第11話 闇の中
いつだって、物事のはじまりは終わりに向かって進む。
はじまりがあるから、終わるんだって?
終わらない物語も、あるとか?
……まさか。
すべては終わりに向けて、始めるんだよ。
そうでしょう?
つまり、はじまった瞬間に物事は終わりを告げているってこと。
これは、ぼくの物語の終わりの始まり。
ユーキを家に帰した後、屋根裏部屋で見つけてしまったぼくの名前が書かれていた箱を、部屋でひとり開けてみる。
箱のなかにはビードロがひとつ。
細い管と、底に薄い被膜のような硝子でできた繊細な玩具。息を吹き込むとぺこん、と物悲しい音が響く。
露草色のその透きとおった硝子は、空の色に良く似ている。
ずっと無くしたと思っていた懐かしい玩具。ママが出張の時に買って来てくれたんだっけ。
いつも息を吹き込むのが、怖かった。
壊れるんじゃないかって、恐るおそる息を吹き込んでもびくともしない。
思い切って強く吹くと、聴き慣れない悲しい音がするんだ。
「
呼ばれて振り向くと、いつ帰ったのか叔父さんがぼくを見つめていた。
「おかえりなさい。屋根裏部屋に黙って入っちゃった。……ごめんなさい」
言い終えないうちに叔父さんは、ぎゅっとぼくを抱きしめて答える。
「そんなことは、良いんだ。……全然構わないんだよ」
叔父さんの髪は、日向の匂いがする。
中腰のまま、ぼくを抱きしめる叔父さんにしがみついて、壊れてバラバラになってしまいそうな自分を抱きとめて貰う。
「……ねえ、叔父さん。火の見櫓の炎の色は、何色なの? もしかしたら、このビードロみたいな色なんじゃない?」
何度も頷く叔父さんの髪が、頬に擦れてくすぐったかった。
やっぱりね。
ママがこの色を無意識に選んでしまう理由が、分かる。
叔父さんが火の見櫓に見る炎の色は、露草色のような青色。
ぼくが見る色とは、違う。
それが全ての答えだった。
露草色のビードロ越しに見た世界は、悲しみに沈んで見える。
それにもかかわらずこの色に、慰めとどこか懐かしさを感じるのは、ぼくに流れる血がそうさせるんだろう。
「……叔父さん。ぼくね、火の見櫓の夢を見る意味がやっと、分かった。夢の中で会ったこともないお祖母ちゃんが、ぼくに言いたかったのは……」
叔父さんは、ぼくを抱きしめていた両腕をだらりと脇に垂らしたまま、すっかり力を無くしてしまったみたいな恰好で、最後までぼくの話を聞いていたんだ。
「そうか。……分かった。だけど……
眼鏡の奥の目を、しょぼしょぼさせて叔父さんは言った。
叔父さんに向かって、ぼくは頷く。
知っているよって。
ねえ、叔父さん。
倉橋一郎太は、もういないんだ。
それにやっぱりこんなことは、間違っていると思うでしょう?
だから叔父さんは今までもこれからも倉橋一郎太には、なれないよ。
なれなくて、良いんだよ。
お祖母ちゃんが言うようにね。
「だから、叔父さんにお願いがあるんだ。……パパとママに、会いたい。パパとママは、ぼくに会いに来てくれるかな」
ぼくが、決意したこと。
ぼくにしか、出来ないこと。
結界を壊す。
その結果、起こることは何か。
もう、分かるよね?
この手で、全てを終わらせるんだ……。
「じゃあ、叔父さん。……行ってきます」
ぼくは靴を履いて玄関に立ち、叔父さんを見上げる。
不思議と落ち着いた気持ちだった。
そんなぼくを見送る叔父さんは何も言わずに優しい目をして、困った顔で笑って頷く。
まだぼくには時間があるからと、結界を壊すのを引き留める叔父さんと一晩かけて話し合った。
この力は「今すぐじゃなくても、叔父さんで終わるのだから」と言う消極的なものに対するぼくの考えは、真逆にある。
叔父さんを自由にするには「今をおいて他にはないんだ」っていう考えだ。
ぼくが犠牲になる必要はないとか言う叔父さんと、話はどこまで行っても平行線で終わるかと思ったけれど、終いには叔父さんが折れてぼくの思い通りになる。
なぜなら、それはお祖母ちゃんの意思でもあるから。
『それはこの日のため、こうなるために、何かの見えない意思で、予め決められていたことなのかもしれないって、今は思うのよ』
シラユキ先生が言った言葉が、ぼくにそのまま返ってくる。
そう。
きっとそうなんだろう。
ぼくがこの世に生を受けた訳が、ここにあるんだという気がしてならない。
ぼくが終わらせる。その番が、来たんだ。
短い睡眠を取った後のぼくが、まず始めにしたことはユーキに電話を掛けて学校に呼び出したことだった。
「ユーキに手伝って欲しいことがあるんだ」
電話の向こうで、小さく息を呑む音がした後、少し何かを考えるような間をあけてからユーキが「うん。分かった」と短く答える声がぼくの耳に届く。
ありがとうと言ったぼくは、昼過ぎに学校に来て欲しいとユーキに伝えたんだ。
学校までの緩く長い坂道を登るぼくの視線の先には、逃げ水が見える。
風がないんだ。
その蜃気楼は、ぬらぬらと銀色に光りどこまで歩いても追いつくことはない。
滲む額の汗を腕で拭いながら、ぼくは無心に坂を登る。
駐在所のお巡りさんの家を過ぎ、三藤くんの家があった場所を遠くから眺めて先を行く。
最後の大きなカーブの前で立ち止まった。
おはよっ、と後ろからユーキの声が聞こえるような気がして振り向く。
いつもの朝が、懐かしかった。
当たり前だけど、振り向いたぼくの後ろには、誰もいない坂道があるだけだ。
大きく息を吸い込み、空を見上げる。
そこにあるものをひと睨みして、再び歩き始めた。
『結界を壊す方法?』
叔父さんが難しい顔をしてぼくを見る。
『……あるには、あるけれど。果たしてそれが上手くいくかどうかは……』
分からない、と叔父さんは続けた。
ぼくは多分それで、間違いない筈だと思うと言ってみる。
叔父さんは、言葉を選ぶように話始めた。
『火の見櫓……その柱に……』
ユーキの姿は、正門の前にあった。
まだぼくに気づいていないユーキは、足で地面に何かを書いているのか、片方の足の爪先で土の上を引っ掻いている。
両腕がバランスをとるたびに、ゆらゆらと揺れて踊っているようにも見えた。
声を掛けようとして、止める。
しばらくユーキを見ていたかったから。
「……おっ。来たな」
ぼくに気づいたユーキが、いつものようににやりと笑った。
ぼくもユーキを真似て、にやりと笑い返そうとしたけど上手くいかなくて少し情け無い笑顔になる。ユーキに比べてぼくはやっぱり、まだまだだね。
「昨日あれからさ、考えたんだけど」
何気ない様子でぼくは、倉橋一郎太の子孫として、このことに決着をつけたいと思うんだと続ける。
何事かと少し身構えていたユーキは、黙ってぼくの話を最後まで聞き終えた後「何をすれば良いの?」と言った。
「……反対しないの?」
酷いことを聞いている、とぼくは思う。
「どうして反対するのさ」
ユーキが不貞腐れた様子で答える。
「だって……結界を壊したら、もう魂を呼び出すことは出来ないんだよ?」
「そんなん、出来る方がおかしくない? まあ……そのおかげで昨日は、アレだけど」
ランドセルのことユーキ、お父さんに言えたんだ。
ぼくは胸を撫で下ろす。
「ランドセル背負って帰ったらさ、お父さんも、祖父ちゃんもすっごく驚いて、それで……結果、上手くサヨナラ出来た」
「えっ? ユーキ……?」
それって、もしかして……。
自分のことばかりで、全然気づいていなかった。よく見ると、ユーキの両瞼は腫れていて、ずっと泣いていたことが分かる。
「びっくりだよ。お父さんさ……魂が戻ってすぐに祖父ちゃんから聞いてたんだって。ずっと黙っていたけど知ってたんだって。……幸せだったけど、幸せが苦しかったって。だからさ……」
ほっとした、って言ったんだ。
お別れはドライブだったそうだ。
「いっぱい、話をしたよ。ふふ。ランドセルのこともね……いっぱい泣いたし」
ユーキのお母さんの運転で、三人だけで夜のドライブに行ったんだって。
「……消えちゃった。嘘みたいに」
そう笑ったユーキは、続けて言った。
「まあ。長い夢だったことにしようって、お母さんと話したんだ。幸せな夢を見たって。……それでもやっぱり、お父さんを見て思ったんだ。魂を呼び出すのは正しいことじゃないような気がした。……おかしいかな? 勝手すぎる?」
ぼくは首を横に振る。
ユーキは、言う。
「みんな誰でも、この村じゃなくても、同じようにチャンスがあるなら良いのかな? ……だけどやっぱり……あの昔話みたいに欲が出ちゃうよね」
生きている人も、そうでない人も。
ぼくたちは、学校の裏にある雑木林を抜けて火の見櫓へと近づいて行く。
がさがさと足元に笹が纏わりつく。
ようやく辿り着いたその場所。
間近で見上げる火の見櫓は、途方もなく大きな蜘蛛のようだった。
『……火の見櫓の柱の八本のうち、六本に、倉橋一郎太の書いた御札のある柱がある。その御札によって、村は封印されているんだ』
魂の呼び戻しを教えて貰う時に、この秘密を教わるのだと叔父さんは、その御札のある箇所を紙に書いてぼくに説明した。
『ここと、ここ。それからこっちと、この全部で六枚の御札を剥がすことになる』
『……うん』
『御札は、実際には見たことがないんだよ。剥がれるんだろうか……? 本当に、剥がして良いんだろうか』
力なく項垂れる叔父さんに、ぼくは言う。
『……剥がすには、順序があるって夢の中でお祖母ちゃんに教えてもらった。だから、大丈夫だよ』
『母さんが……?』
火の見櫓の柱の根本を見る。頑丈で巨大な台座の上に八本の柱が立ち、空に向かって奇妙に伸びている。
節くれだった蜘蛛の脚に良く似たそれは、今にも動き出しそうに見え、ぼくは悍ましさに身体が震えた。
そのうちの六本だけ、よく見ると他とは違ってびっしりと細かな装飾がなされている。まるで蜘蛛の脚の毛に似せて。それら六本は叔父さんが紙に書いてくれた御札のある柱の場所と、一致していた。
「何をすれば良いの?」
ユーキがぼくを見る。
「同時に、二枚ずつ御札を剥がせば良いんだよ。簡単でしょ?」
最も容易いことのように、ぼくは言う。実際に、そうであってくれることを願いながら。
「でさ、その御札ってどこにあるの?」
ユーキが柱をあちこち覗きながら、ぼくに問いかけた。
ぼくはユーキに、他とは違う六本の柱の説明をする。
「うーん……高い所だったら、届かないよね? それに、見えるところに貼ってあるかなぁ……雨とか風とかでさ、無くなっちゃわない?」
そうだね。ユーキの言う通りだ。
柱を一本ずつ確かめてみるけれど、見えるところに御札のようなものは無い。
二人で一緒に同じ柱を眺め回すも、無駄なようだった。それならと、それぞれ手分けして御札を見つけようとしても、時間だけが無常に過ぎていく。
焦るぼくに、夢の中のお祖母ちゃんの声が蘇る。
油断しては、いけないよ。
そう言って指を差したのは……。
ぼくはしゃがみ込み足元の台座近くを、つぶさに調べる。
台座から拳二つほど上の辺りに、柱の装飾に紛れるようにして小さな掛けがねのようなものを見つけた。
……打掛錠だ。
「ユーキ、見て。……これ」
声を上げると、背後から近寄って来たユーキがぼくの指先を覗き込む。
錆び付いて動かないかもしれない。
そう思いながらツマミを指先で挟み、力を入れて持ち上げてみて驚く。
それは、難なく動いたからだ。
「開いた……!」
そっと引っ張ると、柱の内側に御札があるのが見える。
「何これ? 文字と……絵……屋根みたい。……丸いのは星みたいだよね?」
「これが倉橋一郎太の書いた御札に、間違いなさそう……」
ぼくとユーキは、顔を見合わせた。
「まずは全部、見つけなくちゃ」
御札は柱の中に隠されていると分かったぼくたちは、それぞれ違う柱の装飾に紛れる打掛錠を探した。
『……六芒星?』
叔父さんが、ぼくに向かって首を傾げる。
『そう。見て? ほら、叔父さんが教えてくれた御札のある柱。点にして、こうやって結ぶと……ね?』
紙の上に、六芒星が浮かび上がる。
『お祖母ちゃんが言うには、向かい合う頂点同士の御札を、同時に剥がすことが必要なんだって』
ぼくはその同じ紙に、三つの印を書き入れた。丸と丸。四角と四角。三角と三角。
『……ね?』
叔父さんは腕を組み、それを眺めた。
『ね? それから、お祖母ちゃんは言ったんだよ。……これで叔父さんも、村から自由になれるよって。宇宙飛行士には、なりそこねちゃったわねって』
それを聞いた時の叔父さんの顔は、まるで小さな男の子に戻ったみたいだった。
ぼくはユーキに合図を出す。
まずは一枚目。
呆気なく剥がれる御札に、ユーキが大袈裟な表情で戯けてみせるのが見えた。
それから二枚目。
今度も、また同じ。
「最後だね? 準備はいい?」
ユーキは「いつでも」と手を振る。
ぼくは大きく息を吸う。
手が震えてしまうのを、ユーキに悟られないように懸命に抑えた。
目で合図をする。
いち、にの……さん。
身体の中を何かが貫いてゆくのを感じた。
……終わった。
終わってしまった。
ぎゅっと目を閉じる。
仰ぎ見ると、火の見櫓の炎が消えていることに気づいた。
『……叔父さんは、宇宙飛行士になりたかったの?』
『子供の頃の、夢だよ……』
『ふぅん。残念だった?』
『まさか』
ぼくは、そんな叔父さんが好きだ。
『……
『ぼく? ぼくは、もう叶ったよ』
……友達と外で遊ぶこと。
火の見櫓の炎が消えた。
ぼくに残された時間はもう少ない。
御札を探すのに、思っていた以上に時が経ってしまった。
いつの間にか陽は沈み、辺りに宵闇が迫っている。
朝日が登る頃ぼくは消えてしまうだろう。
……もう黙っていることは出来なかった。
だからぼくは、覚悟を決めてユーキに言うしかなかったんだ。
三枚の御札を持って、ぼくの方へと近寄ってきたユーキに向かって切り出した。
「ぼくの名前が書いてある箱があったんだ」
ユーキ……ごめんね。
突然の告白に、一瞬だけ訳の分からない顔をしたユーキだったけれど、その意味が分かった途端、みるみると青ざめてゆくのをぼくはただ、見ているしか出来なかった。
たとえそれがどんなに酷くても、ぼくの嘘や冗談なら良かったのにと思いながら。
黙ってさよならすることも出来たと思う。その方が親切だったのかもしれないし、それとまた同時に、それがどんなに酷いことか分かっていた。
だから、ちゃんと言いたかった。
それにぼくは、ぼくたち二人で結界を壊すことで全てを終わりにしたかった。
分かってくれる?
「……そんな。まさかとは……思っていたけど……今になって……そんな酷いよ!!」
皆んな居なくなっちゃうって?
三藤くんも、お父さんも、今度は、ぼく?
……そうだね。
そこに優しいだけの世界があるなら、ユーキを連れて行ってあげたい。
傍にいるだけで、ユーキが安らぎを覚えるならいつまでも一緒にいてあげたい。
……でも、もう無理なんだ。
分かるよね?
首を横に振り続けるユーキ。
ユーキ、世界はつらいことや苦しみだけで溢れているわけじゃないよ。
たくさんの輝きの中にいるから、それが
目立ってしまうだけなんだ。光が強いから影がくっきりと見えるんだよ。
違う?
輝きよりも、暗闇が多いと思うって?
だけどさ、そういう時はちょっとだけ、ぼくが言ったことを思い出して欲しい。
居なくなってしまったぼくに、何が分かるのかって?
分からないよ。
ぼくにはもう、何も分からない。
太陽の光を受けて、キラキラと反射する川の水の冷たさや、自転車の風を切る音も、あの日の笑い声も、もうぼくには届かない。
でもユーキは忘れないでしょ?
眩しい夏の太陽のような、あの瞬間。
それを全部、捨てちゃうの?
また同じくらい……ううん、それ以上に怖いほど素晴らしい世界が明日来るかもしれないのに。
……そんなの来ない? 分かってるって?
そう?
じゃあさ、ユーキが歳をとって、おばあちゃんになるまで、どっちの言う通りだったか勝負しようよ。ぼくが迎えに来るからさ。その時、教えてくれる? そうそう。お祭りで捕まえたリクガメが、どのくらい大きくなったのかも、その時に教えて貰わなくちゃ。
……ユーキ、泣きながら笑ってる?
ふふふ。ズルイって?
知ってた。
ユーキって負けず嫌いだもんね。
ぼくたちは、どちらからともなく夜空を見上げた。
星が、ひとつ流れる。
まるで、夜空が泣いているみたいに。
そして、またひとつ。
一緒に見る約束をした、流星群だ……。
隣に立つユーキの横顔を、そっと眺める。
さて、と。
……ぼくはもう行かなくちゃ。
大切なひとを、待たせている筈なんだ。
きっともう着いた頃だと思う。
じゃあね。
ユーキにそう言って、ぼくは走り出す。
振り返らない、と固く心に決めて。
振り返ったら、決意すら翻して、引き返したくなるから。自らが決心した結果を、後悔してしまうことになるから。
「……ッ!! ……またねっ……きっと……また」
逢いにきてね。
ユーキの声が、ぼくの背中に届く。
……またね。ユーキ。
ほらね?
初恋は、実らない。
ぼくは知っているんだ。
なぜって? 本で読んだからね。
流星群が、空から降るやまない雨のように、ぼくに降り注ぐ。
その夜の中を、ぼくは駆ける。
何も聞こえない。
感じるのは、足の裏の地面の力強い確かさだけだ。
全身が、闇に溶けてしまいそうになる。
それでもぼくは、走ってる。
走れるんだ……。
足がもつれ始める。
息が苦しい。
立ち止まり、空を見上げた。
星はまだ、ぼくを優しく照らしている。
いま肩で息をするぼくに聞こえるのは、自分の呼吸音と耳の奥で、どくどくと脈打つ音。……生きている音。
目を閉じ、息を整えた。
会いたい人に笑顔で会うために、涙を拭き込み上げてくる嗚咽をぐっと抑える。
さあ、笑うんだ。
楽しかったことを思いだして。
きっとぼくもまた、長いながい夢を見ていただけなんだ。
やがてパパとママの姿が、見えてきた。
叔父さんの家の灯りを背に、二人寄り添うように立っている。
……パパ!!
ぼくは手を振る。
走りながら身体中を使って、背伸びするように。
同じように、大きく手を振り返すパパ。
……ママ!!
走るぼくを見て、両手を胸の前に組み、笑っているような泣いているような声を上げている。
ねえ、見てくれた? ぼくの走るところ。
走り寄るぼくは得意げな様子で、二人の前に立つ。
パパは、何かを懸命に堪えているような、くしゃくしゃな笑顔でぼくの頭を抱え込むように引き寄せると、凄いな、速いんだなぁと言った。
揉みくちゃにされながら、ぼくは笑い声を上げる。
ママは、そんなぼくとパパを見て、優しくきらりと光る目で笑うと、固く結んだ唇を震わせて言葉にならないみたい。
パパとママがここに来ているのは、ぼくのした決意を、叔父さんがちゃんと二人に伝えてくれたということだ。
ありがとう。
ぼくは、パパとママに精一杯の笑顔を見せる。
それからぼくは、会えなかったこれまでの全部を、二人の真ん中で手を繋ぎ話したんだ。
朝焼けが空を赤く染める。
それはまるで、いつか見た火の見櫓に灯る炎のように、赤い色。
ぼくは、準備が出来ているとはいえなかった。準備の出来ている人なんて、いない。
それでも「その時」は容赦なく誰にでも訪れるものなんだと、どんな人よりもぼくは知っていた。
パパが優しく頭を撫でてくれる。
ぼくを勇気づけてくれる、大きな掌。
いつだって、その手で勇気をくれたね。
……さあ、時間だ。
ぼくは、ママの身体にぎゅっと抱きつく。ぼくを安心させる柔らかいママの匂い。ママの温かい掌が、ぼくの背中をゆっくりと撫でている。
いつまでも、こうしていたい。
でもそれは出来ないことだと、ぼくは分かっている。そして込み上げてくる不安を、思わず口にしてしまう。
「……痛くないよね? ……怖いこともないよね?」
ママは、ぼくの髪に顔を埋めて愛しそうに息を吸い込む。腕に力を込めて、何度もなんども頷く。
「……ええ。ええ、そうね。……そう。ごめんね。……ごめん、なさい……」
嗚咽で言葉にならないママ。
謝って欲しいわけじゃないんだ。
ぼくに大好きだよって言って。
お願い。
それに二人に見送られて、こうすることを選んだのは、ぼくなんだから。
ぼくは、ママとぼく自身に言い聞かせるように言う。
「……ママ。ごめんね。ほんとは、ぼく知ってるんだ。もう痛いことも、怖いこともないんだって分かっているんだよ。……ただ、眠るだけなんだよね?」
ママの腕の中は、いい匂いがする。
ぎゅっと、抱きしめられている。
なんて気持ちが良いんだろう。
大好きだよ、ママ。知ってるよね?
ぼくは安心して、ゆっくり目を閉じる。
「……おやすみなさい、パパ、ママ。
今度は……二人が起こしに来てくれるまで、待ってるね。
それから……ぼくは……幸せだったよ」
最後の言葉は、届いたかな。
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