1004話 閑話 人生というゲーム
イザイア・ファルネーゼは、謎に満ちた男である。
内乱が起こらなければ順当に大貴族ファルネーゼ家を継承したはずである。
ところが内乱の混乱時、弟のオリンピオに家督継承権を奪われかけた。
オリンピオが一時的にも家督継承権を奪えたのは、家臣の協力があったからだ。
それだけイザイアに不安を感じる家臣が多かった。
イザイアが暗愚なのではない。
目から鼻に抜けるような才人だった。
だが不気味なエピソードには事欠かない。
生まれたときから子供らしさがなかった。
人生を達観したような虚無感に満ちた子供は、ただただ不気味なのだ。
不気味なだけではない。
知性が子供の域を超えている。
大人顔負けの回答をするほどだった。
家庭教師はすぐに『教えることがない』と匙を投げてしまう。
とくに神学では、家庭教師を遙かに凌ぐ理解を示す。
家庭教師が教えを請うという意味不明な現象まで起きる。
ただ有名にならなかったのは、イザイアの言動が教会を皮肉っていた。
不信心極まりない。
広まって教会に目をつけられては、ファルネーゼ家としては困るのだ。
しかも神童でありながら、周囲の興奮と称賛には無関心である。
普通の神童なら周囲の期待に応えようとするなり、相手に合わせることをするだろう。
イザイアはまったくそれがない。
他人の評価など気にしないかのような振る舞いだった。
子供特有の背伸びや反抗する様子はない。
極めて自然に無関心なのだ。
これがイザイアを不気味に感じさせる。
不気味だろうと力量は申し分ない。
見習いとして当主である父の補佐をしても、文句の付け所がなかった。
当主から『すぐ家を継いでも問題はない』とお墨付きをもらうほどに。
これほどの力量ならファルネーゼ家の将来も安泰となるはずだった。
それでも周囲を不安にさせたのは、普段の言動が虚無的で投げやりだからだ。
常に不気味なほど冷静で、家臣の失態を怒ったことなどない。
前から予期していたかのように、素早い対応をして失態を帳消しにする。
家臣たちは舌を巻きつつ『ご子息は自分たちを信用していないのでは』と考え、不安に駆られた。
この不安を決定的にしたのは、使徒ユウの暴挙が明らかになったときだ。
周囲は右往左往するばかり。
イザイアひとりだけ冷静どころか楽しげな様子すら漂わせていた。
家臣たちは疑心暗鬼に駆られる。
イザイアは『お前たちは役に立たない』と思っていると信じ込んだのだ。
不安になった家臣たちはオリンピオに目をつける。
あらゆる面でイザイアに劣るのは明白だ。
代わりに自分たちを信用してくれており、安心感が強い。
自分たちが守り立てると思えるからだ。
しかも典型的な大貴族思考でそれなりに頭がよかった。
オリンピオでも大過なくファルネーゼ家を維持出来ると見込める。
これが中小の貴族であれば、勢力拡大のチャンスと考え、
能力こそが重要なのだから。
ただ大貴族家の家臣にとっては、安定と維持こそ最大の関心事なのだ。
頂上にいるのに、勢力の拡大はリスクばかりでリターンが少ない。
他の三大貴族家を蹴落とす必要があるからだ。
大博打に勝てば、それなりの成果は得られる。
ただし大博打に負ければ転落必至であった。
内乱の混乱期に乗じたクーデターは一時成功する。
なにより奪われたイザイアが後継者の地位に固執しなかったのだ。
そのときのイザイアは怒らず、虚無的な笑みを浮かべただけであった。
家臣たちにとってイザイアは危険の存在だ。
軟禁して毒殺を計画する。
ところがイザイアはまんまと逃げおおせた。
当然イザイアひとりでは逃げられない。
この内乱期は『なにより才能が重視される』と考えた家臣たちは一定数存在した。
彼らの手引きで逃げることに成功する。
イザイアはそのままニコデモの元に身を寄せた。
家臣たちは、その決定に異存はない。
それとはべつに飲み下せないことがあった。
それはイザイアはスカラ家の方針になんら口を挟まないことだ。
まるでスカラ家の陪臣になったと錯覚する。
大貴族の直臣から降格したかのように。
これは流石に耐えきれなかった。
しかもファルネーゼ家であれば、スカラ家と共同でニコデモ王子を擁立すると考えていた。
家臣たちにとってはそれが当然である。
イザイアに直訴するも、イザイアの意思は変わらない。
『乱世で大事なのは武力だよ。
共同擁立が成立するのは、武力においてスカラ家と対等であることだ。
我が家にそれがあるとでも?』
半数の家臣が耐えきれずに逃亡した。
それでもイザイアは意に介さない。
イザイアはスカラ家の方針に口を挟まないが、挙動は一線を画する。
その結果、スカラ家の下風に立つことを潔しとしない貴族たちの旗頭になる。
スカラ家は三大貴族だが武門の家であり、多くの家が野蛮と内心見下していたからだ。
イザイアは貴族たちに担がれても、決定的な反抗をしない。
不平分子を抱き込んで首輪をつけるかのようだった。
こうなればイザイアの存在は、ニコデモ体制の安定に必要不可欠な存在となる。
気が付けばイザイアは武力に劣るファルネーゼ家の地位を引き上げた。
家臣たちは内心舌を巻く。
やはり天才だと。
ニコデモ体制は、四つの派閥で構成される。
スカラ家を主体とする最大派閥。
そのスカラ家でも、伝統を重んじる者はフェルディナントを支持する。
時代の変わり目に対応する若者はアミルカレ支持。
ラヴェンナを中心とした中小貴族や新興の貴族がラヴェンナ派を形成する。
実力と勢いはあるが最大派閥には及ばなかった。
この2派は衝突してもおかしくない。
最大派閥と次点の派閥となれば、普通なら勢力争いが巻き起こる。
ところが
『非の打ち所のない服従ぶり』と王党派やファルネーゼ派から揶揄されるほどに。
多くの貴族が離間工作を企み、スカラ家にアルフレードの危険性を説いても一蹴される。
家族であることも大きいが、アルフレードは徹底した協力姿勢を積み重ねていた。
武門の家で公明正大を旨とするスカラ家が、アルフレードを疑うことなど出来ない相談なのだ。
ニコデモの取り立てた直臣たちが王党派となる。
宰相ティベリオ・ディ・ロッリを筆頭に警察大臣ジャン=ポール・モローらだ。
彼らの強みは、実権を握っていることである。
最後に内乱で地位を失ったファルネーゼ派。
数だけは最大を誇るが、財力や武力において最低である。
ただ、過去の権威だけなら最大であったが。
ニコデモ即位時に逃げ散ったイザイアの家臣が恥を忍んで帰参を申しでる。
イザイアはなにごともなかったかのように、彼らを迎え入れた。
その結果、主君を失った家臣たちがイザイアの元に馳せ参じる。
ファルネーゼ派が結成されてから、イザイアの活動は目を見張るものがあった。
財力において急速に力をつける。
それこそ手段を選ばずに。
力をつけてからの行動も非凡であった。
その財力で、スカラ家と王党派を切り崩すと思いきや接近を選ぶ。
ランゴバルド王国の経済にがっちりと食い込んだのだ。
それどころか、シケリア王国との交易にも熱心に取り組み、ラヴェンナ派の独壇場を切り崩すことに成功する。
シケリア王国としても、成り上がりのラヴェンナ派より、ファルネーゼ派と付き合う方がプライドは傷つかない。
これだけ精力的に活動しても虚無的で投げやりな態度は変わらなかった。
家臣たちに本音を吐露しない点も。
人間的なオリンピオは家臣に本音を漏らすし好感も得ていた。
家臣がどれだけ望もうとも、イザイアの態度は変わらない。
そもそもイザイアは徹頭徹尾人間を信じないのだ。
猜疑心の虜ではない。
信じようとして信じられないのが猜疑心なのだ。
首尾一貫して人を信じないイザイアは猜疑心とは無縁であった。
だから逃げた家臣が戻ってきたときも平気で迎え入れたのだ。
イザイアにしてみれば『飼い犬が逃げたものの、腹が減ったから戻ってきた』程度の話なのである。
イザイアが信じるのは己のみであった。
当然孤独となるが、その孤独に安住の地を見いだしているかのようだ。
イザイアは本音を誰にも話さない。
計画の相談もせず、ひとりで考える。
家臣たちは指示だけを実行するのだ。
イザイアは寝室で机に向かって考え事をしている。
イザイアの前には、五つのチェス盤が並べられていた。
それぞれに駒が配置されている。
ひとり対極には見えない。
並びも不規則なのだ。
イザイアは駒を動かすがルール通りではない。
他人が見れば、ただ駒を動かしているだけである。
これがイザイアの思考法であった。
自分の置かれている現状をチェスに擬して、次の手を考える。
この盤を見ても他人は決して気付かない。
イザイアが薄く笑って、味方のビショップを盤外に弾く。
ビショップのいた場所には、敵のナイトを動かした。
イザイアの視線は、ナイトの後ろにいるキングの駒に向かう。
「さて……どうでるかな。
私でも読めない相手だ。
これほど心地よい緊張を
突然、ノックの音がした。
イザイアは小さく肩をすくめる。
「
入っていいよ」
普段のイザイアを知る者なら
サラディーノとふたりきりのときイザイアは、非常に温和な態度を取る。
他人に対しては温和であるものの、決して一線を越えさせない。
サラディーノにだけは、相談に近い話を持ちかける。
謎かけのように幾らでも言い逃れが出来る会話だ。
それでもサラディーノの回答はイザイアが満足するものであった。
サラディーノが一礼して部屋に入る。
イザイアはサラディーノを一瞥した。
「なにか急用かい?」
「トランクウィッロ家が面会を申し込んできましたが、旦那さまは病であると断りました。
いつ頃ならば? と諦めきれないご様子。
如何いたしましょうか?」
マンリオ暗殺が成功してからイザイアは、病と称して、外部との接触を断っていた。
誰もが本気で病気と思ってはいない。
それでも、強引に会おうとすればマナー違反で、イザイアから縁を切られても文句は言えなかった。
イザイアは、アゴに手を当てて思案顔になる。
「そうだね……。
会う必要はないさ。
私を売るために、なんとか会おうとしているだけだからね」
「トランクウィッロ家が、保身のために旦那さまを裏切るとお考えですか?」
イザイアは盤外に弾いたビショップを手にする。
「当たり前ではないか。
誰だって、保身のためなら平気で裏切る。
だから先手を打って高値で売りつける。
そもそも、私だけが特別に裏切られない……と考えるのはあまりに愚かだよ。
自分だけが安全なゲームは、子供の想像したゲームにすぎないさ。
人生というゲームは、相手を売り飛ばすか……相手に売り飛ばされるかの勝負でしかない。
ただ……タイミングが難しいね。
今回のお邪魔虫は大元帥だ。
ひとつ間違えれば私の首が飛ぶ」
「承知いたしました。
では旦那さまのご指示をいただき次第、手を回しましょう」
「なにか関連した情報はあるかい?
闇雲に損切りしても退屈だからね」
「はい。
シャロン卿の家臣がなにやら、下町で起こった火事を嗅ぎ回っている模様です。
それでトランクウィッロ家をいたく刺激したようで」
イザイアは、手に持ったビショップを一瞥して苦笑する。
「毒蜘蛛の手先でも怖いだろうね。
私の友人なのに情けない。
この程度の危機をゲームとして楽しめなくては、私の友人としての資格はないさ」
サラディーノは
「旦那さま。
人生をゲームとして楽しむことは変わらないのですか?」
イザイアはサラディーノに、この世のゲームだと漏らしている。
サラディーノは、イザイアの思考をファルネーゼ家当主として適切とは思えなかった。
執事らしく分際を
イザイアは苦笑して肩をすくめる。
「当然だろう?
人は、どれだけ頑張っても死ねば終わりだ。
誰かのために頑張ったとしても、都合が悪くなれば、その誰かは平気で裏切る。
だから大事なのは自分がどれだけ満足するかだ。
世の中そのようなものだよ。
それなら人生をゲームとして楽しむべきではないか?」
「
そもそも生について考えを巡らせたこともありません」
イザイアは唇の端を歪める。
「それが普通だよ。
誰が呼吸について考えるのかね。
生について考える奇特な人間とは、当然のことを考える余程の暇人か……不幸を堪能する趣味人だ。
だが私は自分を不幸だとは思わない。
生まれながらの暇人さ。
私にとって安定とは生ける死でしかない。
「人間の欲には際限がないと思います」
イザイアは声をださずに笑う。
虚無的かつ冷笑的で見るものを不安にさせる笑顔だ。
「まあ……普通の感想だね。
こうは考えられないか?
彼らは人生において耐えがたいほどの喪失感に
喪失感を、真っ当な方法で埋めることは出来ない。
あらゆるものが色あせて感動などないのさ。
だからこそ食欲をかき立てるため美食に溺れる。
味などはどうでもいい。
どれだけの珍味か……値段などを考えて美味い、と思うわけだ。
まあ……世の中には、ただ生きているだけで満足出来ない、私のような狂人がいるのだよ。
人間のみに許された、非生産的で無意味な欲求だがね。
私は美食の代わりにゲームという刺激を欲しているのさ」
サラディーノは礼儀正しい態度を崩さない。
イザイアの独白を何度も聞いているので慣れているのもある。
なにより執事として、イザイアに仕えることが最優先なのだ。
「刺激を欲しているですか?
旦那さまは博打を軽蔑されておると存知ますが……」
イザイアは唇の端を歪める。
「博打は胴元が勝つゲームを装った商売さ。
だから博打と称しながら勝ちすぎる賭博師を追いだす。
胴元だから破滅しない決まりはないだろう?
本当の博打なら、胴元は己の破滅をかけて賭博師と勝負するものさ。
ところが、夢と欲を売る商売だからね。
その売り物は取り柄もない愚物すら自分に価値を見いだせる。
勝てば一獲千金だしね。
それが己の価値である……と誤認すら出来るだろう。
勝てなくても、将来勝てばと現実逃避出来る。
大した商売だが、罪作りな商売だよ。
利益になるから商売であって、そのようなものは刺激ですらない。
私は刺激モドキでは満足出来ないね」
「では大元帥にゲームを挑みますか?
旦那さまが唯一認められている貴族でしょう。
大元帥相手のゲームなら最高の刺激ではありませんか?」
「まさか。
勝算のないゲームをする気はないよ。
あれは正真正銘の化け物さ。
人間の私では勝ち目がない。
勝ち目のない勝負はゲームですらないよ。
私は、武力のない影響力というゲームを楽しむことにしているのさ」
「ひとつお伺いしても?」
「勿論構わないよ」
「
サラディーノはイザイアに、付き合いをやめるように諫言している。
だがイザイアは、
「面白そうだったからね。
教会に取って代わろうとするなんてなかなか面白い。
まあ……仮に連中が勝者になると、この世界は終わるね。
だとしても終わるのは私の死後だ。
知ったことではないさ」
「
イザイアは冷笑を浮かべて手をふった。
「悲しいことに人間は、千の言葉で理を説かれても納得しない。
ひとつの拳で黙り込む。
大元帥がいなければ勝算はあったろうけど、あの化け物がいる限り無理だろうね。
安心していい。
私は死ぬまで、それなりに危ないゲームを楽しむだけだ。
連中は、私を利用しているつもりだろうが、私が乗せられているのは楽しめる間だけさ」
サラディーノは、イザイアが機を見計らって偉大なる刷新を切り捨てる意向と知り、
偉大なる刷新が成功する見込みはない……と考えていたからだ。
アルフレードの目をかいくぐって実現など不可能にしか思えない。
野蛮のスカラ家の血を引いているのだ。
いざとなれば武力でひっくり返すと思っていた。
アルフレードが口で説くのは、それで目的が達成されるときだけ……と知っていたからだ。
サラディーノの人生においてアルフレードほどの政治力を持つ傑物は見たことがなかった。
さらに最強の武力まで有している。
誰がアルフレードに勝てるのだろうか。
「でしたら、
別件で報告があります。
大元帥からの公式声明が届きました。
教会からの要請に基づくもののようですが……。
目を通されますか?」
「そうだね。
あの大元帥が、どのような擁護をするのか興味がある」
サラディーノが書状を差しだす。
イザイアは、軽い調子で受け取ってから一読する。
読み終えて満足気にうなずく。
「なかなか面白い。
放送の真偽には触れないように立ち回っている。
あの若さで大した役者だよ。
他にもなにかあるんだろ?」
「警察大臣殿から私に、面会の打診が来ております。
『旦那さまが病気で伏せっており、多忙につき、会えない』としておりますが……。
このままでよろしいでしょうか?」
イザイアは軽く欠伸をする。
「そうだなぁ……まあ放っておいていいだろう。
売るタイミングには注意が必要だけどね。
イザイアは、警察大臣の梯子を外すタイミングの話をしているのだ。
サラディーノはそれを承知している。
「まだ時期尚早かと。
大元帥が、このまま黙っているとは考えられません。
動きを見てからでも間に合うかと」
アルフレードの動きにサラディーノは神経を
イザイアにとってのアルフレードは、ゲームで排除出来ないお邪魔虫だ。
それをかいくぐって成果をあげることに充足を感じている。
「そうだね。
まあ、あの警察大臣のことだ。
上手く立ち回るだろうさ。
それにしてもトランクウィッロ家は大変だ。
そう思わないかい?」
「元々トランクウィッロ家は、腐敗した教会との癒着で成り上がってきましたから。
旦那さまの友人とするにはあまりに品位がないかと」
「
当然、本当の友人にするつもりはなかったよ。
ただ……売りつけるには、なかなかいい駒だったからね。
頼みの綱の教会も、親しい人たちが全員失脚している。
あの女神とやらの放送で教皇もなにかしてくるだろうし……。
まあ……教会がマトモになるのは結構なことだよ。
それをなし得るのが女教皇とは皮肉な話だ。
そう思わないかい?」
「
教会は、清濁併せのむ組織かと。
それでも以前は少々濁が強すぎたと思いますが」
イザイアは哄笑した。
教会を批判するときイザイアは何故か饒舌になる。
サラディーノに原因は分からなかった。
「言葉は奇麗だけどね。
実際は、欲に
濁が清の皮を被っているにすぎない。
それを清濁併せのむと奇麗事を言っているだけさ。
誰も濁については指摘しなかったのが、女神の放送で白日の下に
教会は大変だろう。
建前上は清い組織だからね。
あくまで建前にすぎないけど、建前がないと存在出来ない程度の
建前を取り戻すかのように望んでおいて、建前を本音にしようとすると途端に牙をむく。
救えない連中だよ」
「旦那さまは、教会に自浄作用などない……と
イザイアは、真顔になって肩をすくめる。
「べつに教会に限った話ではないよ。
どのような組織も自浄作用など働かない。
猫を風呂に入れるようなものだ。
自分で決して入ろうとしない。
組織にいる連中は揃って『自分は関係ない』と信じ込んでいる。
他人の非を指摘するのは大好きだけど、それによって自分が損をするとなれば黙るのさ。
自分の損を省みず、非を正そうとすれば後ろから刺される。
『余計なことをするな』とね」
「人の組織ではよくある光景ですね。
よくある……と言ってはよくないのでしょうが」
「悪いと思いながら正さないのが人間さ。
それでいて自分たちは堕落していないと思いたがる。
だから、清廉潔白な士が現れると……持ち上げるだけ持ち上げるのさ。
称賛するなら見習えばよいのに見習わない。
嫌なことは清廉潔白な士に押しつけて、自分たちは腐敗のぬるま湯でワインをすする。
その癖、名声だけは共有したがってね……。
腐敗した連中は清廉潔白な士と自分たちを同一視したがる。
とくに教会は、建前が美しいだけに、この傾向はより顕著だ。
そして出世するのは、より醜い者ばかり。
「トランクウィッロ家の専横は、司祭の黙認なしには不可能でした。
その司祭は病気がちですべて輔祭が取り仕切っていたとか。
それが枢機卿にまで上り詰めた、とトランクウィッロ卿が自慢していましたね。
その話を聞いたときは、目の前が暗くなりました」
元枢機卿は、現教皇ジャンヌが即位するときに退いている。
それでも影響力はあるのだが……。
トランクウィッロ家を守れるほどかは怪しいものであった。
イザイアは、すでにトランクウィッロ家の命綱が切れていることを知りつつ……売り飛ばすタイミングを計っていたのだ。
「もう元枢機卿だけどね。
誰も、後ろ暗い過去を気にしない。
教会が腐敗しているというより……腐敗しているのが正常なのだろうさ」
サラディーノは困惑顔になる。
これでも
ただ、教会への信仰とイザイアへの忠誠を秤にかけたときイザイアが勝る。
他者が、サラディーノの前で教会批判をすれば一喝するのが常であった。
そのサラディーノでも、教会の腐敗は知っている。
教皇ジャンヌの即位で腐敗に歯止めがかかったことを内心歓迎していたのだ。
「耳の痛い話です」
「
たださ。
教会がマトモになろうとしている理由は簡単だ。
凋落して外圧に
また力を取り戻したら元通りになるよ。
断言してもいい。
それじゃあよくないね。
まだ世の中には必要だろう?」
サラディーノは内心困惑した。
イザイアは、教会が必要と言わんばかりである。
それでいて、痛烈な批判は止まらない。
「教会のない世界など想像出来ません。
イザイアは苦笑して首をふった。
「新旧など無意味だよ。
大事なのは、役に立つかそうでないかさ。
そう自分を卑下しないでくれよ」
イザイアにしては珍しい本心であった。
サラディーノは、有能かつ忠実な執事なのだ。
自分を狂人と称し、誰も信じないイザイアですら、サラディーノの献身は認めざるを得ない。
認めたからには相応に遇する。
サラディーノを侮辱した相手に対してイザイアは、冷酷な報復を
これは、老執事を思ってのことではなかった。
イザイアの自己中心的発想から来ている。
自分の評価を否定されれば報復するのがイザイアの流儀であった。
サラディーノは深々と頭を下げる。
「申し訳ありません」
「
これだけは断言出来る。
自信を持ってくれ」
「有り難きお言葉。
ではお言葉に甘えてひとつよろしいでしょうか」
「構わないよ」
「そろそろお世継ぎをお考えになる時期かと。
申し込みが殺到しております」
イザイアの動きが一瞬止まる。
「耳の痛い話だ。
私の死後、当家がどうなろうと知ったことではないのだが……。
直接売り込まれても面倒だ。
そうだなぁ……条件をつけてもいいかな?」
「なんなりと」
「ではお言葉に甘えて……。
口が堅くて心が病んでいないこと。
あとは肥えていなければなんでもいいよ。
醜女なら抱くとき目を
太っていては、目を
私が肉屋なら太っていても構わないがね。
肉屋の妻は太っているのが相場だろう?
おっと……悪臭のする令嬢はいないだろう。
この点に注文をつけなくてもいいはずだな。
心が病んでいる女は、面倒臭いことこの上ない。
会話は出来ても言葉が通じない女なんて最悪だよ。
上手いこと見繕っておいてくれ」
サラディーノは口元をわずかにほころばせる。
イザイアにしては人並みの注文だったからだ。
「難しい注文ですが……善処いたします」
「だろうね。
こう考えると、女の忍耐力は男を上回るな。
金や権力のためなら? 臭かろうと……太っていようと……老けていようと……平気で抱かれるのだ。
私には到底無理だね」
「男と女の価値観は異なると思います。
仮にすべてが完璧に満たせない場合は如何いたしましょうか?」
「条件に合致する女性がいないなら妻など不要だよ。
つまり妥協は無理ってことさ。
なにせ先だっての条件が最大限の譲歩なのだ。
ダメな理由だけをあげたのだからね。
そもそも大元帥という化け物を前にしてゲームをしているのだ。
最高の刺激を楽しんでいるとき、詰まらない話で心が乱されては到底叶わない」
イザイアのゲームとは、武力を使わず自身の影響力を高めるものだった。
使徒がいうゲームのように、影響力というステータスを極限まであげること。
偉大なる刷新と手を組んだのは、イザイアの目的に合致するからにすぎない。
世界を支配する妄想など毛頭なかった。
なにかをしたいわけでもない。
ただ偉くなりたいわけでもなかった。
生まれながら虚無感に満たされたイザイアの目的はただひとつ。
生の充足を求めてゲームに興じているだけである。
武力を用いた場合失敗は即ゲームオーバーだ。
刹那的な博打に興味はなかった。
武力を用いずに、影響力を増していく。
歩みは遅いが、失敗しても後退で済む。
可能な限り長生きしてゲームを続ける。
そして世の行く末を眺めながら、適度に刺激を与えて世をかき回す。
これが、誰にも理解出来ないイザイアの目的であった。
教会は必要と言いながら隙あらば教会の権威を落とすつもりだ。
そのために必要なのが影響力である。
イザイアが教会を目の敵にする理由は本人にしか分からない。
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