お風呂、一緒に入ろ?

夏山茂樹

お風呂、一緒に入ってよ!

 あの子は水が苦手な子だった。私がパジャマと下着を用意して、脱衣所まで送り込んで「いってらっしゃい」と言うと、ワンピースと下着を脱いだ裸姿で私がいる台所までやってきてこうせがむのだ。


「にいちゃん、いっしょにおふろにはいろ?」


 理由は分かっている。ひとりでシャワーを浴びるのが苦手なのだ。シャワーは調節を間違えればドッと強い勢いのお湯か水が出て、幼い子供には息ができないだろう。それでも私はベビーシッターだったから一緒に風呂には入れなかったが。 


「じゃあ、シャワーで洗ってあげようか!」


 できるだけはっきりとした、屈託のない笑顔で答えることを心がける。すると彼もそれを受け入れてこくんとうなずいた。


 シャワーのために一回シャツ姿になって、水量と温度を子供向けに調整しながら浴びさせる。すると彼は気持ちよさそうな顔をして、石鹸で自分の体を洗うのだ。同性とはいえ、幼い子供とはいえ、大人に自分の裸を見せて恥ずかしくないのか。

 ふとそんなことを思いながら、湯船に彼を抱き上げて入れようとする。すると彼はどこか怯えた顔をして、私の方を振り向いて嫌がった。


「ゆぶねはこわいよ」


 あれ、さっきは「一緒に風呂に入ってほしい」と頼んでいたはずなのに、今度は湯船に入ること自体を拒絶している。まあでも、シャワーだけでも体は洗える。


「やめる?」


「……うん」


 五歳の幼児はそう頷くと、タオルで自分の体を拭いてパジャマに着替えるのだった。もちろんピンク色のネグリジェだ。当時、私がベビーシッターのバイトをしていたのは特別な家庭だったのだ。

 それから五年経った。初めて出会った時は小さくて健気な男の子だった彼は、数多の教師を辞職に追い込んだ問題児と化し、当時からしていた女装もやめてはいなかった。


 私は彼の「海が見たい」という願いに応え、孤児院を降りた場所にある海岸で夜に遊んだ。シーグラスを拾ったり、貝殻の綺麗な模様を見て嬉しそうに騒ぐその子は子供らしい、純粋な少年だった。


 だが首元には数字状のケロイドが浮かび上がり、左目には義眼がはめられていた。その子はもう親がいない、孤児だったのだ。私も孤児だったから気持ちは分かるつもりでいた。だがその子は私よりも残酷な理由で親を失ったのだ。


 ある日、私はその子を我が家に泊めることになった。親しくなって、あわよくば引き取ってもらおうという彼の魂胆が見え見えで、それが逆に可愛らしい。

 私は彼が赤いレインコートを羽織って、一日分の衣服や課題を詰めてマンションの前に現れた時、可愛らしく思えたものだ。いつもなら過激な露出をする服を着る彼も、この日ばかりは白いシャツにロングスカート、スニーカーを履いて玄関前で微笑んでいたのだ。


「よろしくお願いします。にいちゃん……柚木先生」


「いつもの呼び方でいいぞ。俺はそういうの、気にしないから」


「じゃ、じゃあ。にいちゃん……。今日はお世話になるぜ。よろしく」


 そうぶっきら棒に言って、私から目を背ける彼はいつものクソガキらしさが消えて、五年前の子供に戻ったように思える。いつもとは違う可愛らしさに、思わずニヤけてしまいそうになるのを抑えて私は彼を家に入れる。


「じゃあ琳音、入ってくれ。どうぞ」


 家賃七万二千円の2LDK。この街にしてはなかなか安い家賃で借りられている。普段は五畳の洋室をゲストルームに使っているが、あの狭いマンションで暮らしていた琳音にとって、この暮らしはどう映るだろう?


 今日は六畳の自室に寝てもらおうか。いろいろ悩んでいると、彼は靴を脱いで、レインコート も脱いでそのままソファーの上に座っていた。スラリと伸びた脚を揃えて、小さな手はちょこんと膝の上に置かれている。背筋を真っ直ぐ伸ばして、完全に琳音は緊張しているようだ。


 まあ仕方ない。たとえ親しい交わりがあっても、教師が自分の家に教え子をあげてその上泊めるとなれば緊張もするだろう。桜野琳音は少女の格好こそしているが、中身は完全な男子だ。それを考えれば、あまり性的なことは考えなくてもいいだろう。

 私は現に、ベビーシッターのバイトを父親からの性的虐待に怒ったからクビになったのだ。そのことは琳音含め、教師陣はみんな知っている。だから私にこの役が回ってきたのだろう。琳音の父親がわりになる役割が。もっとも、十六歳しか歳が離れていないから父親と言えるのか分からないが。


「ジャスミンティーがいいか? それともアイスココアにするか?」


 私が飲み物の注文を聞くと、彼は凛とした顔で必死に答えようとしてくる。


「コーヒー。角砂糖は三杯」


 ……レッテでも、インデル症候群の患者でも飲める角砂糖だったかな。私は基本安い物しか買わないので、レッテが食べられるような高価な食品は基本的に家にない。


「お前ってコーヒー飲めるのか?」


「だっておれ、もう十歳だから。苦いのにもチャレンジしたい」


「おお、そうか。じゃあ買い物に出かけるか?」


 すると琳音は首を横に振って、仕方ないと前置きを置いて話し出す。


「じゃあ、アイスココアでいい」


「そうか」


 微笑んでみせると、琳音は顔を赤くしてまた私から目を背けた。なんだろう、この恋する少女を見ている感じは。そうか、琳音は私のことが好きなんだな。いや、やっぱりココアミルクでいいと答えた自分が恥ずかしいのだろう。

 いくら少女のような顔をしているからといって、教師が恋だと錯覚するのはいけない。現に琳音は性的虐待で傷ついた過去があるのだから、その分優しくしないと。


「できたぞ」


 色々な思いで交錯した状況で作ったアイスココアは、大人ぶりたい琳音に果たして合うだろうか? 私も自分のアイスココアを飲みながら彼の表情を窺う。すると、彼は大きな猫目を丸くして驚くようにささやいた。


「……おいしい」


「だろ?」


 私は嬉しくなって思わず琳音に笑みをこぼして聞いてしまう。クーラーはガンガンに冷えていて、私は半袖だが彼はカーディガンを羽織っている。もしかしてその上にアイスココアだから、なおさら寒いのではないか。


「なあ琳音、寒かったら言ってくれよ」


「うん。それならとっくに言ってるって」


「そうか……」


 普段とは違ってどこか冷めた様子の琳音に、私は寂しさを覚えた。普段なら学校では甘えてきて抱きついてくるのが日常だったから、大人になっていく彼への寂しさが余計募る。


「ねえ、にいちゃん」


「ん? なんだ、琳音」


「話、聞いてくれる? これをしに今日は泊まりに来たんだ」


 琳音の頬から赤みが消えて、顔が青白くなっていく。肩も少し震えだし、これから彼のする話はどうやらそれほど彼にとってのトラウマのようだ。


「おれさ、にいちゃんにチンチンしゃぶるのが性行為のひとつだって聞かされるまで何も知らなかったんだ。それで、むかし水が怖かったのを思い出してさ。またみんなと風呂に入るのが怖くなっちゃって……。夜遅くにこっそり入れてもらうようになったんだ。昔のことが怖くてさ……シャワーを浴びるだけなんだ。だからそれをどうにかしたくって、一緒に風呂に入って」


 琳音があまりにも意外なことを頼み込んでくるものだから、私は思わず唖然として開いた口が閉じなかった。


「俺は別にいいけどよお。またトラウマがぶり返したりしないか? カウンセラーのところに通った方がいいと思うぞ」


「カウンセラーはいやだ」


 はっきりとそういう琳音の唇はキリッと閉じられていて、汗もかいているようだ。よほど覚悟しているのだろう。まあ、夕方だし、そろそろ風呂の準備もしようと思っていたところだった。


「わかった」


 そう言うと私は、琳音を風呂場に招待して自分好みの温度にする設定方法を教えた。


「このネジを二十分回せば、だいたい四〇度くらいだ。栓の近くは熱いから近づくなよ」


 古い風呂だから仕方ないが、琳音は飲み込みが早い。水を入れると、歌を歌いながら湯船に水がたまるのを待ちはじめた。


「あなたが愛した夢にぃ……」


 またその歌かよ。そう思いながら、私は彼が楽しそうに歌う姿を見て、嬉しく思った。トラウマを抱えながらも、それを克服しようとする努力は素晴らしい。だが、克服しようと必死すぎではないか。そう思いながら、歌を楽しそうに歌う彼を見ていると、成長が嬉しくて思わず涙が出る。

 男は泣いてはいけない。父から教わったのに、それを破る自分がいる。私も目の前で親を殺された孤児であり、琳音も目の前で親を亡くした孤児なのだ。同じ人間なのに、襲った側と襲われた側が逆でどうしても感情移入できないところがあった。

 だが、今になって分かる。きっと子供の成長を喜ぶ親ってこんな気持ちなのだろうなと。五年のブランクがあったが、またベビーシッターみたいなことをして親のように子供の成長を喜んでいる。


 左目の義眼を外すと、琳音は片目を瞑った状態で私に声をかけてきた。


「にいちゃん、お湯できたあ!」


「おっ、これがお前好みの温度かあ。じゃあ冷めないうちに入るか。ガス代がもったいないからな」


「ガス代かあ。うん、わかった」


 そう微笑むと琳音は「恥ずかしいから」と言って私を脱衣所から遠ざけた。だがそれから数分して。

「にいちゃあん! 入っていいよ」

 私もシャツとジャージを脱いで、下着に手をかける。すると、琳音の脱ぎ捨てたワンピースやカーディガンが床に置いてあった。脱衣所は服が濡れてしまうので、変態と呼ばれる覚悟で私は服を下着ごと廊下に移動した。


「おっ、お前も成長したなあ」


 そこには背中まである長い髪を団子に結えた琳音がタオルで自分の体の前部分を隠していた。女子らしい隠し方をするなあ。こういうところが父親に教えられたところなのだろうか。そう思いながら、私は琳音の浮き出た背骨を見る。


「にいちゃん、なんか付いてる?」


「いや、お前ちゃんと食ってるかなって」


「ああ。施設では肉は滅多に出ないから」


「そっか。じゃあ今日は肉料理、作ろっか!」


「えっ。いいの! じゃあ肉じゃが食いてえなあ」


「後で足りない材料、買いに行こうか」


「うん。にいちゃんのこういうところが好きなんだよなあ」


 そう頬を染めて言う琳音はやはり少女のように成長している。体つきは少年だが、精神も少年だがどこか少女らしさが抜けていない。

 桶を開くと、湯気が湧き出て温かさを感じる。


「琳音、先入っていいぞ」


「うん」


 そう言って彼はタオルを頭に巻くとすぐ湯船につかる。ゆっくりと体を沈めると、お湯がその分湯船から排出されてそのまま排出口へと消えていく。その分のお湯代がもったいないと思いつつ、私も琳音の後ろに入りこむ。


「……なんかちがう……」


「そりゃあそうだろ。五年前ならシャワーを浴びるだけだったからな」


「うーん。もっと楽しいことやりたいな。何かなあい?」


 そう疑問気味に尋ねる琳音に、私は小さい頃よくしてもらったことを彼にもすることにした。


「琳音、タオル貸してくれ」


「ああ、はい」


 素っ気なく渡されたタオルを湯船に沈めると、後ろを振り向いた彼の顔が驚きに変わった。


「にいちゃん! タオルがもったいないじゃんかよお……」


 この世の終わりかというほど驚く彼に、私は空気を溜めて湯船の中でタオルをまとめて、タコを作った。


「おお、これはなに?」


 おっ。なかなかの食いつきぶりじゃないか。私は不思議そうな顔で見る琳音の頭を撫でて笑った。


「タコさんだぞ。小さい頃はよくやってもらったものだ」


「そうなんだ。おれの家ではなかったなあ」


「ところで湯加減はどうだ?」


「いいよ。うん、これが普通の家庭でやる風呂なんだ……」


「まだまだあるぞ。男同士なら、流し合いっこだろ!」


「それもやるの?」


 不安げな顔に変わった琳音に、私は普通に答えてみる。


「よくやってたぞ」


「…………」


 しばらく黙り込む琳音。どうするか決めかねているのだろう。その様子を見ながら、私は彼の背中を背骨通りにツツッと撫でてみる。


「?! ちょっと何するんだよにいちゃん。おれもにいちゃんの背中を撫でてやる!」


「ちょっと待てよ!」


「あはは」


 湯船で笑い合いながら体を触り合うのになんだか懐かしさを覚えて、捨てたはずの幼さが戻ってきた。そのまま体を触り合っていると、琳音が涙を流す。湯船のお湯でお団子もびしょ濡れだ。


「……っ……」


「どうした? ごめんよ、ふざけすぎた」


「ううん、違うんだ。風呂ってこんなに楽しいんだなって、そう思うと昔は辛かったなって……」


「辛いことを思い出させたな。ごめん」


「だから謝らないでよ。……おれさ、言うこと聞かなかったら水風呂に頭を沈められたりしてたから……。だから水が怖かったのかなって」


 泣き出す琳音を抱きしめる。そのまま泣き続ける彼を裸で抱きしめ続けていては湯船が冷める。ネジを回して、再度お湯を温め直して、琳音の好きなままにさせた。


「あったかい。……ねえ、しばらく抱きついてていい?」


「好きにしろ」


 私はそのまま彼を抱きしめ続け、泣き声も止んで落ち着いた頃に背中を流し合った。


「にいちゃんはじけすぎだよ」と言われても、琳音の冷えた体を温めてついでに頭もシャンプーで洗った。


 それから風呂に上がると、下着が廊下に置かれていることに驚いた様子の琳音に、言ってやる。


「ああ、脱衣所は濡れやすいからな。お前、パジャマ忘れてたみたいだから」


「うん。で、肉じゃがは? 早く材料を買いに行こうよ!」


 服を着直した琳音は濡れた髪のまま外へ出ようとする。だが私はドライヤーで乾かしてから琳音に外へ出るように言った。


「うーん、長くてなかなか乾かない……」


「まあそんなに焦るな。中途半端でもいいからさ、ここは」


「はあい」


 中途半端に乾き切った髪を結えて、私と琳音は外へ出たのだった。


 それからもう五年は経つだろうか。琳音ももう十五歳になっているはずだ。今の彼は幸せに生きているだろうか。私は体も動かないまま、ベッドの上で寝たきりの生活を送っていた。だがついさっき、此岸を越えた。


 琳音はどんな人生を送っているだろう。そう思いながら、私は幽霊として夜の街を彷徨っている。どうか琳音に幸せな人生がありますように。神に祈りながら、天へ召されない私は彼を探している。いや、見つからなくてもいい。彼はきっと幸せな人生を送ることができるだろうから。

 

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