1007話 ボアネルジェスの憂鬱
シスター・セラフィーヌが面会にやって来た。
つまり懸念していた事態が発生したのだろう。
教会関係の面会はオフェリーの圧が強いので、キアラとオフェリーを連れていく。
シスター・セラフィーヌは俺の顔を見るなり、
なんだその反応は。
「大元帥を相手にすると驚くことが馬鹿らしくなります。
よくぞ……この事態を予期されましたね。
シクスー総督による弾劾が教会内に告知された直後、グスターヴォ・ヴィスコンティ元枢機卿を弾劾する者が現れました」
なにも定められていないので確認したのだ。
もしグスターヴォの背後にイザイア・ファルネーゼがいたなら?
オフェリーが冗談交じりに言った廃教皇の生まれ変わりなら……確実に対処方法を知っているだろう。
俺の仕掛けを予期している可能性すら有り得る。
転生でなくても、家庭教師あたりに聞いている可能性だってあるからな。
だが臆測の域をでない。
シスター・セラフィーヌに話す必要はないだろう。
「予期したというより……。
穴があったので気になっただけですよ」
「一般的な法であれば驚きません。
問題は、誰も知らない法を駆使した戦いが起こったことです。
てっきり元枢機卿は茫然自失のままだと思っていました。
ところが即座に反撃です。
大元帥と示し合わせたのか……と疑いかけるほどの早さでした」
シスター・セラフィーヌはため息をつく。
キアラはいつものことだと言わんばかりに苦笑する。
オフェリーは平然としている。
俺だから、当然予期するとでも思っていそうだ。
そもそも……見つけたから勝ちだと思ってはいない。
俺だけの知識ではないのだから。
だからモルガンに、このケースが有り得ると助言しておいた。
モーリスが動揺してもモルガンが冷静にさせるだろう。
「私が知っているのです。
誰かが知っていても不思議ではないでしょう?」
「もしや、元枢機卿の背後にはやり手がいるのでしょうか?」
意図は明白だ。
ただし無罪になったら、
その後の身分の保障込みだろうな。
「だと思いますよ。
教会法に通暁しているからこそ、元枢機卿の背後に立てると思います。
元枢機卿とて馬鹿ではありません。
教会法の世界であれば十分に有能でしょう。
その枢機卿を超えるほどの知識があると考えて宜しいかと」
シスター・セラフィーヌは眉をひそめる。
なにかを探るような視線だ。
「公表されてすぐなので事前に準備をしていた……と考えています。
それほどのやり手となれば……大元帥に心当たりがあるのでは?」
ここまでリスクを取らせているなら教えても良いだろう。
ここで情報をださなくても関係が悪化することはないが……。
心証をよくする必要はある。
「証拠はありません。
私個人の臆測です。
公言は差し控えていただきたいですね」
シスター・セラフィーヌは満足気に目を細める。
「それは当然です。
大元帥の推測を伺いたいだけですので」
「イザイア・ファルネーゼ卿です」
キアラとオフェリーが驚いた顔をする。
ぼかすと思ったのだろう。
いまは曖昧な表現をすべきではない。
シスター・セラフィーヌが
どうやらアタリをつけていたようだ。
「なるほど……。
トランクウィッロ家はファルネーゼ卿の友人でしたね。
ただ……ファルネーゼ卿がそこまで教会法に通暁しているとは思えません。
ファルネーゼ卿に知恵袋がいるのでしょうか?」
オフェリーがなにか挙動不審になるかと思ったが……。
まったく平静だ。
なにげにキアラよりは演技力があるよな。
比較対象が酷すぎるか。
いきなりキアラが、ジト目で睨みつつ肘鉄をしてきた。
なんで分かるんだよ。
ともかく……廃教皇の転生なんて話をする気はない。
「それは些末なことでしょう。
分からないのですからね。
即座に反撃してきた事実こそが重要です」
シスター・セラフィーヌは怪訝な顔をしていたが、小さなため息をつく。
「そうですね。
それで、この事態に教会がどう対処するかをお伝えします。
現在調整中ですが、公開の場で
公正を期すならそれしかないよな。
モーリスなら慌てずに、弁論の準備をするだろう。
敵もそれは想定するはずだ。
おそらく早い段階で、弁論合戦に突入させる腹づもりだろう。
敵はシクスーが不適格であると印象づけるだけでいい。
もしシクスーが勝利しても醜態を
本番の弾劾裁判でも不利になる。
「それで時期は?」
「再来週に決まりました。
この件を長引かせては、教会の権威を損なうとの声が多かったですから」
なるほど……。
普通に考えれば早すぎる。
予想していなければ大変なことになったろう。
「それはそれは……。
普通なら
「私もそう思います。
それにしても、誰も知らないはずの
しかも弾劾してきた人物は無名です。
名前は部外者に明かせませんのでご容赦を」
「私は構いませんが……シクスー総督には伝えたのですか?」
「それは当然。
相手も、シクスー総督が弾劾したことを知っていますから。
公正を期すために知らせました。
ただ、相手を調べるにしても再来週に討論です。
その余裕はほぼないでしょう。
本来であれば1カ月程度は準備期間を設けるべきでしょうが……」
そのためのモルガンだ。
グスターヴォと同じ世界主義者だったからな。
人脈にも精通しているし、モーリスに有効な助力が出来るだろう。
だからこそモルガンの部下として耳目をつけているのだ。
キアラもこれには反対しなかった。
「討論を急いだのは、準備をさせないためでしょうね。
すくなくとも本番の邪魔は出来ますから」
シスター・セラフィーヌは俺の返事を聞いて薄く笑った。
「ではお手並み拝見といきましょう」
◆◇◆◇◆
ボアネルジェス・ペトラキスが面会を求めてきた。
たしかボアネルジェスはずっと働きづめで体調を崩しがちだ……と聞いている。
だから強制的に1週間ほどの休暇を命じた。
その休暇を利用して面会とはなぁ……。
断る理由としては薄いので会うことにする。
個人的な相談とのことなので応接室で話を聞くことにするのだが……。
キアラが秘書を連れてついてきた。
しかも秘書は紙とペンを持っているのだ。
「キアラ。
個人的な話を書籍にするのは感心しませんね」
キアラは涼しい顔だ。
「私を甘く見られては心外ですわ。
仕事中毒のペトラキスが個人的な相談ですよ。
これは、お兄さま学の匂いがしますの。
つまり、学問的な話になることは明白です。
もし、本当に個人的なら書いたりしませんわ。
お兄さまに軽蔑されるなんて耐えられませんもの」
反論する気が失せたので、そのまま応接室に向かう。
待っていたボアネルジェスの顔色は良くない。
紙とペンを置いた秘書が退出したので本題に入る。
「私は休暇を命じたはずですよ」
ボアネルジェスは軽く頭を下げる。
「存じております。
休暇の目的は、体調を戻せとのことでしょう。
原因は仕事ではありません。
ただ心の問題なのです」
つまり、原因を取り除くのに、俺の話が必要だと……。
ただの人生相談ではなさそうだな。
「心の問題とは?」
「ラヴェンナについてです。
私が、いままで学んだことと真逆のことをしてなぜそこまで発展するのか。
役人の間では否定論ばかりです。
でも事実は違う。
それが悩みとなって気分が晴れないのです」
キアラがフンスと胸を張る。
その嗅覚を、別の方向に生かせよ……。
後で釘を刺しておこう。
ただ、違いと言われても漠然としすぎだ。
「ラヴェンナの特殊性は多すぎます。
どのような点についてですか?」
「ラヴェンナの税制です。
まず極めて低い。
たしか……収入の1割3分。
商会のような利益集団には1割7分。
たったそれだけ。
代わりに免除されることはない。
それだけではありません。
収入が増えるほど税率が増えない。
金持ちと貧乏人が、同じ税率など非常識です。
しかも
極めて単純です。
ラヴェンナ税制法を聞いたら紙1枚にすべてが収まっているではありませんか。
想像の外です」
当初はもっと安かったが、
まあ……ラヴェンナ市民だけで運営するのだ。
複雑に税制なんて出来ないこともある。
学校で教えることもあるが……。
そもそも複雑な税制は害だと思っている。
「ペトラキス殿は、税を重くするほどに税収は増える……とお考えですか?」
「それは常識だと思っていました。
ただ、ラヴェンナで税率を上げれば収入が増えるとは思えません」
さすが頭脳
ラヴェンナの税法で安易に税率をあげると破綻してしまう。
ボアネルジェスなら理解出来るかな。
図にして説明しよう。
「キアラ。
紙とペンを貸してください」
「構いませんけど……」
キアラから紙とペンを借りた。
図表を描こう。
まず垂直線を紙の左端に。
そして平行線を紙の下端にひく。
これらが軸だな。
最後に数値となる曲線を描くのだが……。
中年男性の突きでた腹のような形になる。
上の基点は縦線より、やや左にはみだす。
曲線は下腹部あたりで最も突きでた形になる。
それを越えて下になると左によっていく。
最後は垂直線よりやや左にはみだす。
これをボアネルジェスに差しだした。
「これがラヴェンナ税制の根幹理論です」
ボアネルジェスの目が点になる。
「これだけではなんのことか……」
理解出来たら怖い。
シルヴァーナが見たらオヤジ曲線とでも呼びそうだ。
「垂直線が税率。
平行線が税収です。
最も税収が高くなるのは低めのとき。
これで分かりますか?」
俺が文字を書き込むとボアネルジェスが凝視する。
それを見たキアラが苦笑した。
汚すぎて読めないようだ。
知らん。
ボアネルジェスは文字から目を逸らした。
「最も税が重いとマイナスになるのですか?」
礼儀を守って、字の汚さはスルーしたな。
そもそも、他所の理論とは違う図表だからなぁ……。
理解が追いつかないか。
「当たり前でしょう。
働いた分が全部取られるのに……誰が働くのですか?
働かないと生きていないなんて言葉は無駄ですよ。
その働いた分がすべて持っていかれるのです」
ボアネルジェスは怪訝な顔をしている。
働く意味の定義から違うだろうな。
「たとえすべてを取られたとしても、『必要な分は分配するから働け』となればどうですか?
それなら貧しいは救われるでしょう。
いまよりマシな社会になると思いますが」
世の権力者や役人は、なにかにつけて支配したがる。
意欲は結構だが……実現出来るのか?
俺はそこまで自信家ではない。
そもそも、権力側が民を支配するときの支配方法は、単純化された理論を押しつけることになる。
だが実情はどうだ?
個人ですら違いがあるのだ。
本人たちに任せるのが1番だろう。
最適解とは、統治の基本である公平性と相反するのだ。
当然、意欲と結果は一致しない。
役人は数値のトリックで成果を誤魔化すだろう。
満足するのは支配者だけだ。
「再分配の弊害については別の話ですが……。
それを実現するには、どれだけの役人が必要になりますか?
無理に働かせるなら、監視の目が必要になる。
密告制度などを用いれば、ある程度誤魔化せますが……。
行き着く先が『疑わしきは罰する』です。
つまり密告は
「密告制度は私も好みません。
『疑わしきは罰する』ことも。
ただ、成果を達成するための道具とは?」
「簡単な話ですよ。
もし社会全体を監視するなら効率性が重視されます。
その際に用いられるのは数値ではありませんか?
数値は、すべてを単純化する道具ですから」
ボアネルジェスは一瞬、厳しい顔になった。
数値に強いだけに数値を信仰している。
信仰を貶されたと思ったか?
「まるで、数値が悪と言わんばかりですが……。
大元帥が、そのような単純なことは
仔細をお伺いしたく」
やはり、学ぶ姿勢は謙虚そのものだな。
このような姿勢でこられると本腰を入れざるを得ない。
「たとえば都市部と農村では、仕事をサボる人数の割合が違いませんか?」
「そうですね。
農村ではサボることは出来ません。
ひとりふたりは不届き者がいますけど」
「大変結構。
では効率的に支配するなら、農村部で密告対象は何人いるはず……と決めたりしませんか?」
ボアネルジェスは息をのんだ。
もうすべてを察したか。
「事実とは無関係に、定員を満たすまで対象を摘発すると……。
しかも疑わしきは罰するので、対象者の弁明も聞き届けられない。
対象者は誰でもいいと……。
農村の監視を任された者は、摘発人数が目標値に達しないと処罰される。
仮に反乱を企まれていても、目標値以上の摘発も行わない……。
働くどころではありませんね」
役人事情に詳しいだけのことはある。
すぐ想像出来たようだ。
「お見事です。
これは強引な統制が辿る末路ですよ。
だからと正確な摘発を行おうとすれば、役人が何人いても足りません」
ボアネルジェスが渋面になる。
「そもそも、すべてを統制など不可能と……」
「加えて、大規模な統制機構は収入以上の経費がかかります。
統制する側が、民未満の報酬で満足すれば軽減されますがね。
それだけ強大な権力を持った者が、果たして満足出来るのでしょうか?」
「すべての収入を税として徴収は不可能なことが分かりました。
では……低めの税率こそ最も税収が高い……とは?」
「人のみならず生き物の活動はすべて欲求からはじまります。
働いた分だけ稼げるならより働くでしょう。
ほどほどでもいい人はいますがね。
ここまでは分かりますね?」
ボアネルジェスが首をかしげる。
頭の良い男だ。
先を読もうとしているのだろう。
「はい。
ですが……それだと民ばかり豊かになってそこまで税収増に結びつかないのでは?」
民ばかり豊かになっても困らないだろう。
ただ増収のカラクリは教える必要があるな。
「人はなんのために働くのですか。
まさか『雇用があるから働く』なんて言いませんよね?」
「生きるためですね」
「間違ってはいませんが……正確には消費するためです。
民の生産活動が活発になれば消費も増える。
逆に増税は、生産を押しとどめる効果があります。
軽い税は、経済の後押しとなる。
これが、どれほどの波になるか……理解出来ますよね?」
ボアネルジェスが、天を仰いで嘆息する。
「ラヴェンナ経済圏の発展は不思議な現象でした。
ですが事実は認めざるを得ません。
私の学んできた理論とは真逆です。
正直に申しあげて理解が及びません…。
増税は税収増につながり、富の再配分によって社会の安定を期す。
民は放置すると勝手ばかりするので規制が必要。
これが真理と思っていました」
すべての規制が悪ではない。
必要な規制はあるだろう。
だがそれは最低限に留めるべきだ。
ただし、社会に悪影響を与えるのであれば規制しなくてはいけない。
「すぐに理解は難しいでしょうね」
「それと非常に気になっていたのが、すべての税率が同じことです。
より儲ける職種や
乱暴にすぎませんか?」
たしかにある意味で多種多様な税率は公平なのだろう。
だがそれは
まあ……そもそもラヴェンナではやれない。
多民族集団だからこそ、公正で明確な基準は必須なのだから。
「すべての税率が一律なら脱税は難しいでしょう。
職や品目によって差をつけると、
どんどん役人が増えていく羽目になりますよ。
しかも
彼らは公に奉仕するのではありません。
仲間内に奉仕するのですから。
その点で、民となんら変わるところはありません。
建前を信じる人たちはいますが少数派ですよ。
そして少数派は決して出世出来ません」
ボアネルジェスが肩を落とす。
「お恥ずかしながらその通りです」
「そのような
商人や職人のギルドにしても、役人や統治者に陳情や賄賂を送って利益を得ようとします。
このような活動は極めて非生産的ですが……。
損を減らすのも欲求です。
これを押さえることは出来ません。
ならば、その欲求が非生産的活動と結びつかないようにする。
これが政治の役目でしょう。
脱税や節税賄賂や陳情の価値が高い社会は無駄だらけだと思っています。
だからこそ…、…それで、飯を食っている人たちに恨まれるわけですが」
「大元帥は極力、権力者の介入を避けようとしているのですか?」
「当然ですよ。
権力者は富を生みだしません。
役人にしてもそう。
ですが、自己の利益を求める欲求に従い権益を拡大させようとする。
そのように、役人が首を突っ込んで繁栄した社会がありますか?」
ボアネルジェスの目が鋭くなった。
「大元帥が新法に否定的だったのはその原則からですか?」
「ひとつの動機ですね。
ただ無制限に民任せとはいきません。
どうしても、短期的な利益を重視しがちですからね。
だから大枠を決めるのに我々が必要です。
それでも過度な口出しは厳禁ですよ」
「反論したくても、厳然たる事実の前には沈黙せざるを得ません」
俺がなぜボアネルジェスを登用したのか。
理論の過ちを責任転嫁しないからだ。
理論の間違いを運だけで片付ける連中とは会話するだけ無駄だと思っている。
つまり、話の通じる相手だから、捨てるには惜しいと思った。
「それと税率の低さについても話しましょう。
低税率なら、脱税に走る欲求を刺激しにくい。
現実は、税が重く複雑なため納税は、不当な行為とすら映るでしょう。
しかも、使う側が馬鹿な使い方を繰り返して『足りない』とほざけば? 殴りたくすらなる。
殴ったところで得にはなりませんので、それなら不当な搾取から逃げることを考えるでしょう。
脱税や節税が盛んなのは、税制と使い方が極めて理不尽だから起こる現象です。
それを塞ごうと税制が複雑化する。
これでは金貨1枚取るのに、銀貨50枚の手間がかかるようなものです」
ボアネルジェスの目が鋭くなった。
「つまり、低くすれば生産的活動により力を入れるわけですか……。
しかも、脱税が少なければ、監視の手間も少ない。
結果として、効率的な徴税が実現出来ると」
「ご明察。
ラヴェンナは、単純な当たり前を実現しているだけですよ。
人の欲求を無視した税制など非効率の極みですからね」
ボアネルジェスが、小さなため息をついた。
「いままでのお話を聞いて納得しましたが、それでは実現出来ない問題があります」
なにが問題か想像出来るが……。
先に答える必要はない。
「伺いましょう」
「問題は貧困層への支援です。
富の再分配をして、貧しい者を救わねばなりません。
それは、小さな統治機構では不可能でしょう」
やはりそこを指摘してきたか。
俺の理論で弱者救済には触れてこなかったからな。
俺は、過度な弱者救済など不要と思っている。
また、弱者を生みだしかねない商会の倒産問題も、『潰れるなら潰れてどうぞ』というスタンスだ。
一時の混乱は起きるだろうがまた、別の商会が立ちあがるだろう。
『影響が大きいので、どれだけ自業自得であっても潰さない』などお笑いぐさだ。
権力側の
どれだけ冷血だと罵られても構わない。
助けられない側には不満が渦巻く。
誰かに優しい政治とは、その他から搾取する政治になるだけだ。
結果、民は優しさを求めて、陳情や賄賂などの非生産的活動に力を入れる結果となる。
倒産に関して説明は不要だな。
いまは弱者救済にしぼって答えよう。
「そこで再分配の弊害について話します。
たしかに、貧者に富を与えることは正しいでしょう。
でも統治機構は富を生みだしません。
つまり、誰かから奪った富を与えるしかないでしょう。
富を奪われた側についての考えはありますか?」
ボアネルジェスが絶句した。
やがて小さく首をふる。
「考えなくはないですが……。
それより貧者を救わなければ、社会不安の元となります。
放置すれば、富を生む者たちに悪影響が及ぶでしょう。
少数を切り捨てても構わないと?」
やはり考えていなかったようだ。
自分で稼いでいるから平気だろうと高を括ったか。
それを指摘しても無意味だ。
再配分の決定を指摘するに留めよう。
「そうではありません。
それは救うべきですが働いている者を越えてはいけません。
しかも再配分とは、富を誰かから誰かに渡すものですらないのです。
マイナスの効果しかない。
あなたたちは平等を目指すのでしょうが、統治機構が実現する平等は貧しさの平等でしかありません。
そのような平等に価値を見いだせませんね」
「再配分が悪しきことであると?」
「直接的な表現を使えばそうなりますね。
極端に貧しいか働かない者に利益を与えるとします。
それは、働かない欲求へと結びつくでしょう。
手厚い保証と言えば聞こえは良いですが……。
実際は彼らをそこに封じ込めるだけですよ。
手厚い保証を実現するとなれば高税率が不可欠です。
つまり働くほうが辛いなら、そのままでいいとなるでしょう。
そして、働く側から働く意欲を奪います。
頑張って働いても取られるだけですからね。
目先の計算ではプラマイゼロでしょうが……将来的に経済は縮小するでしょうね。
それは保護対象が増えることを意味しますよ」
ボアネルジェスが怪訝な顔をする。
「弱者の保護については興味がありませんか?
社会とは支え合いです。
能力に応じて働き、必要に応じて取るべきではありませんか」
このあたりの理屈は、先代使徒が
理論を伝えるなら実践してからにしてほしい。
「どうしても働けないのであれば、最低限の保障はします。
その最低限を実現するには、働くほうが得でなくてはいけません。
重税社会において、底辺近くの収入ならなら働かないほうが得になりますよ。
稼ぐ人から奪って稼がない人に与える行為は私にとって必要悪でしてね。
必要悪だからこそ最小限にすべきでしょう。
やる気のでる環境を作ることこそ肝要なのですよ」
「聞くだけだと、冷たい社会に思えますが……。
大元帥は富裕層に甘いのでは?」
この理屈がおかしい。
どうして金を稼ぐことが悪なのだ?
「それのなにが悪いのですか?
成功者を冷遇すれば社会は悪平等しかなくなりますよ。
沢山稼いで税金を納めてくれる。
大変結構ではありませんか。
しかもラヴェンナでは、公共への奉仕が美徳とされます。
稼いだ金を公共に使ってくれる。
それなら称賛すべきでは?
ただし、他人を食い物にする成功は認めません。
その点において、ラヴェンナは野蛮と言われるほど厳しいですよ」
ボアネルジェスが
やがて大きなため息をつく。
「一つひとつの理論が独立せずにすべて関連しているわけですか……。
脱帽です。
ただ既得権益層からはかなり恨まれるでしょう」
暗殺計画が練られるくらいには嫌われているな。
思わず含み笑いが漏れた。
「まあ……酔っぱらいの船乗りから酒を取り上げるようなものですからね。
恨まれて当然でしょう」
「既得権益層が酔っぱらいの船乗りですか?」
「酔っぱらいの船乗りより悪質ですけどね。
とにかく酔って金を使いたがる。
ですが船乗りは次の日には素面です。
残念なことに、統治者や役人は素面に戻らない。
なにせ使っても、自分の金が減るわけではありませんから」
ボアネルジェスが初めて苦笑する。
笑うしかない……といったところだな。
「誠に遺憾ながら……、反論の余地はなさそうです。
大元帥の本分は、策略と戦略にある……と思っていました。
経済についても造詣が深かったのですね。
ここまでの統治者を見たことがありません」
「経済音痴は、統治に携わる資格がありません。
人々の生活を守るのが統治者の役目ですよ。
生活を壊してどうするのですか。
とくに『公平さを保つため』といいながら、あらたな税を考えるようなヤツは蹴りを入れたくなりますね。
その公平さがどれだけ不公平な税を次々と生みだすのか。
あれは詐欺師よりたちが悪い。
そのような者たちは、軽蔑されるか恨まれて当然です。
私は100万人の既得権益層から恨まれるより、ひとりのラヴェンナ市民からの貧困が嫌ですね」
ボアネルジェスがスッキリした顔でうなずいた。
「お陰で、
ただ、考える時間は増えそうですが……。
休暇の間、統治のあるべき姿を考えたいと思います。
最後にひとつお伺いしても?」
「なんですか?」
「先ほどから大元帥は、統治機構の小ささを求められています。
では適切な小ささとはなんでしょうか?」
いい着眼点だ。
当然基準がある。
「まず税金とは、人々を痛めつけるものです。
ある意味で必要悪と言えるでしょう。
そこで統治機構の支出によって得られる利益が、税金による痛みをある程度上回ることです。
もし利益がでないのではあれば? 小さすぎると言えるでしょう。
利益になるから……と支出を増やしすぎるのであれば大きすぎる。
ただし……やっていることが真っ当ならばです。
規制や締め付け、税制の複雑化で支出を増やす行為は、この論理に当てはまりません」
「なるほど……。
仮になんらかの影響で不況となったときはどうすべきですか?」
「不況であれば『立ちはだかるより障害をどける』べきなのですよ。
補助金などで金をばら撒くより、減税が手っ取り早く確実です。
そもそも補助金などは悪しき再配分ですが、統治側がよくやる手ですよ。
支配の道具としては有効ですからね。
しかも例の非生産的な活動が活発になって、自分たちの懐も潤うのです。
統治者とばら撒かれる側だけが儲けて、その他はより貧しくなるだけ。
これを対策だ……と本気で思っているなら余程の馬鹿でしょう」
ボアネルジェスはなぜか、残念そうな顔をする。
おかしなことを言ったか?
「本来であれば、もっと色々と質問をして学びたいところですが……。
まずは、私の仕事に集中しましょう。
この図は頂戴しても宜しいでしょうか?
飾っておきたいので」
つまり学びたいけど時間切れってことか。
キアラが圧をかけていたようだ。
こんな図を飾るなんてねぇ……。
モノ好きなヤツだ。
「構いませんよ」
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