第2話 一途ガールの困惑

 どうしよう。夢みたいだ。あの会長から、あれほどガードが固かった人から、ほぼ告白OKの意思を伝えられた。

 もしかしたら私の見ている都合のいい夢なんじゃないかと、手に握ったアイフォンを鞄に入れたあと試しに頬の肉を引っ張ってみる。痛い。夢じゃない。ということは、現実だ。現実に起こった出来事なんだ。

 世界中に向かって「よっしゃー!」と叫びたい気持ちを我慢して、一人で小さなガッツポーズを決めた。

 鼻歌を歌いながら制服に着替え、いつもより一オクターブ上がっているんじゃないかという明るい声で「行ってきまーす!」と廊下の向こうのリビングに声をかける。「行ってらしゃーい」とお母さんの柔らかな声が返ってくる。ドアを開けてマンションの共有廊下に出ると、一階に下りるためエレベーターのボタンを押した。

 ドアが開き中に入って、エレベーターが一階に下降するまでのあいだ、後ろに貼られた大きな全面張りの鏡に自分の身だしなみを映す。

 私の通っている木立高校は、約五年前に新設されたばかりのピカピカの校舎で、学校の制服もキラキラしていて、高校には珍しく給食制度もあるしグラウンドも広いし大講堂もあるし、何より会長に会えた。本当にここに決めて正解だったと思う。

 髪を手串で直し、制服のブレザーの襟を正す。普通の学校の女子の制服は赤か青あたりのリボンかネクタイだけれど、この学校は何とピンクのリボンだ。それだけでも私の乙女心は刺激されるのに、さらにタータンチェックのスカートがアレンジであって、ソックスの色は地味なものであれば自由というお洒落度である。ちなみに男子も同じような感じで、青空のようなネオンカラーのネクタイが眩しい。学年を表すワッペンがブレザーの左胸の部分についている。一年生は銅。二年生は銀。三年生は金。上下関係はあまり厳しくなくて、わりとどこの学年の先輩も優しい。ヨッシー先輩だって、仁川先輩や流海先輩、琉璃先輩、先生たちも穏やかだった。全体的にのんびりとした校風だ。

 その中でも例外的に忙しいところがある。生徒会だ。文化祭を四日間も開催するこのお祭り学校を取り仕切る生徒会は、この時期が近づくと働き蜂ばりに働くのだ。私は何とか皆についていくだけで精一杯なのに、あの人はよく倒れないものだと思う。生徒会長、大塚博史先輩。

 私はあの日、彼に心臓を撃ち抜かれた。


 この高校の入学試験を受けたのに、そんなに大した理由はなかった。単純に「制服がかわいいから」と「家から近いから」だった。

 入学式が終わって一年三組のクラスに分けられて、すぐに友達もできて平和だけど退屈な日々がやってきた四月の半ば。

 いつも通りに登校して一年生の下駄箱へ行くため南校舎の玄関口まで歩いた時だった。

 何か頭上に気配を感じた。

 それと同時に、悲鳴のような叫び声が周りの生徒たちから聞こえた。

 上を見た。

 空から、人が降ってきた。

 最上階から、人が飛び降りたのだ。こんな平和な学校で飛び下り自殺!? と私は目を白黒させた。

 しかしその人物は、死ななかった。

 身体を空中でグイッとひねり、綺麗に回転してそのまま地面にトン……と『着地した』のだった。

 私は、あまりに身軽で無駄のない華麗な動きに、ただ茫然としているしかなかった。目の前で起こった出来事が本当に現実のものだと思えなかった。私の周りにいた生徒たちもまた、石のように固まっていた。上級生らしき誰かがポツリと「ターミネーター……」とつぶやくのが聞こえた。

 その人物はすっくと立ち、パンパンと埃を払って、そして頭上高く目線を上げて怒ったように叫んだ。


「仁川!! 大切な書類はきちんとファイルに保管しなさい! どうやったら窓から落とすような芸当ができるのですか!?」


 最上階の四階の窓から、何やら派手な色に染めた髪の男の子が「すみませーん!」と謝っていた。そうか。この人、書類を『拾った』だけなのか。私の頭の中の妙に冷静な部分がそう判断して、一方の興奮した心は、いや、普通死んでいるだろ! と突っ込んでいた。

 その四階から落ちても死ななかった人は、正装時のきちんとした制服を着ていて金のワッペンが見えた。三年生で男子生徒だ。

 脳が情報収集を始めた。髪、墨汁のように真っ黒でボサボサ、変な形の黒い眼鏡をしている、目、細い、奥二重か、けっこう、いやかなり鋭い目つき、肌、不健康なほど青白い、けどひ弱な感じは全然しない、だからといってマッチョな感じでもない、無愛想、クールキャラなのか……などなど。

 その人と、バッチリ、目があった。

 あ、ええと、と私がどもっているうちに、その人は変な形の黒縁眼鏡をクイッと上げて、言った。


「どうも。見苦しいところをお見せしました」


 そして、さっと踵を返して、何事もなかったかのようにスタスタと歩き去っていった。

 彼の姿が消えると、私の周りで緊張の糸が唐突に切れた。

 どっと人がしゃべり出す。「さすがだよ、ターミネーター……」とささやく上級生。「今の人、誰……? 何で生きてるの……?」と怖がる同学年の子たち。

その中で私はただ一人、ドクンドクンと熱く高鳴る心臓の鼓動を感じ取っていた。


「……す、すごい」


 それしか言えなかった。

 でも、それだけで充分だった。

 恋をするのに、一目惚れをするのに、理由なんていらない。

 私はあの時はっきりと、この超人的な男の人が好きだと思った。


 学校とは反対方向の道を歩いて木立駅に着き、友達を待つ。LINEに「着いたよー」とメッセージを送ると「了解」とだけ書かれた絵文字も何もないそっけない返事が来た。相変わらずキョーコはクールな女の子だ。

 キョーコこと日立響古(ひたち きょうこ)は、入学式の日、三組のクラスで早くも人に話しかけている私のことを少し冷めた目で見ていた。そして誰ともつるまず、ひとり後ろの席でアイフォンをいじっていた。見かけはメイクもばっちり決まっていて今時の女子高生風なのに、纏っている雰囲気は一匹狼のそれだった。そのミスマッチ感が何とも気になって、私はその場のノリで軽く彼女に声をかけた。「ねえ、ツイッターやってるの? 何かおもしろい記事ある?」確か最初にこう話しかけたと思う。キョーコはその時なぜかほんの少しだけ怯えるような目をして、けれどすぐに冷たい光を宿した瞳に戻り、こう言った。「特に何もない」と。私はその瞬間、頭の中でパッと配線が繋がって光がついた電球みたいになって、この子となら合う! という確信めいたものを感じた。自分の勘をちっとも疑うことはなく、スッと相手のパーソナルスペースに入って、告白の時みたいにちょっと思わせぶりな言葉を口にした。「ねえ、一緒に帰ってもいい? 私、笹条希美!」自分の名前を出すと、彼女も押しに負けたのか、ボソッと一言だけつぶやいた。「日立響古です。よろしく」それ以来、私とキョーコの友人関係は続いている。

 私はこの子の名前を「キョーコ」とカタカナにして登録している。そっちのほうが何だかかわいい気がするからだ。

 ふと前を見ると、改札を通ってくる人だかりの中でセミショートの黒髪の女の子を見つけた。制服の袖を七分丈までまくっているからキョーコだとすぐにわかった。キョーコは暑がりなのか、よくシャツの袖をまくる癖があるのだ。ピンクのリボンと濃紺のスカートという組み合わせにセーターを腰に巻き付けていて、その着こなし方もなかなかに彼女っぽかった。


「キョーコ、おはよう!」


 私は手を大きく振って笑顔を見せる。キョーコは私に気がつくと、ぶっきらぼうに手を振り返した。少しつり気味に上がっている目を和らげるように引いたアイラインと、花の蕾のようなぷっくりとした唇のグロスルージュが印象的だった。


「おはよ。ごめん、待たせた」


 キョーコは手で前髪をかき上げながら色っぽいかすれた声で言った。だいぶ前に私がプレゼントした花柄のヘアピンを毎日のようにつけてくれていて、何だか嬉しかった。


「ヘアピン、似合ってるね! やっぱりプレゼントして正解だった!」

「まあ、これがないと女の子らしくないっていうのもあるしね」

「え、そんなことないよ? ただイヤーアクセとか、そういう小物系があったほうがショートの髪が魅力的に見えるかなあと思って」

「……イヤリングとかも、したほうがいい?」


 ふいにキョーコが不安そうな瞳を私に向けた。ドキッとして、私はあわてて付け足す。


「いやいや、そのままで充分綺麗だよ、キョーコは!」

「……そっか。ありがと。さすがにイヤリングは先生に注意されるかもしれないしね」


 行こうか、とキョーコは言うと、私のほうを振り返らずに先に歩いていった。いつもより早いキョーコの歩幅に合わせながら、どうしたんだろう、さっきのキョーコ、私にお洒落の相談したことなんてなかったのに、と戸惑っていた。私は人のこういう表情を見つけるのが上手い。きっと、キョーコはある重大な秘密を抱えているのだろう。それを私に話さないというのは、何か私に知られたくないことなのかもしれない。だったら知らないようにするほうが友達として正解なのかな、と悶々とした。

 駅の東口に出て、学校へ向かう。周りは文化祭二日目に沸き立つ私たちの学校の生徒たちでいっぱいだ。私たちは何気ない会話をかわしながら寄り添い合うように歩いた。


「あのさ、希美」


 キョーコが会話の途中でいきなり低い声を出したので、私は思わず構えてしまった。


「ん? なあに?」


 表情だけはいつもの笑顔を取り繕って。


「悪いけど、今日はお昼一緒に食べられない。大切な用事があるの」

「あ、うん。ていうか、昨日はごめんね! 一緒にお昼食べることも帰ることもできなくて……!」

「いいよ。柊のせいだから」


 キョーコはさらっと言った。昨日しつこいほど謝ったので、キョーコは特に気分を害してはいないようだった。


「それとね」


 キョーコがいつになくか細い声で、ぽつりと言った。


「この先、何があっても、私のそばにいてくれる?」


 重みのある、ある意味重すぎる言葉に私は一瞬凍った。それでもキョーコがこんなことを言うのは、きっと私自身にも影響を及ぼす大事件があって、それを私が知らなくても自分のそばにいてほしいという願いなのだと悟った。キョーコの願いなら、私は断われない。重い空気を感じた。通学路を歩く生徒たちの賑やかな笑い声がふいに耳を突いた。


「うん。約束するよ」

「……ありがとう」


 キョーコはふわりと笑った。笑うともっとかわいいのに、どうしていつもクールキャラでいるのかな、とも思ったけれど、何も言わないことにした。


「……どうしたの? 私にも話せないことって」

「……事が済んだら、話すよ」


 それよりもさ、とキョーコは話題をそらした。


「あのターミネーター攻略はどうなってんの?」

「あ、それそれ! 実はとうとう告白しちゃいます! 何と脈がありそうなの!」

「……ふーん。あの堅物のどこがいいのかね?」

「あ、ひどーい! 堅物じゃないもん! 優しい人だもん!」

「ごめん、ごめん。嘘だってば」


 やっといつもの調子を取り戻し始めた私たちは、じゃれ合いながら校門を通った。生活指導の先生のライオンのような挨拶の声に挨拶を返して、一年生の下駄箱で上履きに履き替え、一年三組の教室へ向かった。


 我がクラスは縁日をやる。風船つり、駄菓子屋など昔ながらの屋台みたいな感じで、クラスTシャツもそれに合わせて古風な色合いとデザインになった。一日目はたいそう盛り上がったそうで、生徒会のために早くから抜けた私はキョーコに状況を尋ねたのだが、彼女は「まあまあ」としか言わなかった。まあ、そういうキャラだし。

 生徒会の朝ミーティングが始まるまで、クラスの人たちとしゃべる。キョーコも私の隣にいるけれど、あまり楽しくなさそうな表情を浮かべている。一人にさせたほうがいいのかなとも思ったけど、そうするとクラスで浮いてしまうので何とかしてキョーコを女子の輪の中に入れたかった。


「ねえ、ヨッシー先輩の妹さん、またテレビで見ちゃった!」


 先輩の熱烈なファンである下田(しもだ)あやなちゃんが、興奮した面持ちで嬉しそうに言った。続いてあやなちゃんの友達である岩井彩貴(いわい さき)ちゃんが合いの手を入れる。


「ああ、『逢坂(おうさか)三姉妹』でしょ!? 夢路(ゆめじ)ちゃんに美夢希(みゆき)ちゃんに亜夢(あむ)ちゃん!」

 

 かわいいよね~! と二人は大いに盛り上がった。

 その時、キョーコの瞳に何か冷たいような鋭いような光が宿ったのを感じた。この二人がヨッシー先輩の話題を出さない日はないのに、どうして今、とても危険な目をしているのだろう。


「ヨッシー先輩も芸能界入りすればいいのに」「何か噂で事務所の人が毎日のように押しかけてるって聞いたよ?」「逢坂三姉妹がCD出して成功したからねー。あの三姉妹を超えるアイドルはいないんじゃない?」


 畳みかけるようにしゃべり合う二人に相槌を打ちながら、私はキョーコがますます冷たい瞳になっていくのをハラハラしながら見守った。


「今日の告白大会にもヨッシー先輩、出ないの?」


 彩貴ちゃんが疑問を口にすると、あやなちゃんがすかさず答えた。


「何か、かなり前に約束していた女子がいるらしくて、その人のためにほかの女子の告白を全部断わっているんだって。大会には出ないってさ」


 つまらなそうに言うあやなちゃんに、「えー、それ本命じゃん!」と彩貴ちゃんが驚いたような顔をした。「一体誰が抜け駆けしたんだか……」とあやなちゃんは吐き捨てるように言った。ちょっと悪口になりそうな流れだったので、私は話題を変えるため再び逢坂三姉妹の話を出した。


「ねえ、皆は三姉妹の中で誰が好き?」


 私の振った話題に、二人はすぐに声色を変えて、また機関銃のようにしゃべり出した。


「そりゃーやっぱり、夢路姉さんでしょう! 運動神経抜群だし、背高いし、スタイルいいし、モデルもやっているし、男だったらマジで惚れてるわー」

「あー、でも私、美夢希はあまり好きじゃない。小悪魔系ってゆーの? 男受けしそうじゃない? 胸もでかいの強調してるしさあ。中学生であれはないよね」

「わかる、わかる! 美夢希はぶりっ子だよね。あのニコニコ笑顔に騙されちゃいかん!」


 あやなちゃんが三姉妹のことを揶揄すると、彩貴ちゃんも乗って来た。二人は楽しそうにはしゃぎ出した。


「亜夢ちゃんは好きだけどね。仔犬みたいでかわいい!」

「亜夢ちゃんのほうが絶対いいよー。清楚系でしっかりした感じだし、頭よさそうだし!まだ小学生だもんね」


 彩貴ちゃんの言葉にあやなちゃんが嬉しそうに賛成した。


「何歳差だっけ?」

「夢路姉さんが私たちと同い年でしょ? 美夢希が十四で、亜夢ちゃんが十二歳じゃない? ヨッシー先輩の兄妹は皆二つ違いなんだよ」

「あやな、よく覚えてるねー」

「だてに親衛隊じゃありませんからね!」


 誇らしげに胸を張るあやなちゃんを彩貴ちゃんがまたからかって、私はそれを見て笑ったりした。キョーコだけが蚊帳の外だった。というよりも、キョーコは自ら会話に入ってこなかった。


「あの、キョーコは誰のファン?」


 キョーコを置いてきぼりにさせまいという決心から、私は何気なさを装って彼女に話題を振った。しかし、それがいけなかった。


「誰のファンでもないよ」


 突き放したように言ったキョーコの瞳には、冷酷な炎だけがあった。

 あやなちゃんと彩貴ちゃんが眉をひそめる。すぐさま「キョーコ、芸能人あまり興味ないもんね」とフォローをしたけど、キョーコは気分を悪くしたのか、「ちょっとトイレ」と教室を出て行った。呆気に取られていると、ふいに二人が耳打ちしてきた。


「……ねえ、ノンちゃんって、何であの子と仲いいの?」


 あやなちゃんの言葉が胸に突き刺さった。「いや、キョーコ、今日は何か変っていうか、いつもはクールな台詞決めたりするのにね」と誤魔化しても、「合わせるこっちが疲れるよねー」と忌々しげにつぶやいたので、あ、この子はキョーコのことがあまり好きではないのだ、とズキズキする胸の奥で思った。

 入学してこのクラスに割り当てられてから半年以上経つけれど、いまだにキョーコはこの二人と相性が悪い。というよりも、女子の全員と仲良くできないようだ。もちろん男子と話しているところなんて見たこともなく、キョーコは孤独の人なのだと今さらながらわかってきた。

 それでも私は、キョーコのそばにいなければいけない。約束したから。そして何よりも、キョーコのことが好きだから。私と一番話が合うのは、あやなちゃんでも彩貴ちゃんでもなく、キョーコだからだ。私の本当の気持ちを知っているのは、キョーコただ一人だけだった。

 だんだんと人が教室に入ってきて、「ノン、おっす」「ノンちゃん、おはよー」と挨拶してくれるたくさんのクラスメイトが私にボディータッチしてきたり、頭をくしゃくしゃにしたりした。「もー、セットした髪が崩れるってー」と文句を言っても、皆は笑いながら軽くかわした。あやなちゃんと彩貴ちゃんもいつの間にか普段の調子を取り戻して、またヨッシー先輩の話に戻っていた。そこでちょうどキョーコが教室に戻ってきて、私は手招きしたけれど、「ごめん、今日はちょっと」と返されてしまった。キョーコは自分の席に着くと一人でアイフォンをいじり始めた。やっぱり話、つまらなかったのかな、と私は一人、あやなちゃんたちの話に合わせながらキョーコのことを考えていた。


 ミーティングに出るため生徒会室に入ると、仁川先輩以外の人たちはすでに集合していて他愛のないおしゃべりに興じていた。仁川先輩はいつも開始時刻ギリギリになって滑り込むので、いつもの光景と言えばそうだった。

 仁川裕弌(にかわ ゆういち)先輩。極限まで明るい茶色に染めた髪でも充分目立つのに、そこにさらにハイテンションキャラが重なったすごい人だ。とにかくはしゃぐのが大好きで、「お祭り男」と陰で言われている先輩は、文化祭にはこれほど似合う男もいないだろうと思われるほどの力を発揮する底知れない人物であると皆は言っていたけど、それ以外の行事の仕事がてんで駄目なので現在、会長は頭を悩ませているみたいだ。

 今日は、『ターミネーター』と周りの生徒から恐れられている会長が、どこか優しげな目をして私を出迎えてくれた。私はとても嬉しくなった。


「おはようございます、笹条さん」

「あ、おはようございます、会長」


 私はキュンと高鳴る心臓を抑えながら、自分の定位置に座る。乾先生が向かい側の席でヨッシー先輩と耳打ちし、「笹条、昨日は大丈夫だったか?」と心配そうに声をかけてくれた。


「大丈夫です。会長が助けてくれました」

「そうか。……まあ、何だ、その、何かあったらすぐに先生たちに相談しろよ」


 乾先生がそう言うと、会長は淡々とした調子で「笹条さん、助けてくれたのは風紀委員の雲雀君だと何度も言ったでしょう」と注意をした。私は「すみません」と笑いながら、教室を出る時にあやなちゃんたちから言われた一言を思い出した。


『ヨッシー先輩って、何でターミネーターとあんなに仲良しなんだろうね?』


 不思議だわー、と遠慮なくしゃべり出すあやなちゃんたちに、その時ほんの一瞬だけ怒りのような負の感情が沸いた。会長はターミネーターなんかじゃない。すごく厳しいけどすごく優しい人なんだ。会長とヨッシー先輩には私たちにはとうてい追いつけない二年分の時間があって、二年という時は何をどう頑張っても十六歳の私たちじゃ埋められない二人だけの思い出なんだ。どうしてそんな簡単なことがわからないんだ。私はそんな怒りを耐えて、クラスの人たち全員に見送られながら笑顔で教室を去った。ああ、私もとんだピエロだな。でもキョーコには「ターミネーター」と言われても大丈夫なのに、キョーコ以外の人たちに言われるとカチンとくるのはなぜなのだろう。

 ミーティングが始まる一分前に仁川先輩が豪快に滑り込んできて「ち、遅刻ですか!?」とすがるように叫んだ。「一分前なので許しましょう」と会長の冷静な言葉に皆は笑って、ああ、ここでなら私は腹の底から笑えるのになあ、とぼんやり感傷的な気分に浸った。

 文化祭二日目は、こうして訪れた。

    

 今日は晴れているので、中庭で告白大会をやる。このイベントもいよいよ大詰めだ。中扉から出て大きな段差となっている木製のミニステージは、まるでこの日のためにあつらえたような広さで、三日目からは我が校の部活で二大人気のダンス部と軽音部が合同ライブを行う場所の一つでもある。今日は七組の男女がステージに上がる。カップル誕生は何組生まれるのかな、とどことなくそわそわとした。

 文化祭実行委員とこまめに打ち合わせをして、私は隣のクラスの諸星木実さんと一緒に大会参加者たちの呼びかけを放送室で行った。「告白大会二日目の参加希望者は、中庭前に集合してください」噛まずに言えて安心し、スイッチを切ると、放送委員の人たちに見送られながら諸星さんと集合場所へ向かった。諸星さんは一年生ながら副委員長に抜擢された仕事のできるかっこいい女の子で、口数は少ないけれど誰に対しても態度が変わらない凛とした子である。どうも私はクールビューティーな人が好みらしい。

 とはいえ、上級生に「並んでください」と呼びかけるのはけっこう緊張する。一年生の私たちはまだ身体も心も幼くて、腕章だけが立派に存在感を放っていた。


「何か、先輩たちに声かけるの、緊張するね」

「……そう? 私は蘭堂先輩があんな調子だから、あまり構えてはいないけれど」


 諸星さんは静かに答えた。昨日の告白大会で一躍有名人になったのに、諸星さんは何一つ動じず淡々としていた。だから蘭堂先輩みたいな人気者にも付き合えるのだろう。

 仁川先輩のクラスのお化け屋敷は今日も長蛇の列ができていて賑わっていた。流海・琉璃先輩の定食屋はオープン時間の十一時になるまで看板を持って宣伝に回っていた。流海・琉璃先輩は参加者たちの出欠を取り、段取りを詳しく説明している。七組の男女たちは互いにチラチラ視線をやりながら、落ち着かない様子で話を聞いている。先輩たちがマイクのスイッチを入れて、私と諸星さんが場を盛り上げるためのBGMを音楽デッキで流す。男女たちの間に一瞬の緊張が走って、琉璃先輩の「皆さん、思いを伝える準備はできていますかー?」という掛け声を合図に、お客さんはぞろぞろと入ってきた。

 告白大会は、ほとんどの人が恋を成就させることができた。琉璃先輩が「おめでとうございまーす!」と拍手を促し、お客さんもわっと盛り上がって、私たちはクラッカーを鳴らした。流海先輩が「では次の方」と列を動かし、向かい合った男女は思いの丈をぶつけ合った。玉砕してしまった人に送る琉璃先輩のフォローの仕方は的確で、また成就したカップルには心からの拍手を送った。こんな人になりたいなあ、と私はこっそり羨ましく思った。

「皆さん、成就した恋はしっかり相手と育んで、愛情深い人になってください!」琉璃先輩が最後の挨拶を述べると、カップルとなった男女たちが一列に並んで、手を繋ぎ合い、大きな一例をした。お客さんは総立ちして拍手を送り、二日間の目玉行事は大成功に終わった。

 三年生の演劇会と各部活動との打ち合わせは会長とヨッシー先輩が行っているので、あとは乾先生たちと落ち合うだけとなった。


 先生、生徒会、風紀委員、文化祭実行委員が生徒会室に集まった。各自報告をして、段取りがスムーズに行われていることを確認し、午後の活動の最終確認をしたあと、昼休憩時になった。

 私と会長の目が合う。彼の鷹のように鋭い目つきは、どこか寂しげに潤んでいた。

 会長の過去を聞く時。私が告白する時。その時間が実際に訪れると思うと、身体全体が熱く火照ってどうにかなってしまいそうだった。

 昼ご飯を皆で簡単に食べ、それぞれくつろぎ始めた。ヨッシー先輩は「ちょっと用事があるから席外す」と言って生徒会室を出て行った。その様子を見て、会長もまた椅子から腰を上げた。私に目配せをして、淡々と「少々お暇します」と言うと扉を開けた。私もついて行って、皆に挨拶すると扉を静かに閉めた。

 会長は後ろを歩く私のほうを見向きもせず無言で階段を下りていった。背中が何も訊くなと訴えているようで、沈黙せざるを得なかった。やっぱり駄目なのだろうか。会長、私じゃ駄目ですか。あの日、会長に恋をしました。一目惚れでした。生徒会に入ってから、あなたのいろいろな面を見ました。理論派に見えて実は感情派な面。常に自分の何かを懸命に抑え込んで人と接しているあなた。目の前の仕事を一ミリの無駄もなく完璧にこなしてしまう職人気質。けれどその鋭い瞳には何かがくすぶっている。上げればきりがないくらい、あなたを見てきました。

 会長、私じゃ、あなたの支えにはなれませんか?

 一階のホールに着いていた。会長は中庭への扉を開いて、私を通した。空はいつの間にか雲が覆っていたけれど、太陽が薄らぼんやりと見えて綺麗だった。中庭ではついさっきまで私たちが立っていた特設ステージに午後からやる一年生ダンス部のショーが控えていて、告白を成功させた女子たちが彼氏と一緒に場を盛り上げていた。ノリのいい音楽を聴きながら、ステージからだいぶ離れた中庭の隅にあるベンチに、私と会長は座った。


「ダンス部、かっこいいですよね」

 私が何気なく呟くと、会長は薄く笑った。


「僕には踊るなんてこと、死んでもできません」

「私もちょっと無理かなー」

「おや、意外ですね。笹条さんなら張り切って踊りそうなのに」

「えー、そんなことないですよ」


 いくつか他愛のない話をしたあと、会長はボソッとつぶやいた。私にしか聞こえない声で。


「……僕の出身地は、どこにでもあるごく普通の地方の、その中でも特に田舎の村だった」


 会長は敬語から口調を変えて、どこか懐かしむように言葉を紡ぎ始めた。あ、話が始まる、と思った私は「ここで話していいんですか?」と確認するように訊いた。


「ええ、これくらい騒がしい場所のほうが、かえって誰も聞いていないものです」

「そ、そうですか……」

「……続きを話しても?」

「あ、はい。お願いします」


 会長は俯きがちになって、ぼそぼそと過去に起こった出来事をなぞるように機械的に話した。私は全身全霊をかけて愛しい人の話に耳を傾けた。


「僕には、友達がいなかった。なぜか周りの皆は僕のことを遠ざけているようだった。その理由がわかったのは、小学校四年生の時だった」

 十歳の時か、と私が思っていると、会長の声が低くなった。


「僕の家が、ほかの子どもたちとはまったく違う家だということを理解したんだ」

「……違う家?」


 私が首をかしげていると、彼の瞳に憎しみの色が宿った。深くて黒い、悲しい瞳だった。彼が顔を上げた。キッと前を見据えた。


「母親が、その土地で最も力のある男の愛人だった。僕の家はその男に与えられた愛人宅だった。第二の邸宅ということさ。それを知ったのは本妻のほうの子どもから。家にまで乗り込んできて、直接聞かされた」


 あまりに重過ぎる事実が出てきたので、私は絶句した。彼は私のそんな反応すらも見越したように、その黒々とした深い瞳で私にすべてを預けていた。


「……こんなこと、佳明たちには言えなかった。友達だからこそ話せないこともあるのです。でも僕を好きだと伝え続けてくれたあなたになら、すべてをぶちまけてもいいと思った。僕とお付き合いをするということは、つまり、そういうことです」

「会長……」


 私の目に涙が溜まっていくのを感じた。今、一番泣きたいのは彼なのに、私が泣いてどうするんだと自分自身を叱咤してやりたかったが、どうにもこらえきれなかった。


「……受け止められなかったら、離れて構わないですから」


 彼の顔は前を向いていたけれど、その瞳は滲んでいて今にも何かが壊れそうな雰囲気を纏っていた。会長のこんな弱々しい姿なんて初めて見た。


「その本妻の子どもは僕より二つ年上の男の子だった。最もそいつは自分より倍も身体が大きくて、とても『男の子』と言えるほどかわいいものじゃなかったけれど」


 会長は、懸命に話していた。ここで黙ってはいけないというように、ダンス部の流す音楽で満ちている中庭を、私と一緒に見つめていた。


「そいつから、この世の不条理をすべて知らされた。僕が愛人の子どもだという事実。父親は二人の女を愛していた。それが村中に知れ渡っていて、ほかの子どもは自分の親から言われて僕と距離を取っていた。そいつは言った。『金出して養っているんだよ、こっちは』と」

「……その息子さんは、それからどうしたんですか?」


 私は、おずおずと尋ねた。会長の瞳に暗い陰りが見えた。ほんの一瞬だけ彼は自嘲気味に笑った。


「それから三年間は会わなかったよ。僕に真実だけを告げて、勝ち誇ったような顔をして自分の家へ帰った。『事件』が起こったのは、それから三、四年後のこと」


 事件、という言葉に身がすくむ思いがした。彼の身体が震えていた。私はどうしたらいいのかわからず、ただ会長の話を待っていた。


「僕が中学一年生の時。自分の置かれている状況に我慢ができなくなって、一回だけ本家に乗り込んだんだ。そして父親に言ってやった。『うちの母ともっと誠実に付き合ってやってください』と。父親はあからさまに動揺していて、本妻のほうは黙って様子をうかがっていた。曖昧な台詞だけを言われて、その日は帰らされた。母には何も言わなかった。その一年後、中学二年生の時だった。そいつが現れたのは」

「……本妻の息子が、またやって来たんですか?」


 頭がひどく痛む中、私は必死に彼の横顔を見つめていた。彼は前だけを見据えていて、横も後ろも振り向きはしなかった。


「そう。そしてそいつは言った。『お前も、お前の母親も、大した存在じゃないんだよ』と。そいつから見れば、父親が勝手に作った女のせいで、自分の母親が悲しんでいる。おまけに女には子どもまでいる。そいつは考えたんだ。どうすれば父親がこちらを向いてくれるのか。女に夢中にならないで済むのか。結論はあまりに単純すぎて馬鹿みたいだった」


 前を向くしかない。進むしかない。今ここで止まってはいけない。彼の心の叫びが手に取るようにわかった。私は逃げたくなる心に鞭を打っていた。


「女も、子どもも、丸ごと全部消し去ってしまえばいい。そいつはそう考えた。次の日にはもう、僕はターゲットにされていた」


 彼の顔がどんどん歪んでくる。それでもなおどこかで笑おうとしている。笑い話にしようとしている。周りのお祭り騒ぎだけが唯一の救いだった。


「家に帰るたび、そいつは待ち受けていた。父親から合鍵を盗んで、僕の部屋に入り込んで、待ち伏せしていた。不思議と、そこからの記憶はないんだ。何かされたことは覚えているけれど、その『何か』がわからない。身体は綺麗だし、頭はぼんやりしているし。確認できるのは、そいつが毎日のように僕の家にやってきて、僕に『何か』をしていったということだけ。母が帰ってくる頃にはそいつも自分の家に帰るから、僕は何も言えなかった。心の中にはそいつに対する恐怖だけがあった。なぜ僕は忘れているんだろう。記憶が抜け落ちているのだろう。考えるのが怖かった。どれくらい続いたのかな。中学を卒業する直前だった気がする。ある日、父親が僕たちの前に来てこう言ったんだ。『うちの息子が、取り返しのつかないことをして本当にすまない。この関係はもう終わりにしよう。都心の家を買えるだけの金はあげるから、ここから出て行って、どうか表沙汰にだけはしないでくれ』と。母は最初混乱していたけれど、僕の身に起こった『何か』を知ると泣いて僕を抱きしめた。ずいぶんと味わっていなかった母の体温だった。その時、僕はこの世で一人ぼっちだということを思い知らされた。精神科に行かされたけれど、いまだにわからないんだ。『何をされたのか』ということが。その時、母は僕に約束してくれた。この家から出ようって。ここを離れて、新しい家を見つけてもう一度人生をやり直そうって。そして呪われた村から逃げて、この木立市へたどり着いた。……それからずっと、僕は戦っている。過去と。家族と。父親と。『そいつ』と。子ども時代の記憶なんか消し飛ぶくらい、走り続けようって決めたんだ」


 会長の瞳から、だんだんと濁った憎しみの色が消えかけてきた。いつもの鋭い真っ直ぐな瞳に戻り、そこでようやく会長は横を向いて私のことを見てくれた。


「笹条さん。だから僕は、一人暮らしをするためあと数ヶ月で都心へ行きます。一流の大学へ進学し、就職して完璧な人生を送ります。もう二度と僕のような者が現れないように。……ずいぶんと重い話をしてしまいましたね。……そんなに泣かないでください」


 会長に言われて初めて、私は自分が泣いているのに気がついた。どうしたらいいのか、一体どんな言葉をかけたらいいのかわからなくて、顔を隠した。会長の大きな手が、私の頭をポンポンと撫でた。


「……会長、も、もう、お別れですか?」


 やっと言えた台詞はそれだけだった。会長は私の頭を撫でながら、優しく言った。


「この街を離れることは確定していますが、あなたたちとまで別れるとは言っていませんよ。僕のこのような過去を知って、それでもそばにいたいのだったら、そばにいてくれるというのなら、いつでも連絡します。進む道は違っても、一緒になりたいという思いがあるのなら、僕たちは離れることはないでしょう」


 ここの生徒会は特別なものですから、と最後にそう言うと、会長は私の頭を撫でるのをやめた。そしてダンス部のショーにじっと見入った。


「ダンスは、おもしろいですね」


 仁川とか入りそうですけどね、と会長が笑ったので、ああ、もう過去のことは過去のこととしてこの人の中で整理と決着がついているのだ、と私は確信した。私のすべきことは、この人の何もかもを受け止めることだ。そう思ってもいまだに身体が硬直していて情けなかった。


「……何も今ここで決断しろとは言いません。時間をかけてゆっくりと、あなたの中で消化してください。文化祭が終われば残すところあとわずかですが、僕は待っていますので」


 ずっと。そう言って会長は優しく笑った。会長の笑顔は、まるで少年のようにあどけなくて儚くて、ターミネーターと呼ばれていることが信じられないくらい美しかった。


「……すみません。時間を、もらっても、いいですか?」

「はい。もちろん」

「か、会長のこと、どんなになっても、す、好きです」

「ありがとうございます」


 彼は優しく微笑んでいた。私はしゃくり上げながら続ける。


「ぜ、絶対、私が、何とかしますから。会長のこと、ずっと忘れませんから。メールとか、電話とか、しまくりますから」

「ええ」

「か、会長も、連絡くださいね?」

「もちろん」


 私はまたヒック、としゃくり上げて、制服の袖で何度も涙と鼻水を拭った。会長はじっと私のことを見守っていた。穏やかな視線を感じ取った。距離が離れても、きっと心は繋がっている。この人と、繋がっていたい。

 中庭の隅っこで身を寄せ合うように思い合っている私たちを気に留める人など誰もいなくて、皆はお祭りのほうに夢中で、そのことになぜかとても救われた気がした。


 泣き過ぎて頭がくらくらしてきたと伝えると、会長は一年三組の教室まで送ってくれた。

 私の生徒会での仕事は午前中にすべて終了していたので、あとは自分のクラスの縁日をやる予定だった。


「大丈夫ですか?」


 会長が心配そうに訊いてくれたので、私は笑顔で「大丈夫です」と応えた。本当は頭の芯がぼうっとして熱があるみたいだったけれど。

 昼休憩の時間を過ぎてしまっていたので、会長はしきりに腕時計を気にしながらも私に付き合ってくれていた。「佳明が戻っているはずですから大丈夫でしょう」と会長は落ち着いた声で言った。

 三組の教室に入ると、クラスの様子が変だった。主に女子たちがほぼ全員固まって何事か騒いでいた。何か嫌な予感がした。そういえば、キョーコがいない。縁日の仕事をしているはずなのに、どこに行ったのだろう。


「あ、ノンちゃん!」


 あやなちゃんが私に気づき、さらに「ターミネーター」と呼ばれている会長がそばにいるところを見ると一瞬ぎょっとした顔になった。女子たちが一斉に振り向く。その怖い顔つきに私はキョーコが何かをしでかしたことを知った。


「……どうしたの?」


 波打つ心臓を抑えて、一言だけ尋ねる。とたんにあやなちゃんを筆頭にした女子たちが甲高い声で叫んだ。


「日立響古が、ヨッシー先輩に告白したんだよ!」

「……こく、はく?」


 キョーコは、ヨッシー先輩のことが好きだったのか。

 そんなこと、私に話してくれなかった。何一つ、言ってくれなかった。今朝、キョーコがすがりつくような瞳で口にした言葉を思い出す。『何があっても、私のそばにいてくれる?』あれは、そういう意味だったの、キョーコ? あなたは学年一の人気者に、ずっと片思いをしていたの? だから告白大会の日を選んだの?


「よりによって何であいつ!? もっと美人な子期待してたのに!」

「ていうか、振られた?」

「振られた、振られた! しかもかなりこっぴどく! 当たり前だよねー。釣り合うわけがないじゃん!」


 皆は会長がいることにも構わず、キョーコのことを叩き始めた。彼女たちの「裏切り者」と語っている憎しみの瞳にぞっと寒いものが走って、私はただ固まっていた。キョーコのことを守りたい。隠し事をされていたのは悲しいけれど、きっとキョーコは一生分の勇気を出して告白したんだ。ジンクスを信じるほど必死だったんだ。ヨッシー先輩は、キョーコのことをこっぴどく振ったのか。ああ、でも、今ここにいる彼女たちが大げさに言っているだけかもしれない。とにかく、何が何だかわからない。私は一体、どうすればいいのか。

 その時、会長が鋭い一言を放った。


「やめなさい」


 その静かな重みのある声に、皆はビクリとして静まり返った。「ターミネーター」として振る舞っている会長に、あやなちゃんたち一同はびくびくしながら顔を見合わせていた。


「その場にいない人間を、悪口で貶めることはやめなさい。みっともない行為です」


 皆は二学年上の先輩であると同時に生徒会長でもある男の人に、抗う術もなくただ頭を垂れていた。会長は最後に一言、「場所をわきまえなさい。校外からほかのお客さんもいるのですよ」と止めを刺した。あやなちゃんたちは頬を膨らませながら押し黙った。

 ふと、眩暈がした。さっきからガンガンに鳴り響いている頭に、いろいろなことが降りかかってきたせいで私の少ない脳みそは容量オーバーになってしまったようだ。立つこともできなくなって、私はその場でふらふらと倒れた。女子たちの「ノンちゃん!?」という叫び声を最後に、耳の機能すらも停止した。

 薄らぼんやりとした意識の中で、人の広い背中に負ぶさっている感覚がした。まさか、会長が私を背負ってくれているのか。私は上手く回らない口を必死に動かして、かいちょう、とだけつぶやいた。「保健室はすぐそこですから。何も心配することはありませんよ」会長の冷静な声が耳に心地よかった。そして何だか無性に泣けてきて、意識がはっきりしない中で静かに泣いた。


 淡い桃色の幻に包まれていた。

 私はふわふわと宙に浮かんでいて、周りの景色はパステルカラーの色彩に彩られていた。

 ああ、これは夢か。不思議とすぐに合点がいって、その美しい世界にしばらく浸っていた。夢なら、このまま覚めなきゃいいのに。このままずっとふわふわして、ニコニコして、ノンちゃんと親しみを込めて呼ばれる人間でいたいのに。

 でも、もうそんなことは言っていられなくなった。親友が今、全校生徒を敵に回してしまったのだ。キョーコの噂はあやなちゃんたちを通って学校中の女子たちに知られることだろう。その時、私はどうやってキョーコを守ったらいいのだろうか。女子を敵に回すのは怖い。「ノンちゃん」でいられなくなるのは怖い。それでも私は、動かなければならない。親友のために。


「希美、ごめんね」


 私の好きな、甘くかすれた声が聞こえた。

 振り向くと、キョーコが同じようにふわふわと浮かんでいた。


「キョーコ……」


 私はキョーコの名を呼ぶ。キョーコが離れていかないように。一人ぼっちにならないように。


「ずっと、原田先輩が好きだって打ち明けようとしたけれど、勇気がなかったの」

「そっか……。ヨッシー先輩のこと、好きだったんだね。気づかなくてごめんね。私も相当、鈍いよね」

「そんなことないよ」

 私たちはお互い、苦笑いを浮かべた。


「キョーコ、えらいね。勇気振り絞ったんだね」

「振られちゃったけどね」

「それでもすごいよ! あの超人気者のヨッシー先輩に告白できるなんて! 皆、叩かれたらどうしようって思って行動に移せないのに、キョーコはすごい!」

「……希美は優しいね」


 キョーコがクシャッと泣いたので、私は頭を撫でるために近づいてみようとしたけど、まるで無重力のような空間は思ったように身体が動かなくて、じれったかった。キョーコは幼い少女のように泣き続ける。私はじっとその様子を見守っていた。


「の、希美」

 キョーコが泣きじゃくりながら私の名を呼んだ。


「なあに?」

「……こ、こんなことに、なっちゃったけど、それでも、わ、私の、そばに、いてくれる?」

「もちろん。私はいつでも、あなたの味方だよ」


 本当は、怖い。この先、二人きりの戦いが始まる。それでも、私は逃げない。キョーコの涙を見たから。キョーコの言葉を聞いたから。だから、先に進むしかない。進んだ先に何があるのか、まだわからないけれど。

「ありがとう」としゃくり上げながら伝えたキョーコを、抱きしめたい衝動にかられた。けれどふいに空間が歪んで、パステルカラーの幻は暗黒に染まり、私の身体もキョーコの身体もものすごいスピードで闇の底に向かって落下していった。ああ、夢が終わるんだ、と私は最後までキョーコに手を差し出しながら、どこまでも落ちていった。


 重い瞼を懸命に上げると、保健室の天井の明かりが見えた。身じろぎしながら寝起きのような声を出すと、保険医の先生がやってくる気配がした。

 カーテンが開いて、保険医の先生が「笹条さん、起きた? 身体は大丈夫?」と優しく声をかけた。黒髪を一つに縛ったいつものスタイルで、白衣がまぶしかった。先生は私のおでこにそっと手をやって、熱はないみたいね、と計った。


「先生……」

「どう? 起きられる?」

 先生の心配そうな声に、私はかろうじて返事をした。


「何とか……。私、どうやってここまで……?」

「大塚君が、おんぶしてここまで来てくれたのよ。笹条さん、ぐったりしていたからびっくりしちゃった。でも身体に異常は見られなかったから、多分、貧血による立ちくらみだと思うわ」

「……会長。キョーコ……」


 ぼそぼそと、大切な人の名を呼ぶ。ぼうっとしている私に、先生は丁寧に説明してくれた。


「大塚君は、仕事がまだ山のように残っているらしくて生徒会室に戻ったけれど、とてもあなたのことを心配していたわよ。あと、日立さんもここに来て、いろいろ……話してくれたわ。原田君とのこととかね」

「……そっか……。キョーコはどこに……?」


 すると先生は一枚のメモ用紙を差し出した。くまのキャラクターがプリントされた可愛らしい用紙に、キョーコが達筆な字で綴っていた。私はベッドからゆっくりと起き上がって、それを受け取った。


『希美へ。今日、原田佳明先輩に告白しました。そして、振られました。何も話さないでごめんなさい。もし拒否されたら、引かれたらどうしようと考えてしまって、ずっと言えなかった。勝手な行動して、皆の反感を買いました。希美が嫌だったら、もう私はあなたに付きまといません。でも、もし、ほんの少しでも、まだ私のことを好きでいてくれるなら、アイフォンに連絡ください。電話でもメッセージでも構いません。明日になっても来なかったら、私は諦めます。希美がしたいようにしていいから、どうか難しいことはあまり考えずに、直感でお願いします。ずるくてごめんね。響古より』


 私はいつの間にか泣いていた。涙だけを流して、黙読していた。キョーコからのメッセージを。先生は再びカーテンを閉めて私の隣に座り、背中を撫でてくれた。

 ずるいよ、キョーコ。こんなの、拒否できるわけがないじゃない。


「先生……。キョーコは学校に……?」

「いいえ、先に家に帰ったわ。ここからどうするのかは、あなた次第よ、笹条さん」


 先生の言葉が、私の背中を後押しした。

 私はメモ用紙を折り畳んで、腕時計を見た。時刻は午後をだいぶ過ぎていた。かなり長い間眠っていたのかと思うと申し訳なくなって、先生に頭を下げた。「大塚君が持ってきてくれたわよ」と先生は私の学生鞄を指差して、何もかも包んでくれるような懐の深いまなざしを向けた。私は鞄を持って、先に帰るという連絡を顧問の乾先生にしてくれるよう頼み、保険医の先生と別れた。保健室を出て人もまばらになった廊下を進み玄関ホールに出ると、まるで夏の空のような厚みのある雲が、お城みたいにそびえ立っていた。すごい雲だ。怖いくらいに。

 でも、私はもう迷わない。動揺しない。自分の中で確かに固まった決意を胸に、文化祭から帰るお客さんたちに紛れてアイフォンを手にした。

 木立市東町の雑踏と喧騒が、周りの人たちの明るい笑い声が、耳に痛くこびりついたけれど振り払うように電話をかけた。

 きっとどんな穴に転げ落ちても、そこからすくい上げてくれる人は、必ずいる。だから、そんなに秘密を抱えないで。何でも話して。私が絶対に助けるから。

 人は一人では生きていけないから、誰かを必要とする。そして互いを支え合うようになるのだ。ねえ、会長、キョーコ、そうでしょう?

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