第9話 村の秘密


 ……生暖かい風が吹いている。

 そう思う間もなく、その生暖かい風のなかに、ひんやりと冷たく感じる風が少しずつ混じるようになった。

 瞬間。

 がらりと風が変わるのが分かった。

 肌を撫ぜる風の冷たさに、ぞくりと粟立つ自分を思わず抱きしめる。

 目の前が暗くなってゆく。

 ふと空を見上げれば、山から湧き上がるように現れた雲は瞬く間に真っ黒な姿に変わり、太陽は姿を消し、青く透明な空を覆い隠すのが見えた。

 ……ぽつり。

 大粒の雨が、ひと粒、ぼくの顔に落ちた。

 その雨粒は、ゆっくりと頬を伝って地面に滑り落ちる。

 落ちた水滴が、地面にぶつかる音が聞こえたような気がして、目を閉じた。

 一瞬の静寂。

 それがまるで何かの合図だったかのように雨粒は音を立てて、辺りを一斉に濡らし始めた。

 ぼくは足元を見る。

 それらの大きな雨粒は、絶え間なく空から落ちる黒いインクのように、アスファルトを濃く染め続けた。

 ぼくは足を動かしてみる。

 地面にくっきりと残る足跡。

 雨粒はその足跡さえも、あっという間に黒く塗り潰してゆくのだ。

 ぼくという存在までも、消し去ろうとするみたいに。

 顔を濡らす雨は、ぼくの涙と混じってやたらと温かく感じる。


 ぼくたちは、なす術もなく立ち尽くす。


 土砂降りに変わった雨の中、それでも赤々と燃え続ける三藤くんの家を前にして。

 中にいる人達はきっと誰も、助からない。



 その後をどうやって終わらせたのか、ぼくはもう覚えてはいない。

 覚えているのは……悲鳴。

 飛び交う怒号。

 それから、嗚咽。

 

 気づいたときにはユーキと二人、雨で濡れたその体はタオルに包まれ、叔父さんの家で寄り添うように肩を震わせていた。

 すぐ近くに蝉の声が聞こえる。

 窓の外には雨がすべてを洗い流した青空。

 寒くもないのに、身体の中から凍ってしまいそうだった。

 その日の夜、ユーキは熱を出したって後から本人に聞いたんだ。


 だけど。

 ……それを聞くのは、もう少し先の話。



 話を戻そう。

 ぼくが知ってしまった村の秘密から、順を追って。



 濡れた身体を震わせ、歯の根が合わないユーキが青い顔で誰にともなく呟いた。

「じゃあ……じゃああの日、祖父ちゃんと一緒にした御呪いは……それなら、お父さんも……きっと、お父さんはもう……」

 言い終えないうちに自分の身体をきつく抱きしめると、顔を腕の中に埋める。

 ユーキの言っていた山の御社でお願いする『御呪い』。それは、もしかすると死者を甦らせるものなんじゃないだろうか。

 三藤くん親子が、その『御呪い』で一時的に生き返ったのが真実ほんとうであるのならば……。


 真実ほんとうかどうかって……?

 今更ぼくは何を思うのだろう。

 ましてやあの状況で、嘘なんてつけるものだろうか?

 シラユキ先生のあの姿を目にして、真実じゃないと思う理由なんて、どこにあるっていうの?

 

 村の外には出られない訳も、この村に来るまでの記憶が曖昧な訳も、あの時に聞いてしまった恐ろしい話は全部ぼくという身体の中に、すでにしっかりと仕舞われてしまっていた。隣でタオルの中に埋もれているユーキにも、同じように。

 その残酷な真実は、ぼくたちにそれぞれ蔓延る別の不安と重なって身体の中で更に増殖し、膨れ上がり吐瀉物となって今にも口から出てしまいそうだった。

 空っぽの胃から込み上げてくる胃液を押し戻しながら、時計を見上げる。

 遅々として進まない針に、まだ今日が終わらないことを、恨めしく思う。

 玄関の扉が開く音がした。

 足音は聞こえないけれど、ところどころ軋む廊下の音で、真っ直ぐにぼくたちの居る部屋に向かって誰かが歩いて来るのが分かる。

 叔父さんが、帰って来たんだ。

 ようやく火の消えた三藤くんの家から。

 廊下から襖を小さく開けただけの叔父さんは、タオルに埋もれるようにしているぼくを見て、小さく首を横に振った。

 聞かなくても分かる。

 あの時ですらもう、誰か一人でも助かる見込みなんてどこにもなかったんだから。

 なんて声を掛けるべきだろうかと、隣に座るユーキを見れば、いつのまにかタオルに埋もれたまま静かな寝息を立てていた。

 そっと覗き見た滑らかなその頬には乾いた涙の跡がある。無理矢理起こすのは可哀想で出来ないと叔父さんが言うので、ユーキをそのまま車で送って行くことになった。

 ぼくひとり乾いた服に着替えると、叔父さんに抱えられ眠ったままタオルに包まれて家に帰るユーキを見送る。

「少し遅くなるかもしれない」

 ぽつんと玄関の扉の前で立つぼくに、叔父さんは目を合わさず背中を向けたまま、そう言い残して。

 

 気づけば、ぼくは自然と学校へと向かう緩い坂道を登っていた。

 なぜかって?

 分からない。

 一人でじっとしていたら、気が狂ってしまいそうだった。

 雨が降ったのが嘘みたいにすっきりと晴れた空を眺めて、滲む涙は眩しいせいだと自分に言い聞かせた。

 腕で乱暴に涙を拭い、火の見櫓を睨みつけるように顔を上げる。

 燻された空気がどこからともなく漂い、ぼくの鼻を掠めた。

 正門で少し立ち止まる。

 遠くから校庭を眺めた。

 誰もいない、がらんと静まり返った校庭。

 ほんの少し前に、三人で笑い転げながらボールを追いかけていたのが、まるで遠い昔か夢の中の出来事のように思える。

 ぼくの足は水飲み場に隠したドッジボールに向かって、ゆっくりと近づく。

 欠けた白いタイルの縁に手を掛けると、しゃがんでボールを取り出し、ざらざらした表面を掌で撫でる。雨を避けて洗い流されることのなかった砂埃が、手を汚した。

 地面に座りボールをお腹に抱え込み、身体を丸める。

 大切な卵のように。


「大丈夫?」

 静かな声に、顔を上げた。

 目の前に優しく心配そうに、ぼくを見下ろす人がいた。

 ……森田先生。

「先生。三藤くんが……」

 ぼくはそれ以上言葉に出来ずに、ボールを抱きしめる。

 森田先生は、服が汚れるのを気にする様子もなく、ぼくの隣に腰を下ろした。

「知ってるわ。……ええ、知ってる」

「シラユキ先生も……」

「そうね」

 並んで校庭を見る。

「ぼく……三藤くんと、さっきまで……さっきまで一緒に遊んでいたんです」

「……そうだったわね」

 それからぼくと森田先生は、夕焼けで空が赤くなりはじめるまで、ずっと黙ったまま誰もいない校庭を眺めていたんだ。

 間もなく太陽が沈む。

 それまでの短い間、ぼくが知りたいことを聞くのは、今をおいて他にはないことは分かっていた。

「先生。……この村は、何ですか? 火の見櫓に、どんな意味があるんですか?」

 夕日で赤く染まった顔に悲しそうな色を浮かべて、ぼくの方を振り向いた森田先生は質問の意味を少し考えるように眉を寄せた後、言葉を選ぶようにして話し始めた。


「あなたはまだ、本当の意味を知って聞いている訳じゃないのかもしれない。

 でもそれを聞くのが、あなたであることに何かの因縁を感じ得ないわね。

 私は、この村で生まれて育ったから、火の見櫓がもたらすものをよく知っているわ。

 火の見櫓、あれは……人間の欲、かな。

 それが光や慰めになると思った人間の、エゴかもしれないわね。

 私にも、子供がいたのよ。

 もうずっと前になるわね。

 あの子と離れたくないという私の浅ましい思いが、少しでもあの子と長く一緒にいたいという私の欲が、あの子に幸せな日を与えてあげたいというエゴが。

 あの火の見櫓に縋ることになった。

 火の見櫓は……。この村はね。少しの間、亡き者を引き留めておくことが出来るの。

 ……私も昔、同じ間違いをした。

 そして慰めをもたらしたのは、一瞬。

 光を見出した後には、闇が。

 大切なあの子は、それで何か救われたのかしら? 私に振り回されただけなんじゃないかしら?

 私のせいで、私が蘇らせたばかりに、火の見櫓が怖いと夢を見て泣くあの子を、どうしてあげることも出来なかった。

 あの子は、幸せだったかな。

 分からない。私はもう、あの子の気持ちを知る術がないから」

 何かを堪えるように顔を歪めた先生。

 ぼくは言う。

「お母さんと一緒に居たくない子供なんて、いないよ」

 はっとした顔でぼくを見た先生の頬に、一筋の涙が流れた。

「そう……。そうかしら? そうだったら、良いのに。……そうだと嬉しいわ。

 どうしてかしら。今になって……はっきりと思い出したのは……忘れてしまいたくて、でも忘れたくない、あの日のこと。

 あなたに、そう言って貰えたからかもしれないわね。

 記憶に閉じ込めてしまったあの最後の日を。あの子の言葉を。

 ……その日もいつもと同じ夜だった。

 特別なことは、あえてしなかった。さようならを気取らせまいと、普段の日でありたかったから。

 その眠りにつく前、布団の中であの子が言ったの。満面の笑みで『お母さん、今日も楽しかったね』って。あの笑顔。何で私、そんな大切なことを忘れようとしていたんだろう……」

 あの笑顔を、まだ忘れていなくて良かった。ありがとう、とぼくに向かって浮かべた先生の悲しみに歪んだ笑みは、夕日に照らされた眩しいものだった。

 そのまま、ぼくと先生は、ほんのしばらく見つめ合っていたんだ。

「……ぼく、帰ります。あの、黙って持ち出して、しかもそれ、無くしてしまったんですが、図書室で見つけた古い新聞。そこで倉橋一郎太って名前を見つけたんです。叔父さんが……ぼくの叔父さんは、知っていると思うんです。その人が、誰か。あ、新聞だけじゃなくて……本も、ごめんなさい。三藤くんの家で……」

 立ち上がったぼくを見上げて、森田先生は首を横に振る。

「いいのよ。大丈夫。……私も、あなたの叔父さんを知っているわ。きっと、ちゃんと話してくれると思う」

「先生……ぼく……ううん。……やっぱり、いいや。それじゃあ先生、さようなら」

 

 ぼくは先生の子供の気持ちが、誰よりもよく分かる。

 分かりすぎるくらい、よく分かるんだ。


 叔父さんは、家に帰っているだろうか。

 太陽が沈み、夜になるまでの短い時間。

 不思議なその光が、景色を美しく幻想的に見せていた。

 夕闇が迫る空に押されるようにして、いつもの通学路は見たことのない道へと姿を変えている。

 暗がりにぽつんと、明かりのついた叔父さんの家が見えてきた。

 叔父さんは帰って来ているようだ。

 玄関で立ち止まったぼくは、表札を見上げる。

 『倉橋』

 ぼくは暫くそれを眺めた後「ただいま」と言いながら、扉を潜った。






 ――むかしむかし、あるところにひとりの男がおりました。 



 その汚らしく浮浪者の如き身なりの男に、すれ違う者の眉を顰めるものは多く、あからさまに関わりになるのを避けようとするのを誰が責められたでしょうか。

 半ば気の狂ったような男だと多くが遠巻きに眺めるのを、誰が責めることが出来たでしょうか。

 西の方からやって来たその男は、東の地の何処かにあると云われている地を目指し、もう随分と長いこと各地を彷徨い歩いておりました。

 そうまでして男が探さねばならない其の地とは、此の世とあの世の『あわい』にある場所……つまり、現世うつしよではないが、あの世でもないという不思議な処でした。

 訳もなく、其の地を探しているのではありません。男の望みを叶えるには、其の地が必要だったのです。

 次こそは理想のままに成し得たい。

 不首尾に終えた過去をやり直したい。

 男は西に居た昔にもそのような土地に住んでおり、其処でしか出来ないことがあることを、身をもって知っていたからです。

 それは聞いた者には到底信じることが出来ない、奇妙なことでしたが、男には『あわい』にある時だけ発揮することの出来る不思議な能力があったのです。


 幾年もの歳月が無駄になりました。

 さすがの男も、もう諦めようと思いかけた頃のことです。

 それは何度目かの、寒いさむい冬でした。

 凍える身体をすこしでも暖めたい。降りやまぬ雪を避けようと、其処はただ気紛れに立ち寄っただけの村でした。

 ひと気のない御社があれば、そこに身を寄せよう。

 音のない雪景色の中、朱色と黒色の不思議な鳥居のある御社が男の目に飛び込んで来ました。


 ……此処ここ、だ。


 何故かは分かりません。

 それをひと目見た男は、此処が探し求めていた其の地であることに気づいたのです。

 雪の中で見ている夢か幻か否か、試しに男は朱色の鳥居を潜り、御社に詣でることにしました。

 するとどうでしょう。

 辿り着いた御社の周りは、実に現世うつしよでもなければ、あの世でもありません。

 其の証に男の持つ奇妙な力が、御社の傍にあった雪の積もる枝ばかりの梅の木に、芳ばしい花を次々と咲かせ始めたのでした。

 遂に見つけた。

 男は喜びに身体が震えます。

 けれども不思議なことに、男が黒色の鳥居から外へ出ると、再び現世うつしよに戻るのでした。

 ようやく見つけた其の場所は、御社の周りだけ。此の僅かな場所こそが、男が探し求めていた『あわい』でした。

 ほんの僅かな場所に落胆しそうになります。なれど此処であれば、此の村に居れば、男の望みが叶うのです。

 男には奇妙で不思議な力がありました。

 『あわい』ならば、一度身体から離れた魂を暫くの間、引き留めておけるという力。

 その男の望みとは、自らのその力でつらい別れをする人達の希望になりたいというものでした。

 それは逆縁であったり、急な別れで現世うつしよを去る人、またそれを見送る人の未練を、少しでも軽くすることにあると考えておりました。

 今度こそ上手くやれる。 

 男の不思議な力は、人々を悲しみから救うためにあるのだと、これまでずっと信じてきたのです。

 西の方、以前の地では、ひどい結果に終わりました。しかしそれは、決して男の所為ではないと、自分のしてきたことに、間違いはないのだと頑なに思っておりました。


 悪いのは魂を引き留めた自分では、ない。

 この力は悲しみに寄り添うためのものだ。


 しかし、新たに此の地で人々の助けになりたいと思うにせよ、亡くなった誰かを現世に引き留めておくには、このように小さな場所では文字通り留まらせることが精一杯。男が望むような、生前と同じ常のような暮らしをさせてあげることは出来ぬと悟ります。

 そこで男は結界を結び『あわい』を広げて、そのなかに閉じ込めることは出来ないだろうかと、考えました。

 それから御社に寝泊まりを続けながら村を隈なく歩き回った男は、あるものに注目するのです。

 火の見櫓です。

 少し前の大きな戦争で、失われた火の見櫓は、そこに台だけが残っていました。

 もう一度、この村を見渡す火の見櫓を建てたらどうだろう。

 それは御社とを結ぶ線の上に、なるように新しい火の見櫓を建てたら。さらに御社ともう一方を結ぶ場所を見つけ、そこに御札を埋め、新しい火の見櫓で閉じる。

 そうやって大きな結界をつくり、その中に村を閉じ込めることが出来たならば。

 そのような大掛かりな仕掛けを施すには、村の人たちの納得を得なければなりません。

 村人を説得する為、男は再び村を隈なく歩きました。


 亡者を蘇らせる。


 汚らしい身なりをして、まやかしの手妻のような話を語る余所者の言葉に、耳を貸す者は誰もいません。


 生者と寸分 違わぬようにしてみせる。


 血走った目で、気でも狂ったような荒唐無稽な話しをする男を信じる者もまた、誰ひとりとしていませんでした。

 そんなある日のことです。

 男の願いが何処に通じたというのか、どうかは分かりませんが、村長のまだ幼い末の娘が流行り病で亡くなったと風の便りに聞いたのでした。

 これを逃す手はありません。

 男は悲しみに暮れる村長の屋敷へ無理矢理、押しかけました。

 村長と話をしたいという男に、目通りも許さぬと家人に何度 素気無く追い返されたことでしょう。

 しかし執念の塊と化した男は屋敷の門の前で額を擦りつけ、足蹴にされても其の場を離れようとはしませんでした。

 ついに騒ぎに気づいた村長が、門の外に姿を現しました。

 其の姿を認めた男が叫びます。

 『娘さんを生き返らせてみせましょう。どうか、信じて下さい。私ならば、娘さんを再び生き返らせることが出来ます』

 目の前で狂ったような言葉を吐き、頭を下げてはいるものの悲しみにつけいるようにしか見えなかった男に、込み上げて来た怒りはいつの間にか、必死に繰り返す男の叫びに押されるように小さくなり。やがて、あまりの突然に愛娘を亡くしたばかりで憔悴しきった村長の身の上に、甘露のごとく降り注ぐようになった男の叫びは、止める周囲の言葉なぞ耳に入らなくなるほどの甘い誘惑に変わりました。

 まるで魔物に魅せられたかのように屋敷に戻り、静かに横たわっていた愛しい娘を抱え込むと、言葉に踊らされるようにふらふらと男について行く村長を家人が引き留めようとしますが、何度もその手を振り払われるうちに、その引き留める方の手もやがて力なく下ろされます。

 荒療治かもしれないが、いっそのこと詐欺であることを直に目の当たりにすれば、目も醒めることであろうと思ったのでしょう。

 山の御社へ向かう男を先頭に、屍を抱えた村長とそれを心配する家人の奇妙な列を目にした村人は、憐みを込めて見送ります。

 ようやく二色の鳥居の前まで来た男は、後ろに居る村長を振り返り一瞥した後、表の参道である朱色の鳥居を素通りし裏参道の黒色の鳥居を潜り御社へ向かいました。小さな娘の身体を抱えた村長は、何の意も唱えることなくただひたすらに、男の後をついて行きます。さらに其の後ろから続いて来る人たちも、急な階段を避けたのだろうと思い大して深く考えませんでした。

 ぞろぞろと奇妙な列は裏参道から御社へと坂道を登ります。

 さて、御社に着いた男は、村長に娘を其の場に横たえるよう言いました。

 男の意のままに、愛しげに村長が娘を横たえようとしたそのときです。その手が娘の身体から離れる前に、奇妙なことは現れ始めたのでした。

 凍ったように冷たい青白い肌に、かすかな熱を感じました。それはまるで娘の身体の内側に、白熱燈が灯ったようでした。

 滑らかな肌に艶が戻ったように思えます。

 閉じた長い睫毛が、微かに揺れたような気がしました。

 眠りから醒める幼な子の紅葉のような小さな手が、ふわりと動いたと感じた村長が覗き込んだ其の時、娘の目がゆっくりと開いたのでした。

 今や其の場に居た誰もが、信じられない光景を目の当たりにしていました。

 起き上がり、にっこりと笑う幼い娘が其処に居たのです。

 幻でも見ているのだ。

 其の男は魔物に違いない。

 いや、娘は死んでいなかったのだ。

 そう口々に騒ぎ立てる者の中で、村長はただ一人、何も言えずに娘を掻き抱いておりました。

 男は其れを見て言います。

 残念ながら娘の魂を呼び戻すことが出来るのは、現世でもなければあの世でもない『あわい』である此の場だけだ、と。

 御社から外へ踏み出せば、娘はまた屍に戻るのだ、と。

 再び奈落の底へ落とされた村長は、縋る思いで男に尋ねました。

 どうすれば良い。

 なんでも頼みを聞こう。

 どうすれば娘と一緒に居られるのだ。

 出来得る限りどんな願いも叶えよう。

 男は言います。

 結界を創り『あわい』を村に広げたい。そうすれば、娘は其の中でならば生きられるだろう。

 ただし、と男は続けます。

 年をふたつ重ねるのが精一杯であり、其れを境に器としての肉体の限界が来る、と。

 最後まで話を聞き終えた村長の思いは、娘を家に連れて帰るには、早く『あわい』を広げなければというただ、それだけでした。

 そしてそれは、男の願いでもあります。

 まさに男の思う壺でした。

 やがて御社から離れることの出来ない魂を呼び戻した娘は、瞬く間に村中の噂となり、其の姿をひと目見ようとたくさんの村人が御社に訪れるようになりました。

 娘を見に来た人々に、村長は其の奇跡を自ら語り、また其の奇跡を同じように目にした村人と共に、大切な人を再び甦らせる為に村中に『あわい』を広げたい旨を説いて回りました。

 火の見櫓を建てる資金おかねが集まったのは、それから間も無くのことです。

 男は、山の御社と火の見櫓と村長の屋敷を結ぶ結界を創ると村に『あわい』を広げ、そこに呼び戻した魂を封じたのでした。

 

 ……。 


 

 「その男の人の名前は……倉橋一郎太くらはしいちろうたでしょう?」


 静かな夕食の後、食卓の上の熱い緑茶を前に黙って向かい合っていた叔父さんの「長い一日の終わりに、ひとつ昔話をしよう」と言う一言から突然始まったそれは、この村の昔話だった。


 ぼくが、叔父さんの語る昔話の途中で言葉を挟んだからなのか、その名前……倉橋一郎太を、ぼくが知っていることに驚いたのかは分からない。

 ただその時、はっとした顔でぼくを見た叔父さんは直ぐに真顔に戻ると、やがてゆっくりと頷いた。

「そうだよ。そしてその人は、お祖母ちゃんのお父さんだ」

 叔父さんがぼくにしてくれたこの話は、村の昔話であると同時に『倉橋の家』でだけ語られる昔話。

 つまりは、これはぼくのそう遠くない先祖の話ということなのだ。

「倉橋一郎太はその後、村長さんの娘の中の一人を嫁に貰うと、この村に腰を落ち着けた。その二人から産まれた一人娘が、叔父さんの母であり、君の祖母だ」

 叔父さんの静かな声が、まるで雨垂れのように、ぽつぽつとぼくの胸に落ちてくる。

 倉橋という名前を、古い新聞の切り抜きで見た時から、こうなることは分かっていたのかもしれない。

「叔父さん……。教えてくれる? ずっと前にもぼくは聞いたけど、あの時は答えてくれなかったよね。……あの火の見櫓は、なんで鐘があるはずの場所に火を灯しているの? あの火はどうして昼間も消えないの?」

 叔父さんは暫く黙ってぼくを見つめていたけれど、その間も決して目を逸らすことはなかった。

 それから叔父さんは徐に眼鏡を外し瞼を何度か指で押した後、ふうっと息を吐き、再び眼鏡を掛け直しぼくの目を覗き込んで言った。

「……火の見櫓に火が灯されているのが見えるのは、倉橋の血を受け継ぐ者だ。倉橋一郎太の娘であるお祖母ちゃんから、叔父さんと君のお母さんにと受け継がれている。火が見えるのは、それは結界がちゃんと作用している証拠でもあるんだ」

「三藤くんやシラユキ先生は明かりが見えるって言っていたのは、なぜ? 魂を呼び戻した人には火の見櫓に明かりが灯っているように見えるの?」

 叔父さんは、黙って頷く。

 それなら……それなら、ぼくは?

 聞けば、果たして教えて貰えるのだろうか本当のことを。

 じっと叔父さんの顔を眺める。

 優しくぼくを見つめる眼鏡の奥にある眼は、ママとよく似ていた。

「……じゃあつまり、今は叔父さんが魂を呼び戻しているんだね?」

 叔父さんは、再びゆっくりと頷く。

「それを……それをどうやってするのかは、聞かないよ。だけど、だけどね? 魂を呼び戻すことを、叔父さんはどう思っているの?」

 何かを身構えていた叔父さんは、一瞬虚をつかれた表情をした後ひどく真面目な顔になって、ぼくに言った。

「叔父さんは……自分は、ね。これが良いことなのか悪いことなのか分からないけれども……自分の代で、もうお終いにしようと思っているんだ」

「どういうこと?」

「今日のことがあったから、っていう訳じゃないんだよ。でも今日があったことで、益々その思いは確実になったかな。……お祖母ちゃんが亡くなった後に、叔父さんの番になってね。それからずっと考えてきたことなんだ。あの日から今まで、頼まれて魂返しをしてきたけれど、果たしてそれは正しかったのかなってね。だから……」

 そこで叔父さんは、苦しい思いを絞り出すような声でぼくに言ったんだ。

「山の中で、自らの手で命を絶ってしまったばかりの女性を見た時に、誰にも顧みてもらえない魂を呼び戻したら何かが分かるんじゃないかと」

「叔父さん……!」

 今度は乱暴な手つきで、眼鏡を外して目頭に指先を当てた叔父さんは、ああ、と言う声と共に長い息を吐き出した。

「ずっと自分がしていることに、疑念があったんだ。果たしてこれは、正しいことなのかって……」

「だから……?」

「……そうだよ。何か分かるかもしれないってね。でも何も分かるわけないんだよ。何も分からなかった。それなのに、なんてことをしてしまったんだろうな……その女性を再び苦しめただけだった。いっそのこと、また勝手に魂をあの世に送ることが出来るくらい自分が愚かで、鈍感であれば良かったのに。卑怯で気が小さい自分の手に余ることをしてしまった。……それから、せめて女性が幸せを感じる日が来るまではと、ぐずぐずと時が流れるままにしていたんだ。でなければ知らずに村から出て行ってくれないだろうかとさえ、思っていた。臭い物に蓋をしただけだ。……な? 卑怯で最低だろう?」

 そうだ。村長さんは……三藤くんのお父さんは言っていたじゃないか。

 『御呪いの効力は、いつでも消すことが出来る』って……。

 叔父さんは、それをしなかった。勝手に引き留めてしまった魂を、また再び一方的にあの世に送るなんて出来なかったんだ。だから村から出てくれるのを、待っていた。そうすれば魂はあの世へと行ってしまうから。

 それを卑怯と言うなら、そうだろう。

 間違いなく、優しさではない。

 逃げ出したフランケンシュタイン博士と、叔父さんの姿が重なって見えた。

 だけどシラユキ先生は、村からは出て行けないのを知っていたよね? ぼくは、確かに聞いた。シラユキ先生の口から、その言葉を。

 誰かが、シラユキ先生に教えたんだ。

 いつ、どの時点で先生が知ったのかは、分からない。それでもそこにあったのは、悲しいまでに残酷な真実。一度死んでしまって、呼び戻されたんだというそれは、願いもしなかった残酷な真実。

 ぼくは、ある場所を、そこにいる人達を、思い浮かべる。

 校長室の話し声。

 それから、夕日に染まった優しくて哀しい先生……。

 誰かは、分からない。

 でも。

 ああ……シラユキ先生は、それを知った時どう思ったのだろう。


「叔父さん。……最後にシラユキ先生は『ありがとう』って言ってた。輝くような笑顔だった。でも、それでも、叔父さんがしたことは……」

 あまりに残酷だ。

 シラユキ先生にとって、正しいか正しくないか、と聞かれたら間違いなく正しくはないだろう。

 良いことだったのか、悪いことだったのかと聞かれたら、それはシラユキ先生にしか答えられない。


 そしてそれはもう、永遠に分からない。


 叔父さんは眼鏡を掛け直すと「その通りだよ」と言って顔を歪め小さく頷いた。

「この罰はいずれ、この身に降りかかるだろう。そうでなくては……」


 昔話は、今もまだ現在に続いていた。

 御呪いを頼む時には、願い事を書いた絵馬と魂を半分預かる器を御社に奉納する。

 いつの時代にも、願う者は絶えない。

 そして魂を、呼び戻すんだ。

 この村に。

 呼び戻せる者と、結界がある限り。


 これが、この村の秘密だった。




 

 

 


 

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