第4話 学校一の人気者を演じる理由

 都心から北向きに離れたとある街。オンボロアパートがある狭い道を西寄りに七分ほど進むと、冷たい秋の北風に吹かれているうらぶれた一戸建ての建売住宅がまったく同じ形でずらっと並んでいるのが見える。その建売住宅が連なる中、一つだけ嫌味なほどに大きくて立派な家がある。そこが俺の家だ。

 帰路を歩いていると、後ろから誰かが近づいてくるのがわかった。この時間帯だとおそらく妹の夢路だろうと思い、振り返ると案の定、高校のブレザーの制服を着た一番上の妹が小走りで近づいていた。


「兄貴、こんな遅くまで生徒会やっているんだね」


 すっきりした黒髪のショートヘアに、原田一家全員が持っている切れ長の目の夢路は、まさに男で言うならジャニーズ系のかっこいい顔立ちで、部活も女子サッカー部に属しており女子から多大な支持を得ている、学校の人気者だ。元気いっぱいの笑顔が暗闇にまぶしく映った。


「まあ、文化祭だしな」

 俺は夢路と肩を並べて、家への道を歩いた。


「お前こそ、仕事もサッカー部も大変そうだな」

「いやあ、もう慣れたよ。それにサッカー好きだし」


 夢路は豪快に笑った。「今日は久しぶりに部活出られて楽しかったな~。昨日は仕事だったから学校行けなかったし」と漏らしながら、スポーツバッグをゆさゆさと揺らしている。家に着いて、玄関を開けると明かりがついていた。一番下の妹が帰っているのだろう。今日は二番目の妹が仕事の日だ。


「ただいまー」


 夢路と一緒に声をかけると、リビングルームから末っ子の亜夢がおもむろに顔を出した。


「おかえりなさい」


 どことなくもの悲しげな色を宿した瞳が、俺たち二人を見つめていた。俺はほんの少しだけ怯んで、夢路のほうに視線をやった。夢路は妹の訴えかけるようなまなざしに「何かあったの?」と真剣な表情で訊いた。


「……大丈夫。何でもない」


 亜夢はどこかあきらめたようにつぶやくと「お風呂もう沸いてるよ。洗濯物も入れた」と言い残して再びリビングへ戻った。


「お前、先に入れよ。運動しまくって汗だくだろ」

「あ、本当? じゃあ入るわ」


 夢路はそう答えると二階へ上がった。俺も一階の自室へ行き、リュックサックを机の上に放り投げた。ドサッ、と物が置かれる音を聞くと自然とオフモードになれた。普段着に着替えようと制服のシャツのボタンに手をかけた時、背後からキィ……とドアを開ける音がした。そして、こちらを射抜くような、それでいてすがりつくような儚く痛々しい視線を感じ取った。


「お兄ちゃん」

 亜夢が、十二歳らしい幼い声で、俺に語りかけた。


「今日、また学校で男子に嫌がらせされた」

 亜夢の声は怒るでもなく憎むでもなく、達観したかのような色を帯びていた。


「せっかく久しぶりの学校だったのに。あいつらますますひどくなってる」

「……先生には言ったのか? あまりひどいようだったら何とか……」


 そう言いかけて、俺は自分が頼られるような男ではないという事実に思い当たる。俺は妹に背を向けた状態で、正しくは亜夢の何ものも映していない瞳を見ることが怖くて、着替えを続ける。


「友達が気にすることないよって言ってくれたけど、その友達も、最近なかなか一緒にいれないせいで遠くなっている気がする」


 亜夢がじっと俺を見ているのがわかる。俺は急に胃が縮むような気持ちに襲われて、妹と目を合わせないようにポロシャツに腕を通して、くったりとした素材のハーフパンツに着替えた。亜夢はその間も俺から目をそらさない。


「私がアイドル扱いされているのが我慢できないみたい。私、今まで地味だったから」


 俺は決心がついて、勇気を出して悲しみの顔をする末っ子の妹のほうに振り返った。亜夢の顔は能面のような無表情で、他人というものにまるで期待していないというようなあきらめた瞳だった。


「……どんなことされた?」

 慎重に尋ねると、亜夢は訥々としゃべった。


「あのね、ボス猿みたいなやつがいるんだけど、そいつ、私が登校してくるとセクハラ発言してくるの。クラス中に響くようなでかい声で、そんなダサい髪型でよく売れるよなとか、オッパイも育ってないくせにグラビアやれていい商売だなとか、わざと聞こえるように言うの。今日はそんなこと言われた」


 俺は一言「幼稚な男だな」と吐き捨てた。眉間の皺が深くなっているのに気づいた。

 亜夢はふと溜め息を吐いた。


「多分、私を嫌っているのはそいつだけなんだけどね。ほかの男子はボスがいないところだと私に優しいし」

「やっぱり先生に言ったほうが……」

「どうせ何も変わらないよ」


 俺の提案を亜夢は切り捨てた。

 気まずい沈黙が下りる。この子は昔から俺にベッタリだったところがあるけど、芸能界デビューしてからますますその傾向は深まってきた。今日みたいにこの子に反感を持つやつらから嫌味を言われては、俺に愚痴を言いに来るのだった。いや、愚痴だけならこんなに重くない。亜夢の激しさはもっと根深くて、鉄壁で、信頼している人以外の言葉はまったく受けつけない。相当ひどい有様なのだろう。亜夢に対する嫌がらせは。

 俺は亜夢の冷え切った瞳を恐ろしく思いながら、拒絶できない。適当にあしらうことができない。真面目に応対しているかどうか、亜夢には一目瞭然だから。


「また相談に乗ってくれる? お母さんたち帰ってきちゃうから、今日はそれだけ言いに来た」


 亜夢は虚ろな瞳で話を切り上げた。俺はどことなくほっとして、でもその心中を悟られないように真剣な顔で「何かあったらすぐ俺に言えよ」とかっこつけた。亜夢はふいに悲しげな笑みを浮かべて、「話、聞いてくれてありがとう。夢路姉ちゃんもうすぐお風呂出ると思うよ」と言い残すと静かに部屋のドアを閉めた。一人になると、俺はついさっきまで向けられていた名前のつけられない感情について考え始めた。亜夢がこうなったのは、親のせいか、周りの他人か、それとも俺か。どこから間違えたのか、どうすればよかったのか、悩んでも一向に解決策が見えなくて押し迫る何かを感じていた。


 翌日。夢路と亜夢は仕事だったのか、俺が起きる頃にはもう家を出ていた。

 今日は文化祭第三日目。これを乗り切れば、いよいよ残すところあと一日となる。

 アイフォンをリュックにしまい学校に行く支度を整え玄関に出ると、そこにセーラー服の短いスカート丈から覗くスラリと長い足が目に入った。


「美夢希、今日はお前だけ学校なのか」


 俺の声に妹が反応して振り返った。中学生ながら派手な茶色に染めた髪は、肩のあたりでくるくると巻かれている。この家族全員が持っている切れ長の目をキラッとさせて、可愛らしい猫目の妹はいたずらっぽく笑った。


「そうだよー。夢路姉ちゃんは雑誌の撮影で、亜夢はCMだったかな? 私だけオフの日だから遊ぼうかなって思ったんだけど、さすがに学校がね。出席日数やばいし」


 俺の四つ下の妹、十四歳の美夢希は、そうしゃべりながら小悪魔的な笑顔を向けた。


「……進級は大丈夫なのか?」

「たぶんね、平気。うちの学校中高一貫だし、出席日数ギリギリ足りてるし、私程度じゃ退学にはできないもんね」


 美夢希はローファーを履いて立ち上がり、玄関にくっついている姿見に自分を映して身だしなみを整えた。


「お兄ちゃんもこれから学校でしょ? うちのマネージャーが車で送ってくれるって」

「いや、俺は……」


 自分で行くよ、と言いかけたその時、美夢希の目にスッと冷たい光が宿った。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 あわててそう言いかえると、美夢希はまた天真爛漫な笑顔に戻った。

 車の中に入ると窓にはカーテンが引いてあった。六人掛けの大きな座席は夢路の読んだ雑誌や亜夢の使っているブランケットなどが置いてあり、ここが二人のスペースなんだなと思った。美夢希は一番後ろの席に陣取り、ピンクのクッションを抱いて隣に俺を誘った。誘われたスペースに座ると腰に心地よい感触が伝わった。見た目からして予想できたが、かなりの高級車のようだ。


「あ、お兄ちゃんさあ」

 車が発進すると美夢希は口を開いた。


「また誰かに告られたでしょ?」


 ハイブリッド車の静かなエンジン音が聞こえる中で、俺は消したはずのあの子のアドレスがまた蘇ってくる錯覚を感じた。


「……何でそれを知っている?」

 胸の中を何かがざわめいた。この子は一体どこからそんな情報を仕入れてくるのだろう。


「いやあ、お兄ちゃんの顔見ればわかるって。何かこの世の果てみたいな真っ暗闇の目してさあ。不思議だよねえ、誰かに好きだって言われたら、普通は瞳がキラキラするじゃん? お兄ちゃんはまったく逆で、ブラックホールみたいな黒いオーラ出すんだよねえ」


 美夢希はいろいろなアクセサリーでジャラジャラした学生鞄をいじりながら、けらけらと笑った。


「……もう、終わった話だから」

「へえ、今回も?」

「……だってもし俺が誰かと付き合ったら、絶対お前が嫌がらせとかして別れさせるだろ!」

「怒っちゃやだ~」


 美夢希はクッションを抱き枕にして今度は寝る体勢に入った。相変わらず、表情がコロコロと変わる妹だ。

 車は大通りに出てスピードを増していった。驚くほど快適な走り方で、そのリズミカルな揺れに俺まで眠くなってきた。


「……なあ」

 欠伸をかみ殺しながら俺は妹に訊いた。


「ん?」

「何で、俺が彼女できると嫌なの?」

「ん~、それはねえ」


 美夢希はクッションを抱きかかえながら、顎に手を当てて、わざとらしく考えるしぐさをした。そしてニッと不敵な笑みを浮かべて、身体を起こすと、俺の耳に口をそっと近づけた。


「私にとっての『男』は、お兄ちゃんしかいないからだよ」

「……はあ?」

「あ~、信じてない~」

「信じられるわけないだろ」


 あきれて妹のクリッとした猫のような目を見つめる。美夢希はとろんと眠そうな瞳で俺をじっと見ている。そして静かに言った。


「……だって、うちの学校女子校だから、女子ばっかりでつまんないんだもん。あと私の顔じろじろ見たり陰口叩いたりしてきてさあ……。デリカシーってものがないのよね」

「それがどうして、俺の恋路の邪魔って行動に出るんだよ」

「私だけのお兄ちゃんだから」


 俺の疑問の言葉に、美夢希はさらっと被せた。

 一瞬ドキリとしてその真意を探ろうとしていると、さらに美夢希は語り始めた。


「あ、私一人じゃさすがに欲張りか。……あのね、お兄ちゃんは、私たち三姉妹の、唯一の『男』なの。くだらない男たちがはびこるこの世界で、夢路姉ちゃんと私と亜夢に唯一平等に接してくれるのはお兄ちゃんだけなの。お兄ちゃんは私たち『逢坂三姉妹』の、最後の『信頼できる男』。だからほかの女のものになっちゃダメなの。お兄ちゃんは遠くに行っちゃ駄目。私たちが大人になるまで、男はまだまだ信じられるって思わせて」


 美夢希は綺麗にネイルを施した爪をいじりながら、そう口にした。クッションに顔をうずめ、しばらく眠そうに「うー」と唸った。俺はただ黙って聞いているしかなかった。


「……着いたら起こして」


 美夢希のメゾソプラノの声が、どこか寂しそうに聞こえたのは気のせいではないはずだ。今、自分が何と言葉をかけたらいいのか、判断できずにいた。

 車の適度な揺れに身を任せ、俺はスヤスヤと眠っている美夢希の肩に亜夢の使っているブランケットをかけてやった。そして自分も腕を組んで下を向き、眠る準備に入った。


 気がつくと、俺はなぜか中学時代の学ラン姿で立っていた。周りには懐かしい公立のオンボロ校舎。目の前には険しい目つきのセーラー服の女子生徒三、四人。女子たちは泣いている一人の子の肩に手をやりながら、きつく叫んだ。


「この子、一年の時からずっと片思いしていたんだからね!」

「何で振ったの!? いい子じゃない!」


 ああ、これは、アレだ。中二の時の事件だ。クラスメイトの女子に告白されてその気がなかったからさらりと断ったら、翌日クラス中の女子たちが集まって大騒ぎした。俺はこんな時、何て言ったんだっけ。


「ごめんね。今は別に好きな人がいる。君を嫌いなわけじゃないから」


 そうだ。確かそんな言葉を笑顔で言った気がする。そして「す、好きな人って、誰なの?」と告白した子が涙声で尋ねたから、俺は「大学生のお姉さん。でも君に魅力がないわけじゃないよ。俺なんかよりもいい男はたくさんいるから、これからも変わらず接してくれたら嬉しいな」とまた胡散臭い笑みを浮かべた。「大学生」という言葉に迫力負けしたのか、女子たちはすごすごと去っていった。風になびく彼女たちの髪とセーラー服の後ろ襟を見つめながら、俺は声を大にして言いたくなった。

 思春期を迎えると、男は女に―というより女の身体に―興味を持ち始めると言いますが、はっきり言って「女の子」って、とってもとってもとってもとってもとーっても面倒くさい生き物なのです!


「ああもう! うっぜぇー!」


 力の限り叫ぶと、急に目の前の景色がグニャリと歪み、平衡感覚が失われた。そのまま地の底まで落ちるような暗い穴に引き込まれ、何だ、どうなっているんだ、と思った瞬間、目が覚めた。


「……ちゃん。お兄ちゃん。大丈夫?」


 重たい瞼を開けると、美夢希が肩を揺さぶっていた。カラカラに乾いた口で「……夢?」とだけつぶやくと、美夢希はペットボトルのジュースを俺にくれた。「……サンキュー」とジュースを飲むと、ようやく頭がはっきりとしてきた。


「俺、もしかしてうなされてた?」

「うん。何か叫んでたよ。変な夢でも見たの?」

「……いや、変っていうか、過去の話っていうか」


 頭を掻きながら中学時代のことを思い出していると、ふいに車が止まった。「美夢希さん、学校に着きました」とマネージャーの朴訥な声が座席越しに聞こえた。


「ありがとう、田村さん。じゃあ、私もう行くね」

「ああ。行ってらっしゃい」


 美夢希はまだ心配そうにこちらを見やっていたが、伝える言葉が見つからないのか少しだけ複雑な表情のこもった笑みを浮かべると、ドアを閉めて去っていった。車は再び発進し、木立市に向かってスピードを上げて走り始めた。

 高速に入り、しばらくしんとした沈黙が続いた。もう見られて困るものはないのでカーテンを開けると、雲は多かったが日差しはまぶしく、大小さまざまな車がまったく同じスピードで一列に走っていた。


「すみません、BGMつけられます?」


 田村さんにそう言うと、彼は無言でボタンを押した。するとラジオが流れ始め、リスナーが音楽を紹介した。「今や話題沸騰! 逢坂三姉妹の恋愛ソングです!」とリスナーの明るい声が聞こえると同時にアップテンポでノリのいいメロディーが流れ始めた。しかし歌詞は意味不明で、これが今週の音楽ランキングで一位の曲なのかと思うとどうにもいたたまれなくなった。


「……何もこのタイミングでこの曲じゃなくても」

「運が悪いですね」

 田村さんがボソッとつぶやいたので、俺は苦笑した。


「……俺、どれくらいうなされていました?」

「そんなには。しかし美夢希さんは少し泣きそうでした」

「……そうですか」


 居心地の悪さを拭おうとして、ヘンテコなメロディーと美夢希たちの高らかな声が不思議とマッチした曲に被せるように俺は昔話を始めた。


「ちょっと嫌味かもしれないけど、俺、昔から女の子によくつきまとわれることが多くて」

「そのルックスですからね」

 田村さんの感情の読めない低い声が、今は何よりもありがたかった。


「昨日も、ある女の子を振っちゃって。全然覚えてないんですけど、その子、前に俺が助けた子みたいで、かなり熱心で、情熱だけで俺と同じ学校入っちゃったらしくって」

「それはまたずいぶんと」

 田村さんは何の興味もなさそうに言った。


「でも、いい子っぽかったんですよ。女の子は普通、本気じゃないから固まって騒いで、いつも頭の中ハッピーで。……でもあの子は違いました。自分の命捧げるくらい切羽詰まった感じで、本気だってことが伝わった。でも、俺は振りました。何か、そういうの、重いから」

「重いですよね」

 田村さんは淡々と相槌を打った。


「女の子は嫌いじゃないですよ? かわいい子とか綺麗な子とかいたらそりゃあ『いいな』って思うし。あの頃とは違ってクラスの女子ともそれなりに上手くやれているし、生徒会もやりがいがあるし。……けど、『好き』っていう感情は、まだよくわからない」

「そういうもんですよ」


 まだ若いんだから、と田村さんは付け足して、車は高速を抜けた。いつの間にか音楽は別の歌手の歌に変わっていた。大通りを走って高架をくぐると、木立市特有の洒落た街並みが現れた。西町はレトロな空気漂う昔馴染みの町、東町は最近発展したレジャーの町、と対照的な二つの町は不思議な融合を遂げていた。巨大なショッピングモールが見えると、いよいよ学校が近くなったなと感じた。


「田村さん、ここらへんでいいですよ。うちの学校、車で来ているやつなんてほとんどいないんで。目立っちゃうから」

「わかりました」


 ショッピングモールの近くで車を停めてもらい、俺は立派なシルバーの車体を出て田村さんに礼を言うと、学校に向かって歩き出した。車はすぐに動き出し、あっという間に走り去っていった。

 商店街の間近にある場所で一台の車から下りた俺を見ても、ここの生徒たちはそんなに騒がない。あれ、うちと同じ制服だ、としか思わないのだろう。そういうところがまた居心地がよかった。

 真っ白なピカピカの校舎が見えてきて、生活指導の先生に挨拶しながら校門をくぐる。さて、噂はどれくらい広まったのかな、と俺は他人事のように思った。

 教室に入ると、いつも通り仲間が朝の挨拶をしてくれた。その中に、このクラスの女子のリーダー的存在である、すらりとしたモデル体型の女の子が気さくに話しかけてきた。


「ヨッシー、おはよー」

「おお、矢代(やしろ)、おはよう」


 矢代りえは気が強く物怖じしない性格で男子からも女子からも支持されている人気者だ。矢代はすっきりとした茶髪のショートヘアを耳にかけながら、「今日はマジで気合入ってるから」と力のある笑顔を見せた。これから始まるダンス部と軽音部の合同ライブに、矢代は部長のためひときわ情熱を注いでいた。


「最後のライブだもんな。舞台袖で熱く見守ってあげますよ」

 ちょっとかしこまって言うと、矢代は楽しそうに笑った。


「あのバカ広い大講堂で踊るのが夢……ていうか、目標だったんだ」

 それよりもさ、と矢代は声のトーンを少し落とした。


「また大胆な告白されちゃったね」

「……もうバレてんのか」

 俺は辟易して溜め息を一つ吐いた。


「私たちは慣れているけど、一年や二年の子が燃え上がっちゃったみたいでね。あんたに告った子の名前まで伝わっているらしいよ」

「……ほかにやることないのかよ。文化祭だぞ?」

「まあ、前半二日のメインは告白大会だから、女子のための祭りだし。今日からライブもあるから皆そのうち忘れるでしょ。あんたのモテっぷりも会長の変人っぷりも、もうこの学年にとっちゃ名物コーナーだね」


 矢代は気楽に笑って、そんなに思い詰めないほうがいいよー、と言うと女子のグループに戻っていった。ちょうどその時ヒロを連れた俺の仲間たちが教室に入り、普段の俺にはそぐわない顔色を見ると、「あれー、ヨッシーどうしたー?」と素朴な質問をした。俺は無理に笑顔を作って、「何でもない、おはよう」と返した。


「矢代とのコラボ、期待してるから」

「いやあ、そんな騒ぐほどのもんじゃないですよ」


 仲間の一人の秋田紅介(あきた こうすけ)が、ヒロの肩に手をやりながら気恥ずかしそうに言った。

 秋田は軽音部の部長で、矢代と一緒に大講堂でダンス部とのコラボレーションライブを行う。三日目から最終日にかけて中庭、小講堂、大講堂と学年ごとに分かれて行うライブは毎年文化祭一番の盛り上がりを見せる。秋田と矢代は気が合うため何かと人気が二分するダンス部と軽音部の架け橋的存在の役割を担っている。ライバル同士の部員たちはこの日だけは手を組んで最高のエンターテイメントを届けてくれるのだ。


「それはそうと、集団でどこ行ってたんだ?」

「一緒にトイレ~。いわゆる連れションというやつよ」

「仲良すぎだろ!」


 俺の豪快なチョップが秋田の頭を叩き、それに爆笑し始めた仲間たちにつられて、クラスメイトたちも、「また馬鹿やってるよー」とはやし立てた。


 業界の人たちが俺たちの家にやってきたのは、今からちょうど二年前のことだった。始めは俺のことをスカウトしに来たらしかったが、家にまで上がり込んだとたん妹たちの美貌に見惚れてしまって、俺たち兄妹を四人ごと芸能界に放り込む計画に変えたようだった。

 俺は必死で抵抗した。テレビは「観る側」だからこそ楽しいのであって、「出る側」に回ったらそれこそ空気は読まなきゃいけないし、いつもニコニコしていなきゃいけないしで、あっという間にストレスが溜まることが目に見えていたからだ。

 俺の鉄壁ガードにあきらめたのか、業界人は妹たちを熱心に勧誘した。やがて夢路の「やってみようか」という言葉が決定打となった。業界人は三人のキャラクター設定をした。夢路は髪が短かったのでショートヘアのままボーイッシュなイメージ。美夢希は身体つきや仕草が色っぽいということで小悪魔系。亜夢は大人しい性格だったので髪を絶対に染めない清純派。三人は業界人から与えられた自分たちの設定を頭に叩き込み、芸名をつけて「逢坂三姉妹」としてティーンズ向けのファッション誌にデビューした。後のCDデビューが今から一年前に決定し、その人気は世間に浸透した。たった二年で原田一家の生活は一変した。妹たちの稼いだ金でマイホームを一から建設してもらい、馬鹿でかい家に住むことになった。だけど一時期、毎日のようにマスコミ関係やパパラッチが貼りついていることもあってうんざりした。何だかあまりにも皆が騒ぐので、俺はだんだんと実家から逃げたくなった。周りの目が怖かった。

 木立市はいいところだ。どんなに賑やかでも決して騒々しくはならないところが好きだ。落ち着いた街並みが好きだ。けれど妹たちが芸能界入りしてから、ますます俺に注目が集まった。これはいっそ中学時代の時のように生徒会にでも入らなければ、俺の居場所はなくなってしまうだろう。

 つらかった。騒がれたり勝手なことを言われたり意味もなく罵倒されたり、さまざまな好奇の目に晒されてもう疲れてしまった。

 もう、どうでもよかった。


 生徒会の朝ミーティングは、これから行われる合同ライブについての最終確認、あとは後夜祭の話が出た。グラウンドで行われるキャンプファイヤーでは、最後にキャンプファイヤーを取り囲んで生徒たちが音楽に合わせてフォークダンスを踊る予定になっている。それが終わったら各自馬鹿騒ぎ、というエンディングだ。

「僕と佳明、流海、琉璃は大講堂。仁川と笹条さんで中庭。蘭堂と諸星さんは小講堂でセッティングを始めてください。打ち合わせの通りにやれば上手く行きます」 

ヒロの機械的な説明口調に俺たちは相槌を打ちながら、準備期間中に何度も打ち合わせたダンス部と軽音部の部員たちの顔を思い浮かべた。彼らは個々の主張が激しくて、会議中に何度も口論になったりしたので、その都度俺たちが妥協案を出しては場を諌めた。互いに部員動員数を競っている二大人気の部活なので、『メインメンバー』と呼ばれる一軍選手の部員たちは皆プライドが高く、いい意味でも悪い意味でもアーティスト気質な人が多かった。

 ホワイトボードに書かれた当日の予定表を各自がノートに書き写し、最後に乾先生が今日の注意事項を述べ、ミーティングは終了となった。


「ヨッシー先輩」


 帰り際、笹条に声をかけられた。十中八九、日立さんのことについてだろう。振り返ると、少々怒ったような笹条がこちらを見上げていた。ほかのメンバーは少し離れた場所で俺たちを見守っていた。


「……その様子じゃ、とっくに知ってるか」

「はい、まあ」

 笹条は気まずそうにしながらも、確かめるように俺の目を見つめた。


「……振るのは別にいいんです。タイプの問題ですから。ただ、ひどい振り方をしたって伝わっていて……。嘘ですよね? ヨッシー先輩は、ひどいことを言えるような人じゃないですよね?」


 そう聞いて、俺は、この子もこんな自分のことを信じているのか、自分のような人間を優しい人だと思ってくれているのか、と嬉しいような、またこの子を憐れむような気持ちが湧き上がった。笹条はいつだって嘘がなくて、それゆえに愚直だ。そんなところがいいのかもしれないけれど。


「……ひどいことは、言ってないよ」


 俺はそれだけを伝えた。「ひどいこと」というのは、どこからどこまでが「ひどいこと」なのだろう。よくわからなかったが、ただこれ以上、人から非難されるのは嫌だった。


「……そうですか。すみません、先輩のこと疑って……」

 笹条は少しほっとしたように笑って、ぺこりと頭を下げた。


「……日立さんは、今どうしてるの?」

 俺は少々気になって笹条の友達の現状を尋ねた。すると笹条は複雑な顔をして、言いにくそうに口を動かした。


「……もう、教室にいられなくなっちゃって、保健室登校です」

「……そっか」


 なるべくあの子のそばにいてやりたいんですけどね、とだけ言い残すと、笹条は俺を避けて早足で歩いていった。ああ、やっぱり許してないのか、と俺は何度目かの苦笑を浮かべた。


「ヨッシー、俺、ノンのところに行っちゃ駄目?」


 背後から突然大きな声で話しかけられたので、びっくりして振り向くと、仁川が大きな目で瞳を輝かせながら言っていた。


「何で笹条のところ? いや、お前今日はあいつと一緒のセッティング場所だけどさ」

「ほら、ノンの友達、日立響古ちゃん? すごい度胸と勇気のある子だなーって思って! 告白大会に合わせて告白ってすげー! って感動しちゃってさ」

「見世物じゃねーぞ」


 ふと攻撃的な言葉が口から出た。自分の声が、こんなに低く温度がないなんて知らなかった。気づくと俺は、仁川をにらみつけていた。こいつは、何も知らない。俺がどんな気持ちで数々の女の子から逃げてきたのか。日立さんがどんな気持ちで最後に泣きながらお別れを言ったのか。能天気という言葉を絵に描いたようなこいつには、まるでわかっていないのだ。

 仁川はきょとんとしたあと、ようやく自分が放った台詞の軽さに気づいたのか、サッと青い顔になると「す、すみません。何でもないです」と謝った。


「……別に笹条と一緒に俺の悪口言ってもいいぞ」

「え、いや、そんなつもりじゃ」

「じゃあな」


 ああ、俺、八つ当たりしている。このホンワカ系のやつに、何も知らないような無邪気な後輩に怒りをぶつけている。その怒りが何なのかわからないまま、俺はいつもの「皆のヨッシー」であることを忘れていた。

 呆然と立ちすくむ仁川を残して、俺は様子をうかがっていたヒロのもとへ向かった。ともに文化祭三日目を取り仕切るために、さっさと仁川から離れた。


 気まずい沈黙が流れていた。周りの賑やかな声とは裏腹に、俺の機嫌を察知したヒロと流海、琉璃は押し黙っていた。大講堂へ行く渡り廊下を黙々と歩きながら、ハメを外し過ぎている生徒を注意したりした。

 大講堂に着き、十一時から始まるライブに合わせて、音合わせとリハーサルをした。裏方の俺たちは機材のチェック、セットリストの確認に照明・音響担当の部員と進行の様子を見ていた。ステージの舞台袖で、真剣な顔でリハーサルを行っている秋田と矢代を見つめながら、こんな風に夢中になれるものがあったらな、と俺はぼんやり思った。

 ふいにヒロの声がした。


「佳明、何かあったらすぐに僕に話してください」

 その言葉の意味を充分に知り過ぎている俺は、自分が情けなくなってうなだれた。


「……またやっちまったか」

「ええ、けっこう黒い部分が出ていましたよ。あまり後輩を怯えさせるのはよくありません」

「……怯えさせるつもりはなかったんだけど」

「それもよくわかっています」


 ヒロには表情一つ変えずに、こちらの意図を読み取る才能がある。そして相手が今一番言ってほしい言葉を言ってくれる優しさがある。頭の良さと懐の深さは、俺なんかよりもずっと上だ。俺は大した男じゃない。どうしてみんなそのことに気がつかないのだろう。


「……あのさ、会長、ヨッシー」


 遠くで衣装係と話し合っていた琉璃が駆け寄って、いつになくしおれた声で俺たちの顔を見た。「なに?」と訊き返すと、琉璃はいきなり頭を下げた。


「お願いがあるの。今日の担当外させてください」


 急な願いに、俺とヒロは顔を見合わせた。流海もいつの間にかそばにいて、黙っている。


「……理由は?」


 ヒロが慎重に尋ねた。琉璃の人形のような形のいい二重の目が暗い色に染まり、琉璃は言葉を濁して「えっと、あの……」とどもり始めた。


「今日じゃなきゃいけない用事があるの」


 その時、姉の流海が力強い声ではっきりと言った。決意に満ちた口調に俺はドキリとして、流海の綺麗な切れ長の目を思わず見つめた。表情一つ変えないはずの流海の顔が、少しこわばっているようにも見えた。


「わかりました。琉璃、本番までには僕のところに連絡を入れるように」


 ヒロが最終的な決断を下した。琉璃は一瞬だけ泣きそうな表情になり、すぐにそれを笑顔に変えていつもの琉璃スマイルで、「ありがとう、会長! 愛してる!」と無理に元気に笑い、大講堂を出て行った。今日は琉璃も変だ。皆が皆、何かを隠している。必死に。俺は自分のコンプレックスを。ヒロはおそらく家庭の事情を。訊いたことはないけれど、ヒロは家族の話を一切しない。家の話題になるといつも軽妙に避けている。何か複雑な事情があると、俺は感づいていながら、問いただしはしない。いつかヒロが打ち明けてくれてもいいし、打ち明けてくれなくてもそれはそれでいいと思っている。

 流海と琉璃は、何を抱えているのだろう。笹条は、日立さんは。仁川だって、ああ見えてもしかしたら秘密があるのかもしれない。


「もうそろそろですね。動きましょう」


 ヒロが残った俺たち二人に指示を出した。俺と流海は短い返事だけをして、お客さんの入る十時半が迫る壁時計を見つめ、ダンス部と軽音部の集合に生徒会メンバーも合流した。


「最後の文化祭、二日間やりきるぞ!!」


 秋田の掛け声に三年生メンバーは「おぉー!」と男子女子ともども意気込んだ。矢代が続いて「ダンス部、二日間踊りまくるぞー!」と気合を入れ、応えるようにダンス部メンバーも「おぉー!」と叫んだ。

 垂れ幕が下りて、皆は裏にはけた。ダンス部が前一列にずらりと並んで、オープニングのフォーメーションを作った。その後ろに軽音部が控え、マイクやドラムなどが置かれた定位置につき、音出しを行っていた。

 ボーカルの秋田が声の調整を行い、矢代はメンバーに指示を出していた。二人はだいぶ緊張していた。

 時刻は十時半になった。ヒロが「行きましょう」と合図をして、生徒会メンバーは大講堂の玄関口の扉を開けた。「お待たせしました。まもなく合同ライブが始まります」お客さんと生徒が中に入り、長蛇の列を作っていた人だかりはゆっくりと前に進み始めた。楽しげなざわめきが大講堂の中を満たしていき、最後の列が中に入る時には、座席がほとんど埋まっていた。


「さすが、お祭り学校。注目度も半端じゃないな」

 俺が何気なしに呟くと、ヒロも流海も小さく笑い始めた。


「仁川とか参加したそうじゃない?」

 流海が仁川のはしゃぐさまを想像したのか、笑いを漏らしていた。


「目立ちたがりですしね」

 ヒロも眉尻を下げて笑んだ。


 十一時が、近づく。俺たちはすばやく舞台袖に行って、垂れ幕の裏で準備を整え待っている秋田と矢代たちに一声「がんばれ!」と送り、いよいよヒロが生徒会長の挨拶を述べるためステージに立った。

 お客さんの視線が一気に集まる。ヒロは一切動じず、スッと前を見て、語り掛けるように我が校の歴史と伝統―五年しかないが―をアピールし、言い切った。


「それでは皆さん、我が校の伝統行事、ダンス部軽音部文化祭ライブコンサート、楽しんでお聞きください」


 ヒロが颯爽と舞台袖にはける。同時に開演メロディーが流れて、垂れ幕がゆっくりと上がった。矢代たちダンス部員が横一列のフォーメーションでスタンバイしていた。開演の拍手とともに、軽音部が合図をして音を出した。

 ダンッ! とドラムの音が鳴り響いた。

 楽器が一斉に音を鳴らし、メロディーラインに乗って音楽を作り上げた。

 ダンス部が身体をしならせ、勢いよく手足を動かし、リズムに乗って踊り出した。

 お客さんのボルテージが上がる。もはやここは大講堂ではなく、コンサート会場だった。


「盛り上がっていきましょー!! 皆さーん!!」


 秋田の掛け声がマイクを伝わって会場中に響き渡った。


 ライブの楽曲リストは、今流行りのアイドル歌手から日本で絶対的な人気を誇るアーティストまで幅広く網羅してあった。海外アーティストの曲も取り入れていて、まるでプロのコンサートのように本格的な楽器演奏を秋田たちは見せた。自分たちで決めたという曲順は、静と動のバランスが絶妙にいい具合を見せていて、思い切り盛り上がれるロックやしっとりと聞かせるバラードまで取り寄せており、総括してみるとまるで一つの大きな物語のようだった。全体的な印象は、明るい若々しさともうすぐ大人になる切なさがあって、まさに青春そのものだった。

 軽音部の演奏メインの時にダンス部が暗転と同時に舞台袖にはけて、衣装係の助けのもと素早く別の衣装に着替えた。次にやるのはアイドル歌手の持ち歌で、部員たちはピンクのウサギの着ぐるみ衣装で待機した。衣装係が最後までチェックを欠かさず、スタッフのようにせわしなく動き回っていた。再びステージが暗転し、ギターとキーボードの魅惑的な演奏とともにダンス部はステージに上がり、パッと照明がついた時にはキラキラのアイドルたちがいて、ポップな演奏とともに可愛らしい振りつけで踊って見せた。親衛隊らしき生徒たちの歓声が巻き起こり、会場は黄色い声に包まれた。

 衣装係が次の衣装の準備を始める。慌ただしい現場を少し離れた場所から見守って、何も問題なくスムーズに進行が行われているのを見届けると、俺はふと腕時計を見た。琉璃がまだ帰ってきていない。


「おい、もうそろそろ昼だぞ?」


 十二時を指す腕時計を見ながらつぶやいた俺の言葉に、ヒロが心配そうに同じく腕時計を見た。


「どうしたのでしょうか。約束は固く守る子なのですが……」

「こっちから琉璃に連絡してみたらどうだ?」

「そうしてみます」


 ヒロがアイフォンを手に取って電話をかけたが、しばらくして力なく耳もとから離した。


「駄目ですね。誰かと話し中みたいです」

「……しょうがねえ、探すしかねーか」


 俺たちが対策を練っていると、流海がボソッと「柊……」とつぶやいた。


「え?」


 あまりに場違いなその人物の名前を聞いた俺たちは一瞬、固まってしまった。流海は頭をぐしゃぐしゃと掻いて焦ったように口走った。


「やっぱり、柊なんかのところに行かせるんじゃなかった……!」


 俺はヒロを見た。何かを隠しているこの双子姉妹の秘密が、今まさに明かされようとしている瞬間だった。


「……説明してください、流海」


 ヒロの静かな声が、流海を落ち着かせた。俺はただ流海の口から真実が告げられるのを待っていた。


「……私、このごろ変な夢を見るのよ」

「夢?」

 ふいに出てきたその曖昧な単語に、俺たちは首を傾げた。流海は続ける。


「柊が出てくるの。それで、琉璃が柊のところに行っちゃうの」


 流海の声はいつものクールですましたものではなく、少女のように震えていた。流海は今、本気で怖いのだろうと俺は悟った。

 流海はぽつぽつとしゃべり出す。俺たちは黙って聞いた。


「今日、琉璃が柊と会いたいって言ってきた。ただ会うだけだって言っていたけど、そのあとどうなるのかわからない。止めたんだけど、あの子あまりにも必死だったから、怒るに怒れなくて……。私が思うに、柊、何かやらかす気かもしれない。あの子、それを止めたいんじゃないかな。話してくれないからわからないんだけど、柊が無事に後夜祭にも出て一緒にフォークダンスを踊る夢でも見ているんだと思う」

「……その交渉をしに行ったと?」


 ヒロが真四角眼鏡に手をやりながら、冷静に応答する。流海は妹を庇うように付け足した。


「こんなお祭りじゃないと、あいつのそばになんて寄れないから。あの子、昔からそういうところあるから」

「……悪い男に惹かれるって? 誰彼構わず抱きついてくるような、あの琉璃が?」


 俺は信じがたい気持ちで、琉璃とあまり似ていないこの双子の姉を凝視した。流海はふっと苦笑する。


「あの子、ぶりっ子とか言われているけど、本当は真っ直ぐなのよ。好きな人にだけは、本当に真っ直ぐなの」


 俺たちの間に、再び気まずい沈黙が流れた。その重苦しい雰囲気を破ったのも、またヒロだった。


「探しましょう。柊が居そうなところを」


 ヒロが先陣を切って歩き出し、何か心当たりがあるのか、そのままずんずんと突き進んだ。俺もほかに柊の手がかりがないので、ヒロに従って歩き出した。流海がついて行こうとすると「進行の状況を見ていてください。必ず琉璃を見つけますから」とヒロが指示をして、流海は大講堂に残った。


 渡り廊下を渡り、着いた場所は北校舎の日の差さない裏庭だった。ここは確か一昨日、柊が笹条に手を出しそうになったあの場所だ。運よくヒロが見つけて、笹条をやつの手から守った、あの薄暗い危険な場所。

 文系の部活動の展示会から外れて、一階の隅の奥の非常口から、扉を開けて校舎裏のスペースに出る。ここの非常口は錆びついて見かけも汚いため、めったに人が寄り付かない。いるとしたら柊みたいな連中くらいだ。つまり、絶好の隠れ家スポットなのだった。

 裏庭に出る。

 ヒロが「琉璃!」とメンバーの名前を呼ぶ。

 そこに琉璃はいなかった。

 仁川がぐったりと地面に倒れていた。

 そのそばで笹条が、泣きそうな目で仁川を介抱していた。


「……仁川!? おい、大丈夫か!?」


 俺はあわてて仁川のそばに駆け寄った。身体をゆっくりと起こすと、仁川は腹に手を当てて苦しそうに唸っていた。


「せ、先輩、大変です。大変なんです」


 笹条が目に涙を溜めて、あわあわとしていた。「落ち着いて、笹条さん」とヒロが笹条の肩に手を置いて、ゆっくりと深呼吸をさせた。笹条は少しずつ落ち着いてきて、涙を袖で拭いた。


「……何があったのですか?」


 ヒロの目に鋭い光が宿る。笹条の肩を撫でながら、緊急事態の時に宿る仕事人の目つきをしていた。まるで自分以外の誰も傷つけさせまいというような、皆を守る責任者の瞳だった。俺には到底、こんな顔はできない。


「柊が、中庭でやる二年生のライブを邪魔しようとして。二人で止めようとしたら、

仁川先輩が蹴られちゃって。そ、それで、何か仲間みたいなやつらがいきなり柊を裏切って、ステージ上まで連れて行って、二年生が興奮しちゃって、柊が今……」


 しどろもどろに話す笹条の言葉から、柊が乱闘騒ぎを起こしかけて逆に仲間だと思っていたやつらに裏切られたということがわかった。「笹条さんは仁川を保健室へ連れて行ってください。僕たちが対処しましょう」とヒロが素早く指示を出し、俺もヒロと一緒に中庭のほうへ走った。

 北校舎の出入り口に繋がる経路を走って、中庭へ出る。すると防音材の入った校舎からは聞こえなかった中庭の喧騒が耳に入り込んできた。


「……ね! しーね! しーね!」


 生徒たちの声だった。「皆さん、もっと!」とマイク越しに生徒をあおっている人物がステージ上に君臨していた。北校舎からは中庭の特設ステージが裏から見える。軽音部の楽器のアンプ。スピーカー。会場を思いのままに操っている二年生の部員。様子を見るとボーカル担当の二年生が柊を締め上げ、ステージの前列を同じ学年の生徒が陣取っていて、柊に卵やらゴミやらを投げつけていた。柊は仲間だったはずの男子たちから暴行を受けて傷だらけだった。会場からも攻撃されて、動けないらしい。その場に倒れ込んでいた。


「こいつは俺たちのライブに煙草を投げつけようとしていました! 文化祭をぶち壊す気です! 皆! この男を倒しましょう!!」


 ボーカルの叫び声に、二年生たちが「おぉー!」と雄叫びを上げた。


「こいつは死ぬべきです!」


 また絶叫が起こる。二年生たちの顔には柊という人間を地獄の底まで突き落としてやるという執念めいた鬼のような形相があった。いや、鬼じゃない。もっと狂っていて、もっと邪悪な、異端児を処刑するような権力者の目つきだ。

 最前列の生徒が「消えろー!!」と喚きながら泥だらけの上履きを投げつけ、柊の頭に当たった。それを合図に皆はまた吠えて、次々と手に持っていたゴミクズなどを会場に投げ入れた。ボーカルの顔は、恍惚感に満ちていた。「消えろー!!」とマイクを通して会場をあおった。汗の垂れた顔が見えた。悦びと勝利を獲得した、絶対王者のオーラ。超えてはいけない何かを超えてしまったような瞳が何もかもを物語っていた。ステージは、やつが主導権を握っていた。ふいにボーカルが笑った。ギターもベースもドラムもキーボードも、派手な音を出して会場のボルテージを上げ、高らかな笑みを見せていた。マイクを通した君臨者の笑い声が、客席を通して響き、狂乱の中に溶けていった。


「……こんな」


 俺は絶句して、思わず背筋が震え上がってしまった。頭は何かの熱で沸騰しているというのに、それ以外の身体全体が血の巡りを失くしてしまったかのように冷え冷えとしていた。手を握りしめたが、冷や汗でにじんでいて感覚がなかった。どうしたらいい。俺は何をすべきなのか。頭が固まってしまって動けなかった。

すると突然ヒロがわき目も振らずに裏側から楽器のコードをすり抜けて、ボーカルの二年生を押しのけた。いきなり出てきたヒロに、「タ、ターミネーター……!?」と会場にいた二年生が一瞬、怯んだ。その隙を逃さずに、ヒロはマイク越しに一言、叫んだ。


「シャラアアアアアアアアアアアアアップ!!」


 ……シャラップ? 

ああ、『SHUT UP』か。


「シットダウン!!」

『SIT DOWN』ね。


「ドントビーホーキングユアヘアードオフ!!」

『Dont be hooking your head off』は、ええと、『もう口開くんじゃねえ』って意味だったか。二年生知ってるか?


 英語はわからなかったようだがヒロの怒りは通じたらしく、皆は先ほどまでの興奮が嘘のように静まり返った。俺はようやく意識がはっきりして、ステージに立ち上がった。

 柊を見る。意識はあるらしく、うずくまりながら驚いたように目を見開いている。俺は静まり返った場内に一撃を与えるべく、ギター担当の二年生が固まっているのを押しのけて、ギター奏者のマイクを奪った。


「お前らさあ」


 乱闘騒ぎを起こした二年生が許せなくて、こいつらが何組だったか考えている頭の片隅で一番効果的な台詞を考え、放った。


「知ってんのかよ。こいつの家やくざだぞ」


 水を打ったような静けさが、場内に満ちた。ステージに立っているボーカルもギターもベースもドラムもキーボードも、蒼白な顔になって互いの目を見つめていた。


「明日にはお前ら、生きてねえな」


 ふんっと鼻を鳴らして放った俺の言葉に、皆はたじろぎ、やがて恐れをなしたようにすごすごと中庭から姿を消していった。ぞろぞろと去っていく観客たちを「え、ちょっと待って」とボーカルは間抜けな声を出し、ヒロが名前を問いただそうと近寄った時だった。


「そこまでだ。三田彰成(みた あきなり)」


 風紀委員の雲雀秋が、三田の腕を掴んで締め上げた。「いててっ!?」と唸る三田と呼ばれた男子を引っ張り上げ、雲雀は「こいつは俺に任せてくれ。生徒会長は柊を頼む」とものすごい形相で言うと、委員たちとともに仲間の部員たちも柊の元仲間たちも全員引き連れて行ってしまった。「承知しました」とヒロが機械的な口調で言う頃には、騒ぎは沈静化していた。

 柊の腕を取って立たせた。俺より背が高いこいつは、スリムな体型なのにけっこうな重さがあったのでヒロにも手伝ってもらい、二人で柊を支えてとりあえずゴミを洗い流すためシャワー室を借りた。水泳部が使っているプールまで歩き、なるべく人に見つからない場所を通って、誰もいない閉鎖されたシャワー室の中に入って柊を押し込んだ。「とりあえず汚れたもの全部洗え」と俺が言うと、柊は抵抗も何もせずにシャワーを浴び始めた。「相当こたえているようですね」とヒロが言うのを聞きながら、俺たちは柊が洗い終わるまで待った。


「そういや、何でシャワー室の鍵開いてんの?」

「琉璃が先生におねだりでもして鍵を持ってきてくれたのでしょう。そうですよね、琉璃?」


 ヒロが目をやった方向を見ると、壁際から琉璃がおそるおそる顔を出して、「……うん」と震える声を出した。


「……中庭で柊君がリンチされているのを見たから、急いで会長に連絡して、とにかくシャワー室開けなくちゃって思って、先生に事情を話したの」

「……ってことは、先生たちも緊急の職員会議をやってるだろうな」


 俺が推測すると、ヒロも「大講堂を出た時、入れ違いに琉璃からの着信がありましたから」と返した。「何で琉璃からだって出なくてもわかったんだよ」と問うと「メンバーごとに振動音を変えていますから」とヒロはさらりと答えた。「マ、マジで? お前そこまで細かいことやってんの?」俺が引きつった顔をすると、ヒロは当然のように「ええ」と言った。

 シャワー室のドアが開いた。柊が髪からぽたぽたと水滴を垂らしながら、そっぽを向いて立っていた。


「柊君、これ。替えのシャツとタオル」


 琉璃が手渡すと、柊はその場で濡れたシャツを脱ぎ、タオルで身体を拭くと新しいシャツに着替えた。「琉璃、そこまで用意していてすげーな」俺が感嘆すると、琉璃は決まりの悪そうな顔をして「用意しとけって言われたから……」とボソッと言った。「え、誰に?」と尋ねても琉璃はくちごもるだけだったので、訊くのをやめた。


「ついてきなさい」


 ヒロが強い口調で命令し、柊は抵抗せずにうなずいて、俺たちは怪我を看てもらうため保健室へ向かった。

 保険医の先生に看てもらったところ、特に傷跡が残るような大きな怪我はないということだった。ただ顔を殴られた部分が痣になりそうだったのでガーゼを貼ってもらい、念のため腹にも包帯を巻いてくれた。


「仁川を殴った分は、返してもらいますよ」


 ヒロが鬼のような形相で口にした。柊は黙秘権を貫いていた。俺のアイフォンが振動したので出ると、笹条が仁川を先に帰らせて駅まで送ったと連絡を入れた。「笹条もこのあと来るって」とヒロに伝えると、保健室のドアが開いた。流海と琉璃が先生に事情を説明し終えて帰ってきた。


「中庭のコンサート中止だって。それ以外のライブも考え中」

 流海が淡々と告げると、琉璃も真相を話した。


「騒ぎを起こしたのは仁川君と同じクラスの二年生で、三田彰成。軽音部のメインメンバーで、二年の中ではトップの人気だったんだって。クラスの皆をあおって、あらかじめ中庭の席を陣取って柊君が来るのを待っていたみたい」

 琉璃がちらりと柊を見た。柊は手当てを終えた身体で頬の傷を撫でていた。


「まるで待ち伏せされたみたいだな」


 俺がつぶやくと、「柊、その二年を罠にはめようとしたのでしょう? コンサートを邪魔しようと」とヒロが目線をやった。ずっと黙り込んでいた柊はふと投げやりな笑みをこぼし、乾いた笑いを漏らした。「……ハハハ」と力のない笑い声が保健室の中に寂しく響いた。


「頭が悪いのは、俺のほうだったなあ……」


 柊は力なく言って、「あいつは二年のボスでね。雲雀の野郎も警戒していた人間なんだよ。とにかく人を掌の上で転がすのが上手い。俺の子分に知らないところで金でもやって手駒にしたんだろう。意地汚い性格のくせにトップの座に君臨するのが腹立たしくて、引きずりおろしてやろうと思った。その結果がこれ。笑いたいなら笑えよ」と吐き捨てた。


「……裏がある気がします」


 ヒロが顎に手をやって考え始めた。「何かきな臭い匂いがして……」と鋭い光を放つ瞳で推測していると、柊が「もう、いいよ」と言った。


「俺と三田で処分受ければ済む話だ。大体お前らにそこまで心配される義理はないんだけど」

「強がらない!!」


 ヒロが雷の落ちるような怒声を放ったので、女子たちはびくりと飛び上がった。柊も呆気に取られて生徒会長を見上げていた。俺は少々おかしくなって、「こいつ、おせっかいなんだよ。人が困っているのを見て放っておけない性質なの。戦隊もののヒーローっぽいだろ?」とヒロを指差して笑うと、ちょうど笹条が先生を連れて帰ってきた。


「失礼します。あの……」


 笹条の後ろで、二年生の学年主任である先生が怖い顔で立っていた。柊はすべてを理解したように「じゃあ、ここで」と席から立った。保健室を出て行く間際、俺たちのほうを振り向き、言った。


「付け足しておくけど、俺の家やくざじゃないから。クリームパン工場だから」

 その場に間の抜けた沈黙が下りた。


「…………………………ださっ!」


 俺が思わず吹き出すと、ヒロも横を向いて手で顔を隠し、必死に笑いをこらえた。「だっせえ!」と俺は思い切り笑って、こんなに笑ったのは久しぶりじゃないかと思うほど腹を抱えた。女子たちも笑っていいのかいけないのか、遠慮がちに「ハハ」と声を漏らした。

 柊が居なくなり、生徒会メンバーだけになると、皆は緊張の糸が途切れたように話し出した。


「文化祭、どうなるんだろうな」

「おそらくこの騒ぎでだいぶ人が減るでしょう」

 俺の疑問にヒロが返すと、笹条も口を開いた。


「響古に連絡しなくちゃ」

「……日立さん?」

 俺が戸惑いながらあの子のことを尋ねると、笹条は事の状況を説明した。


「私が響古のことを話したら、仁川先輩がそのまま響古ごと連れて行っちゃって。響古に中庭ライブのリハーサル風景見せちゃいました。すみません!」

「……ええと、笹条と仁川と日立さんで中庭にいて、柊が割り込んできて、仁川がそれを止めようとしてボコられて……」

 頭の中で事実を整理し始めた俺に、笹条は被せてきた。


「それで絶体絶命のピンチの時に中庭の雰囲気がいきなりガラッと変わって、三田が自分のクラスをあおり始めて、合わせるように柊の仲間が裏切って……って感じです」

「では、仁川は日立響古さんと一緒になったということですね?」


 ヒロが意味深な台詞とともに不敵な笑みを見せた。

 あ、そうか、と俺は感づいた。仁川が何か言ってくれたのか。日立さんを立ち直らせるような言葉を。俺をフォローするような言葉を。


「助けに来てくれて、ありがとうございます!」


 笹条がぺこりと頭を下げ、爽やかな笑顔を浮かべた。

 あの子は、もう俺とは違う道を歩いているのか。ちゃんと自分の力で立てるようになったのか。もしそうなら、笹条と仁川のおかげなのかもしれない。

 日立さんは、きっともう泣かない。誰かのためじゃなく、自分のために生きていける。本当の美しさって、こういうところにあるのではないか。上手くは言えないけれど。

 俺は日立さんと仁川に、なぜだか無性にお礼を言いたくなった。

 怪我の治療をしてくれた保険医の先生に別れの挨拶をして職員室まで行くと、その途中、校長室に入っていく柊と三田、学年主任の先生が見えた。気になって、さっきからずっと黙っている流海と琉璃のほうに目をやった。二人は寄り添うようにくっついていて、柊の背中を悲しそうな瞳で見つめていた。


「……柊は、どれくらいの処分になるのかな?」


 それとなくヒロに問いかけると、「おそらく自宅謹慎でしょうね」と答えが返ってきた。流海が「そろそろ泣き止みなさい」と小声で言っていた。琉璃は、柊とどれほどの関係があるのだろう。訊きたかった気もしたが、今の琉璃に適切な言葉をかけるような余裕は何も持っていないことに気づいた。

 生徒会室に戻り、アクシデントの発生した現場の対処に追われながら、四日目の予定の調整と後夜祭の準備を行った。

 乾先生が先陣を切って奔走してくれたため、夕方までは一段落ついた。ヒロが校内アナウンスで中庭の合同ライブがいったん中止した旨を伝え、生徒たちに帰りの時刻を告げると、皆の姿はだんだんと校舎からなくなった。

「響古、明日も絶対、文化祭に来てね」と再び親友に連絡している笹条。しおれている妹の琉璃のそばに優しく寄り添っている姉の流海。仁川は今頃家に帰って、ヒロは俺たちを柔らかいまなざしで見つめている。俺はヒロと、皆と、どんな関係を築いていこうか。

 日立さんは、きっと生まれ変わることができる。今日一日で何があったのか知る由もないけれど、日立さんはもう俺を脅かす存在じゃない。女の子は、そんなにやわじゃない。

 今度こそお別れだ。二人、別々の道をこれからは歩むのだ。そしていつか、あんなこともあったなあと軽く笑い飛ばせるような立派な大人になって、相手のことを懐かしむのだ。

 電車が駅に着いた。ドアが閉まります、というアナウンスが聞こえ、俺は昨日とはまったく逆の感情を胸に抱きながら、家へと帰った。あのバカでかい家へ。お兄ちゃん、と俺の名を呼ぶ妹たちのもとへ。


 家の中に入ると、美夢希が学校から帰って来て部屋着に着替え、ソファーに寝転がって雑誌を読んでいた。俺を見つけると「あ、お兄ちゃんお帰りー」と間延びした声を出した。


「ただいま。夢路と亜夢はまだ仕事か?」

「うん。でもだいぶ巻いているみたいだから、いつもより帰りは早くなると思うけどね」

「そっか」とつぶやくと、美夢希はソファーから起き上がり、「ねえ、お兄ちゃん」と潤んだ目をしてつぶやいた。


「ん?」

「また夢にうなされたら、何か言ってね。お兄ちゃん、誰にも相談しないんだから」

「……いや、もう、うなされないよ」


 きょとんとしている美夢希に、「洗濯物とか風呂とかやったかー?」と話題をずらすと、「あ、まだやってない」と妹の焦った声が返ってきた。「しょうがないなー」と自分でできる程度の家事をしていると、「だって私たち、お兄ちゃんがいないと駄目だもん」と美夢希の拗ねたような声が聞こえた。


「お兄ちゃんはー、嘘や見栄ばっかりのテレビ人とは違ってー、ちゃんと現実に生きている男だからー」

「テレビ人って、何だよ」

「だからー、テレビの世界って本当に嘘ばっかりなんだからー。お兄ちゃんがいなかったら今ごろ私たちは男性恐怖症になっているんだからー」

「そうかい、そうかい。それはわかったから家事手伝いなさい」

「はーい」


 美夢希はしぶしぶと風呂の準備をして、俺は自室に戻りアイフォンを充電するために取り出した。二件のメールが来ている。夢路と亜夢からだった。


『TO兄貴 仕事早めに終わったから今日は一緒に夕飯食べられるかも。私が表紙の雑誌の見本、送るね』

『TOお兄ちゃん 今日一日でたくさんCM撮りました。疲れました。帰りは夕飯ギリギリになりそうです』


「……お前らも、もうそろそろ、自分の足で歩けるようになれよ」


 今はまだ面倒見てやるけどな、とアイフォンの電源を切って充電器に入れ、明日に備えるための支度をした。

 明日は、あの柊に孤軍奮闘した仁川を皆で迎えよう。そして最後の後夜祭、皆が笑顔で終われるように、精一杯頑張ろう。

 文化祭は、いよいよ終わる。盛大な祭りもあと一日だ。俺たちの予想を遥かに超えて、この三日間はいろいろなことが起こった。俺は、誰のために生きよう。自分のために生きよう。こんな偽善者の自分が、やっぱりそんなに嫌いじゃないから。

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