第10話 屋根裏部屋


 ぼくが村の秘密を知った翌る日。

 叔父さんは朝から村の大人たちの集まりに行くとぼくに言い残し、早くから家を出て行ってしまった。

 三藤くんの家の、火事の始末をつけるのだと思う。どうやってかは分からないけれど、おそらくは不幸な事故として。

 昨夜、叔父さんが実際に魂を呼び戻すことが出来るのを知っている村の人は、今ではもう殆ど居ないと言ってもいいくらいだ、とぼくに言っていた。

 つまり裏を返せば、何人かの人は知っているということ。

 叔父さんは、その人たちに会いに行ったんだろう。

 村の秘密を知る、数少ない人たちに。

 そしてその人たちに、ぼくから聞いたあの場で起こった真実ほんとうのことを、話しているのかもしれないと、ぼくは与えられた部屋の藺草の匂いのする畳の上で寝転んだまま、ぼんやりと考えていた。

 見上げる天井板の木目模様の中に見つけた、もの悲しそうな幽霊の横顔のようなものを見るとも無しに見ていた時、家のすぐそばから耳に障る自転車のブレーキの音が聞こえた。

 そのちょっと後に、玄関の辺りで物音がしたので、誰かが叔父さんの家に来たんだと分かる。

 誰か?

 そんなの決まってる。

 ユーキだ。

 ぼくは呼び鈴の音が鳴る前に起き上がり、玄関先へ向かう。

 薄暗い廊下に出る。

 時折軋む板を歩く裸足の足が、ひたひたと音を立てた。

 ぼくは玄関に立って待ってみる。

 呼び鈴は、なかなか鳴らなかった。

「ユーキ……?」

 ぼくは玄関の向こうで躊躇うユーキに声をかける。その声が届いたのか、ゆっくりと扉が開いてユーキが顔を覗かせて言った。

「……おはよ。おじさんは?」

「村の集まりだって」

「そっか……。いい?」

 ぼくは黙って体を横にずらすと、身振りで家の中に入るようにユーキを促す。

 どうも、とかなんとか呟きながらユーキが玄関から上がるのを待って、ぼくはユーキと部屋に戻った。


「昨日あれからさ、夜に熱を出しちゃったんだよね。あ、今はもう良くなったから大丈夫なんだけど……そっちは、大丈夫だった?」

 ぼくは頷く。

「そっか。良かった。祖父ちゃんに聞きたいことがあったんだけど、起きたらもういなくてさ」

 畳の上で胡座を組み、俯きがちにそう話すユーキにぼくは、静かに相槌を打つ。

「多分、そっちのおじさんと同じで、村の集まりにでも行ったのかもね」

 ぼくとユーキは、どちらともなく窓の外に広がる青空を眺める。

「今日の空も、海みたいだね。外はすごい暑さだったよ」

 綺麗でどこまでも眩しい、くっきりと晴れた青空を見ながら、多分いま、ぼくたちは同じことを考えている。

 息を切らし、走り回った校庭。

 高く上がったボールが、空に吸い込まれるように見えたあの日。

 耳の奥で、あの時のぼくたちの笑い声が微かに木霊する。

 ぼくとユーキはじっと黙ったまま、消えてゆく笑い声に耳を澄ませていた。何を話すべきなのか、何から話すべきなのか、お互いに考えあぐねていたんだ。

 それを遮るように、別の部屋に吊るされた風鈴が、小さくちりんと音をたてるのが聞こえた。

 やがてぼくの部屋にも風鈴を鳴らしたその同じ風が、そうっと遅れて通り過ぎてゆく。


 先に口を開いたのは、ユーキだった。


「朝起きてさ……昨日のことは本当のことだったんだって少し驚いたんだよね。夢なんかじゃなくて。信じられないけれど……全然、信じられなかったけど、やっぱり本当のことだった」

 長いながい沈黙の後、ユーキがそう言って寂しそうに少し笑った。

 ぼくも、笑うしかなかった。

「……そう、だね」

 同じ悪夢を見ていただけだったのなら、どんなに良かっただろう。

 シラユキ先生の姿が、瞼に焼き付いて離れない。

 ぼくたちを振り向いた先生。

 その先生の窪んだ眼窩にすでに眼玉は無く、鼻は溶けて骨が見えていた。以前あった場所に唇は無く、かろうじて顎の辺りにぶら下がり、剥き出しになった歯が並んでいたあの様子が……。


 だけど。

 シラユキ先生は、美しかった。

 微笑む白鳥先生が見えていた。

 ぼくたちには、凄く綺麗に見えたんだ。


「そういえば、ずっとユーキに言うの忘れてたんだけど」


 一緒に宿題をしたあの日に、ユーキが見つけた廊下の天井にある不自然な四角い枠。それが、屋根裏部屋へ通じる跳ね上げ式の階段だったことを話した。

 それから、その階段を叔父さんが降りてきたのを見たこと、同じ日に村長さんの車を見かけた話、一旦話始めてしまったぼくはもう全てを話さずにはいられなかった。

 どこからどこまでって?

 それはもうすっかり残らず、叔父さんから聞いたばかりの昨夜の昔話まで。


「……あの御呪いに、おじさんが関わってる……? そんな……」

 話すだけ話してしまったぼくは、茫然とした様子でユーキが呟くのを、後はもう黙って見ているしかなかった。

 ユーキが掛けた御呪い。

 まさかそれを、ぼくの叔父さんが叶えていたこと。そんな嘘みたいな話を、誰が信じるって言うんだろう。

 昨日のことがなければ、叔父さん本人から聞いたとしても、ぼくもユーキもきっと笑い飛ばしていたと思う。

 ふざけた冗談だとして、信じなかったんじゃないかな。

 それはユーキ自身が少し前に言っていたように、今や大抵の村人にとって『御社の御呪い』は、ただの民間伝承言い伝えからくる迷信だから。

 それは実際には誰にも届かないと分かっていても、せめてもの気休めにと祈るようなものと似ている。

 シラユキ先生や三藤くん達の存在で、それら御呪いが迷信などではなく実在したと知ってしまった今では、笑うどころか畏怖すら覚える。

「……じゃあ、もしかしたら……もしかしたら、だけど。この家のどこかに、山の御社に奉納したはずの『何か』があるかもしれない……ってこと?」

 はっとして、ぼくはユーキを見る。

 そうか。


『山の御社に、願いを書いた絵馬と、あと何かを奉納するんだよ』

 

 あの日のユーキの声が蘇る。

 ユーキも『何か』を持って行ってお願いしたんだよね。

 じゃあ、屋根裏部屋には……。

 『何』があるんだろう?

 顔を見合わせたぼくとユーキは、お互いにそれを確かめずにはいられないと思っていることが分かってしまった。

「何もないかもしれないけど……見てみようか」

 そうは言ったものの、ぼくは言ったそばから後悔し始める。

 それにきっと、すごく青褪めた顔をしているのだろう。目の前で、ぼくを見るユーキと同じくらいに。

 ユーキのカサカサとした、ささくれだった唇が、微かに意味のない空気を吐き出す。

 ……言葉にならないんだ。

 屋根裏部屋を見るまでもなく、確かめることなどしなくても、ぼくたちは既に分かっていたこと。

 間違いなく、そこには何かが仕舞われている。

 それでも、確かめてみたかった。

 この目で見たかった。

 シラユキ先生が、探していた『何か』。

 村長さんが預けた『何か』。

 ぼくたちは廊下に出て天井を見上げる。

 跳ね上げ式の階段を下ろすには、脚立が必要だったけれど、見つからなかった。

 ぼくとユーキは台所から椅子を運び、本を何冊か重ねた上にそれを置くと、手を伸ばしてようやくぎりぎり天井に触れる台にする。

 なんとか背伸びをして不自然な四角い枠を指先で所構わず押すと、ある部分でかちっと音がしてロックが外れたのが分かった。

 出来た隙間に手を入れて、力を入れて扉を下に引く。折り畳まれた階段が出てきたので、それを引っ張り出した。

 廊下に立ち、ぽっかりと開いた暗い屋根裏部屋の入り口へ続く階段を前に、ぼくとユーキはしばらく見つめ合う。

 全てを知るのが怖かった。

 だけど、確かめずにはいられない。

 怖いなんて言ってもいられないところに、もうすでにぼくたちはいるんだ。

 呼吸が浅くなった。

 口の中が乾いている。

 掌は汗ばんでいるのに酷く冷たかった。

 ちらりと両手を見て、震えていることに気づく。

 その感覚のない掌を体に擦り付けた後、ぼくは階段に手を掛け、一段いちだんゆっくりと登ってゆく。ユーキが後から来る気配を感じながら、ぼくは屋根裏部屋の暗闇に呑み込まれていった。


 暗闇に目が慣れた頃に見えたものは、低い天井と積み上がる荷物の山だ。


 ぼくの背ではまだしも、後から来たユーキが立つのもやっとのそこにあったのは、数え切れないほど沢山の箱。

 大きさは様々で、ぼくたち子供の掌に乗るようなものもあれば、すっぽりと身体を仕舞えるほどのものまで。

 段ボールのものや、木で出来たものから色とりどりの和紙が丁寧に貼られたもの。

 見るからに手作りのものもあれば、そうではないもの。

 とても古そうなものから新しいものまで。

 

 何が入っているのだろう?


 ぼくたちは互いに寄り添いながら、すぐ傍にある箱のうち、段ボールで出来た比較的新しい箱に手を伸ばす。

 大きさは、靴が入っている箱くらいだ。

 その箱には、叔父さんの字と思われる几帳面そうな文字で、四年前の日付と名前が書かれている。

「……開けるよ」

 ぼくはユーキを見る。

 ユーキが頷くのを待って、箱を開けて二人で身を乗りだすようにして中を覗いた。

 



『……やがてたくさんの村人が、男に魂を呼び戻して貰おうと押し掛けるようになりました。

 けれども願いを叶えて貰った村人は、次第に欲が出てきます。

 男の言葉を軽んじるようになりました。


 二つ年が過ぎても、もっと魂を引き留めて置けるのではないか。


 村人たちは二年の月日が過ぎても、魂をあの世へ送ることを拒みます。

 そのうち器として機能していた筈の肉体が目の前で朽ちてゆき、醜く腐り崩れる様を目の当たりにすることになりました。


 村の外に逃げさえすれば、どうにかなる。


 村人たちは男との約束を違え、こっそりと村を出て他所で暮らそうとしました。

 すると、どうでしょう。

 村の外へと出た途端、甦らせた魂は其の肉体と共に、見るまもなく塵となり空へと消えたのです。

 このように抗えど、拒もうとも、別れは必ず訪れるのでした。

 これでは同じ苦しみを繰り返すだけ。

 否、再び来る別れを知った以上、其の苦しみは、遥かに増すようでした。

 男は村人から憎まれ、疎まれるようになります。

 まるで以前に居た西の地と同じように、やり直したいあの過去の日と同じようでした。

 こんなはずではなかった。

 いっそ力を封じてしまおうか。


 ところが、男がその不思議な力を使うのをやめてしまおうとする度に、何処からか決まって悲しみに暮れた村人が現れ、男に縋りつき懇願します。

 悲しみに訴える村人を目にした男は、断ることなぞ思いつかず叶えてやるほか、ありません。

 されど叶えてやれば、また恨まれるのです。

 

 もうよそう。

 此度で終いにしよう。


 男の苦悩を知るのは、妻となった村長の娘ただひとりでした。

 そこで妻は、男に言いました。


 ならば魂を呼び戻すことを、御呪いのようにしませんか。


 男の妻はこれまでの様子から、頼まれれば誰をも断らず願いを叶える男を歯痒く思っておりました。


 誰彼構わず呼び戻すのを、やめるのです。


 男の妻は、男の不思議な力を尊び、信じておりました。

 なぜなら男の妻が、魂を呼び戻した幼い妹と過ごした日々は本来であれば無いもの。

 決して手にするものではなかった筈です。

 男により与えられたその失われる筈だった日々は、男の妻にとって得難い幸せなものでした。

 それらのことに身を持って触れた妻は、男の目指すものをうっすらとではありますが理解しておりました。

 どのような場合でも、どのような人でも、後悔のない幸せなかたちでお別れをさせてあげたい。

 魂を呼び戻しさえすれば、自ずとそれが叶うのだと男は、只純粋にそう思っているようでした。

 妻から見た男は、人を知らなすぎたのです。


 案がございます。

 山の御社より啓示を受けたことにいたしましょう。

 安易に願いを叶えることはならぬと、お叱りを受けたことにいたしましょう。


 男は妻の言葉の意味が良く分からず、首を傾げました。

 そのような啓示を受けたことは、一度としてなかったからです。

 妻は男に言いました。

 

 魂を呼び戻すなぞ、安易に叶うような奇跡ではありません。

 なのに皆、そのことを忘れて感謝するどころか、まだ足りないとばかりに欲をかき、あまつさえ恨んでいるではありませんか。

 啓示を受けたことにして、山の御社に願掛けることにするのです。神託が降り、それよりはじめて願いが叶う御呪いにしてしまいましょう。

 やがて村人が他の願掛けと同じく、必ずしも叶うものでもないのだと分かるまで。

 また、叶ったとしてもいつかは効き目がなくなるのだと理解されるようにするのです。


 男は、妻の口から言葉が繰り出されるたびに、黒い蟲が這い出てくるように見えました。妻の話は、男には理解できない恐ろしいものでした。


 魂を呼び戻しするためには、どんな人でも受け入れるのではなく、こちらで吟味するのです。


 男の妻は、さらに続けます。


 時が来たら魂を返すことが出来るように、魂の半分はこちらに預かるようにするのです。


 それらは男の望むところとは、違うものでした。

 しかしながら、このままでは過去の日の、西の地での過ちと同じことになるのは目に見えております。

 妻の言葉に押しつぶされるように男は、さめざめと泣きながらも、心を決めたのでした。

 その日を境に、男の不思議な力は山の御社の預かりとなったと村人は聞かされます。

 男の妻の案に違わず、神託とあっては村人も、男を恨むわけにはまいりません。


 それからというもの御呪いを頼む時には、願い事を書いた絵馬と魂を半分預かる器を御社に奉納するようになりました。 


 村人が願えども魂は、なかなか呼び戻されません。

 その後何年も、何年も経った雪のたくさん降ったある年に、ひとりの幼い子供の魂が呼び戻されるその日まで、村には魂の蘇ることはありませんでした。』


 


 ぼくとユーキが覗き込んだ段ボール箱の中には古い型のスマホが一台、女性の財布がひとつと、丸い小さなキャンディ缶が入っていた。

「……何、これ?」

 ユーキがそう小さく言ったのと、ぼくが缶に手を伸ばしたのは同時だった。

 小さな缶がぼうっと光って見える。

 掌に載せると、なぜかほんのりと温かいような気がした。

「光ってる……」

「えっ?」

 怪訝そうにユーキがぼくの方を見た。

 ユーキには見えないんだ。

 ぼくは丸い缶の蓋を、そうっと開けた。

 小さな光が、ふわりと宙に浮く。

 屋根裏部屋の暗がりに、蛍が舞い出たのかと思った。

 その優しくて、まあるい小さな光は、ぼくとユーキの周りを何度か旋回した後、屋根の方へと消えていってしまった。

「いまの……」

「うん……ユーキにも見えた?」

 缶の中は何もない。

 空っぽだった。

 財布を開けて、中に免許証を見つける。

「……美人だね。シラユキ先生」

「ぼくたちに、サヨナラって言ったのかな」

 同時に話すぼくとユーキは、そのちぐはぐな会話に顔を見合わせて少し笑った。

 箱に入っているもの。

 それは予想していた通りに、預かっている魂の一部だった。

 

「そうか。叔父さんは、時期が過ぎてもシラユキ先生の魂は手放せなかったんだっけ」


 願いが叶えられた後、約束の日までに魂を手放せる人は少ない。それを知った倉橋一郎太の妻はその半分を手元に置いた。

 きっと、そうせざるを得なかったんだ。

 自ら手放すことは、難しい。

 出来る人もいれば、それが出来ない人がいて当たり前だった。

 だから……。

 ぼくは、倉橋一郎太が泣きながら魂を解き放つ姿を見たような気がした。


 どうやらここにあるすべての箱には、日付けと名前が書いてあるようだった。

 シラユキ先生の魂が残っていたのなら、もしかしたら三藤くん達のもある筈だ。

 何とかして見つけて、この場所から解き放ってあげたかった。

 ぼくたちは、あちこち箱を動かしてみる。

 ようやく三藤くんの名前が書いてある箱を見つけた。

 ぼくとユーキは、箱を開けて中を覗く。

 そこにあったのは、手垢で汚れた猫の縫いぐるみと小さな宝石箱。

 三藤くんが大事にしていた縫いぐるみ。

 直接手に取ってみても、ただくったりと首を垂れる猫の縫いぐるみからは、何も感じられなかった。

 多分そこに、魂が入っていたのだろう。

 けれどもそれは、すでに解き放たれたようだった。

 宝石箱も同じ。

 ユーキが開けて中を確かめてはみたものの、何もなかった。

 ぼくは、言う。

「もしかしたら三藤くんは、火事に巻き込まれる前にはもう、自由になっていたのかもしれないね」

 呼び戻されたと気づいたあの時に。

 自らの魂を手放したんだろう。

 きっと、そうだ。

 そうであって欲しかった。

 苦しまずに解き放たれたと、信じたい。

 ぼくは手の中の縫いぐるみを、ユーキは宝石箱を、再び箱にしまってしっかりと蓋を閉じた。

 

 叔父さんの字が書かれた箱は、そう多くなかった。片手で足りるほど。

 苦悩する叔父さんの姿を目の当たりにしたぼくには、それは納得するところだった。

 叔父さんは、倉橋一郎太ではない。

 魂を呼び戻すことを疑問に思うのは、当たり前だ。


「……見つけた」


 ユーキの声に振り返ると、泣きそうな、だけどどこか覚悟を決めたような顔で、ひとつの箱を手にしていた。

「お父さんの名前。祖父ちゃんは、お父さんの魂が呼び戻されたんだって分かっていたんだ」

 ユーキは箱を大切そうに抱きしめた後、そっと下に降ろした。

「なんとなく分かってたんだよね。……あの日、事故があった時に、お父さんは助からなかったって聞いたような気がしたのは、やっぱり間違いじゃなかった」

 箱を開けて中を見たユーキは、途端に泣き出した。

「……ランドセルだ。お父さんが、買ってくれたランドセル。似合ってないって、学校で馬鹿にされたってお父さんを責めたんだ。おかしいって笑われたって。……ほんとは凄く気に入ってたのに。捨ててきてよって、怒鳴って……」

 ぼくの見たユーキがランドセルを一度も背負っていない訳が、分かった。

 箱の中から温かい光を帯びて、ユーキに向かって何かを呼びかけているのは、ピンク色のランドセルだった。

「てっきり捨てちゃったんだと思ってた。捨てたんじゃなかったんだね……お父さん……。ごめんなさいが……ありがとうが言えてないの。まだ、間に合うかな?」

 箱に書かれた日付けは、二年前の明後日。

 ぼくは力強く頷いた。

 まだ、間に合う。

 ユーキは箱からランドセルを取り出すと、躊躇うことなくそれを背負った。

 涙に濡れた目で、照れたような笑顔を見せたユーキに、ぼくは言った。

「……ユーキ、大丈夫だよ。似合ってる」

 ぼくから見るユーキはいつも眩しくて、どんな時だって優しい女の子だった。

「二学期からは毎日使うって……ありがとうって、ごめんなさいって言ってこなくちゃ」

 悲しみを堪えて笑うユーキに、このまま早く家に帰るように言った後、ぼくはひとつの箱に目が留まった。


 吾妻アガツマ曽良ソラ


 ……ぼくは、ぼくの名前が書いてある箱を、見つけたんだ。

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