第2話 翠さんは一緒に登校したい

 紺色のブレザーに袖を通して、肩より少し伸びた髪を後ろにまとめる。昔友達から、目つきがちょっと悪いと言われたことがあったので、できるだけ目をまんまると見開いて鏡を覗き込んだ。


 新学期の始まりなので、少しだけ気合いが入る。何より陽太が入学するのだから、自然と気合い入ってしまう。陽太がどういうタイプの女子が好きかとか、そういう話は聞いたことがない。ポケモンだとほのおタイプが好きなことは七年前のリサーチで把握している。私は燃えたりできないけど、将来の約束をしたのだから、きっと私のような女子が好みに違いない。きっと大丈夫、大丈夫……。


 時刻は六時。高校までは徒歩十五分の駅に向かって、電車で二十分。それから歩いて五分だ。なので、七時過ぎに家を出れば十分に間に合う。

 いつもはのんびりと起きて登校していた私が早起きをして早めに準備をしているのには理由がある。

 陽太と一緒に登校するといった約束をしているわけではないから、私はこれからいわゆる張り込みというものをしてみむとてするなり。陽太の家の前で待って、出てきたところに声をかける作戦だ。この作戦に失敗は許されない。何しろ、新学期最初の日という特別な日は今日しかないのだから!


「え!? もう起きてきたの? 朝ご飯の準備はまだだけど、それにしっかり着替えてて……」


 そんな驚きの声をあげる母親を尻目に、買い置きしてあるパンの中から……今日の相棒はあんぱん、君しかいない! 時間は一分一秒無駄にできない。最悪でも七時までには張り込んでおく必要がある。


「うん、今日は早く出るね、新学期だし」


 そんなこと言ったって今まではギリギリに登校してたのになんで――とつぶやく母の言葉に返事をする時間も今は惜しい。失敗は許されない。


「いってきます!」

「……いってらっしゃい」


 腕時計の針を見ると、六時二十分を指していた。この分なら、きっと大丈夫だろう。昔良く遊びに行っていた陽太の家の前までは歩いて五分もかからない。棟里、という表札のかかった家の近くの電柱に身を潜め、アフリカオオコノハズクを思い出す。彼のようにシュッと、決してご近所さんに噂されないように辺りを警戒する。


 あんぱんおいしい。でも飲み物持ってくればよかった……。のどにちょっとつかえそうになりながら、つぶあんを堪能しつつ陽太が出てくるのを待った。


「あら、翠ちゃんおはよう。どうかしたの?」

「……おはようございます」

 

 突然後ろから声をかけられて振り向けば、ゴミ出しにいくところなのだろう。ゴミ袋を片手にした近所の顔見知りの佐伯おばさんに声をかけられる。でもこんなこともあろうかと、私は淀みなく事前に用意していた完璧な返答でおばさんの問いに対峙する。


「あの、実は春休みの自由研究で電柱の調査をしてたせいか、電柱が好きになってしまって」

「……そうなのねぇ、近頃は春休みにも自由研究するのね。……がんばってね!」

「はい、がんばります!」


 あれ、何を頑張るのだろう……。電柱を抱きしめていたほうが怪しまれなかったかな……。佐伯おばさんを見送って、分針が九を指す頃、ようやく玄関の扉が開いて「いってきます」という声が聞こえた。すかさず私は玄関の前に冷静に静かに躍り出る。


「おはよう陽太、久しぶりね」

「……っ」


 犬の毛のようにもふもふとした短い髪の毛と、かわいい瞳は陽太のチャームポイントだと思う。近所で見かけたときには挨拶をしていたから、すごく久しぶりというわけではないけれども、具体的には二週間ぶりくらいだけれど、高校の制服に身を包んだ陽太の姿は、少しだけ大人っぽく……いや、まだやっぱり子供っぽい感じは抜けていない。言うなれば、かっこかわいい感じだ。あぁ、なでなでしたい。


「……おはよう」


 ぼそりと呟く陽太。なるほど、私が突然いるのだから、愛する未来のお嫁さんが目の前にいるのだから、きっと感動してしまっているのだろう。

 未来の旦那様が目の前に颯爽と登場したら、冷静でおとなしい私だって感激で言葉が出てこないだろう。

 

「驚かせたかな。昨日親から陽太も同じ高校って聞いたから、一緒に行こうと思って」

「げっ……まじで?」


 胃の調子が悪いのかな。げって、ゲップのような音が聴こえた。初登校だし緊張しているのかな? ここは私が、陽太の緊張をほぐしてあげないと。


「あら、翠ちゃん?」


 忘れていた。陽太の立っているその向こう、開けられた玄関の中から陽太のお母さんが私を見てそう言った。


「お久しぶりですおばさん」

「もしかして陽太と一緒に行ってくれるの?」

「はい。たまたま……たまたまなんですけど家が近くですし、学校に行く途中迷ってしまうかもしれないですし、お、弟みたいなものですから一緒に行っても良いのではと思いまして、安心してください」


 陽太が私をじーっと見つめてくる。大丈夫、心配ないよ。私たちが将来を約束し合った仲ということがばれないよう誤魔化すのなんて私にかかれば朝飯前……朝ご飯もう食べちゃったけど。


 そんな思いで陽太を見つめ返すと、ふっと視線を逸らされた。あれ……これは、照れてるのかな。照れてるんだきっと。


「助かるわ、面倒かけるけどお願いね。ふたりともいってらっしゃい」

「はい」


 冷静に返答すると、陽太のお母さんは玄関の扉を閉めた。そしてすかさず陽太が口を開く。


「……あの、別々に行かない? 俺昨日入学式で一度行ってるから迷わないし……」


 高校生になったばかりの陽太は甘く見ている。中学までの通学とは違い、駅まで行って電車に乗らなければならないし、ちゃんと目的地の駅で降りてから改札を出て、学校まで向かうという気の遠くなるような試練が待ち構えているというのに。

 

「別に強がらなくて良いのに」

「いや、強がってない。というかなんだよその生ぬるいまなざしは!」


 大丈夫、私は陽太のことを全部わかってる。だって未来の旦那様のことなのだから。


「何も心配しなくていいよ。全部わかってるから!」


 私の熱意が伝わったのか、少し疲れた顔をした陽太がぽつりぽつりと私の後ろをついてくる。おかしい、元気がないのかな。朝ご飯食べてないのかな。


 数歩歩いてみて、やっぱり気になるので陽太の隣に移動して、顔を覗き込んでみる。


「やっぱりちょっと不安? 私がいるから安心して!」

「……いや、安心とかそういうのじゃなくて、もうちょっと離れて」

「ほら、うつむいてないで顔をあげようよ! 真っ青な空だよ、良い天気!」

「話聞けって!」


 きっと新しい学校で不安なのだろう。ちゃんと聞こえてるよ! よくわからないことを言い出す陽太の手を取って、私は歩き出した。


 ん? 手を取った……私たち、手を繋いでる!


「ちょーっと、み、み、翠さん? 手は離そう! まずいから! わかった、一緒に行くから普通にしてくれ!」


 慌てた陽太の言葉に、とっさに私は思わず手を離してしまう。ふぅ、とため息をつく陽太を横目に見ながら……あれ、翠さん?


「どうして『さん』付けなの?」

「え、いや、なんとなく……」


 そう言って陽太は目を逸らす。ので覗き込む。覗き込んで力を込めて私は言う。


「ちゃん」


 何のことだとでも言うように、陽太が私を見つめた。


「ちゃんって何?」

「いや、いつも翠ちゃんって呼んでくれてたのに……」


 ちょうど二年前の今頃、中学に入学したばかりの陽太は、翠ちゃん翠ちゃんって言ってくれてたはずなのに、この二年の月日が陽太を変えてしまったのだろうか。さん付けは、なんだかとても距離が遠くなったみたいで悲しい。


「……み、みどりちゃ……無理だって!」

「どうして!?」


 どうしよう。陽太と一緒に登校できると知って嬉しかったのに、朝から悲しくなってくる。二年ぶりの一緒の登校なのに。


「どうしてって……ほら、なんかおかしいだろ! そうだ花谷さんって呼ぼう、それが一番自然な気がする」


 思わず崩れ落ちそうになる身体をなんとか支える。花谷とは私の苗字だ。逆を言えば、私が陽太のことを棟里くんと呼ぶことに等しい……。


「……もう前みたいに、翠ちゃんって言ってくれないの? そんなこと言うなら、私だって陽太のこと、もう棟里くんって呼ぶんだから!」

「……それいいね、一番平和な感じがする。それで行こう」


 そう即答されて、ぱぁっと明るくなっていく陽太の顔。

 私と彼との距離が遠ざかっていくようで、言いようのない不安が心を埋め尽くしていく。

 

「ふぇ、なんでぇ……」


 声を出しかけて、涙が零れたことに気付いた。陽太の顔もぼやけている。別々の学校になってからは、近所で会うときに挨拶する程度で、何度か遊びに誘ったこともあったけど遊んではくれなくて、きっと中学校が楽しいのかなと我慢していた。一緒の高校で、一緒に登校できると知って、さっきまではあんなに嬉しかったのに。

 もう目の前の陽太は、翠ちゃん翠ちゃんと言ってくれた陽太とは別人なのかもしれない。


「え、ちょっと、泣くなよ!」


 ぽん、と頭の上になにかが乗る感触。

 なでりなでり。


「ひっく……だって、呼んでくれない」

「わ、わかったよ。み、みど……翠って呼ぼう! な、ちゃん付けはちょっとなんかやっぱり……」

「ひっく……うん」


 相思相愛の間でも、喧嘩はきっとするだろう。だから、ちょっと相手が違うことをしたからって、悲しくなってしまう自分が嫌になる。何より、陽太は私と将来の約束をしてくれたのだ。それなのに、些細なことで不安になってしまう自分をどうにかしたい。あぁ、これってメンヘラって言うのかな。このままだとメンヘラになってしまう!


 撫でられている頭から伝わる体温が、ゆっくりと私を温めてくれるような気がして、心が自然とほぐれていく。少しの時間が経って、陽太の声が頭上から響く。


「泣き止んだ?」

「うん」

「じゃあ笑ってよ」

「うん」


 うまく笑えてるかわからないけど、私は笑みを浮かべて陽太を見つめた。


「練習しましょう。もう一度、名前呼んで」

「み……翠」


 そういって陽太はさっと目を逸らす。

 なんということでしょう。陽太が一気に大人っぽくなった気がします。壁ドンされて言われたい! ちゃんはつけてもらえなくても、これはこれで良いのでは。


 そんな新しい発見に感動を覚えていると、視界の隅にあった棟里家の玄関の扉が再び開いた。そしておばさんの顔が見える。


「ちょっと陽太、翠ちゃんも、もうあれから三十分経ってるけど何してるの!?」


 私と陽太は顔を見合わせ、それから腕時計を見た。

 次に言う言葉は決まっていた。


「遅刻する!」

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