第7話 喜劇じみた青空


 つらいことや嫌なことがあった日は、いつもお兄ちゃんに会いに行く。

 お兄ちゃんは必ず私を見つけてくれる。七歳年上の、十七歳の男の人。高校二年生なんて、私には想像もつかない世界だ。ランドセルじゃなくて学生鞄を持つ。学校で決められた制服を着る。クラブじゃなくて部活に入る。電車に乗って学校へ行く。いつか私にも、そんな日は来るのだろうか。今はリサイクルショップで買った安い服に、父がプレゼントしたカラフルなランドセルを背負った私。洋服のダサさとランドセルのパステルカラーが合っていないと何度も周りの皆にからかわれている私。教室の隅で私は、早く学校が終わればいいのにと願っている。あと二年もこんな苦しみを味わうのかな。一日でも早く卒業したいのに。

 クラス替えがあっても、友達ができても、貧乏な子を笑う子どもは、私の周りからいなくならなかった。


 私が小学校に入学する年になった時のことは、よく覚えている。父が「玲美には絶対この色が合う」とラベンダー色のランドセルを見つけた。ピンクの縁取りで、ハートのチャームがついていた。派手じゃないかなあ、と私は思ったけれど、母も一緒になって「お兄ちゃんの時にはまだこんなにかわいいランドセルはなかったのよ」と嬉しそうに言うから、両親の機嫌が悪くならないように「ありがとう」と笑った。ランドセルが届いて、両親に言われて家族の前で背負うと、お兄ちゃんが「ちょっと派手じゃないかな」と私の思っていることを口にしてくれた。「いいの、いいの。今時の子は派手なんだから」と母は機嫌よく返した。父は満足そうにデジタルカメラで写真を取った。

 入学式は、ピンク色のジャケットを着せられた。小学校に向かうと周りの子は皆落ち着いた色の服なのに、私だけ浮いていて恥ずかしかった。両親はそんな私に気づかないで、写真を撮り続けた。

 やっぱり私の派手なランドセルと服は周りの子の注目の的だったみたいで、クラスに入ると皆の視線が痛かった。話しかけてくれた子もいたけれど、舌足らずなしゃべり方をする私に、だんだんとクラスメイトも離れていった。引き留めることもできなかった。

「学校どうだった?」という母の言葉が最もつらかった。「うん、まあ」とあいまいな返事しかできなかった。

 授業参観に母が来た時は、休み時間ごとにクラスを抜け出して図書室に逃げた。「あんた、どこに行ってたの?」とこわい顔で訊く母に、「別のクラスの友達に会ってた」と嘘をついた。それで何とか小学校一年生の授業参観は乗り切った。

 二年に上がる頃だった。父がいきなりおかしくなった。会社がつぶれたのか、会社を首になったのか、今でもよくわからないけど、両親が近所中に響くような大声で毎日のように喧嘩をしていたのを覚えている。私は部屋の隅でぬいぐるみを抱きながら何も聞こえないふりをして過ごした。何かが変わった夜だった。


 両親が離婚したのは一年くらい前。もう一年も経ったのかという思いと、まだ一年しか経っていないのかという思いが合わさって何だかよく分からない気持ち。父が変になった八歳の時と、離婚が決まった九歳の時との間に、何か私にとって大きなことが起こったのは母から聞いて知っているけれど、実はもう覚えていない。というより、一年間の記憶がすっぽりと頭から抜け落ちていて、家のことも学校のことも全然思い出せないのだ。

 母は私を病院に行かせようとしたけれど、お金がとんでもなくかかるので結局何も解決できなかった。私はもういいと言ったけれど、母はあんなに愛していた父のことを憎むようになっていて、父のことについては一切触れてはいけないという決まりがいつの間にか私たちの間にできていた。

 不思議と、お兄ちゃんとの思い出は鮮明に覚えている。何かで―きっと父とのことで―私が泣きついた時、お兄ちゃんは嫌な顔一つせずに頭を撫でてくれた。私を慰めてくれた。絶対に私を拒否したりしなかった。母と一緒に三人で家を出て行った時も、お兄ちゃんと私は手を繋いでいた。お兄ちゃんの手はブルブルと震えて、ギュッと私の手を痛いほど握りしめていた。怒りから震えているのか、悲しみから震えているのか、あの時の私にはわからなかった。

 今ならほんの少しだけわかる気がする。たぶんお兄ちゃんは、私なんかよりもずっとずっと苦しんでいたのだろう。何一つできなかった苦しみ。ただ見ているだけだった苦しみ。自分が何もできない人間だと気づいた瞬間が一番つらいんだ。

 母は仕事をがんばり過ぎるほどがんばって、今までの暮らしとは全然違ってしまった。マンションからアパートになり、売れる洋服はどんどん売って、あの入学式の服も売られてしまった。お小遣いもいつの間にかなくなった。ご飯も数えきれなかったお皿の数が三品に減った。お兄ちゃんが忙しい母の代わりに料理と買い出しをしているので、私はせめて部屋の掃除を担当した。そうして三人だけの生活に何とか慣れた。


 学校の授業がようやく全部終わって、クラスの人たちは好きにばらけた。放課後話に花を咲かせる人たち。学校帰りに寄り道する人たち。私はそのどちらでもないので、やけに目立つランドセルを持ってきて明日の宿題をやるノートと教科書を入れた。私は家と学校の間を往復する毎日で、それに耐えられなくなった日は一人、電車に乗ってお兄ちゃんのいる高校へと足を運ぶのだった。校門の前で待っていると、お兄ちゃんは必ず来てくれるから。

 今日も行こうか、もう帰りの時間だけど、お兄ちゃんなら私を見つけてくれる。そう思った時、クラスの女子たちがざわつき始めた。


「ねえ、あの男の人誰? すごくかっこいい!」

「制服着ているから、中学か高校かな?」

「高校生だよ! 大人っぽいもん!」


 私は思わず窓にへばりついた。下を見ると、校門のところで背の高い黒髪の男の人が立っていた。

 お兄ちゃんだ。

 いつもは私が校門で待つ側なのに、なぜか今日お兄ちゃんは、そこにいる。

 私は周りの目も構わずに、一気に一階まで下りた。下駄箱で履き古したスニーカーに履き替え、校門まで走った。

 駆け寄ると、お兄ちゃんはふっと悲しげに笑って「玲美」と私の名を呼んだ。


「どうしたの? 学校じゃないの?」

「今日は文化祭の後片付けだから、俺は関係ない。あ、本当は関係あるんだけどな。ちょっと馬鹿なことやっちゃって」

「じゃあ、一緒に帰れる?」

「ああ、そのために来たんだ」


 心が一気に軽くなり、私は手を差し出した。お兄ちゃんは大きな手で私の掌を包み込み、ゆっくりと歩き出した。ああ、また目立ってしまったな、でもいいや、と私は何だか晴れ晴れとした気持ちになった。今日の憂鬱はどこかへ吹き飛んでしまった。

 お兄ちゃんは、私に歩幅を合わせながら、語りかけるようにつぶやいた。


「また、人殴っちゃった」

「……殴っちゃったの?」

「うん。俺もあの男と同じだ。誰かを傷つけることしか知らない」

「……そうなの?」

「そうだよ。俺は弱い人間だ。本当はがんばれば奨学金でも何でももらって、一生懸命に勉強すれば母さんの負担も減らせるのに」

「……しょうがくきん?」

「でも、何でこんなにムカつくやつらばかりいるんだろうな。何で世界はこんなに理不尽なんだろう」


 私はお兄ちゃんの淡々とした口調に、じっとうなずいていた。世界が不平等だということは、とっくに知っていたはずで、今さら嘆く必要もないのに、私はなぜだか叫びたくなった。

 学校に居場所なんかない。周りの人たちは、私のみすぼらしい格好と嫌味なほどお洒落なランドセルとのミスマッチ感を笑う。一体、あなたたちはどうしたいの? 私がここにいることを、この教室に居続けることを、どうやったら許してくれるの?

 でもきっと、私の問いかけに応えてくれる子など、いないのだろう。わかっている。もうずっと前から。

 母は「世の中にはどうしようもないこともあるのよ」と笑いながら泣いていた。いや、泣きながら笑っていたのか。どちらにしても、もう確かめられないことは知っている。

 お兄ちゃんと肩を並べて歩く十月の終わりの空は、あまりにも透き通った空気と絵の具のような真っ青な空で、まるでもう笑ってしまうようなあっけらかんとした世界だった。


「空、綺麗だな。もう秋だな」

 お兄ちゃんがそう言うと同時に、涼しい風が吹いた。


「最近、よく晴れるな」

「うん」

「空なんてあんまり見ないけど、青空はやっぱ気持ちいいな」

「うん」

「全部忘れられたらいいのに」

「そうだね」


 私とお兄ちゃんは手を繋ぎながら、家へと帰るために、笑って帰るために、周りの視線も無視して寄り添い合って歩いた。せめてすっきりとした青空みたいになれたらという願いを込めて。


 喜劇じみた青空は、あの時のお母さんの泣き笑いに似ている。

                                   了

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また君の夢を見る 泉花凜 IZUMI KARIN @hana-hana5

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