第5話 ウザキャラ駄目キャラの所以
東京二十三区の中でもわりとひっそりとしたこの街に、ぼくの住むボロアパートはあります。そこは駅を少し離れると都会の喧騒が嘘みたいに消えて、あとは地震が来たら五秒で崩れるんじゃないかという安っぽい団地ばかりです。その中でも特に古いこの三階建てのアパートの二階の奥の部屋が、ぼくと父ちゃんの住みかです。
学校を出る時間になって、やけに奇抜な色の玄関のドアを開け、閉めると、お隣の人も支度をして出て行くところでした。「こんにちはー」と声をかけましたが、お隣の人は怪訝そうに眉をひそめるだけで、ほんの少し会釈をした程度でした。もっともぼくのほうも、そのお隣の人の名前が思い出せないのですが。お隣の人だけじゃなく、このアパートに住む人たちの名前も頭に浮かびませんが。それともそれは大した問題ではなく、今は朝の時間帯だから「こんにちは」じゃなくて「おはようございます」のほうがよかったのでしょうか。あ、それはどうでもいいですか。こんなだから、ぼくは駄目キャラなのでしょうか。空気を読むことに失敗して、白けた視線を投げられて、また曖昧な笑顔を作る。こんなだからクラスで「ウザキャラ」と呼ばれて、浮いた存在で、ぼくを構ってくれるようなところは生徒会にしかないのでしょうか。
ぼくは、人見知りをしません。それはつまり、自分と相手との距離を正確に測れずに勝手に飛び出してしまうということらしいです。相手の都合を頭で考えられないのです。距離を飛び越えて、そのまま一気に相手の懐に入ってしまうヨッシーやノンみたいな人なら大歓迎なんでしょうけど、ぼくみたいなやつは嫌ですよね。わかってはいるんです。でもどうしても身体が条件反射的に動いてしまって、結局相手を困らせてしまいます。この癖は治らないものでしょうか。
今日、変な夢を見ました。うちの生徒会メンバーの琉璃が、柊と楽しそうにダンスをしたりしゃべったりしていました。柊といえば、あの極悪非道の不良です。悪いやつなのです。女は泣かすわ、男は殴るわ、授業崩壊は起こすわ……、そうとう悪い男です。そんな男が、なぜ琉璃とあんなにも親しげなのでしょうか。ただの夢と言われてしまえばそれまでですが、どうにもそのことが頭から抜けず、朝からモヤモヤした気持ちです。
オンボロ住宅を抜けて駅に着くまで、モヤモヤは消えませんでした。
電車に乗って吊り革に掴まりながら片手でアイフォンを手に取ると、一件のメールが来ていました。ぼくが中学生の時にLINEが流行って、今ではすっかり世間に定着しましたけど、会長が「SMSは危険なところもありますから」と皆に指示したので、ぼくたち生徒会のネットワークは主にメールと電話です。メールということは、生徒会メンバーからでしょうか。祭りの最中に何かあったのかもしれません。ぼくは少し嫌な予感を抱きながら、受信メールをタップしました。
琉璃からでした。
『おはよう。ちょっと相談があるんだけど、今日の仕事私だけ外してもらえないかな?』
その絵文字も顔文字もない文章は、普段の琉璃からは想像できないほどそっけない
ものでした。なぜぼくにだけこのメールが送られてきたのでしょうか。よくわからなくて『会長とかヨッシーには訊けないの? その二人に相談したほうが早いんじゃない?』と返信を打ったら、それきりメールは来なくなりました。ぼくはまたやらかしてしまったようです。でも、あの琉璃がこんな愛想も何もないメールを打つなんて、しかもぼくにだけ送信するなんて、きっと何かあるはずです。学校へ向かう電車がこんなにももどかしく思う日が来るとは思いませんでした。
昨夜、父ちゃんはまた自分の思った通りの作品が書けなくて、一日中パソコンの前で唸っていました。こういう時の父ちゃんは恐ろしいほど切羽詰まっていて機嫌が悪いので、ぼくはなるべく物音をたてないようにこそこそとしていました。父ちゃんの気を散らすようなことをすると家から追い出されてしまうので、2DKの部屋の中、隅っこにある自分の勉強机でひっそりと勉強していました。ぼくたちは毎日ギリギリの生活をしているので、ぼくは奨学金を受けています。そのため勉強だけは何が何でも好成績をおさめないといけないので、いつも必死です。本当はそれほど頭がよくないぼくですが、体力だけは無駄にあるのでひたすら予習、復習の繰り返しです。すると学校のテストはたいてい良い点を取れます。勉強が苦手な人には、その日のうちに習ったことを全部自分の頭で整理すると成績が上がるよ、と一度言ってあげたのですが、そしたらクラス中にぼくの「勉強自慢」が広がってしまって、ますます空気が読めない人間だと皆に思われてしまいました。ぼくはつくづく馬鹿ですね。
ぼくの父ちゃんは、純文学作家です。書いている作品はすごいとぼくは思っているのですが、なかなか世間に評価されなくて、本を出しても売り上げは芳しくありません。昔は母ちゃんがいて、父ちゃんをいつも支えてがんばって働き続け、ぼくを育てたのですが、小学校卒業を間近に離婚してしまいました。もうがんばることに疲れた、と母ちゃんは言い残し、一人家を出てからは母ちゃんとは毎月決まった額の養育費をもらうだけの関係になってしまいました。母ちゃんはもう、ぼくたちのことはどうでもよくなってしまったのでしょうか。そう思うたびに悲しい気持ちが湧き上がりますが、終わったことにいつまでも未練を持っていてはいけませんよね。ぼくには父ちゃんがいれば、大丈夫です。
電車を乗り換え、木立駅に着いて、琉璃からのメールをもやもやと考えていると、ふいに後ろから肩を叩かれました。振り返ると、明るい華やかな顔立ちがそこにありました。
「おっす、仁川ちゃん!」
「あ、三田ちゃん、おはよー!」
三田彰成(みた あきなり)君です。綺麗に手入れをした眉に、センスよく着崩した制服に、ヘアワックスで整えた落ち着きのある茶色い髪がかっこいい男の子です。ぼくの唯一の友達で、いつも馬鹿をやらかしてしまうぼくを優しくフォローしてくれる親切な人です。
二人でゲラゲラ笑いながら歩く通学路は、楽しいです。三田ちゃんはぼくのつまらない冗談にも腹を抱えて笑ってくれるので、笑わせるかいもあるってもんです。校門の脇にズンッと立っている生活指導の先生に挨拶をして、二年生の下駄箱へ向かいました。すると教室へ行こうとする流海と琉璃の後ろ姿が見えました。「あ、琉璃……」と言いかけたところで三田ちゃんが突然ガバッとぼくに抱きついてきたので、琉璃を見失ってしまいました。「もうー、三田ちゃん、何だよー」と若干怒りながらつぶやくと「愛の抱擁よ、愛の」と楽しそうな声が返ってきました。三田ちゃんはどうやらおふざけモードのようです。ぼくは、まあ、しょうがないか、とあきらめて、三田ちゃんのおふざけモードに付き合いながら二年五組の教室へ入りました。
三田ちゃんの友達が、嬉々としてハイタッチしてきました。次々と朝の挨拶をされる三田ちゃんをぼくは、いいなあ、かっこいいなあ、と見つめていました。友達はぼくに気づくと「仁川もおはようー」とぼくにもハイタッチをしてくれました。嬉しくなってついテンションが上がり、「仁川裕弌参上!」とポーズを取ると、皆は一斉に笑い転げました。よかった。今日はウケた。思わずほっとしてしまいました。
「なー、仁川、ヨッシー先輩に逢坂三姉妹のサイン頼んでくれよー。マジ欲しいんだよー」
友達の一人がぼくに肩を回しておねだりしてきます。ぼくはやんわりと断わりました。
「逢坂三姉妹は今、忙しいからなあ。それに一度サイン許したらあちこちからサインの波が来ちゃうし。ヨッシーが断っている限り俺は何も言えないよ」
すると友達の眉間に皺が寄りました。怒らせてしまった。でもこれ以上言いようがないし。戸惑っているとすぐに三田ちゃんが助け舟を出してくれました。
「仁川ちゃんはー、おバカさんだからヨッシー先輩に相手にしてもらえないんだってー」
とたんに皆はどっと笑い、「お前って勉強できるのにどんだけだよ!」と盛り上がりました。ぼくも笑い返して、今の一言は多分、三田ちゃんの愛情表現なのだと自分に言い聞かせました。
そのあとも皆はぼくをいじるのをやめようとしなくて、まあいつもの光景なので、三田ちゃんに時々助けてもらいながらおどけていました。そうしているうちに時間は過ぎていき、「あれ、仁川ちゃん、生徒会は?」と三田ちゃんの言葉で我に返りました。開始時刻ギリギリの時計を真っ青になって見つめながら、猛ダッシュで教室を出ると、「あいつほんとしょうもないなー」と仲間たちのたちの笑い声が耳に届きました。そうです。ぼくはいつも三田ちゃんに生徒会ミーティングの時間を知らされて、半ばパニックになりながら生徒会室へと急ぐのです。三田ちゃんがいなかったら、今ごろ遅刻魔です。またやっちまった、と反省しながら四階へと駆け上がるぼくを、気に留める人は誰もいませんでした。
朝ミーティング開始直前で滑り込みに成功し、会長からちょっとした注意をもらって、ぼくは汗を拭きながら双子姉妹の横に座りました。つまりは琉璃の隣に座りました。今朝、ぼくに意味深なメールを送った琉璃。琉璃は「おはよ」と簡単な挨拶だけをすると手もとの資料に集中し始めました。ぼくも持ってきたぐちゃぐちゃの資料を丁寧に広げて、会長の司会を聞いていました。
文化祭三日目ともなって、いよいよ後夜祭の話が出てきました。ダンス部と軽音部が唯一協力する文化祭ライブは、この学校一番の名物です。生徒会はライブのプロデュース的役割を担いますが、乾先生たちも手伝ってくれるので、やることはそんなに大変じゃありません。何とかなるさ、とぼくは自慢の楽観主義で思っていました。
「仁川君」ひっそりとした声が聞こえ、琉璃の声だとわかると、視線を感じ取りました。チラッと隣を見ると、琉璃の人形のように整った顔立ちがぼくを見上げていました。
「な、何?」若干たじろいで訊くと、「ノンちゃんの友達の日立響古って知ってる?」と唐突な話題が出ました。
「名前だけ知ってるけど。ノンは友達いっぱいいるし、顔までは知らない」と小声で言うと、「あの子、ヨッシーに告白したんだよ」と琉璃の爆弾発言が出ました。
「えっ!? マジで!?」
思わず大声で叫んでしまい、皆が一斉にぼくのほうを見ました。会長の話が途切れ、ヨッシーが怪訝そうな顔をし、琉璃は、おバカ! と表情で語っていました。
「仁川、ミーティングに集中しなさい」
会長の冷徹な声がズンッと腹に響きました。すみません、と身体を小さくさせていると、琉璃がまたチラチラとこちらを見ていました。
今日の琉璃は、何だか変です。琉璃とは同じ学年、同じメンバーとして今までは普通に接してきたのに、今はどことなく危なげというか、こちらを頼ってきているような感じで、ぼくは結果としてミーティングにまったく集中できませんでした。
ホワイトボードに書かれた当日の役割分担を確認して、教室に戻ろうとしたところ、琉璃に服の袖を引っ張られました。
「な、何? 今朝からおかしいよ、琉璃」
「あのね」
琉璃はぼくの耳に顔を近づけて、また驚くようなことを言いました。
「今日は仁川君と行動したいな」
「……へ?」
「私と、仁川君と、ノンちゃんで、友達の日立響古ちゃんも一緒に四人で中庭に行くの」
「……か、会長に、言った?」
「まだ。許してくれそうにないんだもん。私、会長たちと一緒になっちゃったし」
琉璃の顔を見ると、拗ねたように頬を膨らませていました。確かに今日の仕事は、会長、ヨッシー、流海と琉璃で大講堂ライブのセッティング、ぼくとノンでわりと楽な中庭でした。琉璃はそれが何やら不満なようです。
「……流海と一緒にお願いしたら、何とかしてくれるんじゃない?」
「どうせなら仁川君も一緒にお願いしてよ」
琉璃はあくまで自分の意見を譲りません。彼女は一体何をたくらんでいるのでしょう。ぼくは琉璃の上目づかいに逆らえなくて、すぐそばでノンと話していたヨッシーに声をかけました。
ヨッシーに事情を説明するうちに、なぜか日立響古ちゃんのことまで口走っちゃいました。日立さんの名前が出るとヨッシーはたちまち怖い顔になり、あ、ヤバイ、と思っているうちに「じゃあな」と言われてぼくは置いてきぼりにされてしまいました。
「もう、仁川君の馬鹿! 自分で言うからいいもん!」
とうとう琉璃にまで愛想を尽かされて、ぼくはプンスカ怒っている琉璃の後ろ姿を呆けた顔で見送りました。さりげなくぼくのそばに寄ってきた流海が、しれっとした顔で言い放ちました。
「何もあの子のわがままに付き合ってやることなんてないのよ」
「は、はあ。でも流海、何か琉璃と喧嘩した? 今日はやけに冷たいじゃん」
「……ちょっとね」
煮え切らない流海の態度にぼくは不安になりながらも、「じゃあ、行くか!」と自慢の根性で立ち直り、生徒会の腕章をつけてノンのところに向かいました。
ノンは、友達の日立響古ちゃんを傷つけられて怒りを感じているのか、いつもの溌剌とした笑顔がありませんでした。
今日は皆、ずいぶんと調子が悪いなあ。ライブなのに。
ぼくはぼんやりと、それぞれ秘密を抱えているメンバーのことを思いながら、とりあえず与えられた仕事をこなそう、とテンションを上げました。
「仁川先輩、腕章がずれていますよ」
会長たちを見送ってから中庭に移動する時、ノンがぼくの腕章を直してくれました。
「サンキュー。皆みたいに綺麗につけられないんだよなあ」
「先輩らしいですね」
ノンがふんわりと笑ってくれたので、あ、いつもの調子が戻ってきたのかな、と嬉しくなりました。日立響古ちゃんのことを訊いてもいいのかな、と考え、思い切って尋ねました。
「ノンの友達、あのヨッシーに告白したなんてすごいじゃん。親衛隊からひんしゅく買うことわかった上で、だろ? ノンは告白のこと知ってたの?」
「……いえ、まったく」
ノンの表情がとたんに曇りましたが、その目には、友達を守るぞ、と力が入っていました。そして続けました。
「……響古がヨッシー先輩を好きなのは、何となく感じていました。そういう話題になると必ずちょっと困ったような顔をしていたので……。皆と一緒にはしゃぐってこともなかったし、きっと、本気だったから、軽々しく騒げなかったんだと思います」
ぼくはウーンと唸りました。実を言うと、日立響古ちゃんに興味が沸き始めたのです。そんな勇敢な告白をするなんて、どんな女の子なのか、どういう性格をしているのか、どういう顔立ちなのか、見てみたくなってしまったのです。
「なあ、会長たちは大講堂にいるんだし、響古ちゃんも一緒に中庭に連れて行かない? 案内してくれよ、ノン!」
「えぇ? 響古なら保健室にいますけど……」
ノンはびっくりして目を白黒させました。保健室は北校舎の一階のホールを抜けた静かな場所にあります。蛍光灯が明るく、保険医の先生も優しくて、傷ついた生徒たちにとっては癒しの場所でもあり救いの場所でもあります。ノンから保健室登校をしているという話が出ましたので、きっとそこにいるはずです。
「……い、いいんですか? 会長怒りますよ?」
「ちょっとくらい寄り道しても大丈夫だろ」
「……う、うーん」
「正直、俺は日立響古ちゃんの顔を見てみたい!」
「ただの好奇心じゃないですか」とノンは苦笑いして、保健室へと急ぐぼくのあとをついていきました。「会長に怒られても知りませんよ」とノンの釘を打つ言葉が聞こえましたが、「何とかなるって」とぼくは笑い飛ばしました。
北校舎への渡り廊下を渡って、ホールの東側に抜けた廊下から見える保健室へと足を運びました。ドアをノックして、保険医の先生の声が聞こえると「失礼します」とドアを開けました。
保健室の中は、ベッドで寝ている生徒が何人か、そしてテーブルで本を読んでいる女子生徒が一人いて、保険医の先生が二人、お茶を注いでいるところでした。
女子生徒が顔を上げ、小さな声で、「のぞみ」と言ったのをぼくは聞き逃しませんでした。ノンもまた、「おはよ、響古」と少し悲しげな声で挨拶しました。
セミショートの黒髪の女の子で、バッチリとメイクはしているものの、あまりギャルっぽく見えないのはその子の佇まいが綺麗だからでしょうか。それに黒髪が艶やかで、ぼくもそろそろこの派手な髪をやめて黒髪に戻そうかな、と思ったくらい美しい黒髪でした。
「こんにちはー。ノンの生徒会メンバー、二年の仁川裕弌です!」
「……え? あ、はい」
響古ちゃんは目をパチクリさせて、ぼくの自己紹介に軽くうなずきました。
「……えっと、一年の日立響古です」
「いい名前だね!」
「……あ、はい、ありがとうございます」
「響古ちゃん、一緒にライブ見ない?」
「……あ、え?」
強引な誘いだということはわかっていたのですが、ぼくはこの方法以外に人と仲良くなる術を知りません。響古ちゃんは戸惑って、ノンの顔をチラッと見ました。
「行こうよ、響古。私がいるから大丈夫だよ」
ノンが後押ししてくれました。響古ちゃんは心が決まったのか、本を鞄に戻して席を立ちました。
「あの……じゃあ、仁川先輩、希美、よろしくお願いします」
「よし! ノリがいいね!」
ぼくは手を招いて、響古ちゃんを連れ出すことに成功しました。「行ってきます!」と保険医の先生に挨拶すると、どこか嬉しそうな「行ってらっしゃい」の声が返ってきました。
こうしてぼくたち三人は、三田ちゃんが主役となる二年生の中庭ライブへ足を運びました。
響古ちゃんを中庭の隅っこのベンチに座らせて、ぼくとノンは三田ちゃんたちとリハーサルを始めました。
三田ちゃんはさっきまでとは別人のように真剣な表情で、ぼくたちにセットリストの表を見せながら、いくつか変更点を出しました。ぼくとノンが話し合って修正案を出すと、OKを出してくれて音出しを始めました。ぼくはこんな時、ああ、仕事をしているなあと実感します。大げさかもしれませんが、本物のアーティストのライブに携われたみたいな気分になります。
十五分間の休憩に入り、ぼくとノンは響古ちゃんのもとへ駆け寄りました。中庭を見渡せる一番いいベンチに座らせたので、響古ちゃんにぼくたちの仕事ぶりを見てもらうことができました。
「私、本当にキモい女なんです」
隣に座って水分を取っていると、ふいに響古ちゃんがそう漏らしました。ノンが心配そうに彼女の横顔を見つめていました。
「どうして?」
純粋な疑問でそう尋ねると、響古ちゃんは真っ直ぐ前を向いて言いました。
「一人の先輩に恋をして、その人に一回振られてもまだ好きで、その人の進学先の高校調べて、ここに入学したんです。ストーカーですよね」
「……そこまで好きだったんだ」
響古ちゃんの告白に、ぼくはただ相槌を打っていました。ノンにもそのことは話していたのか、ノンは黙って聞いていました。先輩というのは、ヨッシーのことでしょう。
「それで、文化祭の告白大会を利用して、呼び出して……。二度目の失恋をしました。夢から覚めてくださいと言われました。相当ですよね」
「……確かに、それは重いかもね」
ぼくは素直な感想を述べました。響古ちゃんはふっと自嘲しました。
「なのに、まだ、夢から覚めていない自分がいるんです。夢を見ることをやめたら、私は空っぽになっちゃうってくらい、あの人でいっぱいだったから。……こんなになってもまだ、あの人のことを忘れられないんです。馬鹿ですよね」
「馬鹿でいいじゃん。俺は恋したことないからよくわかんないけど、それだけ強烈な気持ちを持ち続けていられるのは、自分がしっかりしているからだよ」
気づいたら言葉が口から出ていました。もしかしたらまたやっちゃったかな、と若干心配になって響古ちゃんの顔を再び見ると、響古ちゃんの目はぼくに向かって見開かれていました。「あ、いや、何でもない」とあわててさっきの台詞を取り消そうとすると、響古ちゃんが不思議そうにつぶやきました。
「……私、全然しっかりしてないですよ? いつも誰かに依存しているし、周りからは寄生虫って言われちゃうし、ダサいし、いろいろ……。情けない女ですよ」
「寄生虫って言うほうが寄生しているっつーの。大体そうやって人の悪口言うやつは、必ずほかの誰かにも悪口言われているんだから! 響古ちゃんにはノンがいるじゃん! 親友じゃん! 絶対、絶対、響古ちゃんのほうがかっこいい!」
ぼくはボルテージが上がって自分でもよくわからないことをわめいてしまいました。ノンから、「先輩、声大きいですよ」と注意されました。それでもぼくは大きな声で言ってしまいました。
「響古ちゃんのクソ度胸はノーベル賞並み! 女は度胸! もっと胸張って堂々としてていいんだよ!」
もはや何を言っているのかわからない状態ですが、それでも響古ちゃんにはいくらか伝わったらしく、響古ちゃんはそこでようやく笑いました。
「……ありがとうございます。あの、男の人にそこまで優しく言われたのって、初めてで」
響古ちゃんの顔は少し赤くなっていました。
「何て言われても、笑っていればいいのかな」と探るようにつぶやくと、「やっと気づいたか!」とノンが優しく響古ちゃんの頭をチョップして、「自分に対しての愛がもっとあってもいいんだよ、響古は」と助言をしました。ああ、やっぱりぼくよりもノンのほうが上手い言葉を言えるなあ、とほんの少し羨ましさを感じました。
休憩時間が終わり、ぼくたちは本番が始まる緊張感に満ちた中庭ステージへ戻りました。「ライブ見て! 絶対楽しいから!」と響古ちゃんに言い残して、三田ちゃんたちと円陣を組み、気合を入れると、ホールで行列を作っているお客さんを入れました。三田ちゃんは二年生のカリスマ的存在なので、ほぼクラス全員が観客として見に来ていました。一番前にクラスメイトたちが座り、何かすごいことになりそうだ、とぼくはわくわくよりもドキドキするような気持ちで中庭を見つめました。お客さんを入れ終え、ぼくたちはステージの裏へまわりました。
三田ちゃんの掛け声とともに、バンドの音がスピーカーを通して空に響きました。二年ダンス部が華麗なステップとともに登場しました。皆のボルテージは一気に上がり、中庭は熱気に包まれました。響古ちゃん、楽しんでるかな、と奥のベンチを見た時でした。
柊雪斗がいました。
ぼくとノンはそいつを見つけると、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなりました。遠目からでもやつのオーラはものすごくて、一人なのに威圧感がありました。これに対抗できるのは、あの二年三組の風紀委員である番長、雲雀秋だけじゃないでしょうか。
そして、ぼくは見つけました。
やつの手に、煙草の箱が握られているのを。
視力だけはやたらといいんです。きっと間違いありません。やつは煙草を吸っているのです。このお祭りムードを乱すつもりでしょうか。許せません。
「ちょっとあいつのところ行ってくる。ノンはそこで待ってて」
「え、危ないですよ」と止めるノンを残して、ぼくは足音をなるべく立てずにそろそろと柊のあとを追いました。柊はぼくを見ると歪んだ笑みを浮かべ、中庭へ続く扉から離れてホールを抜けました。逃がすものか、とぼくはむきになって追いかけました。
やつの足は速いようです。なかなか追いつけなくて、息を切らしながら後を追うと、そこは北校舎の裏側に続く非常口階段のそばでした。柊が不気味に微笑みながら非常口へと入りました。ぼくも続いて入ると、やつは子分たちを引き連れて待ち構えていました。
しまった。待ち伏せされていたか。ぼくは自分の頭の悪さに舌打ちしたくなりました。
「何? こそこそ人のあとをつけてさ」
柊はわざとらしく首をかしげました。子分たちがニヤニヤ笑っています。
「……お前、それ、煙草だろ」
「へえ、よくわかったね」
柊は手に持っている何の銘柄かわからない赤黒いデザインの煙草を、茶化すようにゆすってぼくをからかいました。むっとして、噛みつきます。
「煙草とかクスリとか、犯罪なんだぞ! 未成年なのに、人生棒に振る気かよ!?」
「大げさな。煙草なんて芸能人とか皆吸ってるじゃん。馬鹿じゃねーの?」
「馬鹿なのはお前だろ! 学校にバレたら停学だぞ!? 親に申し訳ないって思わないのかよ!?」
「……はあ? 親?」
柊は馬鹿にしたように一笑しました。やつには、自分を育ててくれた人に対する恩というものがないのでしょうか。一瞬、父ちゃんの顔が浮かびました。夜中まで根詰めて原稿を書き上げている父ちゃん。ぼくを養うために一生懸命、自分の小説を売り出そうとしている父ちゃん。なかなか上手く行かない時だって、決してぼくを捨てようとしなかった。柊には、そういう人はいないのでしょうか。
「汗水垂らして働いた金で学校行かせてもらって、青春送れんのも、親のおかげ……」
そう言いかけたとたん、柊の姿が消えました。あれ、と思った瞬間、腹に何か重くて固い、鉛を受けたかのような衝撃が走りました。衝撃はすぐに痛みに変わって、頭が鳴り響き、脂汗がにじみ出て、ぼくは咳き込んでその場に倒れてしまいました。
柊がぼくに回し蹴りを喰らわしたのだと知る頃には、やつの堪忍袋の緒はとっくに切れていました。
「俺、お前みたいな人間、マジで殺したい」
痛みに呻くぼくの頭上に、柊の恐ろしく低い声が降りかかってきました。
「お前の人間性、同じ学年だからよく知ってるよ? 周りの空気ぶち壊して、それにまったく気づいてなくて、自分、天然なんですみたいなオーラ出してさ。教えてやろうか? お前みたいに天然アピールしている人間は、いわゆる社会のゴミ扱いの俺よりも普通に生きてる分、さらにたちが悪いんだよ。そこにいるだけで皆が不快な気分になる。顔を見ただけでテンションが下がる。しゃべっただけで癇に障る。そのうえ本人は普通の人間みたいな態度を取ってる。あー、犯罪者よりも許しがたいわ。だからさあ、もう、いなくなれよ。消えろよ。お前のそばにいるやつらだって、きっとそう思ってるよ」
そんなことない。そう言おうとしたのに、なぜかやつの言っていることが正しいような気もして、なぜだろうと思っていると三田ちゃんの台詞が頭を過ぎりました。「仁川ちゃんはおバカだから」三田ちゃんの何気ない言葉。きっと悪意はないのだろうと信じたいけれど、柊の言っていることは正しいんじゃないかと頭のどこかが痛みます。これは警告でしょうか。だとしたら、一体何の警告でしょうか。
「お前、いらないんだよ」
その一言は、ぼくの心の一番大切な部分を、あっという間に傷つけました。
「い、いらなく、なんか、ない」
身体の痛みを我慢しながらそう吐き出すと、柊はなぜか爆笑し始めました。そして狂ったようにぼくの身体を足で蹴り始めました。身を縮めて何とか耐えていると、ノンの悲鳴がどこからか聞こえました。
「仁川先輩!」
ノンがぼくのもとに駆け寄り、背中をさすってくれました。けれどノンが来てしまったのは逆効果です。柊がまたこの子に危害を加えるはずです。早く逃げろ、と言いたかったのに、咳き込んだまま動けませんでした。
「またお前か」
柊の地の底から響くような低い声が、ぼくとノンを凍らせました。
「いくら可愛い女子でも、これ以上邪魔したら許さないよ」
柊がにっこりとノンに笑いかけました。恐ろしい言葉を浴びせて。ノンが震えているのが背中に当てている手から伝わりました。
暴行に飽きた柊が「おい、こいつらから金になりそうなもの出せ」と子分たちに命令しました。
その時、遠くのほうから轟音が聞こえました。ドラムの音でしょうか。中庭からのような気がしました。「……何だ? 中庭のライブ盛り上がり過ぎだろ」柊がうんざりしたように言うと、子分の一人がいつの間にかアイフォンを取り出していて、柊に何かを見せていました。
「……見ましたか、聞こえましたか、皆さん!? 柊雪斗の野郎が俺の友達に手を上げました! これだけじゃありません! こいつは女子にも乱暴したり、男子には金を巻き上げたりして、最低な野郎なんです! 皆! もうこいつの支配する教室にはうんざりしましたよね!? やつからいじめられて、学校に来られなくなった生徒も大勢います! 今こそ立ち上がる時です! クラスメイトに協力を頼んで、やつをここまで連れて行きます! 皆で倒しましょう!」
三田ちゃんの引き裂くような叫び声に、ぼくは飛び起きました。柊のほうも何が起こっているのかわからないようで「……何してる」と子分をにらみつけました。子分たちは能面のような無表情で、いきなり柊の身体を抑え込みました。「……おい!?」と抵抗する柊の頭を、子分がアイフォンで殴りつけました。柊は一瞬目がくらんだようで、身体の軸がぶれたのを見逃さずに子分たちは一斉に襲い掛かりました。一体何でしょうか。仲間割れでしょうか。でもなぜ、三田ちゃんがやつの子分と連絡を取り合っているのでしょうか。
わけがわからず混乱していると、ノンが「……私たち、利用された?」とぼくのほうを戸惑いの目で見つめてきました。「……三田ちゃん?」ぼくは柊を取り押さえている子分たちのほうへ詰め寄りました。「何で三田ちゃんがお前らなんかと……!」アイフォンで中庭の狂乱の様子を見せた子分に掴みかかると、鉄槌のような重い拳がぼくの側頭部にぶち当たりました。クラッとしてまた倒れると、柊たちが姿を消しました。非常口を出て行ったようです。
「先輩! 大丈夫ですか!?」
ノンが再びぼくの身体を叩いて意識を戻させようとしましたが、頭部に当たってしまったので、しばらくぼんやりとした虚ろな景色だけがありました。
薄れていく景色の中、ノンの輪郭の向こう、三田ちゃんの幻覚を見ました。
「仁川ちゃんはおバカだから」
三田ちゃんは、心の底から馬鹿にしたように笑っていました。悪い夢でしょうか。夢なら夢と誰か言ってください。頼むから。
ぼくの意識が完全に途切れるまで、三田ちゃんはこちらを見下ろして薄ら笑いをしていました。
人の足音が聞こえて、ようやく頭がはっきりしてくると、ヨッシーがぼくの身体を起こしてくれていました。会長とヨッシーがノンから話を聞いて、すぐに行動に移し、二人は現場へと向かっていきました。「先輩、立てますか?」とノンが腕を取ってゆっくりと立ち上がるのに合わせて、ぼくも何とか立ち上がりました。
「……情けないな、俺」
そうつぶやくと、ノンは何も言わずにぼくを支えながら校舎の中に入りました。保健室へ再び入ると、二人の保険医の先生がすぐに手当てをしてくれました。どうやら騒ぎは先生たちにもすでに伝わっているようです。ノンが響古ちゃんに連絡し、合流しました。「あの、中庭がすごいことになっていて」と響古ちゃんの混乱した声に、ぼくはいてもたってもいられなくて三田ちゃんに会いに行こうと席を立ちました。「どこ行くんですか、先輩!?」とノンの焦ったような顔を一度見て、「二人は先に帰ってて」と言い残し、ぼくは事件現場へと痛む脇腹を抱えて走りました。途中、何度も痛みで立ち止まりながら。
中庭の騒ぎはすでに収まっていて、何人もの先生たちがせわしく動き回っていました。三田ちゃんは今どこにいるのか考えて、目星をつけて探すと、わりとすぐに三田ちゃんは見つかりました。三田ちゃんの仲間たちも一緒に。いつもぼくをからかって笑い合っている三田ちゃんたちは、雲雀秋が仕切る風紀委員のもとで警察に捕まった不良のように固まっていました。柊の子分たちと三田ちゃんたちは、信じたくないほど全員同じような淀んだ目の色をして、風紀委員たちに囲まれていました。
「三田ちゃん」
声をかけると同時に、三田ちゃんが吐き捨てるように言いました。
「仁川ちゃん、自分が正義の味方だとでも思ってる?」
相手の言っている意味がわからなくて、ぼくはただ戸惑っていました。
「何かさあ、仁川ちゃん、そういうところあるんだよね。俺ら、調子のいい仁川ちゃん愛してたよ?」
ぼくは、三田ちゃんが嫌がることをずっとしていたのでしょうか。でも、そうならどうしてはっきりと「こういうところが気に入らない」と言ってくれないのでしょうか。ぶつかり合ってくれないのでしょうか。それはもう、時代遅れなんでしょうか。何に遅れているのか、ぼくにはわかりません。わからないことだらけです。誰か教えて。何でもいいから。
「付き合ってやっていた俺らが馬鹿だったわ」
ふう、と息を吐いた三田ちゃんの台詞に、ぼくは何も返せませんでした。
「黙れ!」
いきなり怒声がして、ぼくたちはびっくりして目を向けると、雲雀が燃え盛る赤茶色の髪に負けないくらいの迫力で三田ちゃんたちを怒っていました。同学年とは思えないほど威厳がありました。雲雀が発した一声だけで、三田ちゃんたちはそれ以上何も言わず、風紀委員が連れてきた学年主任や担任の先生たちと何かを話し込み始めました。その時、もうぼくは自分にできることはないのだと悟りました。
とぼとぼ保健室へ戻ると、ノンが「柊ももうすぐここに来るって連絡がありました。会うわけにはいかないですから、先輩は先に帰っていいと会長から許可が出ました」と早急に判断をして響古ちゃんと一緒にぼくを駅まで送ってくれることになりました。力の抜けている僕に代わってノンが自分の学生鞄とぼくのリュックサックを持ってきてくれて、同じく帰る支度を整えた響古ちゃんも合わせて三人で学校を出ました。帰り道を歩いていると、三田ちゃんといつも馬鹿笑いをしながら登下校をしていたのを思い出しました。
「最初から、嫌われていたのかな」
こらえきれずに言葉を漏らすと、名前のつけられない感情が身体を駆け巡って涙となってあふれました。女の子の前で泣きたくなくて腕で顔を覆いながら嗚咽をこらえていると、響古ちゃんが隣で言いました。
「私も、ずっと嫌われていたから大丈夫」
ノンは何も言いませんでした。響古ちゃんもそれ以上は口を開かず、ぼくたちは無言のまま駅にたどり着きました。のろのろと改札口を通るぼくの背中に、二人からの視線がずっと注いでいました。
家に着くと、父ちゃんがミニテーブルに毛布を挟んだだけの「なんちゃってコタツ」を作っているところでした。
「……父ちゃん? まだ十月だよ?」
ぼくがただいまも言わずに口を利くのも構わずに、父ちゃんはどこか嬉しそうに部屋の模様替えをしていました。
「ほら、最近いきなり寒くなったりするだろ? だから何事も早めがいいんだよ」
ミニテーブルを動かしながら、父ちゃんは「原稿、やっと書けた。死ぬかと思ったが意外と何とかなるもんだな」と印刷した原稿用紙を指差して機嫌よく笑いました。ぼくはそのとたん我慢できなくなって、声を上げて泣きました。
「うわっ!? どうしたんだよ!?」
父ちゃんが飛び上がりました。ぼくはすべてをぶちまけました。
「友達に、裏切られた。俺だけが友達だと思っていただけかもしれない。俺、本当にダメ人間で」
わあわあ泣くと不思議とすっきりして、しばらくぐずっていると、父ちゃんが「ほれ」とアツアツのコーヒーを淹れてくれました。マグカップを受け取り、ズズズと飲むとものすごく苦くて「……うぇ」と思わずしかめ面をしてしまいました。
「あのな、ただ好きでいるだけでいいんだよ」
父ちゃんは優雅にコーヒーを飲むと、ぼくの頭を撫でました。
「人から好かれるのは難しいけれど、人を好きになるのは、誰でもできるから」
「……本当に?」
「ああ。中には好かれるのも好きになるのもできない残念な人間もいるが、お前はそうじゃない。俺が保証する。だから胸張って堂々として、思う存分夢見ていていいんだよ」
「……うん」
気がつくと、心が穏やかになっていました。ぼくは残りのコーヒーを何とか飲んで「苦かったよ、これ」と文句を言いながら父ちゃんにマグカップを返しました。父ちゃんはカップを洗って、ぼくはそれを見ながら、早めに帰ってきた息子のことを一つも問いただそうとしない父ちゃんのことが大好きなのだと改めて思いました。
ぼくは、皆のことが大好きです。父ちゃんが、生徒会メンバーが、そのほかの友達だって大好きです。だからどうか離れていかないでください。いらないって言わないでください。一人にしないでください。それは何よりも、怖いことだから。お願いします。
お願いします。
翌日、隣でぐーすか寝ている父ちゃんに布団をかけ直して、ぼくは学校に行きました。本当は行きたくなかったけれど、会長から「学校に来るように」とメールが来てしまって、ぼくは会長には逆らえないのでしぶしぶ行きました。
ぼくたち五組のクラスは三田ちゃんが謹慎処分になって、そのほかの生徒は厳重注意を受けました。「なぜこんなことを起こしたのか」と先生の詰問に、クラスの皆はひたすら「わからない」を繰り返していました。「ずっと柊が憎かったから」という結論に至ると、三田ちゃんが筆頭して柊を憎んでいたのだなとぼくはようやくわかりました。先生の説教を教室で聞き、五組は文化祭の出し物禁止と罰を喰らいました。
生徒会のミーティングが来たちょうどに先生の説教が終わったので、ぼくは駆け足で生徒会室に向かいました。皆に会うのが気まずかったけれど、会わないわけにはいかなかったので覚悟を決めてドアを開けました。
「すみません、緊急のホームルームで遅れました。二年五組は文化祭出展禁止に……」
言いかけたところで、パアン……とクラッカーが鳴りました。どうしてここでクラッカーが鳴るんだ? と思っていると、乾先生を筆頭に生徒会メンバーの満面の笑みがありました。
「仁川裕弌君! 柊に立ち向かってくれてありがとう!」
「……え? ああ、あれ?」
「そう! あれ!」
皆は穏やかな笑みで、ぼくを見つめていました。こんなにも優しい笑顔を向けられるのは父ちゃん以外今までになかったことで、じわじわと胸に迫ってくるものがありました。
「あれは……ただボコられただけだし」
「それでもお前はヒーローだよ」
ヨッシーが元気付けるようにニコッと笑いました。ぼくは何だかこそばゆくて、もじもじしていました。
「後夜祭の司会は、仁川と佳明です。仁川、僕が渡した段取りはもう覚えましたか?」
会長がいつもの癖で真四角眼鏡をクイッと上げました。
「あ、はい。でも俺なんかが司会して、その、大丈夫ですかね?」
「仁川は仁川。そのままの自分でいつも通りにやればいいのですよ。何かあったら佳明が必ずフォローしてくれます」
会長の力強い言葉に、ぼくは一瞬、すがりつきたくなりました。柊に全く歯が立たなくて、三田ちゃんにも嫌われて、自分の居場所なんかどこにもないと思っていた。ここで、いいんですよね? ぼくはここで、目いっぱい弾けていいんですよね? 皆は、いつまでも、ぼくの味方ですよね?
「……ありがとうございます。がんばります」
ぼくはぺこりと頭を下げました。
「では、ミーティングを始めましょう」
会長の指示とともに、皆は元気よく返事をして、自分の定位置に着きました。
がらんどうになった五組の教室を見るのは寂しかったですが、ぼくは生徒会役員なので自分の仕事をしなければいけません。四日目の合同ライブは三田ちゃんを中心とした二年生が処分を受けて、代わりに一年生と三年生が手分けして小講堂、大講堂を埋めました。中庭は、閉鎖されてしまいました。
三年生の部長がそれぞれ代表して謝罪の挨拶を述べ、気を取り直してライブはフィナーレを迎えました。「皆さん、本当にご迷惑をおかけしました!」と最後まで謝りながら。
そしていよいよ、後夜祭を迎えました。
「皆さん、盛り上がって行きましょう!」
ぼくの雄叫びがマイク越しに響き渡り、それに応えるように生徒たちもオォー! と吠えました。賞が発表され、会長とヨッシーの学年の有志が演劇賞、流海と琉璃のクラスが美味賞、文化祭実行委員の諸星さんのクラスがエンターテイメント賞を受賞しました。ノンのクラスは惜しくも受賞を逃しましたが、次があるので大丈夫だと思います。
ぼくの四方八方に飛び散る話に、ヨッシーが優しくフォローをしてくれて、生徒たちの笑いを誘いました。「よっ! でこぼこコンビ!」とどこからか合いの手が入りました。どうやら会長とヨッシーの仲間からのようです。ヨッシーが爆笑していました。
「後夜祭ライブ、レッツスタート!!」
ぼくたちの合図とともに、ドラムの音がダンッと響き、勢いよくギターのメロディーが流れだすとグラウンドはライブ会場と化しました。会長とヨッシーの仲間である三年生たちは、星が数個光り輝いている夕暮れ時の空の下、思い切り歌って、踊って、弾けていました。後夜祭ライブは三年生が主役のフェナーレですので、ぼくたち下級生も、送別会のように声を張り上げて先輩たちを見送っていました。
キャンプファイヤーが燃え盛る中、火は徐々にゆっくりと大きくなり、生徒たちはノンの指示通りに火を取り囲み始めました。
曲が流れると、生徒たちは思い思いに踊り始めました。男子同士で馬鹿踊りしている生徒たち。カップルで仲良く踊っている男女。女子たちは我先にと好きな人とのダンスを踊ろうと猛アタックしていました。一番人気はやっぱりダンス部、軽音部のメインメンバーたちで、皆から誘われたので彼らはフォークダンスのリード側になって全員と踊れるように工夫してくれました。
あ、響古ちゃん、振られちゃったからヨッシーと踊れないのか、とぼくは響古ちゃんの顔を思い浮かべました。何となくじれったくなって、曲が流れている間、進行をヨッシーに任せて響古ちゃんを探しにノンのところへ向かいました。
ノンは蘭堂先輩と諸星さんの二人に親しげに話しかけているところでした。声をかけると、ノンは「あ、わかってますよ! 響古連れてきますね!」と言ってピューッと駆けて行きました。ぼくの気持ちは丸分かりだったのでしょうか。何だか少し恥ずかしい気分です。
「怪我は大丈夫?」
蘭堂先輩が明るい声で話しかけてきました。「これくらい何てことないですよ!」と強気に答えると、まだ腹の一部分がどこか鈍く痛みました。それでも、ぼくは笑顔で振る舞いました。
「柊と三田、一週間の自宅謹慎だって」
「あ、そうなんですか、やっぱり」
「仁川君は勇気のある人だね」
蘭堂先輩はニコニコ顔で、照れるようなことを言いました。「いや、そんな……」とどもっていると、ノンの溌剌とした声が聞こえてきました。
「仁川先輩、響古連れてきましたよー!」
「おー、グッジョブ!」
振り向くと、響古ちゃんはやや不安げに周りの喧騒を見渡していました。
「響古ちゃん、一緒に踊る?」
ぼくは思い切って誘いました。響古ちゃんは少し複雑そうな顔をして「原田先輩に告白したばかりだから、いきなり知らない人と踊っているのは余計に誤解招いちゃうかも……」と申し訳なさそうに言いました。「そっか。じゃあいいや」と引き下がると、急にノンが「駄目!」と叱りました。
「二人は踊らなきゃ駄目ですよ!」
「……へ?」
ノンの有無を言わさぬ迫力に、ぼくと響古ちゃんは戸惑いました。「あそこで踊っていたら目立っちゃうから、ここで! この場所なら皆キャンプファイヤーに夢中だし、気づかれないですよ!」と言うノンに迫力負けして、ぼくと響古ちゃんは誰にも気づかれないよう、静かに踊りました。踊ってみると意外に楽しくて、ぼくは響古ちゃんと笑い合いました「アハハ、こりゃいいやー」そう笑うとノンも満足げにうなずいていました。
ほんの数分だけ響古ちゃんと踊って、すぐに自分の持ち場に戻り、生徒たちを見守りました。花火が数回打ちあがって、空に瞬きました。炎が遠くから次第に小さくなっていくにつれ、ぼくたちも休憩しました。司会の立ち台から見る生徒たちの笑い声が心地よくて、楽しいのに切ないような感覚になりました。花火の打ち上げの仕事を終えた会長がぼくたちのところへ戻ってきました。
「会長、ヨッシー、もう大丈夫だよ」
人に受け入れられたことが嬉しくて、父ちゃんが味方をしてくれたことが心強くて、ぼくはもう迷いませんでした。会長とヨッシーは安心したように息を一つ吐きました。
大丈夫。この言葉は不思議です。人はたとえどんな絶望に落ちても、この言葉で突然、救われることがある。
「もうそろそろ、行かなくちゃ」
ぼくたちは腰を上げて、メンバーと集合しました。響古ちゃんの姿が遠くから見えて、その顔は微笑みに満ちているようでした。「行ってらっしゃい」の声が、耳に届いたような気がしました。
炎は、だんだんと小さくなり、やがてふっと消えました。後始末をしていると、グラウンドではまだ騒ぎ足りない生徒たちが、いつまでも談笑していました。
「このあとカラオケな!」とヨッシーのいつもの明るい声に、ぼくたちは元気よく返事をしました。毎年、文化祭ごとに打ち上げをするカラオケ店で、今年は何を歌おうか、とぼくは考えていました。そして、自分は救われていたのだと、この瞬間気がつきました。
願いは、叶うこともあるのですね。ぼくは、まだ絶望的ではないということですね。そう信じていいんだよね、神様?
ぼくは、皆のことが、大好きです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます