第6話 ぶりっ子アイドルの奮闘記
ここ最近、いつも決まった夢を見る。
彼の夢。
柊君の夢。
皆には内緒にしているけれど、私と柊君は、実はけっこう仲がいい。というより、なぜか柊君のほうが何かと私に接してくるからそれに応えているだけなんだけれど。
柊君は、しょっちゅう授業崩壊を起こすし、気の弱そうな男子にはカツアゲしたりパシリさせたりするし、女はころころ変わるし、そりゃもうどうしようもないけれど、柊君の笑顔は好きだ。一度だけ、見たことがある。妹の玲美(れみ)ちゃん。確か五月の連休に入る直前だった頃。校門の前で見慣れない今時のカラフルなランドセルを背負った小さな女の子が、突っ立っていた。授業中だった私は窓際の席で、あの子誰かな、迷子かな、としばらく考えていた。その時、同じく授業中であるはずの柊君が、鞄を引っ提げてその子に向かって駆けていった。女の子は柊君を見るとぱっと花が咲いたように笑い、柊君も笑った。女の子の手を引いた時に笑顔が見えた。あの時の無垢な笑み。ああ、こんな可愛くて美しい彼を見たことがない。今、私だけが知っているんだ、と胸がきゅっと締め付けられる思いがした。柊君の顔立ちは恐ろしいほど整っていて、普段の眼光の鋭さが消えると少年のようなあどけない面影になるから不思議だ。ちなみに同じ美形でもヨッシーとは真逆のタイプ。
柊君はそのまま女の子と一緒に、五月の初夏の日差しに照らされながら、笑顔で学校を去っていった。まるで映画のロードショーのように光り輝いていた。
後日、私は柊君から、一緒に帰った女の子は妹の玲美ちゃんだと聞かされ、「かわいい名前だね」としか返せなかった。
それくらい、兄妹は二人だけの世界に浸っていた。私なんかが入っちゃいけないくらいに。
ビューラーで睫毛をカールさせ、眉毛を丁寧に描き足し、唇にリップグロスを塗る。そしてできあがった顔を化粧台の鏡に映す。
うん。今日も私はかわいい。
成人しないうちにあまりメイクをやり過ぎると、荒れた肌になってしまうと雑誌やテレビでしつこく言っていたので、最低限に自分の顔を飾る。香水などもつけない。十代の肌はみずみずしい香りがすると雑誌に載っていたからだ。自分で言うのもなんだが、私はすっぴんでもかわいいからほんのちょっとのメイクだけでかなりかわいくなる。
お姉ちゃんは、まだ起きてこない。私と違ってお姉ちゃんはメイクに一切興味がない。興味があるとすれば本や音楽くらいだ。それでも何もしないであれだけ美しいのだから、私のお姉ちゃんは本当にすごいと思う。
お姉ちゃんと私は二卵生の双子で、二月十四日の早生まれ。バレンタインデーの日に誕生した。何だかロマンチックだと思うのは私だけだろうか。
あの日の朝、柊君の夢を見てしまったので仁川君にメールをして相談したのだけれど、返事は私の期待外れだった。何となく返信する気もなくして、そのまま放っておいてしまった。お姉ちゃんの助けを借りて柊君のもとには行けたけど、その時にはもう何もかもが遅かった。
柊君は、血祭りに挙げられてしまった。
朝ご飯も食べ終わりメイクも終わって、あとはお姉ちゃんを待つだけだ。お姉ちゃんは朝ご飯を食べない。食べると胃が痛くなるそうで、もうずいぶん前から食べていない。だから朝の支度は十五分くらいで済んでしまう。
お姉ちゃんの部屋と私の部屋は隣同士で、十畳ずつある。自慢じゃないけど、私たちの家は大きくて立派だ。自動で開く門扉があり、お手伝いさんの手入れした庭の芝生と花々が咲いていて、コテージが南側と東側に一つずつある。
部屋のドアが音もなく開き、やっとお姉ちゃんが欠伸をしながら出てきた。無言のまま洗面台で顔を洗ったあと、私と交代して化粧台の前に座り、ドライヤーをコンセントに差して長い黒髪をブローする。もともと綺麗にウェーブしている黒髪はドライヤーの熱でさらに綺麗にまとまり、髪が長いにも関わらず五分程度でブローは終わってしまった。
お姉ちゃんは髪がまとまると再び部屋に引っ込み、見えないけど多分すごいスピードで着替えを済ませ、制服姿になってもう一度私の前に現れた。
「おはよう、琉璃」
そこでようやくお姉ちゃんは朝の挨拶をした。化粧台に入れ違いに座った時に挨拶をしたほうがいいんじゃないかと普通は突っ込むべきだけど、お姉ちゃんは低血圧で朝が弱いので仕方がない。私はいつも皆に送る笑顔で元気よく挨拶を返した。
「おはよう、お姉ちゃん!」
するとお姉ちゃんはふっと笑った。
「相変わらず元気だねえ、あんたは」
二人肩を並べて二階から一階へと下り、見送りのために玄関にいた専業主婦のママに「あ、流海、またご飯食べてないでしょ!」と怒られ、お姉ちゃんはばつが悪そうに肩をすくめながら「だって食欲ないんだもん」とつぶやいた。いつも堂々としているお姉ちゃんがビビっているのはママだけだし、それにこんな貴重なお姉ちゃんを見られるのも妹である私だけなので、何だか特別な気持ちが生まれる。
「もう! ちゃんと食べないと身体に悪いわよ!?」
ママはプリプリと怒っている。お姉ちゃんは答える気力が失せたのか、黙ってスニーカーに足を通している。私もローファーに足を通しながら、ママに笑顔で、「行ってきます!」と手を振った。ママは私を見ると機嫌を直して「行ってらっしゃい」と優しく送り出した。
外に出ると、分厚い雲から鈍い朝の日差しが光っていた。「今日、晴れるかなあ」とお姉ちゃんのほうを見ると「さあ」とそっけない返事だけがした。
「いつも思うけど」
ふいにお姉ちゃんが口を開いた。何か注意されるのかな、と私は少しだけ構えた。
「何でこの学校、ピンクのリボンなんだろう。私とか全然似合わないっつーの」
「えー、かわいいじゃん、ピンク」
「そりゃあ、あんたはかわいい顔立ちしてるんだから……」
「私きつい顔だし」とお姉ちゃんはふてくされたように顔をしかめた。お姉ちゃんでも見かけのこと気にするんだな、と私は意外に思った。こんなに一緒にいても、まだまだ互いのことはよくわからない。
学校に着いて、二年生の下駄箱へ行って上履きに履き替える。その時、私は同じクラスの柊君が、今日はもういないのだと思い当たってしまう。ほかの皆は柊君がいなくなってせいせいした気持ちかもしれないけど、私はどうしようもなく悲しくて寂しい。柊君に惹かれているんだ、あの時の笑顔を見てから、と頭のどこかで判断した。
二組の教室に入ると、最終日の準備にいそしんでいるクラスメイトたちが振り返って、私たち双子に明るく声をかける。
「おはよー、美人姉妹!」何名かのクラスメイトがいつものように軽く私たちを茶化す。私はそれに乗っかって「美人姉妹の登場です!」とお姉ちゃんの腕に手を絡ませてポーズを取る。皆はそれを見てゲラゲラ笑う。
「まったく、自分でそれ言って怒られないのって、琉璃だけだよね~」
黒髪ミディアムヘアをゆるく巻いた女子、筑紫沙良(つくし さら)ちゃんが、私に近づいて頭をポンポンとたたく。沙良ちゃんは二年ダンス部の衣装係で、ステージに立つメインメンバーの衣装を手芸部と協力して作っている裏方の一人だ。
「沙良ちゃん、おはよ~」
「おはよう、沙良」
お姉ちゃんもクールに挨拶して、タバコ型のシガレットチョコを口にはさんだ。
「流海もおはよう! 琉璃、今日もカチューシャ違うね!」
沙良ちゃんは、お姉ちゃんも気づいてくれない私の小さな変化に気づいてくれる。私は、今日は黒い小さなリボンがサイドに片方だけくっついている赤いカチューシャを指差して言った。
「やっぱり沙良ちゃんなら気づいてくれると思った~!」
「まあね~。お姉ちゃんの流海は気づかなかったの?」
沙良ちゃんは少し意外そうな顔をしてお姉ちゃんのほうを見る。
「あ、本当だ……。よく見たら違う……」
お姉ちゃんはそこでやっと私のカチューシャが昨日と違うと発見してくれた。
「よく双子って、相手の考えていることがわかるって言うけど、二人は違うの?」
沙良ちゃんが無邪気に訊いてくる。
必ず訊かれる質問だ。お姉ちゃんは大抵それを聞くと嫌な顔をするので、私があわてて説明する。
「うん。私とお姉ちゃん、二卵性だもん。テレパシーみたいに通じ合っているっていうのもないよ。一卵性の人たちはどうか知らないけど、私たちは違うんだよね」
私はそこまで言うと、けっこうな頻度で少し切なくなる。お姉ちゃんと私は約十か月間一緒にお母さんのお腹の中にいて、一緒に生まれてきたのに、私はお姉ちゃんの考えていることがわからない。小さい時から仲良しで、喧嘩もたまにしかしないのに、通じ合えない。わずかな絶望感がいつも私を襲う。お姉ちゃんは私のそんな気持ちを知らないかもしれないけれど。
沙良ちゃんは昨日の騒動などまるで何もなかったかのように振る舞っていた。二年五組が総じて罰を喰らって、二つ部屋をまたいだ教室はがらんどうで、軽音部の二年の首謀者が自宅謹慎になって今日の合同ライブがどうなるのかわかっていない今の段階でも、沙良ちゃんは弱音を吐かなかった。触れてはいけない事実のように、私たち二組はひたすら沈黙を貫いて、いつも通りお店をオープンする支度に入っていた。
私たちのクラスは定食屋さんをやっている。メニューはハヤシライスで、今流行りのクマのキャラクターの形にチキンライスを盛り付けて、ハヤシをかけ、最後に目と口と頬っぺたをトッピングして出来上がりだ。受付をする人とオーダーを取る人、中で作る人はすべて決まっているので、あとはなるべく宣伝するのみだ。
生徒会のミーティングの時間はお姉ちゃんが気にしてくれているので、私はクラスの人たちと一緒にテーブルクロスを直したりしていた。お姉ちゃんが「琉璃、そろそろ」と言ったので返事をして、沙良ちゃんに見送られながら私たちは四階にある生徒会へ向かった。
柊君に立ち向かった仁川君をメンバーだけでお祝いしたあと、会議が始まった。合同ライブは、当初の予定より少し遅れて開催するという先生たちからの案だった。一番の目玉なのでやっぱり完全に中止というわけにはいかなかったみたいだ。午後の一時からダンス部、軽音部それぞれの部長が謝罪の挨拶をして、セットリストを少し変更することになり、長めのミーティングは終わった。今日はほかの先生たちや部長たちも参加して、その場にピンとした緊張が張りつめていた。会長とヨッシーと仲が良い部長たちは深刻な顔をしていた。
先生たちが帰って生徒たちだけになると、「こんなことになって申し訳ない」と部長たちは頭を下げた。会長は「顔を上げなさい」とだけ言い、ヨッシーは黙って彼らの肩をポンと叩いた。
ヨッシーを好きな人は大勢いたけれど、告白という大イベントを起こす人はそういなかった。それは、ただ自分たちだけで美しい人を鑑賞して愛でる行為が気持ちいいから、このままの絶妙な距離感を保っていたいのだろう。それを壊して一歩踏み出たあの一年生の女の子に、皆は冷たく当たった。身分をわきまえろ、というような無言の威圧を私も感じた。あの女の子、ノンちゃんの友達だって聞いたけど、ノンちゃんは今どんな気持ちだろうか。そう思ってノンちゃんを見ると、一昨日の時よりだいぶ顔色が良くなっていたのでひとまずほっとした。
元気を取り戻した仁川君にススッと寄って、「昨日はごめんね。勝手に怒っちゃって」と詫びを言うと、「ああ、それはいいよ。でも何で琉璃、柊たちが事件起こすってわかってたの?」と言われたので、ぎくりとしてしまった。気づけば会長とヨッシーがこちらに目を向けていて、さらには部長たちも注目していて、どう返せばいいのかあたふたしていると、お姉ちゃんがフォローした。
「二組の間で噂になってたの。私たち、柊と同じクラスだから。あいつの目つき見ていたらわかるわよ。絶対に何か企んでいる目だったから、早めに対応したってわけ」
お姉ちゃんはシガレットチョコをくわえながら、カリッと一口かじった。タバコを吸うみたいな手つきでチョコを指に挟んで、「だから、あの時ちょっとパニックだったのよ。会長たちに真っ先に報告しなかったのは悪かったわ。気が動転しててね」とクールに言い放った。
ああ、やっぱり、お姉ちゃんはすごい。
本当は、私たちはとても冷静だった。
「これからはこまめに連絡を取り合いましょう」
会長がそうまとめると、皆も納得して解散となった。放送案内でライブが中止せずに行われるのを告げるため、先輩たちは放送室まで行った。中庭が閉鎖されたので、午前のリハーサルは大講堂と小講堂だ。部長たちは二手に分かれて謝罪の挨拶をする予定になった。私は放送室へと急ぐ会長の後ろ姿を見つめた。会長は、多分感づいている。私たちが何を隠しているのかを。
私は申し訳なくなって、でも何も伝えることはできなくて、またお姉ちゃんの顔を見た。琉璃、黙っていなさい。ずっと。表情がそう訴えていたので、どうすることもできなくてしゅんとした。仁川君がきょとんとしながら「リハーサル行くぞ、二人とも」と呼びかけていて、先を歩いていた。
いつの日か、沙良ちゃんが言った。
「琉璃、大変だね。柊に目つけられちゃってさ」
その時私は、晴れやかな顔で小さな妹と一緒に学校から去っていく柊君を見たばかりだった。私は沙良ちゃんの放った言葉の意味をはかりかねていた。柊君にドキドキしている心を悟られないようにしようと、曖昧な相槌だけを打った。
ある日の休み時間、柊君は私の席に近寄って「よっ!」と何気なしに声をかけた。
「もう~、柊君、暴れすぎ~。あの先生ちょっとかわいそうだったよ」
「アハハ、だってあいつ小心者なくせに態度はでかくてムカつくんだもん」
柊君はたった今授業崩壊を起こしたばかりで、ヘラっとした笑みを浮かべた。遠くでお姉ちゃんと沙良ちゃんたちがこちらを見つめているのがわかる。
「このあとはどうするの? 女の先生だけど」
「あ、授業受けるつもりよん」
「え~、何それ~。男女差別だ~」
「いいの、いいの。俺、かわいい女には手出さない主義だから」
柊君はまるで小さな子どもに笑いかけるように言った。まるであの時の笑顔みたいで、でも何かが違う気がして、少しドキッとした。あわてて平常心を保つ。
私はその時、柊君に笑いかけられた時、ずっと胸に抱いていた疑問を口にした。
「何で、かっこ悪い男には冷たくて、かわいい女には優しいの?」
すると、柊君はまったく笑っていない目で、こちらが凍りつくような一言を言い放った。
「あ~、俺の母親と妹ね、DV受けてんの」
「…………へ?」
私は思わず固まってしまった。近くの席にいたクラスメイトたちもぎょっとして柊君と私の話に耳をそば立てたのがわかった。
「あ、間違えた。もう過去形だ。DV受けてたの。俺の母親と、あと妹。玲美って名前なんだけど」
「…………玲美、ちゃん?」
「そうそう。俺が中三の頃からずっと」
「……そ、そうなんだ? 玲美って、かわいい名前だね」
「サンキュー」
俄かには信じられない話だった。本当に柊君の家庭がそんな状態だったのなら、彼はどんな教育を受けていたのだろう。
「ちょっといろいろあってさ。最近になって、やっと母親と玲美と暮らせるようになった」
「…………ふぅん」
「もうあの男のことは考えなくていい。俺たちは自由だ」
「……そう」
私はそうとしか答えられなかった。今ここで「嘘だぁ~」とか何とか茶化したら、柊君はこの先一生、私のところに話しかけにくることはないだろうと思った。柊君の言葉が本当かどうかはわからない。嘘かもしれない。でも嘘でも何でも、彼が今、私に自分の重大な『何か』を伝えようとしていることは確かだ。
私は柊君の話が終わるまで聞いていようと思った。柊君はそのあともぽつぽつと「母親が遅くまで働いてて、大変なんだ」とか「自分で言うのもなんだけど、俺と玲美は母親似で、超美しいからさ。誰かの人生狂わせちゃうんだよね」というようなことを漏らしたあと「じゃあね」と言って自分の縄張りに戻っていった。
私は、あの時彼が微笑みながら手を引いていた相手は、妹の玲美ちゃんという子なのだと知った。
初日の合同ライブを控えたあの日、私たちはもう上手い具合に転がされていたのかもしれない。
生徒会室に入ろうとする私たち二人に、どこからか明るくて飄々とした声がした。このフワフワした声は、あのフワフワの髪をした鈴木蘭堂先輩だなとすぐにわかった。
お姉ちゃんと同時に振り向くと「お、さすが双子姉妹。反応が一緒だね」と楽しそうに蘭堂先輩が笑っていた。隣にはクールビューティーな諸星木実ちゃんがいる。
「おはようございます。先輩、諸星さん」と私たちは挨拶した。蘭堂先輩はニコニコ顔で「いきなりだけど、いい?」と思わせぶりな台詞を口にした。
「何ですか?」
何だろう、と私が構えていると、お姉ちゃんが代わりに尋ねてくれた。蘭堂先輩は邪気のない笑顔であっけらかんと言った。
「琉璃ちゃん、柊雪斗と仲いいんだよね? あいつ、何か事件起こすよ、今日」
「……え?」
「止めに行ったほうがいいんじゃない?」
「……な、何でそんなことがわかるんですか?」
「あいつ、煙草持ってた」
私の心臓は悪い予感の痛みに満ち始めた。ドクンドクンと激しく波打つ裏で、頭の中は氷のような冷たい温度だった。
「あくまで予感だけどね。とりあえず伝えられることは伝えたから」
蘭堂先輩は軽い調子でそう告げると、諸星さんを連れて先に生徒会室に入っていった。私は棒立ちになり、いつもの癖でお姉ちゃんの顔を見た。昔から、心配ごとがあると必ずお姉ちゃんの顔を見て、お姉ちゃんが何と言ってくれるのかを待っていた。
「……琉璃、やめときなさい。あんたが傷つくだけよ」
その言葉には、ぐっと泣きたくなるような温かさがあった。それでもお姉ちゃんが言った台詞は、私の望んでいたものではなかった。私は自分なりに解決策を練って「柊君を止めたいから、同じ学年の仁川君に協力してもらう。実はもうメールしておいたの」と伝えた。お姉ちゃんの瞳はぐっと悲しげな色になった。私とはまったく違う、キリリと綺麗な切れ長の目で私を見据えた。私なんかよりもずっと綺麗だな、この人は、とわずかな敗北感だけが残った。生まれた時から、お姉ちゃんに適うことなんかないってわかっていたけど。
「柊なんかに構ってやる必要なんてないのよ」
お姉ちゃんは言った。私たちの間に溝が生まれた。お姉ちゃんは、あの日の柊君を知らないんだ。私は知っているのに。理解してほしい人に理解されなかった悲しみが突如襲ってきた。
「お姉ちゃんは、ずるいよ」
ふいに出てきた言葉は、もう止められなかった。
「いつも完璧でさ。男子にも女子にも一目置かれていてさ。優しいしさ。何でこんなに違うんだろう」
「ちょっと、何言ってんの。私とあんた、そんなに違わないでしょ」
「全然違うよ」
私は卑屈になっていく自分の気持ちを止められなかった。この人は優しいがゆえに、突き放している。
「私はお姉ちゃんみたいにはなれない。知っているでしょ?」
「琉璃、今さらどうしたの。柊に何か言われたの?」
「違うもん!」
私は声を荒げた。誰も私が何を考えているか知らなかった。私は今、大きく揺らいでいた。頭の中には柊君の笑顔の残像だけがあった。
「……お姉ちゃんなんか、嫌いだもん」
そんな台詞が自分の口から出たことに自分でも驚いたけれど、それよりもお姉ちゃんのほうが驚いていた。あ、いけないこと言っちゃった、と思った時にはお姉ちゃんは傷ついたような悲しい顔をしていた。
「ごめん」とあわてて付け足したけれど、お姉ちゃんは何も返さずに私に背を向けてしまった。拒絶された瞬間だった。
「琉璃、何ぼーっとしてんの?」
仁川君が私の肩をつついた。はっとしてあの時のことを記憶から抹消しようと、私は「アハハ」と笑った。
小講堂では、ヨッシーがダンス部の全体数を把握して部長とメインメンバーの人数分けをしているところだった。「ムードメーカーなお前らしくないじゃん」と仁川君が言うので「ムードメーカーでトラブルメーカーなのはそっちでしょー」と一言余計に付け足すと、背中に大きな気配を感じた。振り返ると、彼だった。
「セットリスト除外曲、決定したよ」
蘭堂先輩は資料を片手ににっこりとしていた。
「おー、どれどれ?」と仁川君は先輩から資料を受け取り、「え、これも外しちゃうの!? めっちゃ好きなのになー」とつぶやいた。蘭堂先輩が「でもこれは入っているからいいじゃん」と合わせていて、私はどうしても我慢できなくて先輩を講堂内の一番奥の座席に引っ張った。「ここから全体像見るね」と仁川君に言い置いて、私たちは誰にも聞こえない音量でしゃべった。
「柊君、今どこにいるか知っています?」
「えー、知らないよ」
先輩はおどけたように白を切る。私は負けずに言い返す。
「嘘。あなたは知っているはずですよ。あの日の朝、私に話しかけたことも、全部思惑通りなんでしょう?」
「琉璃ちゃん、何か変だね。俺がそうさせちゃったのかな」
「煙草、本当はあなたが柊君に渡したんじゃないんですか?」
蘭堂先輩は一瞬だけ黙り、それから声を上げて笑い始めた。
「何で俺がそんな地雷踏むようなことしなくちゃけないのさ。たまたま見かけたんだって。それで柊に『それ煙草?』って話しかけたら、あっさり認めてさ。あいつの考えていることはわからないねー」
「あなたの考えていることもさっぱりわかりません」
蘭堂先輩はまたおかしそうに吹き出し、「琉璃ちゃんはおもしろいなー」と能天気な声を出した。前のほうでステージの音出しが始まった。
「俺さあ、言っちゃったんだよね」
「……誰に?」
バクバクする心臓を悟られないように、私は努めて冷静に尋ねた。すると先輩は横目で私を見ると、けろりとした顔で「三田に」とこぼした。一気に血の気がなくなっていくのを感じた。
「まさか……。あなた……」
「ああ、待って、待って。俺と三田、知り合いじゃないから。三田は人気者だから一方的に知っていただけで、面識はなかったんだ。本当だよ? で、柊が二年の間で悪魔扱いされていたから、誰かに報告したほうがいいかなーって考えて……」
「それなら、始めから先生に言えばよかったじゃないですか!」
「琉璃ちゃん、声大きいよ」
あわててボリュームを落として、先輩の顔をにらむ。先輩は含んだ笑みを漏らす。
「俺も本当はそうする気だったんだよ? 二、三日考えて、覚悟が決まった時、三田がいきなり話しかけてきてさ。『あなたと柊を目撃しました。何をしていたんですか?』って意味深な台詞言ってきて。思わず話しちゃったんだ。煙草のこと。俺が共犯扱いされたらたまらないもん」
「……場所と、時間を教えてください」
慎重に攻め込む私に、蘭堂先輩は「取り調べみたいだな」と苦笑した。
「文化祭の一週間前、かな。ちょうど皆が忙しかった時期。だから俺たちが変な組み合わせで話していても気にする人いなくて。図書室で調べ物していたら三田が来て……という感じです」
先輩は昨日のことを思い出すようにゆっくりと話すと、またニコッとした。「先生に報告してきますって言ったきりだったよ。三田のやつ」と楽しそうに目を細めた。
証拠なんかない。目撃者もあやふやすぎて正確な情報はないだろう。私はこの人を疑うことをやめられなかった。
「……先輩は、柊君と、三田と、どっちを取ったんですか? あるいは両方ともただの自分の手駒だったんですか?」
「あのね、琉璃ちゃん。手駒と言うのは、自分の部下という意味を持つんだよ」
「だから、二人とも本当は繋がりがあったのでしょう?」
私たちは黙った。どっちも一歩も譲らない主張で、このまま話してもらちが明かなかった。私は一旦下がって、「……時間を取らせました」と立ち、緩やかな段差を降りて下に戻った。後ろのほうで蘭堂先輩がどんな表情を浮かべているか、考えたくなかった。
柊君が同じ学年の皆に火あぶりの刑みたいに晒されていた時、私は会長に着信だけしてサインを送ると乾先生に事件が起こったことを告げた。先生たちはすぐに駆けつけてくれて、興奮状態の観客たちを鎮めようと中庭に何人か飛び込んだ。私は南校舎のシャワー室の鍵を開けてもらい、事務室からタオルと替えのシャツを取り出すと柊君が来るのを待った。本当は予感があった。蘭堂先輩に話しかけられた時から。だから実際に異変が起こっても私はそんなに混乱しなかった。ただ絶望だけがあった。
会長たちと落ち合い、騒ぎが静まったのを知ると、突然、お姉ちゃんに会いたくなった。職員室に行くと、お姉ちゃんがすでにいて学年主任の先生に事件の詳細を報告していた。
お姉ちゃんの顔を見る。何かあった時に、必ずそうする癖がついていた。お姉ちゃんは私の耳に口を近づけて一言、「お帰り」とだけつぶやいた。
お姉ちゃん、ずっと見守ってくれていたのかな。私がお姉ちゃんなんか嫌いって言った時も、私のこと心配してくれていたのかな。私は情けないのとありがたいのとが一緒になってぐちゃぐちゃな感情で泣き崩れた。大人たちの前で泣いてしまった私を先生たちは慰めてくれたけど、それは見当違いの優しさだった。柊君、どうしたのかな。そういえば今日はいつもより顔色が悪かった気がする。家族はどうしているのかな。ずっと一人ぼっちだったのかな。
柊君の瞳は、これ以上ないほど暗黒に染まっていて、一切の光も届かない深い色だった。皆には、見えないのだろうか。皆には、わからないのだろうか。彼の瞳の暗さが。憎しみが。怒りが。
蘭堂先輩のことが怖かった。もし先輩の正体をばらしたら、何かされるんじゃないかという妄想が止まらなくて、それは確信となり、私とお姉ちゃんは沈黙を貫いた。
「流海、琉璃」
帰り道、皆と陸橋で別れて西町を歩く私たちに、会長が一言告げた。
「明日、学校に来るように」
「……え、あ、はい」
私が呆けたように返すと、会長はじっと私たちを見つめて、やがて住宅街を奥へと進んでいった。姿が見えなくなると、お姉ちゃんはプッと吹き出した。
「会長、あれで私たちを励ましているつもりなのよ」
お姉ちゃんが私を見て笑った。今日、初めてお姉ちゃんの笑顔を見た気がした。私がずっと迷っていることに、お姉ちゃんは何一つ怒らなかった。私の一番の理解者は、お姉ちゃんだった。
「会長って、実は私たちのことよく見てるよね。あの見た目で」
私はようやく元気を取り戻して、笑った。お姉ちゃんもほっとした顔になり、「やっぱり頭がいいんだろうね」と相槌を打った。私たちはしばらく家に入らずに、門扉の前で笑い合った。
その晩、私は夢を見た。
暗い、暗い、空の下。
夜だった。
空は晴れているようなのに、星や月はまったく見えなくて、私は少し怖くなった。
目の前に、柊君が立っていた。
今まで見たこともない、深い悲しみの海に漂っているような瞳を私に向けていた。
「柊君……?」
柊君は、口を開いた。
「俺の母親と妹、DV受けてたの」
ああ。
やっぱりあの話は本当だったんだ。
「そうだったの……」
私はこの言葉しか言えなくて、ただ目の前の彼をじっと見つめていた。
柊君が悲しそうに、ふっと笑った。
「琉璃にしか、言えなかった」
「……仲間とは、もう縁切るの?」
「ああ。琉璃しかわかってくれなかったから」
柊君は儚げな笑みを残して、こちらに背を向け、暗闇のほうへと去っていった。
「あ! 待って、柊君!!」
そっちに行っちゃ駄目!
戻れなくなる!
…………どこから?
私は硬直して、動けなくなってしまった。身体が鉄のように固まって、重く、沈んでいった。
沈み、沈み、沈み……。地の果てまで沈むんじゃないかと思った時、目を覚ました。
目覚まし時計が鳴る前に起きていた。私は額に浮かぶ汗を拭って、ゆっくりと起き上がった。
「……また、柊君の夢」
最近いつも見る。あの虚ろな目を見たからか。それともいまだに彼の本当の笑顔を忘れられないからか。混乱が私を襲った。
頭を振って、顔を洗いに洗面台に向かう。
するとそこに、お姉ちゃんが顔を洗っていた。
「お姉ちゃん? 早いね」
顔を拭き終わったお姉ちゃんは、深刻な表情を浮かべて私の顔を見た。
「柊雪斗の夢を見た」
お姉ちゃんのその言葉が、一瞬何を言っているのか、わからなかった。
「……え、お姉ちゃんも?」
驚いた。私たちは二卵性なのに、繋がって産まれてきてなどいないのに、同じ夢を見ている。
お姉ちゃんのほうも少し驚いたような顔をした。
「琉璃もまた見たの?」
「うん。柊君、悲しそうだった」
素直にさっき見た夢を詳しく説明した。お姉ちゃんも語ってくれた。お姉ちゃんは柊君に、あなたには味方がいて羨ましいよ、と言われたのだそうだ。
「何か……夢だけど、妙に現実味があった」
お姉ちゃんがぼそっとつぶやく。私も、うん、とうなずいた。
「あいつ、苦しんでいるのかな」
もう一度、お姉ちゃんがつぶやいた。私もまた、うん、と言った。
私は、一つだけ、心を決めた。
「あのね、お姉ちゃん」
「ん?」
心臓がドクドクと鳴る。手に汗がにじむ。それでも私は勇気を出した。
「私、柊君ともっと話がしたい。柊君のこと、ちゃんと知りたい。あの人、不良の権化みたいな扱いをされているけど、ただのかっこつけた不良じゃないと思うの」
お姉ちゃんはしばらく私の真剣な顔を見つめていた。それから薄く笑って言った。
「いつか、そう言うんじゃないかと思った」
「……いいの?」
「いいよ。つらくなったらいつでも私のところに戻っておいで」
お姉ちゃんはいつものように、何でもないかのようにさらりと言葉を放った。何だかこそばゆい気持ちになってしまった。
ああ、やっぱり、私のお姉ちゃんは最強だ。
「ありがとう」
「ん」
私たちは朝食を食べに一階へ降りた。
食卓にはママが作ってくれたおにぎりと卵焼き、ポテトサラダが並んでいて、コップに牛乳を注ぎながら朝の挨拶をした。珍しく私と一緒に起きたお姉ちゃんを見て、ママは「流海、今日は早いじゃない」と満足そうにうなずいた。
しばらく他愛のない話をしながら、ご飯を食べた。この何でもない日常も、確かな絆も、柊君にはなかったのだろうか。そう思うと胸がキュッと締めつけられた。
朝の支度をして、ママに見送られ、私たちは皆の待つ木立高校へ向かった。
十五分の休憩が終わって、リハーサルの続きが始まった。小講堂は大講堂よりもだいぶ小さいので、メインで踊れるダンス部のメンバーは必然的に少なくなる。ダンス部の部長の三年生はグループの再編成を行って、絞り出した十名ほどのメンバーの名を読み上げていた。
会長とノンちゃんとお姉ちゃんは大講堂で軽音部の部長とリハーサルを行っている。私はヨッシーと仁川君がステージ上で立ち位置を話し合っているのを確認しながら、座席で全体の構成を計っている蘭堂先輩に近づいた。
「……柊君がいなくなって、嬉しいですか?」
「そんな露骨な人間じゃないよ」
蘭堂先輩は、さっきとは違う低い声を出した。
「あいつ、まさかあんな目に遭うとは思わなかったな」
相当恨まれていたんだね、と先輩は付け足した。
「私、やっぱりあなたのこと疑っています」
「信用ないなあ、俺も」
ちっとも悲しくないような声が返った。
「諸星さんのことは、とても好きなんですね」
「琉璃ちゃん、話の飛躍についていけないよ」
蘭堂先輩は本当に困ったように笑った。私は構わず推測を続ける。
「この先、自分が卒業して諸星さんが一人になったら、柊君は三年生になって今よりもっと絶大な脅威になる。あなたは、諸星さんがこの先も日々を楽しく過ごせるように、今のうちから柊君をつぶそうと思ったんじゃないですか?」
「そこまで彼女にどっぷり浸かっていません。大体、俺のメリットがないじゃないか。琉璃ちゃんはどうも俺を悪役にしたいみたいだね」
蘭堂先輩は一つ大きな溜め息を吐いた。私はそれでも疑いのまなざしを捨てきれなかった。この人は多分相当あくどい人なのだろうと、自分の直感を信じた。
「柊君は、また学校に来ますよ。私が辞めさせませんから」
「おー、ずいぶんと大胆に出たね」
蘭堂先輩はなぜかニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「そこまで言うんだったら、やってごらん。難しいと思うけど」
先輩の勝ち誇ったような笑顔に、私は黙って強い目を向けた。お姉ちゃんほどしなやかな目ではないけれど、精一杯力の込めた眼差しを彼に浴びせた。
「照明の感じはどうだー?」と呼びかけるヨッシーに、蘭堂先輩はいつも通りのふんわりした雰囲気に戻って、「OKでーす!」とにこやかに笑った。昼休憩に入り、午後一時が近づいて、二日目のライブの応援に駆けつけた生徒たちの行列を整理しながら、私は柊君のことを思っていた。
急きょライブの時間の編成がおこなわれたので、後夜祭の準備は乾先生たちが総力を挙げて完成させてくれた。私たちは全員でお礼を言い、最後のライブにすべてを賭けた。
「皆さん、これからも応援してください!」
マイク越しにメインメンバーが叫ぶと、生徒たちも拍手と歓声を浴びせた。もう昨日のような荒れた目つきをしている人はいなくて、外部からのお客さんがほとんどいない中、ダンス部と軽音部の合同ライブは生徒たちの力で最高潮の盛り上がりを見せた。
ブラック系のミュージックが流れると、ダンス部メンバーたちは色っぽい踊りを見せ、観客からの歓声を受けた。軽音部が声の質を変えて挑発的な歌詞を歌うと、皆はそれに合わせてコールレスポンスを送った。一部の楽曲ではメインメンバーが作詞をした曲もあって、歌詞だけが違った聴き馴染みのあるメロディーに会場の皆は聞き入っていた。
照明が暗転し、衣装係の沙良ちゃんたちが次の衣装をメインメンバーに着せて、送り出した。ポップスが流れる中、明るい衣装と弾けるような笑顔で踊るメンバーを舞台裏から見つめる沙良ちゃんたちに、私は近づいた。
「矢代先輩、泣いてた」
沙良ちゃんは私のほうを振り返らずにただ一言告げた。
「秋田先輩も泣きそうだった」
いつもは高くて艶やかな声が、霞んで弱弱しかった。
「私、あの二人のこと大好きだったんだよ。……二人だけじゃない、ほかの皆だって。柊も三田も、周りの人間なんかどうでもいいのかな。だからあんなことが……」
そこまで言いかけて、沙良ちゃんは詰まった。グッと握りしめた拳。もう片方の手で目もとを抑えながら、沙良ちゃんは泣き声を上げないように憧れの先輩の勇姿を目に焼きつけていた。
「後夜祭ライブは、絶対に成功させるんだから」
涙に震えながらもしっかりとした声で言い切った沙良ちゃんに、私は黙って横に立っていた。
時間短縮して行われたライブ最終日は、何事もなく無事に終わってそのまま後夜祭ライブへと持ち越した。
グラウンドへ移動して、先生たちがセッティングしてくれた機材や特設ステージにマイクの微調整を行っていると、いつの間にか会長が隣にいた。
「琉璃」
「わっ!? 驚かさないでくださいよ……」
私が溜め息を吐くと、会長はしっかりとした声で言った。
「柊の相手はあなたに任せました」
「……へ?」
あまりに唐突な言葉に私は戸惑って、会長の真四角眼鏡を凝視した。
「い、いきなり何ですか?」
「いや、あの柊のことですから……」
会長は一つ咳払いをして、スピーカーのボリュームを調整しているヨッシーたちをちらりと見送ってから、静かな口調で話した。
「柊は文化祭参加禁止と自宅謹慎になりましたが、あいつのことですからまた顔を見せるでしょう。その時は琉璃、あなたが対処してください。どうやらあの柊を大人しくさせられるのは、あなたしかいないようなので」
何もかも見透かしているような言葉と、けれど瞳だけは蘭堂先輩とは絶対的に違う何かに、私はひどく安心して、今までモヤモヤとしていた気持ちが晴れた。
「任せてください!」
ニコッと笑うと、会長も安心したように口の端を上げて、踵を返した。
私はお姉ちゃんと一緒に、後夜祭が始まろうとしている淡く染まった夕暮れの近い空を見上げ、どうか柊君が来てくれますようにと祈った。
後夜祭は、私たちのクラスが見事に美味賞を受賞して、クラスの皆は大はしゃぎだった。そのほかにも会長とヨッシーのクラスが演劇賞をもらったりした。
ヨッシーと仁川君の司会進行のもと、ダンス部、軽音部部長が再び結集してカリスマ的人気の二人を筆頭に皆は大盛り上がりを見せた。「皆、ラストスパートだぞおぉ!」と拳を上に突き上げる軽音部部長のボーカルに皆は雄叫びで返して、昔大ヒットしたロックバンドの曲をメインにアップテンポな音楽が流れだした。それに応えるようにダンス部も張り切った踊りを見せ、生徒たちは手拍子でリズムに乗った。『笑おう。笑おう。何があっても笑いながら……』ボーカルの力強い歌声がマイクを伝わって空の中に響いていった。今日、晴れてよかったな、とふと思った。多分あの歌詞は、二つの部活が共同で作ったものだ。何となくそんな気がした。
焚き木に火が点り、キャンプファイヤーを取り囲んでダンス部も軽音部も生徒たちと一緒にフォークダンスを踊り始めた。人気のあるメインメンバーたちは受け手側に回って、彼らと踊りたい生徒たちが瞳をキラキラさせながら夕暮れのダンスを楽しんでいた。
私は会長とお姉ちゃんに許可をもらって、柊君を探しに行っていた。会長の推測通りに柊君が学校にいればいいのだけれど、例の住処には何の姿もなかった。人気のない校舎の廊下を歩きながら、心細くなった。
「柊君……」
そっとつぶやいて、何気なく中庭のほうを見た。
心臓が止まるかと思った。
誰も入れないはずの中庭に、隅っこのベンチに、ぽつんと、彼がいたのだ。
「柊君!」
窓を開けて叫ぶと、柊君は驚いたように目を丸くした。一瞬、少年のようなあどけない顔になり、ああ、これはあの時見た校門での彼だ、と私は懐かしい気持ちになった。
急いでホールに行き、そこから中庭へと続く扉を開けて、柊君に会いに走っていった。
「……何で中庭が開いているの?」
私は思わず緊張して、ずれた質問をしてしまった。
「ああ、鍵盗むくらい簡単だよ」
柊君はいつものように意地悪く微笑んでみせた。私は笑ってしまった。「ちゃんと後で返しておいてね」「どうしようかなあ」私たちの軽いやり取りは続く。
「生徒会のほうはいいの?」
ふいに彼らしくない真面目な台詞を言われたので、私は少しおかしくなった。
「メンバーが私の分も仕切ってくれているから大丈夫。私の役割も、そんなに重要なものじゃないし」
「そっか」
柊君は、燃えるような茜色に染まった空を一度見上げて、つぶやいた。
「仲間、ボコっちゃってごめんね」
「……まあ、大した怪我はしてないから」
「琉璃は優しいな」
「そんなことないよ」
ただあなたが好きなだけ、と心の中で告白した。あのノンちゃんの友達の子みたいな勇気ある行動は、私にはとうていできなかった。
「とうとう退学かもな。まあ、今さら未練なんてないけど」
柊君は自嘲気味な笑みで少しだけ強がりを言った。私に言えるのは、ただ一つだけ。
「ねえ、私と、踊って?」
彼は一瞬きょとんとしたあと、すぐに合点がいったように言葉を乗せた。
「……ダンス? そういえば音楽が聞こえるな」
「ここからは誰にも見えないよ。音楽ちょっと聞こえづらいけど、いい?」
私は手を差し伸べた。ずっと胸に抱いていた夢を実現させるために。
「……いいよ」
柊君は手を取ってくれた。手は緊張からか意外と汗ばんでいた。
無言で、私たちは踊った。柊君はさりげなくこちらをリードしてくれた。
「俺と踊りたがる女子なんて、いないと思ってた」
柊君がボソッとつぶやいた。自信のなさそうな声が愛しくて、私は笑った。
私たちが踊ったのは、ほんの数分だけだった。手が離れる時、この瞬間がずっと続けばいいのに、時間がこのまま止まればいいのにと願った。でも時は、進むものだから。
「また、会えるよね?」
私がそう言うと、柊君はとても苦しそうな声を出した。
「ごめん、それはわからない」
「……じゃあ、私のこと、忘れないでね」
「……うん。それはできる」
柊君は初めて素直に笑った。私にはわかる。柊君は今、真摯に正直に、私と向き合ってくれているのだと。
そう気づいた時、もう自分に迷いはなかった。
「私はずっと、柊君が、好きだったよ」
そう告げることができた。泣きそうになったけれど、笑顔で去るのだと自分に言い聞かせた。
「……ありがとう」
柊君はそれだけ言うと、私に鍵を渡して、ゆっくりと中庭から姿を消した。このあと学校から帰って、母と妹の待つ家に着いて、そのあとは、柊君自身が決めることだ。
パアン……と花火の音が上がった。上を見ると、仄かに暗い空の中にフィナーレの小さな花火が打ちあがっていた。綺麗だった。花火が数回瞬いたあと、辺りはふと静かになった。
私は涙をこらえ、一人で夕暮れ時の空を見上げた。泣かないように。これは悲しい別れではないのだから。
この先、もう彼と会えなくても、私は前に進まなければいけない。私は、光の方向へ進むべき女の子だから。そして、いつか柊君を迎えに行こう。彼を闇から連れ出そう。その時のために、力を磨くのだ。ずっと、ずっと、遠い約束。
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