第3話 玄関を開けると美女がいた

「忘れ物ない?」

「……うん、大丈夫だと思う」


 母親にそう言って、玄関に向かう。

 真新しいローファーに足を通した。父親に何度か教えてもらってようやく結べるようになったネクタイはまだ慣れなくて、邪魔だなと感じてしまう。

 

 昨日の入学式を終えて、今日から高校生活が始まる。

 志望校と言うほど勉強を熱心に頑張ってきたわけではない。けれども、新しい学校、高校生になるという自覚と共に、どんな人がいるんだろう、どんな授業があるんだろうという好奇心が少なからず湧き上がってくる。同じ中学の友達も三分の一程度は同じ高校に通うことになったから、また一緒に過ごせるのも楽しみだった。できれば新しい友達もできたらと願うけど。


 まぁ、そんなにコミュニケーション能力が高いほうではないため、親しい二、三人の友人と教室の隅っこで平和に過ごす今までのような日常が続けばいいなと思う。玄関の壁に掛けられた少し大きめの鏡を見て、自分が少し緊張していたことを自覚する。


 心に引っかかっていることがある。

 僕の受かった高校は、近所の二歳年上の幼馴染――翠お姉ちゃんの通う学校だということを昨日母親から聞いた。

 

 小学生の頃からの幼馴染、と言えば仲が良いんだろうと普通は思うかもしれない。近所なのでもちろん中学も同じだったし、その頃までは一緒に遊んでいて仲も良かった。けれども、相手が高校に入ると同時に疎遠になった。


 その原因はたぶん僕にある。


 中学に入ったばかりの頃だった。同じクラスの同級生の間で三年にキレイな女子の先輩がいると噂になった。ほどなくその噂になっている先輩は、幼馴染である花谷翠であることがわかった。


 その瞬間、小学生の時から抱いている、彼女への淡い憧れを思い出した。優しくて、楽しくて一緒に色々と遊んだ記憶が洪水のように押し寄せる。美しい彼女の笑顔が浮かぶ。


 なるほど、客観的に見ても彼女はキレイ――美人なのか、それはそうだよなと思ったのも束の間、学校で遠目に見かける彼女の姿は大人びていて、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。かつて砂場で泥だらけになったり、鬼ごっこで遊んだ面影は微塵もない。話しかけるどころか近付くことさえ躊躇してしまう。


 僕は、背が高いわけでもないし、顔が良いわけでもない。頭もそれなりだ。

 二、三人の友人と教室の隅で静かに談笑してる、誰からも注目されない僕から見れば、他学年の話題に上がるような彼女の存在は別世界の人間のようで、自分とは関わりのない人種に思えた。


 思春期の男は、ちょっとした年上の女性に憧れを抱くらしい。そう、これは気の迷いで、ただの憧れだった。


 時が過ぎれば僕はきっと他の誰かを好きになるはずで、そもそも、人を好きになる気持ちなんてよくわからない。だから、手の届かない存在になった彼女にまた話しかけたいとか、一緒にいたいとか、遊びたいとか、そう願ってしまうのは一時の気の迷いで、ただの憧れなのだと言い聞かせた。


 彼女が卒業するまでの一年間、毎日一緒に登校していた。彼女にとってこれは特別なことではなくて、小学生の時から続くただの習慣なのだと、優しく面倒見の良い彼女にとっては自然なことなのだろうと、自分に言い聞かせ続けた。周りの友人にからかわれたりしたこともあったが、不釣り合いなことなんて自分が一番よくわかっている。


 彼女が高校に上がり、自然と疎遠になれば、この気持ちは消え去るものだと信じていた。実際、彼女が卒業したあとは随分と心が平和になった気はする。時折家の近所でばったりと会ってしまうことはあったけれど世間話以上の会話もなく、五年後か十年後かに、この淡い憧れの気持ちを初恋と呼んで懐かしんだりするのだろうなんて、そんなことを考える余裕さえ出てきた。


 同じ学校ということは、もしかすると学校ですれ違うこともあるだろうし、少し話すこともあるかもしれない。そのことで周りから何か言われることも少しはあるだろう。でも、中学とは違って高校生だ。みんな少しずつ大人になっていくから、からかわれることもなくなっていくだろう。昔のちょっとした知り合いという説明で十分だろうし、それは嘘でも何でもなく、実際のところはそれが真実だ。


――なんて思っていた楽観的な自分を殴りたい。


「いってらっしゃい」

「いってきます」


 いつもの母親とのやり取りをして、いつものように玄関の扉を開けた。

 見上げれば、晴れ渡った青い空が広がっている。まだ少し肌寒い冷たい空気が顔を撫でた。そして、目の前には綺麗なお姉さんが立っていた。


「おはよう陽太、久しぶり」


 突然のこと過ぎて、言葉がすぐには出てこなかった。幼馴染の翠お姉ちゃんだと気づくのに十秒ほどかかり、なんとか挨拶を返せば、一緒に登校しないかと言い出したのだ。


 はっきり言おう、緊張するし恥ずかしいし面倒くさい。こんな美女の隣を平然とした顔で歩けるほど女子に慣れてない。言ってて情けない感じもするけど、こっちは十五歳で高校一年で思春期真っただ中なんだ。気楽に男友達とわいわいしたいだけなんだ。高嶺の花がこんな手に届くような近さにあるのはおかしい。


 面倒見が良いのか、それともからかっているのだろうか。要領を得ないやり取りを続けていると、僕が『翠さん』と発言したことで今度は呼び方の話になる。


 そもそも中一以来、幼馴染の名前なんて呼んだことがない。自分でもなんて呼べば良いかわからず、苗字か、いや、下の名前で呼んでたけどちゃん付けは……と悩みながら、さん付けで呼んだのだが、それが彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。幼馴染の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


 女の涙にたじろいでしまうというのは、男の性なのだろうか。昔はお互いに、転んで泣いたりしたときもあったが、別にこんな気持ちにはならなかった。こうして涙ぐみながら見つめられるとどうして良いかわからなくなる。

 どうしてたっけ――昔は……。


 そっと手を伸ばして、頭を撫でる。触れて良いのかわからなくて、おそるおそる。正解なのかはわからないけど、しばらくして落ちついた彼女は、『翠』と呼び捨てにすることに納得してくれた。いや、何かさっきより嬉しそうな表情だ。こんな呼び方、学校では万が一にもできない。今限定の呼び方だと伝えたらどうなってしまうんだろう。恐ろしくて想像できない。


 面倒くさいな女子は! いや、目の前にいる幼馴染だけが面倒くさいのかもしれない。


 問題は何も解決していない。目の前の美女は少し赤くなった目頭をハンカチで押さえながらも良い笑顔になっていて、僕と登校するつもりでいるらしい。


 一緒に登校って今日だけだよな。うん、きっと今日だけだ。今日だけ頑張ろう。そんな気持ちで決意を固めようとしたとき、玄関の扉が開いて母親が顔を出した。


「ちょっと陽太、翠ちゃんも、もうあれから三十分経ってるけど何してるの!?」


 一緒に登校すると言う問題は脇に置いて、僕は幼馴染と駆け出した。

 その時の僕は、幼馴染の口元についているつぶあんを指摘しなかったことだけが心残りだった。

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