1001話 閑話 自制心と服従心
トランクウィッロ家当主オルランドは、評判のいい人物である。
一般的な評判にかぎる話だが。
慈悲深く慎み深い。
敵を作らない人格者。
貴族たちの間で、このような評価がでる時点で眉唾物だ。
たしかに表向きは、貧しい子供や孤児を施設で養育している。
未亡人などの社会的弱者への保護や、貧しく学費がない若者を支援していることが知られていた。
オルランドは自分の善行を自分で宣伝せず、友人知人に宣伝させる。
悪い噂であれば無料で流してくれるだろう。
よい噂を無料で宣伝する馬鹿はいない。
これが貴族社会の常識。
代価を払ってでも評判を高めることは、社交界や交友関係での見返りが十分期待出来る。
だからこそ隙あらば宣伝をするが、見え見えの宣伝では逆に評判を落とす。
オルランドの才能は、この点において完璧であった。
完璧な宣伝の才を持つオルランドでも、自身にまつわりつく黒い噂を消すことは出来なかった。
悪臭がするなら、強い香水を振りかけるまで。
かくしてオルランドは宣伝に全力を注いでいた。
そこまでして宣伝に努めるのは目的があるからだ。
イザイア・ファルネーゼの友人になること。
元々トランクウィッロ家は、上流階級の世界に指先だけでぶら下がっている状況だった。
オルランドが家を継いでからたゆまない宣伝と接待攻勢により、交友関係を強化し続ける。
ついには、三大貴族家のファルネーゼ家の友人にまで上り詰めた。
トランクウィッロ家の領地はあるがそこまで広くない。
内乱では素早くニコデモ王子支持に回ったが、目立った功績を挙げられずに所領
慈善事業や宣伝接待費は何処から捻りだしているのか。
自分の領地から吸い上げるしかない。
考えなしに吸い上げては反乱を招く。
つまり程々に吸い上げているのだろうか?
それでは足りない。
評判を買う費用は借金で賄われているのでは? というのが平凡な見解である。
博打のような行為なので、高利の借金になるだろう。
ファルネーゼ卿の友人になったことで、博打に勝ったと思われていた。
『もっと危険なことで稼いでいたのでは』との疑惑もあった。
これには証拠がなく、自己宣伝に対する反発として、適当なことを言っていると思われている。
それでも疑惑は根強く、オルランドから漂う悪臭となっていた。
なぜそこまで疑われるのか。
これには理由があった。
オルランドは、長男だが側室の子に過ぎない。
正室の子は4人ほどいたので、オルランドの順位は5番手に過ぎなかった。
つまり後継者レースに実質的な参加は出来ない。
だからと不貞くされた様子はなく、跡継ぎの弟や正室に対しても従順そのもの。
派手な遊びなどはせず身を慎み、仲間たちと学問に勤しむ。
非の打ち所のない補佐役だ……と誰しもが思っていた。
そのイメージは、巧みな宣伝による成果でしかない。
高名な人物たちに教えを請い、平伏してみせることで、彼らからの心証をよくする。
家督継承の野心を見せずに、次期当主を補佐したいと、臆面もなく吹聴したのだ。
高名な人物はその姿勢に感心し、彼らからの贈り物に気をよくする。
かくして立派な若者という評判を得たオルランドと学友たちはお互いを褒め合う。
そうすることで世評を高めていった。
それだけなら、よくある仲間内でのヨイショ合戦なので話題にならない。
疑惑が深まったのは、後を継いだ経緯が怪しいからだ。
オルランドは、跡継ぎの急死により注目を浴びる。
正室の子は3人残っているが、どれも凡庸である……と評価を受けていた。
世間的な評判が最も高いのはオルランドだ。
野心を見せず、父や正室に極めて従順だった。
ここまで見れば立派な後継者予備軍だ。
だが内実は異なる。
当主は、オルランドを跡継ぎと定めることを
オルランドとその友人の実態は、世評とまったく異なったからだ。
『世評はただの化粧』と割り切っている快楽主義者たちこそ、彼らの正体だった。
『俗世の誘惑を断って学問に専念する』と称し、誰かの別荘に皆で集まる。
禁欲的な若者同士で学問に励むと誰しもが感心した。
そこでの学問は、女体の神秘に対する学問。
つまり女を抱くことだ。
そればかりか思索と称し、薬物なども濫用している。
実態はただの
別荘に集まるのは、他人の目を気にせずに馬鹿騒ぎをしたいから。
親である当主の耳にご乱行は届くが、まったく問題視されなかった。
まず高名な人物たちからの評判は、家の評判を高めている。
仮に実態が知られると、家の評判はガタ落ちだ。
これで後継者への野心丸出しなら警戒する。
ところが彼らはおくびにもださない。
しかも馬鹿騒ぎは、人目につかない別荘でやっているのだ。
『バレないようにやるならいいだろう』が当主の結論である。
当主は、よくある若さの発散程度に軽く見ていた。
しかも、このような弱みを自分に見せるとは、服従の意思表明にも見える。
オルランドが反抗すれば、この弱みを持ちだせるのだから。
オルランドと友人たちに自制心があるのか疑問だ。
誰かに強制されることでのみ自制心を発揮出来る。
鎖でつながれた獣に自制心があるのか。
服従心しか分からない。
鎖から解き放たないと分からないのであった。
この手の欠点は、当主にならないと露呈しない。
極めて目立たない欠点で、それを問題視する人は稀だった。
多くの人間は、自制心と服従心の区別を必要とされない。
誰かの下で生きるので、強制的な歯止めが存在する。
人生とは強風か吹き荒れる吊り橋に渡ることに似ている。
多くの者は、服従や人間関係によるしがらみを面倒に感じつつも、それが手すりとなって落下を免れるだろう。
絶対的なリーダーに最も必要な資質は、手すりなしで吊り橋を渡りきる芸だ。
なるまでは、誰しもが『この人がリーダーに相応しい』と考えるタイプは、概ね自制心を持たず、服従心が旺盛なだけだ。
この手の連中は『誰に尻尾を振るのが効率的か』を見極めることには
なぜ服従するのかなどの道理は関係ない。
頭の中に支配と服従しかないので、他者の服従を当然とすら考えて他人に強いる。
その時点で自制心のないことが露呈してしまう。
渡りきるには、無風状態がずっと続く奇跡に恵まれる必要があった。
貴族家の当主ともなれば、自制心の目利きが要求される。
服従心しかない跡継ぎを選ぶくらいなら、反抗的でも自制心の強い跡継ぎを選ぶのが常識なのだから。
トランクウィッロ家当主もその目利きは出来た。
それを補佐する執事のマンリオ・デル・ドンノも、折に触れてオルランドを跡継ぎにしないように進言している。
マンリオの目にも、オルランドに自制心のないことは明らかだったのだ。
オルランドは、当主の考える後継者から除外されていた。
裏のコネを広げるのと、家の評判を高めるだけの道具に過ぎない。
ここで偽りの名声が、当主の枷となる。
『オルランドを後継者に』という圧力が増していくのだ。
当のオルランドは野心どころか動きを見せない。
それどころか『後継者は、当主が決めるべきで、他人が口を挟むべきではない』とまでいう。
そこで
流行病が王都で蔓延したのだ。
まず執事のマンリオが病床に伏す。
これでトランクウィッロ家は混乱状態に陥った。
相次いで、オルランド含む子供たちが全員、病床に伏す。
間もなくマンリオは生還した。
オルランドも軽症で済む。
ただしオルランド以外の子供がすべて病死してしまう。
誰しもがオルランドに、疑惑の目を向ける。
貴族たちの間で『幸運は二度までなら有り得る』が合言葉なのだ。
成功率の高い陰謀は、一度の幸運に便乗すること。
つまり一撃で仕留められないならやるべきではない。
二撃以上はリスクが高すぎるし、疑惑が深まるだけであった。
発端となった後継者の急死に、オルランドは無関係と考えられる。
追い風となる流行病をオルランドが起こせるとは思えない。
ここまではオルランドを疑う者はいなかった。
それ以後の幸運なら? 話は変わってくる。
オルランドは実行可能なのだ。
リスクを承知でオルランドが兄弟を排除した可能性はある。
病死の列に、トランクウィッロ家お抱えの医師が並んだことで、多くの者は想像をかき立てられた。
ついには当主も病床に伏す。
これもオルランドは関与していないとされた。
当主は警戒していたのだから。
当主が病床に伏しては為す術がない。
いくら疑われていても後継者はひとりしかおらず、オルランドの廃嫡はお家断絶に他ならないのだ。
危険を予期しながらも当主は後事をマンリオに託す。
マンリオは固辞したが、当主の死に際の頼みとあっては断れなかった。
周囲の献身的な介護もむなしく当主は亡くなってしまう。
そして、前当主の正妻までも病に倒れる。
一命を取り留めたが、後に別の病気で亡くなってしまった。
これだけ一気に関係者が亡くなると王家に注目される。
王家は、
ところが唐突に取りやめとなる。
オルランドはファルネーゼ家の取りなしで事なきを得たのだった。
ファルネーゼ家とトランクウィッロ家に、直接の関係はない。
誰もが首をかしげる。
そこは複雑怪奇な縁戚関係が支配するランゴバルド王国。
オルランドの友人が、ファルネーゼ家の遠縁に当たる人物だったのだ。
王家としてもトランクウィッロ家に関心を持っていない。
形式的に調べようとしただけである。
流行病で死んだ貴族がトランクウィッロ家以外にも存在したからだ。
原因らしきものも判明している。
モデストに調査させると、『人から人に伝染する感染症によるもので人為的なものではない』との報告があった。
仮にトランクウィッロ家で陰謀が実行されたとしても王家には関係ない。
ファルネーゼ家の取りなしを蹴ってまで調べる必要性を感じなかった。
流行病に関しては、発生源となる建物が木造だったので焼却する。
これで終わりだった。
ただし人の噂は止められない。
『オルランドが、自分の善行を熱心に宣伝するのは、疑惑を打ち消したいからだ』と言われる始末であった。
執事のマンリオが出奔したことも、オルランドに消されたのではと噂される。
それでもオルランドは、公の場において謙虚で清廉なイメージをまとっていた。
実態は、腐敗した貴族の生き字引である。
鎖つきの自制心しか持たないオルランドは、当主になることで文字通り鎖から解き放たれる。
賄賂をもらって法を曲げ、被害者を加害者に仕立て上げて処刑したこともある。
器量のよい町娘を騙して無理矢理、オルランドの愛人とすることなど一度や二度ではない。
『狩り』と仲間内で称する始末であった。
それ以外では税を規定以上に取り立てるなど枚挙に暇がない。
オルランドが狡猾なのは、
つまり、余程悪事が明白にならないかぎり味方する貴族たちが多いことになる。
そして政治的には基本中立で、長いものに巻かれるスタンスを貫く。
つまり敵がいないのだ。
オルランドにとって、マンリオの出奔は想定外だった。
マンリオが出奔してから、自分の黒い噂が広がり始める。
今まではマンリオが情報を完璧に制御していたので、噂にもならなかった。
お陰で真っ当な貴族からは距離を置かれ、胡散臭い連中しか集まらなくなる。
オルランドは怒り狂ったがまず、スカラ家執事マリオの疑惑を解く必要がある。
『マンリオは、仕事の重圧に耐えきれなくなって出奔した』と説明した。
最初マリオは信じなかったが……。
マンリオを見つけたときは、立派な人間の屑になっていたのだ。
本人の証言とオルランドの弁明が一致したのでマリオは表向き信じることにした。
これ以上の追求は、スカラ家を巻き込む騒動に発展しかねない。
マンリオ自身がそれなりに幸せそうだったので、『自分が口を挟む話ではない』とも考えたからだ。
オルランドにとってマンリオは、自分の秘密を握っている危険な存在だった。
罠に嵌めて、悪事の共犯にしたからだ。
マンリオが心変わりして秘密を暴露されては困る。
ほとぼりが冷めた頃に消そうと計画していた。
そうこうしているうちにマンリオが姿を消してしまったので消し損ねる。
どうか野垂れ死んでいてくれと願うしかなかったのだ。
ところが、内乱となり、マンリオが姿を現す。
オルランドを嘲笑うかのように傭兵と関係を持っているのだ。
オルランドは保身の為に傭兵と友好関係を築いており、迂闊に手がだせなくなってしまう。
傭兵は、貴族であるオルランドを信用していない。
都合が悪ければ捨てられると考えていたからだ。
ここでマンリオを消せば、傭兵が誤解して自分に剣を向けかねない。
内乱でニコデモ王子がスカラ家に保護されたとき、オルランドは傭兵との縁を切って、ニコデモの元に馳せ参じた。
オルランドは『これでマンリオを堂々と消せる』と思っていたが……。
想像だにしない現実が待ち受けていた。
マンリオがアルフレードに雇われていたのだ。
オルランドは悪事に平気で手を染める。
それだけに生存本能が強く、アルフレードの危険性を本能的に感じていた。
その予感は、最悪の形で的中する。
アルフレードが暗躍して、よく分からないうちに内乱を終結させてしまった。
そこでオルランドは機を窺う。
出奔してからのマンリオの動向を調べると、人間の屑になったとしか言いようがない。
執事時代の礼儀正しさなど忘れたかのように。
潔癖症のアルフレードから早晩見捨てられると考えたのだ。
始末は捨てられてからでいい。
うまくいけば、アルフレードの仕業にも出来る。
オルランドは、正統派の貴族としての自己イメージを作ることに熱心なのだ。
その建前からもアルフレードは、目障りな存在となる。
そのアルフレードに打撃を与えることが出来れば、オルランドを敬遠している貴族たちも、流石に自分を認める……とも考えた。
ところが一向に捨てられる気配がない。
あろうことか、
挙げ句の果ては、国王ニコデモに内密ながら
自分すら出来ないことをした、
オルランドは、半ば意地になって、
今更秘密を暴露されても、法的な問題はない。
国王ニコデモが、内乱前の所業は問わないと宣言した。
すべては内乱前のことなのだ。
個人的な怨恨しかなかったので、執念を燃やせどリスクは冒せないのである。
そのように悶々としたオルランドは、イザイアの屋敷に招かれていた。
オルランドは友人なので、イザイアの寝室に通される。
だが心は晴れない。
それどころか……なにを言われるかと不安で仕方なかった。
そんなオルランドにイザイアは優しい調子で席を勧める。
オルランドは、イザイアと向かい合う形だが、蛇に睨まれた蛙のようだった。
イザイアの友人になるまでは怖いと感じたことはない。
友人となってから、底知れぬ虚無を感じていたのだ。
それは、オルランドが欲望の塊だからこそ感じたのかもしれない。
イザイアと挨拶代わりの乾杯をするが、オルランドの手は
寝室に通されたとなれば、余程のことを求められるからだ。
イザイアが薄く笑った。
「トランクウィッロ卿。
察しがよいね。
流石は私の友人だ」
オルランドが
「なんのことでしょうか……」
「変だね。
私の友人なら、自分の周囲に目配せは出来ているはずだろう。
私の思い違いかな?」
オルランドは唾を飲み込んだ。
ワインを口にしたばかりだが……なぜか喉がカラカラだった。
最近になって、オルランドの周囲に、嫌な噂が広がっていた。
オルランド自身に対してではない。
友人たちへの根も葉もないデマだ。
「もしや……私の友人たちにまつわるデマの類いでしょうか」
イザイアは優しく目を細める。
「そうそう。
困るのだよ。
私の友人が、そのような取り巻きに囲まれているとなれば……ね」
『イザイアの目が節穴だと思われては困る』と言いたいのだろう。
「お言葉ですが……根も葉もないデマを信じて友人を遠ざけたとなれば……。
私が薄情な男と思われてしまいます。
そうなればファルネーゼ卿にご心労をお掛けしてしまうことになるかと」
イザイアが優しくほほ笑んだ。
「なにを勘違いしているのかな?
君は情に厚く清廉潔白な貴族だろう。
遠ざけろなどとは言っていないよ。
ただ心配だ……と言いたいのさ。
君は、根も葉もないデマに
これは
君がそのようなことはしないだろうからね」
オルランドは冷や汗をかく。
「は、はい。
本来であれば、このようなデマを流した不届き者は早々に捕らえたい……と思っているほどです」
「当然だね。
ところで……その噂の話だよ。
本当に心当たりがないのかな?」
オルランドは、自分の心臓が止まりそうになる程
心当たりならあった。
それは友人のやったことではなく、自分がやったことなのだ。
「な……なんのことやら……。
ただ……言われてみれば、このような噂を流す輩に心当たりがあるかもしれません。
私を逆恨みしている小人ですが……。
残念なことに証拠はありません」
「そうか。
確認だけは、とったほうがいいだろうね。
よければ私の知人に協力してもらってもいい。
おっと……礼は不要だ。
なにせ君は私の友人だからね」
オルランドは、イザイアの真意を悟る。
消せと言っているのだ。
そう出来るならとっくにしている。
だが
「お言葉ですが……。
なかなか背後に、面倒な人間を抱えていると思います。
いかなファルネーゼ卿のお力でも如何ともし難いかと」
イザイアは薄く笑った。
「君はなにか誤解しているようだね。
なぜ君が直接話を聞く必要があるのだ?
そこはよく考えてみたまえ」
つまり、オルランドの関与を疑われたときイザイアは助けないと言っている。
「よく考える……ですか?」
「そうだよ。
君なら考えればなにか思いつくだろう。
話は変わるが……彼らは最近落ち着いているのかな?」
オルランドはすべてを察した。
ようやくオルランドは平静を取り戻す。
彼らを使えば、自分の関与を疑われることはないからだ。
オルランドは唇の端を釣り上げる。
「どうでしょうか……。
妄想に囚われているかもしれません。
気の毒なことですが」
イザイアは満足気にうなずいた。
「そうか。
心の病だからね。
早くよくなるといいが……」
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