彼と交わした遠い日の約束

常夜

序章

第1話 これは死に至りそうになる病

 季節は春で、明日から私は高校三年生として学校に通う。おとなしくて落ちついていると言われるものの、悪く言ってしまえば地味。可もなく不可もない成績で、少し勉強に身を入れつつも、まったりとした日々を送っていた。心は平穏で、毎日がそれなりに楽しかったり、楽しくなかったり。


 そんな高校最後の一年が始まる前夜、お風呂に入ろうとして立ち上がった私の背中に、母が衝撃的な言葉を言い放った。


「そういえば棟里さん家の陽太くん、翠と同じ高校に受かったんだって。また一緒になるねぇ」

「へ……へぇ、そうなんだ」


 声のトーンは、おかしくなかっただろうか。いつも通りに返事できただろうか。足早に脱衣所に向かって、服を脱ぐ。胸が高鳴るのは、きっと気のせいだ。胸に手をあてると心臓がバクバクと鳴っていて、このままお風呂に入ってしまっては血行が良くなりすぎて倒れるのではと不安になる。


――翠お姉ちゃんが好き、結婚する――


 おかしい、幻聴まで聞こえてきた……違う、これはただ昔のことを思い出しただけだ。それは、陽太が小学校低学年の時に私に言った言葉で、陽太とはなんというかつまり、将来の約束をしている仲だと言っても差し支えない。


 将来の約束をしている――そんな未来の旦那様が私と同じ高校に通うことになったと知って、冷静でいられるはずがない。このことはふたりだけの秘密だから、私の親や、陽太の両親も知らないことだ。周りに知られないよう念には念を入れて、私が高校に入ってからの丸二年の間は、陽太と偶然近所で会って挨拶する以外には話したこともない。


 幾多の恋物語から導き出されるひとつの答えがある。もしこのことが親に伝われば、きっと私たちふたりは二度と会えない距離に引き裂かれるに違いない。ロミオとジュリエットとか、ロミオとジュリエットみたいに……。


 引き裂かれようとも、私と陽太の間には愛の力がある。それでも、引き裂かれて私が眠り薬を飲んで駆け落ちしようとして、陽太が私が死んじゃったと思って後を追うように命を断つような未来は絶対に受け入れられない!


 だからこそ私は細心の注意を払う。偶然を装い道端でばったり出会ってしまって『久しぶり!』と挨拶を交わすときも、できるだけそっけなく、そんな好きとかじゃないんですよってアピールを忘れない。いつ誰が見ているのかわからないのだ。念には念を入れなければ。陽太もそのことをわかっているのか、年々その態度のそっけなさには磨きがかかっている。

 

 本当のことを言うと、私はもうちょっと長話しても良いんじゃないかなと思ったりもする。しかし陽太はきっと私以上に慎重なのだろう。秘密がばれないように、さっと話を切り上げてどこかへと行ってしまうのだ。


 具体的に言うと、


「おはよう陽太!」

「……おはよ」


という感じであったり、


「こんにちは どこに行くの?」

「……本屋」


という感じでそっけない。悲しすぎるくらいそっけない。あまり目も合わせてくれない。

 

 でも秘密にしないと、きっと将来の約束をしていることが周りに知られたら、大騒ぎになってしまうだろう。陽太も長話したり……て、テ、手をつないだりするのをとても我慢しているのだと思う。ここで私からルールを破ってしまったら、ロミオとジュリエットにまっしぐらになってしまう。陽太もきっとすごく我慢しているのだろう。


 そのことを想えば、気持ちも少し楽になる。そう、私は陽太より少し大人のお姉さんなのだから、余裕のある女なのだ。しっかりしなければ。


「……しっかり、しっかり…でもたくさんお話したい」


 ぼんやりとしてきた。どれくらい時間が経ったのかいろいろと思い返しすぎて時間の感覚がわからなくなった。お風呂に浸かり過ぎてのぼせてしまったかもしれない。


 その瞬間、自分を褒め讃えたくなるほどの良い案が頭に浮かんだ。明日は登校日。陽太はきっと高校までの道もはっきりわからないだろうから、私がお迎えに行こう。近所の幼馴染と登校するだけだから、将来を約束し合った仲など、誰にもわからないはず。

 そんなことを考えていると、自然と笑みがこぼれてしまっていることに気付いた。


 落ち着け、落ちつこう私!


 深呼吸する。

 この計画には一切の穴がないことを確認し、気付けば表情筋がゆるみすぎて溶けてしまいそうになっていた。

 どきどきも治らない。もしかしたら、何かの拍子に登校中に手を繋いだりしてしまうかもしれない。陽太が迷子にならないように手を繋いだ方が自然かもしれない。陽太のほうから手を繋いでくる可能性もあるかもしれない。


 そんなことになったらどうしよう。困っちゃうなー……、困っちゃうよ……えへへ。


「ちょっと翠、あなたいつまでお風呂入っているの!」


 幸せな気持ちのまま眠りかける頃、私は母の声で永眠からなんとか脱することができた。

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