第8話 それぞれの事件
あのときのぼくたちの選択が、全てを狂わせてしまったというのだろうか。
それともあのときに戻れたとして、違う選択をしていれば、自ずと結果は違ってくるものなんだろうか?
ぼくたちには、それを知る術がない。
お祭りの翌日にユーキと行ったお弁当持参での川遊びを除いて、このところ午前中は連日、三藤くんの家で待ち合わせて遊んでいる。
こう毎日では、さすがに迷惑かとも思ったんだけど、外には出られない三藤くんも、外には出したくない三藤くんのお母さんも、ぼくとユーキが来ていることを喜んでいるみたいだし、何より三人で遊ぶのは楽しかった。
ユーキも夏ドリルを無事写し終わり、自由研究の地図作りは一旦棚上げして、遊ぶことだけに専念する毎日。
特に何をするわけでもないんだけど、一緒にいて三人でそれぞれ漫画を読むだけでも楽しいんだから、友達って不思議だ。
かと言って、ぼくたちはまだ外に出るチャンスを諦めてはいなかった。
というのもこのところ、あるパターンが見えてきたからだ。
村長さんが喫茶店に居るとき、三藤くんのお母さんは家には帰って来ない。
そうなんだ。
ぼくたちは、遂に発見したってわけ。
「あ! 見て見て。村長さんの車、来たよ」
窓から外を見ていたユーキが、ぼくと三藤くんを振り返る。
「隊長、実行に移りますか?」
「よし、それでは、実行に、移る」
「……大丈夫かなぁ。見つかったらどうするのさ? 三藤くん、良いの?」
いざとなると腰が引けてしまうぼくに、三藤くんとユーキは笑い飛ばすように言った。
「きっと少し、なら、大丈夫。気づかないうちに、帰って、来れるよ」
「そう、そう。怒られるだけだし」
「だけど三藤くん言ってたじゃん。無理してまでも、行かなくても良いとか。話せないくらいの外に出られない訳があるって」
あ、しまった。
思わず首をすくめる。
これを言ってはいけなかったんじゃないかな、とぼくが思ったすぐ後に、三藤くんが苦笑いをしながら頷いた。
「そうだ、ね。でもさ、パターンも、分かったし、チャンス、到来、じゃない? それにもう、分かっていると、思うけどぼくは、あの村長の、息子なんだよ。この村に、来たのも、お父さんがいるから、なんだ」
掠れた声で、さらりとその事実を告げる三藤くんの言葉に、ぼくもユーキも固まってしまう。
そうかなとは思っていたけれど、直接本人の口からそれを聞くと結構な衝撃的だった。
「お母さんが、ぼくを、外に出したくないのは、お父さんの、奥さんが行方知れず、だからなんだ」
三藤くんから聞いた話は、驚くことばかりだった。
この村に来ることになったのは、村長さんの奥さんの、度重なる数々の嫌がらせのせいで、前に住んでいたところに居られなくなってしまったからなんだって。それがどんな嫌がらせだったのかは、詳しく話してはくれなかったけど……その全てを、ぼくとユーキは聞く必要はなかった。
ともかく三藤くんの言うところの、その最大最悪の嫌がらせの後、奥さんは村長さんの前から姿を隠してしまったんだとか。
「変な話、だよね? 嫌がらせ、していた方が、まるで、逃げてるみたい。奥さんは今、どこに居るんだ、ろう? だけど、お父さんがぼくたちを、庇うのは、分かっているから、いずれ、この村に来る、はずだって、言うんだ。だけど、どうして、この村、なのかな? お母さんは、前に、お父さんと、結婚しなくても良いって、ぼくに言ってたんだ。なのに、今は、この村にいる。その上、ぼくたちは、村からは『出られない』んだって。出ちゃいけないって、強く言うんだ。ぼくは、友達も出来た、し、お父さんを、嫌いじゃないから、どっちでも、いいんだけどね」
『村から出られない』?
そうだ。シラユキ先生の言葉にもあった。
『村から出られないの、忘れちゃった?』
田向先生に向かってそう言ったシラユキ先生のなじるような声が、さらには図書室で目にした火の見櫓を中心に見た地図が、ぼくの脳裏をよぎる。
どうして?
どういうことなの?
なぜ、村から出られないんだろう。
それに……と続けた三藤くんは、ぼくを真っ直ぐ見て小さな声で言ったんだ。
まるでぼくだけに向かって、言うように。
「この村に、来るまでの記憶が、はっきりしないんだ。ぼくは、時々、それを夢で思い出すのが、怖い。怖くて、堪らないんだ」
もしかして、その夢には火の見櫓が出てくるんじゃないだろうか? もしかしてと、ぼくが口を開こうとした時、三藤くんの声にならない言葉が重なった。
……『火の見櫓』が怖くて目が覚める。
ああ、ぼくは三藤くんから目を逸らす。
ぼくも、夢を見るんだ。
どんな夢かは、分からない。
それでも目覚める前は、いつも同じ。
いつの間にか辺りは闇に包まれ、真っ暗な空を赤く照らし出す火の見櫓の篝火を、一度も会ったことのない祖母に手を引かれながら見上げている。
逃げているのか、逃げようとしているのかは分からない。
でもぼくは、何処かに行かなくてはならないのを、知っている。
それが何処なのか、分からない。
いや、分かりたくなくて目が覚めるんだ。
それに……。
ぼくが叔父さんの家に来る前の記憶が曖昧なところも、三藤くんと似ている。
ぼくはここに、どうやって来たんだろう。
パパとママと一緒に来たんだったかな?
「じゃあ、三藤くんが外に行けないのは、その奥さんに何かされるかもしれないから?」
ユーキの声で、はっと我に返る。
「そう、だね」
三藤くんがそうユーキに答えるのをぼくは、たった今悪夢から覚めたばかりのような気持ちで眺めていた。
「だから、一人で外にいたら、危ないけど、三人いれば、何とかなる、と思うんだよね」
「見かけたら、逃げれば良いし!」
ユーキが、きっぱりと言う。
「そう、そう」
三藤くんが笑って頷き返す。
ぼくはそんな二人を見て、本当にそんなことで大丈夫なのか、不安になる。
「相手は大人だよ?」
「そうだよ。そうだけど、逃げれば何とかなるんじゃない? よっぽどのことをされるかな? 相手だって犯罪者になるんだよ? 村長さんの奥さんが、そんな簡単に犯罪者にまで落ちると思う?」
「……分かんないけどさ」
三藤くんの首にある紫色の紐のような痣を思い出して、ぼくの身体に悪寒が走る。
まさか。きっとぼくの思い違いだ。
そうだよね?
身体を震わせたぼくに、ユーキが慰めるように言った。
「じゃあさ、大人がいる学校で遊ぼうよ。いざとなったら学校に逃げれば良いんだし」
「それより三藤くん
情け無い声でぼくがそう言い募るも、三藤くんは首を横に振って言う。
「そっち、は、駐車場通るから、窓から、見えちゃうよ。裏から学校、に行こうよ」
そうと決まれば、時間が惜しいというように、三藤くんとユーキはさっさと玄関に向かい、ぼくが追いつく頃には既に靴を履いていた。
興奮のあまり今にも笑い出しそうなユーキと三藤くんが、身振り手振りでぼくに早く靴を履くように促す。
「しーーっ! ほら、早く」
抜き足差し足で階段を下りると、一目散に裏の雑木林に走って行くユーキと三藤くんを、ぼくは後から遅れて追いかけた。
今はもうあまり人の手の入っていないと見えるこの雑木林は、大きな欅の木や小楢、桑などが鬱蒼と生い茂っている。低木も多く、足元には笹が伸び放題になっているところを分け入り、先を進む二人はそれらを器用に避けて駆け抜けて行く。
そこを抜けると、学校へ続く坂道に突き当たる。その学校までの道は、いつもの通学路だった。
道に躍り出た途端、詰めていた息を吐き出すと同時に、盛大に吹き出したユーキと三藤くんは、お腹を抱えて笑っている。
緊張と興奮が、綯い交ぜになった狂気のような笑い声が辺りに響いて、雑木林に吸い込まれていく。
バサバサと力強い羽根の音に、首を巡らす。
カラスが一羽、飛び立つのが見えた。
ようやくユーキと三藤くんの隣に追いつき、並んで歩き出したぼくは、学校に着くまで二人が熱に浮かされたように喋り続けるのを、聞くともなしに聞いていた。
これで良かったんだよね?
やがて校舎が目に入る。
見たくない火の見櫓と共に。
校庭の片隅に見つけたドッジボールを、ユーキと三藤くんは交互に、サッカーボールのように蹴りながら遊んでいる。
少し前に田向先生が、ボールを蹴る音が校舎に当たり大きく反響することでぼくたちに気づいて、窓から顔を出してこっちを見たけど笑って手を振っただけだった。
ユーキが思いきりボールを蹴り上げてしまい、明後日の方向に飛んでいくのをぼくは木陰に座って見ていた。三藤くんが大袈裟に文句を言いながら、そのボールを追いかけるその速さったら凄いんだ。
ぐんぐんとスピードを上げて、たちまちボールに追いつくと、ぼくに向かって蹴り出す。
ええっ! と慌てて立ち上がったぼくは、無我夢中で飛んできたそのボールを体全部で受け止めた。
「凄いじゃん! ナイスキーパー!」
はしゃぐユーキの、大きな笑い声が聞こえる。
思わず閉じてしまった目を開けてみれば、自分でも信じられないくらいがっちりとボールを抱き止めていたんだ。
三藤くんも、離れたところから腕を振ってぼくに「ナイスキーパー!」って叫んでいる。
嬉しさがじわじわと込み上げできた今になって、ボールの当たった胸の辺りが痛むことに驚く。だけど嫌な痛みじゃない。なんて言うんだろう……気づいたらぼくは、笑い出していたんだ。
「ボール! パスして!」
叫ぶユーキに向かって蹴る。
それがまた、へなへなした力のないボールで、やっと届いたボールを待っていたユーキが受け止めて三藤くんに回す。またもう一度さっきみたいに三藤くんは、ぼくに向けて手を挙げて合図をした後、狙い定めてボールを蹴った。
今度は、ぼくも上手く受け止められず、ボールはどこまでも転がって行ってしまう。
それからは三人で何が可笑しいのか、分からなくなるくらい笑い転げながらボールを追いかけ続けたんだ。
「暑っつい!! 水……水が飲みたい」
何度も繰り返し追いかけていたボールを突然放り出し、そう叫んだユーキは校庭の端にある手洗い場まで走って行ってしまった。
もう、ユーキったら。三藤くんとぼくも喉が渇いているのは同じなのに。
ボールを脇に抱えたぼくと、三藤くんが後から行ってみると、果たしてそこにはユーキが蛇口から直接口をつけるようにして水を飲んでいるところだった。
一心不乱に、ごくごくと喉を鳴らし、その水は光を受けてキラキラと顎をつたい首筋を濡らしている。
羨ましそうにその様子を見ていたけど、なかなか水道の水を飲む踏ん切りがつかない。
「美味いよ? 飲まないの? これ地下水だからすんごく冷たいし」
あちこち欠けた白いタイルに両手を置き、ざぶざぶと勢いよく頭から水を被りながらユーキが三藤くんとぼくに向かって言い終わらないうちに、我慢出来なくなったぼくたちもユーキを真似して、蛇口から直接水を飲んでみる。
「うわ。冷た〜! すごく、冷たいん、だね? 水道水が、美味しいの、に、びっくり」
ぼくは溢れる水を飲むのに夢中で、こっちを見ている三藤くんに目で頷くのが精一杯だった。
「最高だね」
それからぼくたちは、校舎のすぐ傍にある古くてあちこちが欠けた白いタイルの貼られたこの手洗い場の縁に座って、濡れた頭を太陽に晒す。
青空には夏らしい入道雲が張り出し、ジリジリと照りつける太陽は、暑さなんてものともせずに他愛もない話をするぼくたちを確実に焦がしていく。
目の端に動くものを感じてそちらを見れば、校舎の白いカーテンが揺れて、中にいる人が一瞬、ちらと目に入った。
探し物は、見つかったのかな?
それとも諦めたんだろうか。
あの日、シラユキ先生は既に諦めているようにも思えたのは、ぼくの気のせいじゃないと思う。どちらかと言えば田向先生の方が、それにこだわっているようだった。
「やっばっ! 時間!」
ユーキがタイルの縁から腰を立ち上げて、叫ぶ。
「すっかり忘れてたよ。抜け出したの! 結構、遊んじゃったよね? 見つかって怒られる前に早く帰ろう」
「ここに置いとけば、きっと次もこれで遊べるよね」
次があることを願ってぼくたちは、ドッジボールを手洗い場の下に隠すように置いたんだ。
もと来た道を、急いで走る。
通学路まで出たところで、ぼくが二人の足を引っ張っていることに気づいた。
足の遅いぼくに構わず、二人だけでも先に帰った方が良いと、ユーキと三藤くんを促す。
そこで二人は一度だけ振り返ると、ぼくに「あとで合流しよう!」とユーキが言い残し、力強く走って行ってしまった。
普段はしないボール遊びのせいで、情け無いくらい足がぱんぱんに張ってしまっている。二人の姿が目の前から消えたら、ぼくは走ることが出来なくなってしまった。
よたよたと、ぎこちなく坂道を歩く。
突然、背後から声を掛けられた。
「なんだ? ひとりで。悠貴と三藤くんは、どうした?」
それは、心配そうな顔をした田向先生だった。隣にはシラユキ先生が、真っ黒なサングラスと白いマスクで表情は見えないものの、同じように心配してる様子が、軽く傾げた顔と、そこに添えられた手袋をした片手からも見てとれた。
「あー。えーっと……二人は、先に帰ったんです。急いでるから。ぼく、足が遅いし先に行って貰ったと言うか……」
「急いでいるからって、それはおかしいだろ。ひとりだけ、待って貰えなかったのか? もしかして……喧嘩かな? 三人の話を先生、聞こうか?」
いやいやいや。
ちょっと待って。
どうやら先生達は、これから三藤くんの家の喫茶店に行くようだった。
眉を顰めている田向先生からは、余計なことを三藤くんのお母さんに言われかねないその様子がありありと見える。
ここはひとつ、先生に訳を話して味方になってもらうべきなんだろうか。
言っちゃって良いのかな?
ぼくの言い淀むその姿に、ますます要らぬ心配をしているような田向先生を見て、これはまずいと思った。
ごめん、三藤くん。
これも三藤くんの為……の、筈。
心の中で謝ると、ぼくは田向先生とシラユキ先生に、二人が先に急いで帰らなくてはならなかった理由を早口で話し始めたんだ。
外で遊ぶことを禁止されている三藤くんの話を聞き終えた先生達は、それぞれ何か考えているようで、ぼくの顔を見て黙っている。
「……見なかったことにしましょうよ」
マスク越しに、くぐもった小さな声で、シラユキ先生が言った。
「わたし達は、見なかった。そうすれば、良いんじゃない?」
田向先生は、外出禁止の三藤くんが可哀想だから何とかしてあげたいとか、大人達に振り回される子供がどうのとか、力になれないなんて教師としてなどと、ぶつぶつ言っていたけれど、それを聞いていたシラユキ先生がまた、きっぱりと「そうやって波風を立てるのが正解なのかしら?」と言ったんだ。
「この子が躊躇う様子を見たでしょう? 本当なら、話したくはなかった筈。それを聞き出して、なおかつ全く関係のない人間が間に入って、何とかなることかしら? かえって余計なことをして、子供だけの秘密の冒険を台無しにするの?」
…… シラユキ先生。
ぼくは驚いて先生を見る。
田向先生は、まだ納得がいかないような顔をしていたんだけど、それ以上は言わずにシラユキ先生の言葉を黙って聞くと、長い間考えを整理しているようだった。
「……そうだなあ。でしゃばりすぎたかな」
やがて、にっこりぼくに笑って言ったんだ。
「それに内緒の冒険は、子供だけの専売特許みたいなもんだよな?」
まあね。ぼくはユーキを真似て、にやりと笑って見せた。
ふと、ぼくはシラユキ先生に、その変な真っ黒なサングラスの奥からじっと見られているような気がしたけど、前みたいに気味が悪いとは思わなくなっていた。
なぜなのか、なんてそんな事はもう分かりきっている。
これまでぼくは、シラユキ先生と今までちゃんと話したことが一度もなかった。
無表情なのは冷たいからだと勝手に思い込み、さらには先生を不用意に怖がるだけで、どんな人かなんて確かめようともしなかったせいで。
シラユキ先生は、ぼくの話をきちんと聞いてくれる。そして、ぼくが子供だからと誤魔化したりしないで、自分の思うことを言葉にしてくれた。
だから……。
今なら聞けると思ったんだ。
ぼくは思い切って口に出してみる。
「……先生……シラユキ先生は、火の見櫓がどう見えますか?」
いきなりの、突飛な質問なってしまった。
どんな風に聞いたら良いのか、分からなかったから。
シラユキ先生の隣に居る田向先生が、聞かれてもいないのに「火の見櫓は、火の見櫓だろ?」って不思議そうに答えている。
シラユキ先生は、動かない。
その顔を覆うサングラスとマスクでは、どこを見ているのかも、何を考えているのかも分からない。
ただ、奇妙なことだけど、ぼくの言った言葉をきちんと受け止めてくれたのだけは、分かったんだ。
それから徐にぼくに向かい合い、視線の前に顔が来るようにしゃがみ込むと、ぼくの手をそっと、まるで壊れてしまう何かのように優しく握った。手袋越しに感じる先生の指は、あまりにも細くて、先生の方が壊れもののようだとぼくは思う。
向かい合うシラユキ先生のサングラスに、ぼくの姿が映って見える。
何を聞いても不思議と怖くないと思えた。
ぼくが落ち着いていられたのは、先生が何と答えるのか分かっていたからじゃない。
……それは先生が、優しくぼくの手を握ってくれていたから。
もちろん答えは、ある程度予想していたものだったけれど……。
「火の見櫓……。わたしには、明りが灯って見えるわ。他の人は、そんなものは見えないって言うけれど。あなたは何か見えるの?」
ぼくは黙って、頷いたんだ。
それだけで、もう、じゅうぶんだった。
ぼくとシラユキ先生は、お互いを探るように少しの間見つめ合っていたけれど、先に動いたのは先生の方だ。
シラユキ先生は「そうなのね」とだけ言って立ち上がると、それ以上ぼくに何かを聞くこともなく、何もなかったように田向先生に向かって「行きましょう」と声を掛けた。
田向先生は、狐につままれたような顔でぼくたちを見ていたけど、シラユキ先生に背中を軽く押されて促されると何も言わずに歩き始めた。
ぼくは二人と別れて、雑木林の中に分け入る。三藤くんの家を目指して。
「おっそいよー。誰にも会わなかった?」
玄関で靴を脱いでいると、ユーキと三藤くんが心配そうに部屋から出て来て、ぼくの方へと近寄って来た。
「……うん。誰も」
見なかったことにするって、シラユキ先生が言ってたから良いよね?
「どうす、る? もう、お昼だし、帰る?」
あ、そっか。
三藤くんがそう言ったので、ぼくは靴を脱ぐ手を止める。
「バレなかったね! これで本日の任務、無事完了だ」
ユーキが両手を頭の後ろに組みながら、そう言って笑った時、喫茶店の方からもの凄い音が聞こえた。
「……何? 今の」
「何の音?」
何かが割れる音。
長いながい悲鳴。
続く怒鳴り声。
「……お母さんッ!? お父さん?」
三藤くんが裸足のまま駆け出した。
後を追う、ぼくたち。
喫茶店に裏口から飛び込んで、ぼくたちがそこで目にしたもの。
割れた皿。
倒れた椅子。
床の上に飛び散る食べ物。
ぐちゃぐちゃにされた店内。
店の入り口で立ったまま、中には入れないとばかりに固まり、同じ方向を見つめる田向先生とシラユキ先生の姿もあった。
そこに……。
「殺した筈なのに!!! どうして?! なんで?! なんで生きてるのよッッ!! 死んでよ!! 今すぐ死ねよッ!!」
金切声が、響き渡る。
髪を振り乱し、その目だけを爛々と見開いた一人の女の人が、掴みがからんとしているのは三藤くんのお母さんだ。
「あはッはははッ。なんで! なんで!! なあぁぁんでッ?! 死んでないのよッッ!!!」
身体を折り曲げるような格好で笑い、胸を掻きむしる。そのわずかな隙を見て、お母さんを庇おうと三藤くんが女の人の前に飛び出した。
突然目の前現れた三藤くんと対峙する恰好になった女の人は、汚いものでも見るかのような目で睨みつけると吐き捨てるように言った。
「やあっだなあに? またなの?! あははッ笑える。また、同じ繰り返し? 悪夢を見ているようだわ。大好きなお母さんを庇って、アンタも死んだはずよね? ちゃんと殺したのに。この手で! 紐を使って!! 首を絞めたあの感触は、何だったのよ!!」
ユーキがぼくの隣で震えている。
すべてを言い終える前に、女の人は三藤くんを力いっぱい蹴った。三藤くんが、すごい音と共に床に仰向けに転がる。
その光景を前に、ぼくたちは何も出来ず、立ち竦んだまま見ているしかなかった。
離れたところで、倒れた椅子と一緒に、それまで床に座り込んでいた村長さんがようやく立ち上がると、大股に後ろから近づいて行って女の人の腕を掴んだ。
その手を勢いよく払い除けた女の人は、そのまま振り返ると村長さんに食ってかかる。
「あなたが、生き返らせたの? どうして? どうやって? せっかく邪魔なものを始末したのに。この人達さえいなければ私達、上手くいくんじゃないの? あなたに会いにここまで来たのに、あなたは何をしているの? ねえ、あなた。こんな女と家族ごっこかしら? 私と二人で、やり直すんでしょ? この人達がいなければ、もっと幸せにしてあげられるって言ったじゃない! この人達が邪魔なんだって、言ったわよね? だから私、あなたの為に殺したのに!!」
また、殺さなくちゃ!!!!
もう間違いようもない。いや、最初から間違えるはずもない。この女の人は、行方知れずだった村長さんの奥さんだった。
アンタから殺してやると金切声を上げて、振り向き様に三藤くんに飛び掛かろうとした奥さんに、横から投げつけられた大皿が当たる。
それは頭に当たって鈍い音をさせた後、奥さんが倒れると同時に床に落ちて割れた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにした、三藤くんのお母さんが投げた皿だった。
「思い出した……。ずっと頭に靄がかかっているみたいだった。この気味悪い首の痣……そうよ。あの日、わたしと
三藤くんのお母さんは、泣きながら村長さんに尋ねた。
「あなたが、生き返らせたの? わたしと陽奈太と一緒にいるため? そうよね? まさか違うなんて言わないわよね? こんなことをするのは、あなたしかいないものね。死人を蘇らせる? これまでなんの解決策もないまま、のらりくらりとしてきたせいで、こんなことになったのに、それでもまだ、一緒に居たかったと言うの? 殺された、わたしたちの言い分も聞かずに? ……ああ。ふふふ。そうよね? 死人に口なし。死んだわたしに聞いたところで、答えようもないか。だけど、あなたが一度だってわたしの話を聞いてくれたことが、あったのかしら? ない、わよね? わたしたちは何も決められないんだわね? いつだって、何も。ふふ……ふふふ……あはッ。あはははははー」
やがてヒステリックに笑い出した三藤くんのお母さんの傍に、そっと三藤くんが寄り添い、その揺れる体に優しく手を触れた。
「そう……そうだよ……死んで欲しくなかったんだ。もう少しだけ一緒に居られる方法があるのを知って、だったら最後だけでも幸せにしてあげたいって」
村長さんは、三藤くんのお母さんに向かって必死の形相で言う。
「それに、さ……分かるだろう? ほら。あいつを……オレの妻を犯罪者にするわけにはいかないんだ。……考えてみろ。な? 君たちの死体をそのままにしといたら、あいつはすぐに捕まって、オレは世間からどう見られる? だから死んだ君たちにも、オレにも、あいつにも一番良い方法だと思ったんだよ! 君たちだって、この村で幸せそうだったじゃないか」
両手を擦り合わせるようにして話をする村長は、少しずつ三藤くん達に近づいていく。
それに対して三藤くん達は一歩、また一歩と背後に下がる。
「分かるだろう? 分かってくれるよな?」
「……何それ。結局は、自分さえ良ければいいんじゃない……あなたがそんな人だと、もっと早くに分かれば良かった……ううん、本当はずっと前から分かっていたのに。いつかはあなたが変わるんじゃないか、耐えていれば幸せになれるんじゃ無いかって……そうやって目を逸らしていた、弱いわたしのせいで……!」
三藤くんのお母さんは、三藤くんを引き寄せるとぎゅっと抱きしめて、村長さんを睨みながら、また少しずつ後退りする。
「オレが変わる? 変わらないと駄目なのは、オレなのか? やれやれ、全く。みんながオレのせいにするんだ。自分は何も悪くない、悪いのはオレだってね。そのうえ自分さえ良ければ? そもそも、この関係を受け入れていたのは君だ。結婚はしないでも良いって、子供を産みたいって言ったのも君だろ? オレじゃないよな? あいつも言ったんだよ。あのとき電話で、君たちを『とうとう殺しちゃった』って言っておきながら、その口で言うんだよ。実際に君らを殺したのは、オレなんだってさ。オレは何にもやってないのに。そうだろ? で、あいつは言うんだ、これでやり直せるって。オレは思わず耳を疑ったよ。君らさえ死んでくれたら二人で幸せになれるなんて、冗談で言ったかもしれないが、ホントに殺すか? 考えてみろよ。殺人は犯罪だぞ? それを本気にするなんてな。おかげで尻拭いをする羽目になったのは、誰だ? 結局オレだ。それなのに、どいつもこいつも自分のことを棚に上げて皆オレが悪いって?」
残念だよ、とても残念だと首を左右に振る。
「……ねえ。わたし達は自由には、なれないの? 村から出られないとあなたが言ったのは何? どうして? わたしと陽奈太は、どうなるの?」
「ああ、それはね。この村でしか君たちは生きられないんだ。当たり前だよな? 一度は死んだんだ。逃げようとしても無駄だよ。村を出た途端、死体に逆戻りさ。それに今オレは『少しの間』と言っただろう? 二年過ぎたあたりから体は腐り始める。まあ、面倒ならその前に御呪いの効力を消しさえすれば、いつだって好きな時に『さよなら』だって出来るんだ。
……所詮はおまえも馬鹿な女だったとはな。ま、後腐れなくていいか。
だけど、残念だったなぁ? おまえにしてみれば、こんなことさえなけりゃ楽しい家族ごっこが、しばらく続いたってのになぁ? オレも残念だよ。おまえのことが分かっていなかった。可哀想だから短い間だけでも幸せにしてやろうと思っていたのに、おまえはオレを恨むばかりで、可哀想だと思われるその資格さえなかったとはね」
完全に開き直った村長さんの下卑た笑みは、その場を凍りつかせるのに充分だった。
誰もが息を呑み、村長さんを見ている。
ふと何かが動くのを感じて、静まり返る店内を見渡すと、田向先生とシラユキ先生が外へ出るようにぼくとユーキに合図を送っているのが分かった。
ぼくは動けないユーキの手を引いて、ゆっくりと後ろ向きで裏口に向かう。
あと少しで扉まで来た時に、村長さんの奥さんが目を覚まして立ち上がるのが見えた。
……手に火をつけたライターと、鞄から取り出した、何かの液体が入った小さなボトルを持って。
「外に出なさい!!」
その瞬間、田向先生の怒鳴り声が、響く。
ぼくは、その声で正気の戻ったユーキの手を引っ張ると、何も考えずに目の前にあった裏口から扉の外に出た。
外に出たぼくたちが振り返ると、反対側の店の入り口から出て来る田向先生とシラユキ先生の姿が目に入る。
店の中からは誰かの怒鳴り声。
再び食器の割れる音。
悲鳴。
泣き声。
罵声が飛び交う。
店の真ん中が、ぼっと明るくなった。
そのあとに甲高く笑い声を上げながら髪を振り乱し、飛び出してくる村長さんの奥さんの般若に似た姿。
……三藤くん達は、いくら待っても姿を現さなかった。
「フランケンシュタインって知ってる?」
外に出て来たぼくたちが肩を寄せ合うように並んで、目の前で家が燃えてゆくのを見ていた時に、シラユキ先生は唐突に言った。
先生は何を言いたいのだろう?
ぼくは、ゆっくりとシラユキ先生の方を仰ぎ見る。
三藤くんの家の火が、また大きくなった。
炎は窓を時折ちらちらと舐めるように姿を見せては、隠れるを繰り返している。
誰もがその場を動けずに、火の粉が上がるのをただ見つめる中で、シラユキ先生は穏やかともいえる喋り方で話し始めたんだ。
「フランケンシュタインは、ね? 死体を繋ぎ合わせて怪人を創ったわ。墓を暴いてね。その創られた怪人は誕生した後、誰からも愛されなかった。醜くて、悍ましいという理由で。もちろん創った本人からも、ね。だから怪人は、愛とはどういうものか、知らなかったんだわ。
……知らなければ、分からないわよね。
人は皆、忘れてしまっているだけで、誰もが赤ちゃんの頃に、たくさんの人から無償の愛を投げかけて貰うでしょう?
残念なことに、誰もそのことを覚えてはいないけれどね。
誰に教えて貰わなくても愛し方を知っているのはきっと、忘れてしまったその時のことを何処かで記憶しているから。
だから怪人が愛を知るために、まずは誰かに愛されたいと願ったのは、自然なことなのかもしれないと思うのよ。だって愛を知らなければ、誰も愛せないでしょう?
愛されたいと願うその創られた怪人は、知性があって、心があっても愛を知らなかった。それゆえに、自らを嘆き、誰かを憎むことしか出来なかったんだわ。
それを考えると、怪人とは中途半端に人の形をしていたせいで、虐げられてしまった可哀想な生き物のような気がするの」
今やこの場にいる誰もがみな怪訝な顔で、シラユキ先生を見ていた。
一体この話は、何処へ向かうのだろう。
「貴女も、愛されたかったのよね?」
シラユキ先生は、地面に座り込む村長さんの奥さんを、覗き込むようにして言った。
「わたしには、貴女の気持ちが良くわかる。
わたしも、以前そうだったから。
人とちゃんと向かい合えず、自分を誤魔化してきた。幼い頃に愛されていたことを、忘れてしまっていたせいで、愛されたいと、そればかりを渇望していたの。
……わたしが貴女とは違うのは、憎んだのは自分だったってところだけれど。
ああそうね。もうひとつ違うところもあるわね。わたしが殺したのは、わたし自身。貴女が殺したのは……。
大きな違いだわね?
何故かわたしは、二度目を貰った。
これをチャンスと呼ぶのは、あまりにも滑稽なことかもしれない。
それでも、そのおかげでわたしは、わたし自身を取り戻せた。そして、誰かを愛するとはどういうことかを知った。
いいえ、思い出したの。
ある人と出会って。
田向先生、あなたに。
どうも、ありがとう。
あなたと一緒にいるわたしは、『わたし』らしい『わたし』で居られた。自分を飾ることも、嘘をつく必要もなかった。わたしを幸せにしてくれて、本当にありがとう。
……それから、幸せを貰うばかりであなたを幸せに出来なくて、一緒に居られなくて、ごめんなさい。
何故、村とは縁もないこのわたしが、この地を選んで自らの命を断ったのか。ここにこうして蘇ることになったのか。命を断った過去を思い出してからずっと、考えていたけれど、その理由もようやく分かったような気がするわ。
それは、きっと今日のため。
まあ、ただ単に『誰か』は多分、可哀想なわたしの姿を見て、こうして蘇らせてくれただけなんでしょう。
きっと、それだけのこと。
だからその『誰か』がどうしてわたしを蘇らせたのかは、もうどうでも良いの。
それはこの日のため、こうなるために、何かの見えない意思で、予め決められていたことなのかもしれないって、今は思うのよ。
こうしてわたしが、今日の日を終わりにするために」
シラユキ先生は、徐にマスクとサングラスを外した。
それを間近で見た奥さんの、ひっと息を呑む音が聞こえる。
そして、ぼくたちを振り返ったシラユキ先生の顔。そこにはすでに以前の面影すら残っていなかった。
窪んだ眼窩に眼玉は無く、鼻は溶けて骨が見えていた。唇はかろうじて顎の辺りにぶら下がり、剥き出しになった歯が並んでいる。
「もう一緒に居られない訳が、分かるでしょう?」
田向先生に向かってそう言ったとき、ぼくは、シラユキ先生が悲しそうに微笑むのが見えたような気がした。
実際には、そんな表情をするのは不可能だったけれどぼくには……いや、その場に居た誰もが、シラユキ先生の悲しそうに美しく微笑む顔を見たんだ。
声にならない悲鳴を上げる村長の奥さんの手を、シラユキ先生は優しく掬いあげる。
「あの人たちが気になるわよね? また生き返るんじゃないかって。さあ、自分のしたことを自分の目で確かめに行きましょう。そうして自分のしてしまったことと、向き合うのよ。そして全てを終わらせるの。大丈夫。わたしが一緒に行ってあげるわ」
そう言うとシラユキ先生は、村長さんの奥さんと一緒に、燃え続ける三藤くんの家に向かって歩き出す。
「……!」
田向先生が何か言った。
その声に応えるように、シラユキ先生が一度だけ振り返り鮮やかに、にっこりと笑ったように見えた。
「ありがとう。……サヨウナラ」
聞こえたのは、空耳だったのだろうか。
シラユキ先生は、おとなしく手を引かれるままの村長さんの奥さんと一緒に、静かに燃え続ける火の中に入って行った。
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