第3話 ストーカー女の最後の玉砕

 深夜一時、眠れなくて水を飲みに台所へ行くと、母が亡霊のような顔でテーブルの席に座っていた。私は足を止め、母の様子をうかがった。もう何度この抜け殻のような表情を見たことだろう。父と上手く行かなくなった頃から、母は一人の時にこんな風になるのだ。父と私がいる前では気丈に振る舞っているけれど、夜中、母は眠れずに一人、居間で途方に暮れている。私も同じように眠れなくなって、じっとしていることに疲れてそこへ行くと、母がぐったりと座っていた。最初に見たのは小学校の時か。私が周りの子たちに合わせられなくて何もかも上手くいかず、軽く馬鹿にされていたことに両親は深刻な表情を浮かべ、話し合っていた。しかし意見が合わず、次第に私をめぐって喧嘩し始めた。私はその時から眠れなくなった。やがて母は父に負け、私のことについては一切口を出さなくなった。父はがんばって学校へ行きなさいと言って憚らなかった。父に反抗することなどできなかった。いつも正しくて、立派で、まっとうなことを信じている父。戦って勝つことを何よりも美徳とする父。私はあなたみたいにはなれない、ポンコツな人間なんですと言えなかった。父に嫌われたくなかった。そして母の味方もしたかった。私のせいで両親の仲が悪いなんて、思いたくなかった。けれどその事実は隠しようもなくて、せめてこれ以上冷え切った関係にならないように私は元気なふりをした。私がちゃんとした娘なら、父と母はもう喧嘩なんてしないと思ったから。

 しかし母は亡霊のままだった。母の目に父と私の姿は映っていないようだった。何かに絶望した瞳で―でも何に絶望したのか私にはわからなくて―母は毎日のように夜中、ぼうっと居間に佇んでいた。

 私は見つからないようにそっと居間のドアを閉めた。なるべく音を立てないように。そして心の中で母に謝りながら、自室へ戻った。母がこうなったのは、私のせいだから。

 この学校へ来てしまったせいだから。


 私は文化祭が嫌いだ。もっと言うなら、体育祭も修学旅行も、つまりは学校の行事というものが大嫌いだ。幼い頃から集団行動が苦手で、周りに合わせることがひどく苦痛だった。

 この学校だって、「お祭り学校」だと知っていたら絶対に受験したりなんかしなかった。そもそもこんな学校に行くはずじゃなかった。

 私の進路を狂わせたのは、あの人。

 原田佳明先輩。

 当時、私は中学一年生だった。ゴワゴワの直毛の髪は真っ黒で、無理やり二つに縛っていて、切れ長の奥二重の目は、目つきの悪い証として他人にいい印象を与えなかった。

 私と同じように無口で引っ込み思案な女子たちは、それとなく同じ気配を察して教室の片隅で寄り添い合っていた。そしてクラスの男子から「ダサい女ランキング」で一位にされてしまった私を筆頭に、ほかの女子からも男子からもいじめられていた。

 女子は私たち暗い女を仲間外れにし、シカトしていた。男子はそんな女子の行動を見て下品に笑い、「おーい、また日立ハブられてるぞー」と声を大にして毎日のようにからかった。私からしてみれば、これはもう立派ないじめだった。あいつらの名前を今でも漢字一つ間違えずに覚えている。

 小学校からの習い性で、学校は休むことができなかった。もし休んだら、そのまま不登校になって二度と学校生活を送ることができなくなるのではないかと思ってしまって、どうしても怖くて休めなかった。ただ孤独に日々を過ごしていた。

 原田先輩は、私の中学の二学年上の先輩で、生徒会長をやっていた。その人懐っこい性格と爽やかな美貌で、ほとんどの女子は先輩のことが好きだった。それを見て私は、あんな人間にはなれないといつも絶望的な気持ちに陥っていた。

 その絶望が、希望に変わったのは、ある日の移動教室。

 相変わらずクラスの男子たちは執拗に私をいじめてきた。思い出したくもない嫌な言葉をシャワーのように浴びせられた。早く教室に着いて、とひたすらに祈っていた。

 その時、上級生たちのクラスとすれ違った。ちらりとそこに目をやると、あの学校一の人気者の原田先輩がいた。彼はたくさんの仲間に囲まれていた。三年生のクラスか、とぼんやりと思った。

 ブース、ブース、と幼稚園児のように騒いでいる男子たちに原田先輩は一瞥をくれて、そして、はっきりとした声でこう言った。


「別にブスじゃないよな。そこの一年、くだらないことしてんじゃねーぞ」


 たちまち男子たちは縮こまって、その身も心も成長している立派な男の人に返す言葉もなく硬直していた。これは自分たちとレベルが違う男だと本能が察したのか、すみませんというようにうなだれていた。

 私は信じられない気持ちだった。原田先輩のような完璧な人が、どうして私なんかを庇うのだろう。気にかけてくれたのだろう。こんなゴミみたいな私を。

 男という生き物は私に嫌なことしかしないと思っていた。男はどいつもこいつも見栄えのしない女を家畜のようにしか扱わないのだと思っていた。男は、私にとって敵のはずだった。

 原田先輩が、その概念を壊してくれた。あの人だけがほかの男と違った。

 それ以来、男子たちは私にあからさまな態度を取らなくなった。そして私の心は、あの人に奪われていた。

 原田佳明先輩。名前を知らない者などいない。学校一の人気者。あの人に少しでも近づきたい。

 一度決意したらそのあとは早かった。ティーンズ向けのファッション誌を買い漁り、制服の着回しの研究、メイクの研究、ダイエットの研究、とのめり込むように「イメチェン作戦」を実行した。

 まず美容院に行き、長かった剛毛の髪をバッサリと切った。すると驚くほどすっきりした。次に奥二重用のアイメイクのやり方をメイク雑誌で学び、生まれて初めてグロスを買った。あまりメイクをし過ぎると先生に注意されるので、アイメイクとグロスだけをやり、眉毛も今っぽく整えて、そして生まれ変わった私は学校に登校した。

 教室に入った時、クラス中の目が私に集まってきた瞬間、今でもはっきりと脳裏に映像が浮かび上がってくる。あの時の、私をいじめていたあいつらの、鳩が豆鉄砲を食ったような目。女子たちの唖然とした顔。友達のびっくりした顔。全部覚えている。

 私はその日、セミショートの黒髪にバッチリ決めたメイク、制服のブレザーからほんの少ししか出ていないミニスカートとニーハイソックスで学校に来たのだった。

 その格好で学校に来て以来、先生にはびっくりされたが、クラスの人たちにはもっとびっくりされて、誰も私をブスだとか根暗だとか言わなくなった。女子たちは急に親しげになり、私に頻繁に話しかけるようになって、その方面での友達もできた。男子たちもちらほらと、私に謝る人が現れた。

 この時を待っていた。これでようやく原田先輩と釣り合える女になれた。単純な当時の私の頭は、原田先輩と恋人同士になれたらという妄想であふれ返っていた。

 卒業式を間近に控えた三学期のことだった。原田先輩がいなくなる。その前にどうしてもこの人と繋がりたい。そう思っている女の子はもちろん私以外にも大勢いて告白ラッシュが続いた。私もそれに合わせるように体育館の裏というベタな場所で世紀の大告白をした。死んでもいいくらいの情熱で。

 原田先輩は優しく私の告白を断った。「今は誰かと付き合う気はないんだ」と爽やかに言った。女の子たちが皆振られているという話は聞いていたので、私もその一人か、と妙に冷静な頭で考え、反対に燃え盛るような熱い悔しさで高ぶっている心で、すがった。


「どうしても、どうしても駄目ですか? あの日、先輩に助けてもらってから私の人生は変わりました。私はあなたに追いつきたくてここまで変われたんです。先輩のことがどうしても好きです。お願いします。私と付き合ってください」


 原田先輩は一瞬、とても悲しげな目になった。私みたいな女をきっとたくさん見てきただろう、そんな女に向ける申し訳ないというような瞳だった。そして再度「ごめんなさい、日立さん」と断った。とても諦めきれなかったが、ここでさらにずるずると話を引き延ばしては駄目だと思い、その日は大人しく引き下がった。

 それから私は、彼の進学先の高校の情報収集に奔走した。

 高校生になれば、私も少しは大人っぽくなる。美をさらに研究して、身体つきも変化して、大人の女に近づくことができる。もっともっと変わって、原田先輩に振り向いてもらえるようにがんばるのだ。

 学校中の人たちの噂を聞きつけて、どの情報が正しいのかを判断し、女子たちからも協力を得て、私は彼が「木立市」という東京の郊外の市にある、公立の「木立高校」という新設校に入学するのだということを知った。

 あそこの偏差値は普通だ。難関校でもバカ校でもない。これなら私の頭でも入れる。そう思ったらあとは早くて、私は親の意見も何もかもを無視して、電車で一時間はかかるその遠い学校に入学した。生まれて初めて親に反抗した日だった。私があまりにも強い意志を見せたので、とうとう娘も変わったか、と父のほうは感心さえしたけど、母は変わらず私のことをぼんやりと見つめるだけだった。

 入学式の日、中学と同じように生徒会に入っていた原田先輩を見つけた時の感動は何ものにも代えがたかった。彼は高校三年生に上がり生徒会の副会長になっていた。背がだいぶ伸びて、大人の身体つきに変化していた。目の感じがぐっと深い優しげなものになっていた。

 とうてい生徒会長には見えないボサボサ頭の真四角眼鏡の男の人が壇上に上がった時は度肝を抜かれたけれど、副会長の原田先輩とは確固たる絆ができているようだった(それにしても生徒会長はもう少し外見に気を使ったらどうだろう)。原田先輩を好きな中学時代からの顔見知りの女子たちとは違うクラスになってしまって、ひとり遠いところから来た私は顔馴染同士であふれた一年三組の教室に溶け込めずに、半ばふてくされてアイフォンをいじっていた。

 原田先輩を追いかけるために入った学校だ。あの人にもう一度告白して、綺麗になった私を見てもらうのだ。それ以外は特に気に留めることもない。このクラスに用はない。

 そう言い聞かせながら、おしゃべりであふれた賑やかなクラスの中でひとり俯いている私に、声をかけた女の子がいた。


「ねえ、ツイッターやってるの? 何か面白い記事ある?」


 可愛らしい柔らかな声で私はドキリとし、顔を上げた。

 メイクで何とか誤魔化している私とはかけ離れた、驚くほど顔立ちの整ったスッピンの女の子が、人好きのする笑顔で私に話しかけていた。


 中央線の電車の中は都心とは反対の方向に進んでいるため殺人的な混雑具合ではない。私は隅っこの三人掛けの座席に座り、「木立駅」に着くまでの間ツイッターで十月になったのにまだ暑いとか今日は文化祭だとかつぶやいている。流れていくTLをすべて読みつくしLINEで友達にメッセージを送ると、やることがなくなったのでアイフォンを鞄にしまい下を向いて寝る体制に入った。いつも朝早く起きるので電車は基本的にSMSなどをやるか寝ているかだ。まだ駅までけっこうある。電車の適度な揺れに身を任せて意識を眠りのほうに向けた。

キラキラした日差しの中、青空の広がる公園に、私はいた。誰かと手を繋いでいた。

 横を見ると、原田先輩の顔がそこにあった。

 先輩は笑っていた。とてつもなく優しく。そして私も笑っていた。

 ああ、私たちは付き合っているのだ。

 光に覆われた公園を、私たちは手を繋ぎながら、どこまでも進んでいく。どこへでも行ける。きっと。

 次は、木立駅、木立駅、です。という車掌のアナウンスで私は目覚めた。あわてて降りる準備をする。木立市にはさまざまな学校が並んでいるので、駅のホームはいろいろな制服の子どもたちがエスカレーターや階段を下りていた。私も生徒たちに紛れて改札口に出た。

 また原田先輩の夢を見た。先輩の夢を見るのはこれで何度目だろう。一度だって忘れたことはなかった。夢が叶ったことなんてなかったけど。

 今日、私は二度目の告白をする。告白大会というイベントを利用して。ジンクスを信じて。彼にもう一度。大切なお話があります、と原田先輩を呼び出して、告白の日にこぎつけた。「わかった。いいよ」と先輩から返事が返ってきた時は、嬉しすぎてどうにかなってしまいそうだった。そして待ち合わせ場所と時間を決めて、連絡のために何と、アドレス交換までしてしまった。私は、拒否されるのではないかという恐怖と戦った自分を褒めたくなった。ずっと怖かった。告白できるチャンスもないまま終わってしまうのではないかと。けれど終わらなかった。原田先輩は受け入れてくれた。何て優しい人なのだろう。

 私のことを覚えていてくれたし、もしかしたら、本当にもしかしたら、今度こそ恋人になれるのではないか。幸せになれるのではないか。私は逸る心を抑えられなかった。

 改札を通って、木立駅の東口に向かった。そこでいつも待ち合わせをしているあの子のもとまで歩く。あの子はいた。元気いっぱいに手を振って、幼い少女のような可愛らしい笑顔を向ける子。

 笹条希美。

 入学式の日、初めて私に声をかけてくれた女の子。びっくりするほど綺麗な顔立ちをした、私なんか足元にも及ばない美少女。


「響古、おはよう!」


 爽やかすぎるくらいに爽やかな笑顔で、朝の挨拶をした希美に少し苦笑して、私は挨拶を返した。弾んでいた心は少し重くなった。

 希美の爽やかさは、原田先輩の爽やかさに似ている。けれど何かが違うような気がして、でもその何かが一向にわからなくてしばらく考え込んだ。

 希美は生徒会に入っている。驚くことに「ターミネーター」とあだ名がついたあの冴えない生徒会長のことが好きだという。真剣な表情で恋愛相談をする彼女に、私は必死に隠している自分の恋心を悟られないようにしてそれっぽいアドバイスをしたりした。原田先輩に恋をしていることはあまり知られないほうがいいのではないかと思った。

 学校に着くまでの五分間、通学路を歩きながら他愛のない話をする。ふと気を許して、私は彼女に重い台詞を言ってしまった。


「この先、何があっても、私のそばにいてくれる?」


 希美の表情が固まったのがわかった。ああ、また馬鹿なことをやった。否定されるかもしれない。心臓が嫌な鼓動を立てた。


「……うん。約束するよ」


 希美は、すぐに笑ってくれた。しっかりとした声にほっとして、私はふいに泣きたくなった。ごめん、希美、ずっと隠し事していて。私、原田先輩に憧れてこの学校に入ったんだ。一度振られたのに、それでもまだ好きで諦められなくて、ストーカーになっちゃったんだ。私は、そういう女なんだ。相手の優しさにつけ込んで、寄生する。まるで虫みたい。どこからでも沸いてくる虫。私、本当は何一つ変わっていない。誰かが自分を見つけてくれるのを待って、どうしようもないくらい世界に対して怯えている。

 希美はまだ柔らかな微笑みで私のことを見つめている。私もまた無理やり平気な顔を作って次の話に持っていった。希美は穏やかに笑っている。私もまた笑って、いつもみたいに二人でじゃれ合い学校の校門をくぐった。


 教室に入ると例の二人組が待ち構えていた。下田あやなと岩井彩貴だ。この二人はまるで双子のようにおそろいの髪型をしていて、目をでかく強調することだけを考えたようなメイクで毎日希美のそばをうろついている女子だ。希美ともっと仲良くなりたいのだろう。そこに私は入っていない。まあ、どうでもいいが。

 二人の話題はさっそく原田先輩になった。この二人も先輩が好きなのだが、本当はただ先輩の美しい顔を見て騒ぎながら鑑賞していたいというミーハーなファンだということを私は見抜いている。だからこんなやつらに原田先輩について語ってほしくないというのが本音だ。

 原田先輩には三人の妹がいて、その三姉妹は現在テレビに引っ張りだこの売れっ子アイドルなのだ。この三人の顔立ちは基本的には一緒で、やはり原田先輩によく似ていた。先輩も事務所のスタッフにしつこく勧誘されているらしいと風の噂で聞いた。

 希美が楽しそうに話しているので仕方なく輪の中に入っていると、下田と岩井による妹バッシングが始まった。この二人は二番目の妹のことが嫌いで、しょっちゅう悪口を言っているのだ。私は妬みから来る毒気を受けつけられず居心地が悪くなって、「ちょっとトイレ」と教室を出ていった。下田たちは私が出て行った瞬間いつものように希美に、「何であの子と仲いいの」と言っていることだろう。本当はすべて知っている。私には気を許せる友人が、希美しかいない。三組の女子のボスである下田たちに嫌われている。そのおかげでほとんどの女子とあまり話せていない。

 胃がむかむかするのをこらえて鏡で髪型が崩れていないかチェックする。やることがなくなってまた教室に戻らなければいけないと思うと溜め息が漏れた。

 その時、ポケットに入れていたアイフォンが振動した。もしかしてと思って取り出すと、一通のメールが来ていた。

 まさか、まさか。波打つ心臓を押さえつけて、震える手で受信メールをタップする。

 原田先輩からだった。


『おはよう。今日の昼十二時過ぎくらいに、体育館の裏口で待っています。ちょっと生徒会が忙しいので遅れるかもしれないけど、必ず行くから。それでは午後に会いましょう』


 原田先輩だ。本当に原田先輩だ。ただ当日の連絡のためだけに交わしたアドレス。ずっと勝手にメールとか電話とかしちゃいけないと思って自分からできなかった。それが今、こうやって先輩からメールが来た。ただの連絡事項だけど、私にとっては消せないメールの一つとなった。

 すぐに返信を打って、先ほどまであんなに居づらかった教室も高揚とした気分で戻ることができた。表情だけはいつものクールな自分を取り繕って。手招きする希美を「ごめん、今日はちょっと」と断わり、自分の机に着いてアイフォンのホーム画面とにらめっこしていた。するとメールが来て、原田先輩から『そんなに緊張しないで。……って言っても無理か。あの時は上手い言葉が見つからなくてごめん。今日、答えを出すから。じゃあ午後に』と何だか嬉しい返事が来た。私は何とか会話を繋げたくて、けれどもうすぐ生徒会の朝ミーティングが始まるので仕方なく最後の挨拶の文章を打ってメールを送信した。生徒会、がんばってください、というメッセージを込めて。

「ノンちゃん、またねー」とクラスの女子たちのエールが聞こえて、あわてて顔を上げた。教室のドアを開けて出て行こうとする希美と目が合った。私が小さく手を振ると、希美はニコッと笑いかけてくれた。

 希美がいなくなると、クラスの雰囲気が少し変わった。まるで太陽の光を失ったみたいに、皆はだらりと力を失くして気だるさに満ちた教室となった。その中で私は一人、下田たちから浴びせられるきつい視線を背中で受け止めていた。原田先輩と繋がっていることは死んでも隠さないといけないなと強く思った。今日が告白の日だということも、あいつらは何か感づいているのかもしれない。私はひたすら時が来るのを待っていた。


 文化祭二日目が開演する十時が迫ってきて、皆は制服からクラスTシャツに着替え始めた。私も更衣室に向かう女子たちから少し離れながら、さっと更衣室に入り、着替える。そういえばこの学校の制服のセンスも私は嫌いだった。いくら洒落っ気のある制服が今の時代に受けるからって、ピンクのリボンはどうなのだろう。似合う人と似合わない人が明確に分かれてしまうではないか。

 クラスTシャツに愛着なんてまったくない。古風なデザインを意識した達筆な文字と哀愁あふれる絵。確か美術部の人が作ってくれたやつ。私はこんなTシャツに金を払ったのかと思うと怒りすら湧いてくる。それほどこのクラスが気に喰わない。私には希美と二人でいる時だけが楽しい時間だった。

 希美は不思議だ。どうしてこの子は私なんかに声をかけてきてくれたのだろう。

 入学式の日、原田先輩以外に何の関心もなかったので、ほとんどの時間ぼうっとしていて友達作りにも興味が沸かなかった私は、ただ机に頬杖をついてアイフォンをいじっていた。

 先輩に早く会いたい。どうして私は彼より二つも年下なのだろう。埋めようのない二年の月日が、こんなにも残酷だと思う日が来るなんて。

 やり場のない思いにかられていた時、私は希美に出会った。

 天と地ほども差のある二人だから、きっと仲はすぐにこじれるだろうと覚悟していたのだが、なかなかどうして私と希美の共通点は意外に多く、欠かさず観ているテレビ番組、好きな洋服のブランド、好きな雑誌、好きな漫画など話題の尽きることはなかった。私は不思議だった。友達ってこんなにすぐできるものなのか。何の苦労もなく向こうから話しかけてきてくれたなんて、高校に入って初めてだった。中学の時に何となく一緒にいた自分と似たような女の子たちとは、卒業したきり疎遠になってしまった。アドレスを変えられた子もいる。音信不通になった子もいる。しょせん私の築けた人間関係などその程度のものだったのだ。

 だけど、希美は違う。この子だけは違うと言い切れる。親友だと、心から言える。頭の奥の最も大事な部分が、この子はあなたにとってかけがえのない存在になるよ、と私の心にメッセージを送っていた。

 クラスTシャツに着替えると、半袖になったのでどことなく腕がスースーとしたが、十月になっても暑さはまだ残っているので涼しげな格好になれたと思えば楽だった。教室に入り、下田たちが固まってしゃべっているのを私は冷めた目で見つめていた。男子たちは気合いのこもった表情でそれぞれの屋台に着いて興奮気味にはしゃいでいた。誰も私がここにいるとは気がついてないようだった。

「ただいまより、文化祭第二日目を開始いたします」とターミネーターの低い声がスピーカー越しに聞こえた。しばらくすると、遠くのほうからお客さんのやって来る気配がした。


 お客さんの層は小学生から中学生くらいまでの子どもを連れた家族が多かった。母親と二人で来た学生が最も多く、そのほかにも友達同士で来た子どもたちやカップルもけっこういた。

 縁日という言葉の効果からか、私のクラスの会場には人が多く入った。私は受付を任されていた。ここに名前を書いてください、と偽りの笑顔で接して中に通す。受付を申し出た理由は一人でできる作業だったからだ。教室でほかの人と一緒に屋台を運営するなんてとうていできなかった。

 午前の部の私たちはがんばって働いて、いよいよ昼休憩時に近づいてきた。告白大会も大詰めで、フィナーレを迎えたらしい。中庭のほうに人がたくさん来ていた。

 午後の部の人たちが合流して、ついに私は受付から解放された。衝立に区切られた休憩スペースで弁当を急いで食べ、アイフォンを取り出して原田先輩に連絡を入れる。


「日立さん、ちょっと」


 突然、声が下りてきたので私はビクリとした。反射的にアイフォンを隠した。顔を上げると、何だか恐い顔をした下田と岩井が立っていた。

 まさかこの二人に原田先輩とのメールを見られたのかと思うと、恐ろしさで背筋が震え上がった。しかし二人の口から出た言葉は、「ノンちゃんのことなんだけど」と想定外のものだった。


「な、何?」


 私はアイフォンをポケットにしまって、とりあえず原田先輩のことがバレなくて安堵した。


「ここだとアレだから、来てくれる?」


 下田がいつになく威圧的な雰囲気を出して、断ったら承知しないとばかりに命令した。何か良くないことを言われる。わかった上で、私は「……うん」と返事をした。

 渡り廊下を渡って北校舎の一階の裏側にある非常口階段に連れて行かれた。人気のないしんみりとした場所に、下田と岩井の茶色い巻き髪が場違いなほど似合わなかった。


「……ノンちゃんってさ、すごく優しいんだよね」

 下田が思わせぶりに口火を切った。岩井が調子を合わせるようにうなずく。


「だから、日立さんみたいな人を放っておけなかったんじゃないかな」


 下田は希美のことを憐れむように、ねっとりと絡みつくような口調でゆっくりと話した。私は、次に言われる言葉をもう予想できていた。


「私たちが一番許せないのはね、そういう優しさにつけ込んで依存する寄生虫みたいな人間なの」


 下田と岩井がアイコンタクトを取った。二人は口を合わせて、勝ち誇ったような瞳で私に止めの一言を突き刺した。


「あんたみたいな人、迷惑なだけなの。ノンちゃんがかわいそうだから、もうこれ以上私たちに近づかないでくれる?」


 知っていた。自分が誰かに依存しないと生きていけないということを。寄生虫だと。でも、だとしたら、あんたたちは何なのだ。希美の何だというのだ。いつも、いつも、誰かの悪口を言って、関係のない他人を貶めて、それでどうしてそんな自信満々に生きることができるのだ。

 そう言ってやりたいのに、心はそう叫んでいるというのに、私はただ唇を噛みしめることしかできなかった。棒立ちになったまま、二人の意地の悪い顔を見つめていた。


「ねえ、聞いてる? 私たちの話」


 下田がキッと私をにらみつけた。「き、聞いてるよ」とあやふやな言葉をかろうじて口にした時、ポケットに入れていたアイフォンが振動した。

 はっと、頭が覚醒した。今は何時だ。昼休憩時刻はどれくらい過ぎたのか。この振動はメールの着信だ。今このタイミングでメールが来るということは、間違いなく原田先輩からだ。


「も、もう、希美には近づかない」


 私は急いで頭の中に散らばっている言葉を整理した。そして下田たちの蔑んだ目をしっかりと見て、震える身体を悟られないように発言した。


「の、希美は、皆の希美だから、もう一人占めしない。あの子から離れる。それでいいでしょう?」

「……わかっているなら、いいよ」


 下田がまだ疑り深そうにこちらをねめつけていたが、やがてぶすっとした声で吐き捨てるように言った。岩井も合わせて私を一瞥した。

 私は一目散にその場から逃げた。足を懸命に動かし、息を大きく吐きながら、渡り廊下を駆けた。あの人の待っている体育館の裏まで、ガンガンと鳴り響く頭とドクンドクンと痛みを振り絞って打ち続ける心臓を抱えて、中庭のカップルたちを横目に通り過ぎた。

 曲がり角で誰かとすれ違いざまにぶつかった。あわてて「すみません!」と謝ると、恐ろしい人物がいた。

 柊雪斗。悪魔的な美貌を持った男で、鋭い光を放つ目の奥の、どす黒い瞳が、今まさに私を見下していた。


「……あ、あの、本当にすみませんでした」

「うわ、だせー女」


 柊が放った台詞は、中学の時に男子から浴びせられた台詞と比べれば何てことない言葉だったのに、その低くてかすれた声で紡がれた悪意に、固まって動けなくなってしまった。どうして。これ以上のひどい言葉、たくさん浴びてきたはずなのに。たかがダサいなんて悪口、今さらどうってことないはずなのに。


「ああ、ごめん、ごめん。つい本音が出ちゃった。気にしないで」


 柊はヘラヘラと笑うと私の肩をポンと叩いて、一瞬、捨て犬を拾ったような優しくて残酷な表情をすると、何事もなかったかのように廊下を歩いていった。

 行かなくちゃ。

 原田先輩のところに、行かなくちゃ。

 がくがくと震える足をもう一度動かして、今度は人にぶつからないように注意して小走りでその場所に向かった。


 体育館の中は運動系の部活が貸し切ってお客さんに自分たちの部をアピールしていたが、そこから一歩裏口に出ると、雑草すら生えていない真っ黒な地面に日の射さない薄暗いフェンスがぼんやりと存在している。ステージで何かしているらしく、中庭から恋人同士になったばかりの男女の声援が少しだけ聞こえる。完全に姿を隠せたわけではないが、秘密の告白をするにはうってつけだった。体育館の裏というのは、私にとってとても大切な場所だった。

 原田先輩は先に待っていた。フェンスにもたれかかって、アイフォンをじっと見つめていた。その姿も様になっていて、何て美しいのだろう、と私は泣きたい衝動にかられた。


「……は、原田先輩」


 息を切らしながら蚊の鳴くような声を出すと、先輩は真っ先に気がついてこちらに笑顔を向けた。それだけで何かが救われた。


「久しぶり、日立さん」

「お、お久しぶりです。こんな忙しい日に呼び出してすみません」

「いいよ。告白大会に合わせたかったんだろ? それに生徒会はいつも忙しいから」


 私は何とか間を持たせたくて「……ま、待ちました?」と情けなく訊いた。


「いや、そんなに待ってないよ」


 原田先輩はアイフォンをポケットにしまい、「何か、あの日以来だね」と懐かしげに言った。私のことを覚えてくれていただけでも嬉しいのに、そんな懐かしむような顔をされてしまうと、もう、期待しかない。


「日立さん、すごく情熱的だったから記憶に残ってるよ。一生懸命告白してくれているのが伝わってきてさ」


 原田先輩の楽しそうな声に、私は下田たちに呼び出されたことも柊に侮蔑されたこともすべて水に流せた。


「でも、すごい偶然だよな。俺たちの中学からこの学校に来た人、ほとんどいないのに」

「……そうですね」


 嘘です。本当は、あなたを追いかけてきたんです。どうしてもあなたを諦められなくて。私ばかり好きで、いつも一方通行で、どうしようもないとわかっているのに、やめられないのです。好きでいるということが。


「原田先輩」


 私は、息を整えた。そして腹をくくった。体育館をまたいだ中庭から、一際大きな歓声が聞こえた。先輩も真剣な顔つきになり、私の目の前に立った。すらりと高い背と細身の筋肉質な身体がまるで芸術品のように美しかった。


「しつこくてすみません。けど、二度目の告白をさせてください。中学一年生のあの日、先輩に助けてもらってから、ずっと先輩のことが好きでした。あれからずいぶん経ったけれど、いまだに忘れられません。どうか、私と付き合ってください。お願いします」


 最後に頭を下げた私に、低くて甘みのある声が降ってきた。


「日立さん、ごめんなさい」


 やはり、駄目だったか。こんなに思っても駄目なのか。私の何がいけないのか。もう一度問いかけようとした時だった。


「いい加減、夢から覚めてください」


 原田先輩の瞳が、スッと冷徹な色になった。真顔で、真剣な目つきで、私を心の底まで叩き落とす言葉を放った。


「何度告白されても、俺は日立さんのことをそういう目では見ることができない。俺は多分、これからも一生、君のことを好きにはならない。どんなに優しくされても、愛されても、俺は返すことはできない。なぜなら、君は俺の理想の人じゃないからです。……もう、正気に戻ってください。今度はちゃんと自分を見てくれる人を愛してください。俺なんかよりもいい男はたくさんいます。幸せになってください」


 先輩はそこまで言うと、先ほど私がしたみたいに頭を下げた。それは、もう私なんかが迫ることなんてできないほど、何かを拒絶した「答え」だった。

 これで、終わりか。

 私の馬鹿げた夢も。妄想も。片思いという楽しいのか苦しいのかよくわからないお芝居も。

 先輩はきっと、私がこの学校に来たのは偶然だとは思っていないだろう。私みたいな人間を何度も見てきて、何度もしつこくされてきたのだろう。私もその一人だったのだ。外見だけ着飾って、心は何一つ変えられないまま、私はここまで来てしまった。先輩はそんな私を助けるために、この台詞を言ったのだ。ちゃんと自分の足で立てと。過去にすがらず、未来を見て歩けと。


「……今まで、ありがとうございました」


 泣きたくなんかなかったのに、最後は笑顔で去りたかったのに、あふれ出る涙は止まることを知らず、とめどなく私の頬を濡らした。


「せ、先輩の言うこと、ちゃんと、守ります」

「うん。ありがとう」


 原田先輩はあくまで優しかった。


「も、もう、ストーカーしませんから。これからは、あ、新しい人、見つけますから」

「うん」

「せ、先輩のこと、忘れるくらい、幸せなこと、見つけますから」

「うん。そのほうがいいよ」

「さ、さようなら」

「さようなら」


 原田先輩は、私が泣き止むまでそばにいてくれた。何をするでもなく、ただ私の目の前でじっと立っていた。次第に涙は枯れ、私は、次に自分が何をするべきなのかを考えた。

 噂は広まる。

 悪意ある人間の手によって。時には尾ひれをつけて言ったこともないことをさも言ったかのように吹聴される。

 もう、動かなくちゃ。

 もう、行かなくちゃ。

 涙が止まった。目はまだ赤く充血しているだろうけど、今ここで立ち止まってはいけない。

 私は、三年間浸っていた夢から、ようやく覚めようとしていた。

 原田先輩のもとから立ち去った。先輩の顔を見ずに。笑顔でかっこよく決められる余裕がなかったせいもあるけれど、それよりも、私が告白したことで変わってしまった「ヨッシー親衛隊」の悪の手に、これからどうやって対処するかが問題だった。

 私は再び走った。わき目も振らずにとにかく走った。先輩の気配はもうなくなっていた。

 さようなら。原田先輩。

 私、こんなにも根暗でこんなにも卑屈でこんなにもぼっちで、希美の友達ということだけが唯一の誇りだったから、ここまで突き放してくれて本当に、本当にありがとう。

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