さん。あと5分待てばウチの対ゴキブリ最強の2人が帰ってきたのに。本当にごめんなさい。
「なに? 何かあったの?」
「和臣、あなたなんで泣いているの?」
父が立ち上がって、妹と手を繋いで家へと入って行った。妹の中で父の株が急騰している気がする。そして俺の株は暴落。そろそろ兄としての威厳が無くなる。助けて。
「今日の夕飯、秋刀魚買ってきたの。葉月ちゃんも一緒にいただきましょ」
「どうもありがとうございます、お姉さん」
「.......葉月ちゃん、特売のきゅうりしか買わないんだもの.......」
秋刀魚か。肉が良かったな、と思ったところで。
「あぁあ.......チャーハン.......」
冷たいフライパンと溶き卵を思い出した。なんてこった。パラパラのチャーハンができる予定だったのに。なんでこんなことに。
「なに? あんたなんか作ってたの?」
「作りたかった.......」
「はぁ?」
トカゲ入りランプが、じわっと暖かくなった。ありがとう慰めてくれて。
「まあいいわ。和臣、これあんたに」
姉が手渡したのは、真っ黒な封筒。トカゲよ、燃やしてくれ。
「はぁー.......仕事とか年に2回ぐらいにならないかな? それだったら俺すごく頑張ると思う」
「あなたは年2回になったらなったで行きたくないと泣きわめくと思うわ」
「葉月ちゃん、正解よ。たとえ年1回でも行きたがらないわよ、コレは」
トカゲ、今日は高いアイスあげるよ。だからちょっと涙で濡れても許してね。
「で? 中身は?」
「.......おお!」
低空飛行していたテンションが急上昇する。心なしかトカゲも喜んでいるように見えた。
「和臣? やけに嬉しそうね? .......病気かしら」
「河童でも出たの? 連れて帰って来ないでよ」
2人の冷たい目線を受けても、上がった気持ちは下がらない。
「違う違う! 今回は調査なんだけどな、場所がすごいんだ! はは、俺1回行ってみたかったんだよね!」
くいっと、トカゲが首を傾げた。
「東京タワー!!」
真っ赤な塔は、どこへの階段なのだろうか。
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