第4話 初登校は幼馴染と共に

 これから毎日通うことになる駅にたどり着いた。

 誕生日プレゼントに、と父親からもらった腕時計に目をやる。七時四十分。八時二十分までに教室に行くようになっているから、なんとかこれ以上は走らずに間に合いそうだ。


「待って……陽太速い……」


 息を切らせながら後ろから駆けてくるのは翠お姉ちゃん。心の中では昔のままの呼び方でいられるが、声に出してそれを言うのは恥ずかしい。僕の横で立ち止まるのに合わせて、口を開く。


「誰のせいで遅れそうになったと思ってるんだよ。余裕持って行くつもりだったのにさ……」


 言ってしまってから、少しきつく言い過ぎたかもしれないと後悔した。


「ごめんね」

 

 少し笑みを浮かべながら翠お姉ちゃんはそう言うと、両ひざに手をついて立ち止まり下を向いて呼吸を整える。思わずその膝丈のスカートからすらりと伸びる白い脚に目を奪われてしまう。一拍を置いて、僕は駅の入り口のほうへ視線を無理矢理向けた。

 免疫がないせいか、これも思春期のせいにして良いものなのか、目を奪われてしまったことに僅かな罪悪感が込み上げてくる。


「まだ全然間に合うし、大丈夫! ちゃんと学校までエスコートするからね」


 息を整え終わった翠お姉ちゃんはそう言って先陣を切っていく。学生やスーツ姿の人で賑わう構内を抜けて改札を通れば、通勤や通学をする人々でホームは溢れそうになっていた。


「うぁ……毎日これ?」

「最初はおどろくよね……」


 花火大会の時に混雑する電車に乗ったことはあったが、これほどの混み具合は初めてだった。一緒に行くのは面倒、恥ずかしいと思っていたものの、人の多さに圧倒されて一瞬だけその気持ちが掻き消える。


「これ、はぐれるんじゃ?」

「じゃあはぐれないように手をつなごっか?」

「……いや、遠慮する」

「遠慮しなくていいのに」


 くすくすと笑う翠お姉ちゃんの狙いがなんとなくはっきりした。純情な十五歳の男子を弄びやがって……そんな気持ちは、邪気のない笑みで相殺される。まぁ良いかと、そんな気持ちになってしまう。僕はちょろいのかもしれない。そんな自己嫌悪に苛まれていると、ホームに電車が来た。


 乗り込む直前になって、あの噂に聞く痴漢とやらが出たらどうしようということを思い出して、なんとなく自分から先に乗り込んだ。そのあとに翠お姉ちゃんが乗るとドアが閉まった。翠お姉ちゃんとは向かい合う形だ。うん、これなら痴漢がいたとしても触ることなどできないはずだ。僕がガードしているからな。


 そんなわずかな達成感とともに、背中に体重がかかる。おしくらまんじゅうのように押され、翠お姉ちゃんとの距離がゼロになりそうになって焦る。背中のおっさんたちと触れ合うのは別になんとも思わないが、彼女に触れてしまうのはとてつもなく抵抗感がある。華奢な身体は僕が少し体重を預けただけで潰れてしまいそうに思えた。


「毎日こんなに混む?」


 何を話せば良いのか。こんなに一緒に長時間いることがなかったから、自然とどうでも良いことを口にしてしまう。

 

「今日はちょっと遅くなったから。いつもはもう少し楽かな。それでも混むけど」

「うわぁ……」


 後ろからの圧に耐え切れなくなって、ドアに手を付く。図らずも、見た目だけはなんだか壁ドンをしているような変な格好になってしまい、それに合わせて顔と顔の距離が自然と近付いてしまう。こんなに近づいたのは、小学生の時以来かもしれない。

 自然と僕の顔を見るために上目遣いになる彼女の瞳が、少しだけ揺れていた。


「ありがと……私の周りだけちょっとスペースあるなって思って」

 

 電車の音のせいか。服の擦れる音のせいか、そう耳元で鳴る声は透き通っていた。


「別に」


 そう答えて、僕は顔を背けた。

 昔良く遊んだ仲だし、幼馴染だし、家は近所だ。でも、翠お姉ちゃん――彼女は、綺麗な人になっていた。だからせめて、顔が熱くなるこの感覚は、混雑のせいにさせてほしい。けっしてちょろいわけじゃない。


 何かを話したほうが良いのかもしれない。そんなことで頭を悩ませながら圧に耐えていると、二十分という電車の時間は自然に過ぎ去った。学校の最寄り駅に到着し、足を踏み下ろす。二人同時に同時に息を吐く。


「はぁ」

「ふぅ」


 春の冷たい風が、首筋の汗を冷やしていく。火照った頭も、冷めていく。


「あともうちょっとで学校だよ」

「わかってるよ」


 何が楽しいのか、彼女のその笑顔だけは昔遊んだときの面影を残している。そして、中一の時、今日と同じように一緒に登下校をしていてからかわれた過去を思い出した。


「あとはひとりで大丈夫だから距離を取ろう! な!」

「え、一緒に行こうよ」

「またこの話か!?」

「……嫌なの?」

「嫌――」


 これは駄目だ。また泣かせてしまう気がする。修羅場になる。こんな公衆の面前では言い訳もできない。


「――じゃないよ全然平気大丈夫です」

「よかったぁ」


 悲しそうな表情が一瞬で晴れる。目まぐるしく変わるその表情は、彼女の顔が整っているせいなのか、彼女の性格が愛らしいせいなのか。それとも僕がちょろいだけなのか。ただ、可愛く感じてしまう。

 これが多感な時期ってやつなのか。慌てるな、ただの幼馴染だ。


 同じ制服の人が増え、そして校舎が見え始める。からかわれるなんて、中学生じゃあるまいし、きっとそんなことはないだろう。翠お姉ちゃんは近所の昔からの知り合いで、たまたま偶然一緒になって、一緒に登校することになっただけだ。うん、全然嘘じゃないし、何も問題はない。

 盗み見るようなちらちらとした視線が周りから注がれている気がするのは、きっと気のせいだ。校門にようやく入ろうとするところで、我慢できずにぽつりと呟いてしまう。


「なんかさ、視線感じるんだけど」

「え? かな……あ、陽太のネクタイ曲がってるね! 満員電車のせいかな」


 そう言って彼女は自然に、そう自然に僕の首元に手を伸ばしてきた。


「ん、これで大丈夫」


 さっきより視線を感じるのは気のせいだろうか。何が大丈夫なんだと目の前の女を尋問したい。それよりも手慣れてはいないだろうか。相手は誰だ。彼氏がいるのか、彼氏がいる人がこんなことしていいのか。と頭の中が混沌を極めていく。


 そんな他の何よりも、今は恥ずかしい。


「――っ、翠は口元につぶあんくっついてるけどな」

「え!?」


 せめてもの仕返しに、爆弾を投げる。慌てて口元をハンカチで押さえる彼女の姿を見て、少しだけ気が晴れる。朝から振り回されてばかりなのだ。少しは仕返しもしたい。


「ずっとつけてたのかなぁ……恥ずかしい……」


 僕のほうが百倍恥ずかしい自信があるものの、校舎は目の前だ。もう少しでこの美人と登校するというイベントも終わる。


「じゃあ俺、教室行くから」

「うん、がんばってね!」


 1のBの教室に向かって歩く。明日からはもっと早めに出てひとりで登校しよう。そう心に誓いながら下駄箱を通り自分の教室へと向かう。


「お、棟里!」

「おはよう、城山」

 

 中学から同じ高校に上がり、同じクラスになった城山大輔と鉢合わせる。

 

「今日午前中だけだろ? 終わったらゲーセン行こうよ」

「あー……部活とかどうする? 部活紹介とか、勧誘とかいろいろあるって聞いてたから、ちょっと覗こうかなと思ってたんだけど」

「そういえば棟里はソフトテニスしてたもんね。またするかんじ?」

「いや、どっちかというと文化系で考えてるけど」

「そっかぁ、俺はどうしようかな……なぁ」


 教室まであと少しというところで、城山が後ろを振り向いて、それからゆっくりと僕の顔を見た。


「とてつもない美女が後ろを歩いているんだが、同じ教室の子かな……あんな子入学式の時いたかな」

 

 そう耳打ちしてくる城山の言葉に、とっさに後ろを盗み見る。


「いや……幻覚じゃないか? さぁ教室に入ろう友よ」


 こちらに向かって手を振る女の子らしき姿が見えた気もするが、今日は満員電車だったし疲れているのかもしれない。友達の城山もきっと疲れているに違いない。教室の扉に手をかけようとしたところで、その手首を横から掴まれる。


「待って!」


 声の主は翠お姉ちゃんで、なぜついてきてるのかとか色々問い詰めたいものの、ここで長話するほどの度胸もない。

 


「教室まで迷子にならないかなぁと心配だったのと、あ、あと部活のこと言い忘れてたんだけど……」


 なんとなく、彼女の顔を見ることができず、掴まれたままの手を見つめる。細くて白い手の柔らかな感触が伝わってきて、なんとも言えない気持ちになる。ここで、彼女に向き合ったなら、手を取り合っているような感じに見えてしまう気がして……僕はその手を見つめ続けた。


「……うん」

「美術部の部活勧誘も見に来てね。美術室は三階だよ!」

「……わかったよ」

「じゃあまたね!」


 たたっと走る足音が遠ざかっていく。


「なぁ、棟里。知り合いなのか?」

「うん知り合い。それ以上でもそれ以下でもない」

「……仲良さそうだったけど?」

「ただの知り合い……」


 ふむ、と城山は何かを決意したかのような瞳で、僕の顔を見つめた。これほど真剣な表情をした彼の姿を僕は未だかつて知らない。


「紹介してくれ。スマホのWIREも交換したい。できればお付き合いしたい!」


 可哀相な友よ。あんな高嶺の花と俺たちのような人種がお付き合いできるわけないじゃないか。


「いや、絶対彼氏いると思うんだけどさ……」

「俺は可能性を信じている」


 城山は中学のときに初恋を済ませ、そして無事に撃沈された男だ。そういう意味では僕より一回りも二回りも大人なのかもしれない。


 魅力的な人が現れたなら、心奪われるものなのだろうか? その人のことしか考えられなくなるのだろうか? いつも一緒にいたいと願ってしまうものなのだろうか? 幸か不幸か、僕はまだその気持ちを知らない。翠お姉ちゃんに彼氏がいたらしょうがないけど、いなかったら、この城山という友人のために仲を取り持つことくらいしても良い気がした。こういうのは、ひとめぼれって言うのかな。でも悪い言い方をすれば、軽薄なのかもしれない。

 きっかけは何にせよ、友人の幸せは望むところだ。


「今度話す機会があったら、一応は聞いてみるよ?」

「おぉ、頼む!」


 僕らは教室に入った。教室の中には、馴染みの顔も、見知らぬ顔も見えた。新しい生活が始まる。こうして幼馴染による嵐は過ぎ去り、平穏な高校生活がスタートしたのだった――というように、僕は平和に物語が締めくくられることを願った。

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