897話 正義

 打ち合わせを終えてから、プリュタニスとカルメンにも指示をだす。

 さて……次の手は、どうしたものか。

 問題は行動するのが俺だけではないことだ。

 状況の変化を見て考えよう。



 思いも寄らぬとは、自分の考えが及んでいなかった証拠。

 それを実感することが、翌日に起こる。

 これは考えていなかった。

 関心の低さ故に優先度は下がっていたのだが……。

 ただの言い訳だ。


 皆が驚いている。

 キアラも困惑を隠しきれない。


「どうしましょうか?」


「門前払いするわけにもいきません。

応接室にご案内を」


 まさかサロモン殿下が、直々にやって来るとはなぁ……。

 しかも一対一の会談を希望してきた。


 モデストが表情を変えずに、俺の側に寄ってくる。


「貴人であれば害せぬ制約はしないのが慣例です。

つまりラヴェンナ卿の身を守るものがない。

私は反対です。

もし殿下が追い詰められていたら如何しますか?

今回の面会をブレヴァンが認めたなら、なにか企んでいるでしょう」


 普段の面会は、攻撃する魔法が使えないような誓約をする。

 ただの誓約ではなく、強制力のある誓約だ。

 つまり使えない。

 だが自分より身分の高い相手が訪れた場合、誓約させないことが、礼儀となる。

 これで身分の高い相手が、制約を無視すると……。

 その名声に致命傷を負う。

 これは上流階級内のみ有効なルールだ。


 平民にそのような誓約を担保するアイテムは高価すぎる。

 そもそも誓約をする慣習がない。

 紳士協定の一種なので、紳士と見なされない平民は対象外だからだ。

 平民が貴族と対面で会うことなど例外もいいところ。

 だからこそラヴェンナは異常だ、と思われているのだが……。


 モデストの言いたいことはわかる。

 サロモン殿下が『俺を倒せば、すべて解決する』と考えた危険性を警告してくれた。

 エベールが唆したのではと。


 まだ、そこまで追い込んでいない。

 丼勘定だが8割は当たっていると思う。


 仮にエベールが黙認したなら、俺の暗殺計画をサロモン殿下が頑として認めないからだろう。

 自ら説得に失敗すれば認めざるを得ない。

 仮に俺が拒否しても結果は同じになる。


 そこまで読めた。


 これを避けると、後々面倒なことになる。

 そしてカウンターを仕掛ける絶好の機会だ。

 エベールは策を仕掛けるのが自分たけだ……と思い込んでいる。

 猟師気取りだ。

 思い込むのは自由だよ。


 まあ……現実が外れた2割になったときは諦めるさ。

 絶対安全な争いではないのだ。

 相手を破滅させるのだから、俺も殺される覚悟はしている。


「もし追い詰めていたら、私も会いませんでした。

今の殿下は、まだ絶望までしていません。

絶望させてから面会を断るより……。

先に会っても損はないでしょう?」


 モデストは珍しく非難めいた表情をしたが……。

 俺が涼しい顔のままなので、諦め顔でため息をついた。


「この機会を利用して、なにかを仕込むわけですか……。

それならば反対するわけにはいきません。

しかしまぁ……。

カルメンがぼやいていましたよ。

『アルフレードさまは自分自身を、最も使い勝手のいい駒と見ているようだ。

キアラの心配性もわかる』とね。

当時は適当に流しましたが……。

今は違います。

この私ですら心配性に陥りそうですよ」


 そこは諦めてくれ。

 皆に命の危険を冒させている。

 たしかに影響は大きいが、俺ひとり安全なところで隠れるわけにはいかない。

 好きこのんで、危険を冒すつもりはないが……。

 必要なら、嫌でもやらなくてはいけない。


「他人から見れば、私は人を駒のように使っていますからね。

ひとつ誤解があるとすれば、私は駒を操る指し手ではありません。

私も駒のひとつにすぎないだけです」


 カルメンが突然笑いだした。


「多分モデストさん、かなり複雑ですよね。

まさか自分が、まともな諫言をすることになるなんて、思っていなかったでしょう?

そもそも諫言なんてしないもの」


 モデストは微妙な顔で肩をすくめる。


「まったくだ。

生涯無縁だと思っていたからね。

自分でも驚いているよ。

じつに困った人だ」


 俺は笑って手をふる。


「不要な危険は避けます。

必要ならリスクとリターンを計算して判断するだけ。

まあ……言いたいことはわかります。

ここは諦めてください」



 なにか言いたそうな皆を無視して、応接室に入る。

 サロモン殿下はかなりやつれていた。

 それでもまだ美男ではある。

 俺は一礼して向かい側に座る。


「お待たせしました。

突然の訪問に対面とは、如何なるご用件で?」


 サロモン殿下は軽く頭を下げる。

 王族が1貴族に頭を下げるのは前代未聞だ。

 自分の身分をよく理解している。

 普通なら効果絶大だ。


「非礼はここでお詫びします。

ですが……こうでもしなければ会ってもらえないでしょう」


 だろうな。

 やはり従来の慣習については通じているから、主体的に動けるようだ。


「殿下直々のご要望ですからね。

ですが……このような手が通じるのは1度きりですよ」


 貴人に押しかけ訪問をされた場合、1度は受けるのが習わしなのだ。

 これを蹴ると、敵に攻撃の材料を渡してしまう。

 もしスカラ家なら拒否しても言い訳は立つ。

 保守的で、従来の社会での名声があるからな。

 異邦人のラヴェンナで、それをやると『やはり、我々の慣習を尊重する気がない』などと言われてしまう。

 しかもランゴバルド王国の代表だ。

 元から拒否する自由は、ほぼなかったのさ。


 モデストもそれは承知しているが、モデストの任務は俺の護衛だ。

 それを最優先にしたのだろう。


 サロモン殿下は真剣な顔でうなずいた。


「わかっています。

用件はひとつ。

我らはアルカディアの蛮行に対処しなければいけません。

なにかとご不満はあるでしょうが……。

曲げてご助力いただけないでしょうか?」


 俺の要求は、すべて無回答で協力せよか……。

 虫のいい話だ。

 直談判で俺を説得出来るとでも思ったのか?


「聖ひつ所持者の蛮行なら、聖ひつ所持者で対処すべきだと思いますね。

私の協力など不要でしょう」


「仮にそうだとしても、その後どうなりますか?

危険視されて孤立する未来しかない。

危険を冒した結果がそれでは、聖ひつ所持者とて動けません。

それなら『被害が増大して、救いを求める声が大きくなってから考えればいい』となるでしょう。

そのときに、どのような要求がだされるかわかりません。

今のうち彼らを安心させて、共にアルカディアをちゅうすべきではありませんか?」


 なんとなく読めてきたぞ……。

 聖ひつ所持者はアルカディアを暴走させて、条件をつり上げるつもりだったのか。

 サロモン殿下は良心が痛んで、そうなる前になんとか妥協したい……と考える。

 善意からでた行動だな。


 だがなぁ……。

 その善意は無意味だよ。

 自分たちが圧倒的強者なら搾取するだろう。


 仮に対立になったとしても、自分たちが負けるとは思っていないのだ。

 それなら、なぜ条件を下げる?

 相手が折れることは明白なのだから。


 多額の出費をして、手に入れた聖ひつだ。

 それなら十分な利益を望むのは当然だろう。


「危険なことは事実でしょう。

しかも聖ひつを持っていて……。

他の権力者と同じ扱いで満足するのですか?」


 サロモン殿下は力なく首をふった。


「それは無理でしょう。

持つ力に見合う義務を果たすなら、相応の権利は主張してしかるべきでは?」


 その義務は恫喝で、他者から金品を吸い上げるものだ。

 権利は自分たちが尊重される権利。


 横暴に振る舞って尊重されたがる。

 話にならないな。


 そもそも自分が保持していることを隠して、第三者のような顔で仲介しても無意味だ。

 所持していないなら、話にならない。

 所持しているなら、どのような立場なのか。

 それらが明確にならないと、交渉すら出来ない。


「それは所持者の主観で決まる義務と権利ですね。

どれだけ過大であっても止められる者はいません。

奴隷に八つ当たりで鞭を振るい、尊敬を強いる主人であったとしても……です」


 サロモン殿下は心外だ……と言わんばかりに不機嫌な顔になる。

 いまだに駆け引きは苦手らしい。


「魔物に対処するのであれば、決して過大ではないかと。

死んでしまってはどうにもならないでしょう」


 そうとは限らないだろう。

 そのような例は、いくらでも転がっている。

 自分たちは違うとでも思っているのだろうか。


「魔物に殺されるか、聖ひつ所持者に殺されるか。

この2択になるでしょうね。

なぜ聖ひつ所持者が自制して、最低限の要求に留まると考えるのですか?

ひつ所持者は殿下のように高潔ではありません。

その程度のことすら……おわかりにならないので?」


 サロモン殿下はより不機嫌な表情になる。

 悪く言われることに慣れていないな。

 まあ……王族なら仕方ないが。


 ただ現状でその態度は不味い。

 自分が持っていますと言っているようなものだ。


「そこまで疑われるのは、なにか根拠があるのですか?

ひつ所持者全員がアルカディアのような性根だ、とは限らないでしょう」


 不快感の根元はそこか。


 それもそうだ。

 誰でも『アルカディアのようだ』と言われたくはない。

 困ったことに、ラヴェンナでも『お前に、来世はアルカディアに生まれる呪いを掛けるぞ』などという冗談が流行っている。

 なかなか蔑視はなくならない。

 当のアルカディアがあれではなぁ……。

 これも対処すべき問題だ。

 ただ今回とは別の話だ。

 ラヴェンナ全体で考えてもらおう。


 それにしても……。

 サロモン殿下は酷い思い違いをしている。

 アルカディアに生まれなければ、皆が普通の良識を持つとは限らない。


 圧倒的な力を持てば、理性の枷はもろくなる。

 仮にサロモン殿下ひとりで、止めようとしても無理だ。


「むしろ圧倒的な力を持った者が自制する根拠を伺いたい。

すくなくとも誰が所持しているかハッキリしないのです。

不明なときは、最悪のケースを想定する。

政治では定石ですよ」


 サロモン殿下は厳しい顔をする。

 自分が持っているから信じてくれ……とは言えないのだ。


 表情に、やや恐れの色があるな。

 そのような話がでていたのだろう。

 とことん紳士的な世界に生きている人だ。

 さぞかしエベールは洗脳しやすかったろう。


「魔物を撃退した後は、自分たちが世界の支配者になるとでも?」


 強力な武力を手に入れると、誰しもが妄想しがちな夢だ。

 驚くような話ではない。

 むしろ、そう思わないほうが驚く。


「ならないほうがおかしいでしょう。

あまりに突出した力は、周囲から疑心を招きます。

そのような疑心に囲まれて自制出来る人はいませんよ。

安心を求めて、力による支配を目指します」


 サロモン殿下は強く首をふった。


「ですから疑心で囲むことを止めるべきではありませんか?

どちらかが歩み寄らなければいけないでしょう」


 平たく言えば……信じてくれと。

 どう考えても、言うべき相手を間違っているだろう。


「なぜ歩み寄る必要があるのですか?」


 サロモン殿下は驚いた顔になる。

 なぜ驚く?

 なにか固い信念でもあるのだろうか。

 だとしたら厄介だな……。


「なぜ……とは。

ラヴェンナ卿らしくもない。

人類が力を結集して、未曾有みぞうの危機に対抗する。

それがラヴェンナ卿も同意された人類連合の大義……。

いうなれば正義ではありませんか。

疑心からはじめては、力の結集は出来ません」


 そのような話もあったなぁ……。

 どうでもいい建前だから忘れていたよ。

 そのような建前を信じ込んでしまったのか。

 全員が信じていると思えば、信じてくれも得心がいく。

 仕方がない。

 現実的な条件を突きつけよう。


「力の突出した存在が混じっているのですよ。

もし疑心を解きたいなら、方法はひとつですね」


 サロモン殿下はすこし警戒した表情になる。

 多少なりとも、俺を理解しているようだ。

 つまりろくなことを言わない。


「それは?」


「魔物の討伐が済んだら、すべての聖ひつを、誰の目にも明らかな形で破壊する。

それなら功績に報いる形で、指導的地位を占めることが出来ますよ」


 サロモン殿下は憤慨した顔になる。

 あまりに馬鹿げた提案だと思ったのだろう。

 その馬鹿げた提案を、最初にしたのは自分だ、と気が付かない。


「その程度では、聖ひつ所持者は納得しないでしょう。

横暴な要求ではありませんか。

ひつという現実が存在する以上、それに則した形に、世界を変えるべきでは?

ラヴェンナ卿は非現実的な話を、常に一蹴されてきました。

であればこそ……。

ひつという現実を認めて、世界を見直すべきでは?」


 聖ひつをまだ絶対視しているのか?

 違うな……そこまで愚かではないだろう。

 聖ひつがあるうちに、協力関係を形にしたいと考えるのが自然だ。

 その結果で、自分が指導的地位を占める。

 権力欲ではない。

 純粋な義務感だな。

 だからこそタチが悪い。


「その聖ひつは、一体いつまで使えるのでしょうね」


 サロモン殿下は途端に目を泳がせる。


「なにをおっしゃっているのか……」


 やはりな。

 使用条件が厳しく、永続的な武器として考えるのは心許ない。

 だから焦っているのだろう。

 聖ひつ保持者たちもそれを自覚しているから、強くでることを躊躇ためらっている。

 その膠着こうちゃく状態を、自分が打開すれば、発言力が強まるだろう。


「形ある者は、皆壊れます。

そして我々には、それを作る技術がない。

しかもなにか、副作用があったとしたら?

自分たちが御し得ない技術です。

一時的なものとして使い捨てるならまだしも……。

頼り切るのは、現実的とは言い難いですね」


 サロモン殿下は大きなため息をついた。


「なぜラヴェンナ卿は、そこまで頑ななのですか。

一時的なものとは限らないでしょう。

私がこれだけ目指すべき正義を解いているのに……。

ラヴェンナ卿の正義には届かないのですか?」


 誠心誠意話し合えば解決する。

 そのような建前を信じてしまったのか。

 恋人同士や友人関係なら、いざ知らず……。


 政治の話し合いは、利害で決まる。

 誠心誠意は関係ない。

 決まりやすさに影響を及ぼすが、それは化粧にすぎない。

 内容が駄目なら決まるはずはないだろう。


 誠心誠意『お前は死んだほうがいい』と説かれて死ぬヤツが、何処にいるのだ。

 そもそも……俺のことを、激しく勘違いしている。

 一部を理解したから、すべてを理解したと考えたのか。


「私は自分の行いを正義などと思ったことは、1度もありません。

殿下の正義が、私に響かない理由は簡単です」


 サロモン殿下は怪訝な顔をする。


「簡単ですか?」


 ようやく仕込むタイミングがやって来たな。

 理論面では隙だらけなのだが、なまじ信念が強いから付け入る隙がなかった。

 だからこそ一撃で仕留める。


「正義はより大きな正義に飲み込まれます。

今殿下の掲げている正義は、誰の正義にのですか?」


 サロモン殿下は顔面蒼白そうはくになる。


「私は……」


 硬そうに見える信念も、誰かの正義を信じるための動機付けだ。

 そうでなくては飲み込まれた自分の正義を忘れられないだろう。


「殿下の当初掲げていて正義と、今掲げているものは違います。

それは……より大きな正義に飲み込まれたからに過ぎません。

飲み込まれた正義は、借り物の言葉です。

それで私を説得など出来ますか?」


 サロモン殿下は気の毒なくらい肩を落とす。

 当初は、アラン王国を復興して民を救う……王族として平凡な正義を掲げていたのだろう。

 ところがエベールの世界を救うという、大きな正義に飲み込まれてしまった。

 一見すると世界を救えば、アラン王国の民を救えるように思える。

 だが……内実は大きく異なる。

 それに気が付かないのか。


 サロモン殿下が真剣な表情で顔をあげる。

 もはや俺を説得するのではなく、自分を納得させる必要に迫られたようだ。


「世界を救うことは、ラヴェンナのためにもなるのです。

今は聖ひつの力で、アルカディアをちゅうして、魔物を撃退する。

それが最も、犠牲の少ない方法でしょう。

そもそも……私は他人の言葉を借りていません。

本心からの言葉です」


 誰に吹き込まれたか明白だが、ここでは知らないことにしておく。

 だからこそ、エベールに正義に飲み込まれたと自覚させる必要がある。

 自分で考えたことほど、固く信じるのだ。

 この一撃でサロモン殿下は葛藤する。

 エベールは操縦が困難になるだろう。


 最悪は暴走して、アルカディアの討伐を独力でやろうとさえする。

 危険を冒した甲斐があった。


 ただ……仕上げが必要だな。

 またエベールの正義とやらに押し負ける可能性がある。


「本心かどうかは問題ではありません。

もし殿下が、アラン王族としての責務を堅持していれば、話は変わってきます。

ですがもう殿下の言葉に、それはない。

世界視野での話ばかりですからね。

もし『世界のために、アラン王国民を犠牲にすべき』と、決断を迫られたら?」


 サロモン殿下はより顔面蒼白そうはくになる。

 個人的には気の毒だが……。

 感想止まりだ。


 決断の連続性がない人の提案は、短期的利害でしか計算出来ない。

 別の機会で、前の決断と矛盾する提案をしてくるのだから。


 ダメ押しになるが、もうひとつ仕込みをするか。

 エベールの言葉を、素直に受け入れられないように。


「誰に飲まれたかわからない以上、多くを語ることはしません。

殿下が、先ほどの問題に何処までの覚悟をしているのか……。

殿下ご自身がお考えになることでしょう。

そもそも正義を私に訴えるのは、よろしくありません」


「ラヴェンナ卿が正義を嫌っているからですか?」


 普通はそう思うな。

 適当な会話なら、これで切り上げてもいいが……。

 俺の望む効果を発揮させるには、もうすこし関心を引き付ける必要がある。


「別に嫌っていませんよ。

必要なものですから。

それでも正義を軽蔑していますけど……。

それにもまして、正義を振りかざす人が嫌いなだけです」


 サロモン殿下は怪訝な顔で眉をひそめる。

 意味がわからない……と言ったところか。

 敢えてわからないように言ったのだ。


 嫌っていないが軽蔑している。

 でも必要性は認める。

 そのうえで使用者は嫌い……など意味不明だろう。

 俺が世捨て人なら、ただの虚無的発言と捉える。

 だが俺は世捨て人ではない。


「正義ならば掲げてしかるべきではありませんか。

誰しもが正義を実行出来るなら不要でしょうが……」


 正義をよい意味として受け取っているようだ。

 ここでも前提をひっくり返せばいい。


「正義とは汚れた布に他ならないからです。

汚れた布を振りかざす人はけがれますよ。

しかも人は、自分が発する悪臭に気が付きません」


 サロモン殿下の目が鋭くなる。


「まるで……私がけがれている、と言わんばかりではありませんか。

酷いおっしゃりようです。

いくらラヴェンナ卿でも聞き捨てなりません」


 本当に素直な人だなぁ……。

 だからこそエベールが洗脳出来たのだろう。


「失礼。

正義という理想と、それを実行する間には、人という深淵しんえんが横たわっています」


 サロモン殿下は厳しい顔をする。


「人がまるで悪いかのような言い草ですね」


「しがらみや欲、恨み……怒りなどが、正義の原動力でしょう。

これらは放置してよいものですか?」


「残念ながら……。

それが深淵しんえんとでも?

仮にそうだとしても……。

暴走しないための正義ではありませんか」


 深淵しんえんを無視するほど、深淵しんえんに飲み込まれる。

 正義ほど深淵しんえんを無視させるものはない。


「正義と信じるほど、自制は出来ません。

深淵しんえんと呼べる感情に飲み込まれるのです。

よしんば正義を実行しても、理想と実行した結果には、大きな誤差が生じる。

理想に届かないか、感情によって歪んだ結果が残るでしょう?」


「それは……」


 認めたくないが否定出来ない。

 その程度の客観性を維持しているから、罠を仕掛けられる。

 酷い話だがな。

 客観性がなければ、そもそも会いすらしない。


「それを認められないのは愚かでしょう。

だからこそ、正義とは軽々に口にすべきことではない。

恥ずかしくて口に出来ないものなのですから」


 サロモン殿下は苦悶くもんの表情を浮かべる。

 図星だからな。

 自分の掲げてきた正義と実行した正義は異なる。

 あまりにかけ離れている。


「たしかに理想と食い違うことは多いです。

それでも、なにもしないよりマシではありませんか。

掲げることではじまるのです」


 なにもしないよりはマシ。

 これは一見すると、真理に見える。

 それは偽りでありまやかしだ。


「どうしても正義を実行したいなら、語るのではなく行動で見せるべきです。

正義は下着のようなもので、ないと不便でしょう。

決して人に見せびらかすものではない……と思いますね。

正義という言葉に酔っている人は、下着姿で暴れる人ですよ。

そのような人たちは、服を着ている人に襲いかかります。

自分たちと違うことが罪なのですからね。

このように言葉が先行する正義なら、なにもしないほうがマシでしょう」


 サロモン殿下の目が点になる。

 俺がこのような下世話な表現を使う、と思っていなかったようだ。

 だが……どう思われているかを教えるには、下世話な表現が手っ取り早い。


「なぜそこまで、酷い言い方をされるのですか……」


「正義を口にするか、自分を正義の側に立てた行為は……。

すべからく異論を認めません。

従わない者は不義なのですからね。

さらには実行した結果が理念と食い違っても、決して正すことはない。

それを積み重ね、最後は破滅するのです。

ひとつお教えしましょう。

正義によってけがされると……。

従わない相手に、罵詈讒謗ばりざんぼうを浴びせます。

これが最初の兆候。

次に叫喚となります。

これは『自分は正しいのだ』と叫び散らかしているだけなので、周囲から距離を置かれるでしょう。

さらには認めさせるための暴力に続き……流血で終わります。

正しさが実現出来なければ、より過激になるしかないのですから」


 サロモン殿下は肩を落とす。

 どう足搔あがいても、俺の説得は出来ないと悟ったようだ。


「ラヴェンナ卿にはいくら、正義を説いても無意味だったのですね」


「私は正義を、看板にする人は信用しませんからね。

ただ……私に響かなかったのは、別の理由があります。

自国民を軽視する王族など、誰が尊重するのですか?」


 自分の子供より、他人の子供を大事にする親を、誰が信じる?

 深く関わりたいとは思わないだろう。

 自分の子供を大事にするのが行き過ぎては敬遠されるが……。

 

 結局のところ、身近なものを軽視する人は、自分の虚栄心だけが大事なのだ。

 そのためなら、奇麗事で自分を飾りながら、他人を犠牲にする。


 他人の子を大事にしてよく思われるのは、自分の子が最も大事という前提あっての評価なのだ。

 それを利用するには、自分の子を犠牲にして他人の子を大事にすればいい。


 そのような輩を称賛する気などないさ。

 話を聞く必要すらない。

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