第5話 翠さんは知られたくない

 陽太の背中を見ながら走った。本気で走っているのにじわじわと離れてしまう。陽太が時折後ろを見ながら速度をゆるめてくれたので、なんとか引き離されることなく駅に着いた。


「待って……陽太速い」


 ゆったりしていたら本当にギリギリになってしまっただろうから、走るのはしょうがないけれど、めいいっぱい走ったのが久しぶりだったせいか、息が切れる。


「誰のせいで遅れそうになったと思ってるんだよ。余裕持って行くつもりだったのに」

「ごめんごめん」


 膝に手をついて、呼吸を整える。陽太を見上げると、ぷぃっとそっぽを向かれた。ちょっとぶっきらぼうな感じがして、怒っているのかなと不安になってしまう。私が待ち構えてたせいで遅れることになってしまったから、しょうがないかもしれないけれど。

 でも、時間を確認すると、遅刻の心配はしなくて良さそうだ。


「よし、大丈夫。まだ全然間に合うし、大丈夫! ちゃんと学校までエスコートするからね」


 気分を切り替えて陽太に声をかけ、駅のホームに向かう。


「これ、はぐれるんじゃ?」


 陽太が元気のない声でそう言った。この混雑具合を見たら、そうなってしまう気持ちもちょっとわかる。でも、そんな混み具合も私はプラスに持っていきます!


「じゃあはぐれないように手をつなごっか?」

「……いや、遠慮する」

「遠慮しなくていいのに」


 えぇ……どこで遠慮なんて言葉を覚えてきたの? お姉ちゃんは悲しいです。さっき一瞬だけ手を繋ぐことができたのに……次があったら絶対もう離さない!

 

 がっくりとした気持ちのまま窮屈な電車の中に入る。陽太が先に乗って、私がドアに寄り掛かる感じになった。いつもはもう少し空いている時間だから、少しだけ苦しい。でも、陽太と一緒に登校って考えると、なんだか顔が緩んでしまう。


 なんてことを思っていたら、急に壁ドンならぬ、ドアドンをされて、陽太との距離が近くなる。どきりとした瞬間、陽太がスペースを作ってくれているんだと思って、ありがとうって伝えたけれど、陽太の顔はまたぷぃっと別の方向を向いてしまって、その表情を見る術はない。


 朝から張り込みしていてよかった。会話らしい会話も久しぶりだし、こんなに間近に彼の姿を見るのも久しぶりだし、ただの登校なのに、それがなんだかとても嬉しい。いつもは長く感じる時間のに、ふたりで乗る電車はあっという間に降りる駅に着いた。


 やっぱり別々に行こうとか、周りの目が気になるとかよくわからないことを言われたけど、そのあと無事に一緒に学校まで着いた私は、陽太を見送った……あれ、私陽太の教室知らない! 知っておかなきゃ! それに、部活の勧誘もしたい。


 私は美術部に入っていて、陽太が良かったら、入ってくれないかなと思う。難しいかもしれないけど。校舎の入り口のほうまで歩いていってしまった陽太を小走りで追いかけていると、陽太と話す男子生徒の姿が目に入った。


 友達かな……。邪魔になるかな。今話しかけて良いかな……。そんな風に迷いながらも、陽太と男子生徒のあとをついていく。なんとなく、足音を立てないように。

 一年生の教室は一階だから、校舎の入り口から近い。こっそりついていってたつもりだったが、陽太の隣にいる男子生徒がこちらを振り向いて、思わずびくりとしてしまう。向こうもなんだか、びくっとしていた。思わず後ろを振り向いて、幽霊やおばけがいないことを確認してしまう。まだ夏には早いよね。

 

 再び歩き出したので、そろりとついていく。

 そうこうしているうちに、陽太が1のBの教室の扉の前で立ち止まった。どうしよう。教室に入っちゃったら声をかけにくくなる。かと言って今も、友達らしき男子生徒が隣にいる状態なので、声をかけにくい。

 どうしよう困る。

 

 もう今しかない! まだ扉開けたら駄目! 

 思わず陽太に突進して、その腕を掴む。間に合った。良かった。


 陽太の友達も一緒にいる状態で、長々と喋るのはなんだか恥ずかしくて、要件だけを伝えて走り去る。なんとも思われてないだろうか。もし将来を約束しあった仲なんてことがばれたら、大変なことになってしまう。もし周りに知られたら、なんて言われるんだろう。お似合いだねとか言われたりしたら……えへへ――そんなことになったら、恥ずかしくて学校に行けなくなりそう。困っちゃうなー。


 びしっとしようと思うけれど、顔が緩んでしまいそうなのが自分でもわかる。一緒の学校で、これから毎日登下校できるのかなと考えると、それだけで……あれ、よだれがでてきてる!? お腹は別に減ってないのに……。


 トイレに寄って口元につぶあんがついてないことを確認して、3のAの教室へ向かう。今日は始業式で午前中だけだけど、三限目は部活勧誘ということになっている。来てくれたら良いな。入ってくれたら良いな。そうしたらもっと一緒にいられるのに。でも周りの目があるところで、あまり話していたら変に思われるかな。


 いつもは何も考えずに登校して、校舎に入り、教室まで向かう毎日だ。それなのに今日は、一歩一歩歩くたびに色々なことを考えてしまう。

 教室の扉を開けて、黒板に貼られた席順を確認する。同じ部活で少し親しい峰咲さんの席の右前だ。クラス替えのこともあって、三分の一くらいは知らない人だけど、知ってる人が近くにいて良かった。


 時間もわりとぎりぎりだったせいか、見渡せば教室内にはすでにたくさんのクラスメイトがいた。でもなんだかしんとしている。みんな黒板を見つめてる。あ、私が席順を身体で隠しちゃってるせいか。申し訳ない。みんなまだ確認してなかったのかな。


 そろりと、三歩くらいずれて、自分の席に向かう。


「おはよう峰咲さん、また一緒だね」

「おはよう翠……ん? 春休み何かあったの?」

「――何もないけど」

「じゃあ今日何か良いことでもあった?」

「え、な、なななななななにもないですよ?」


 これは、女の勘というものなのでしょうか。峰咲さんが鋭い質問を投げかけてきて、思わず冷静さを失うところでした。

 嬉しいこともあったし、楽しいこともあった。何しろ、陽太と一緒に登校できたのだから。でも、このことを知られるわけにはいかない。私と陽太の将来の約束は二人だけの秘密なんだから。

 何もばれてはいないはず。何も怪しいところはないはず。慎重に鞄を机の脇にかけて、席に着く。


「えぇ、怪しいんだけど」

 

 左斜め後ろから、峰咲さんのそんな声が届く。――なんで。


「な、なななにがですか? いつもの私です。何も変なことは」

「その、『なななな』っていうのが怪しい。敬語も怪しい」

「……別に良いことなんてないし、嬉しいことなんてないし、いつも通り……おしまい!」


 そう言い切って、前を向いた。でも少し気になって、峰咲さんを一瞬だけ見返す。峰咲さんのほうこそ、何だかニマニマしてて変に見える。


 いつも通りに、いつも通りに……そう念じるものの、なんだか顔が熱い。はたと、周りを見渡すと、たくさんの視線が私のほうを向いていることに気付いた。もしかして、私以外の人間って人の思考が読めたりするのでは……。私が陽太のことを好きなのが、ばれているのでは――そんな恐ろしい考えを振り払いながら、HRが始まるまでの五分という気の遠くなるような時間を過ごした。

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