868話 老若問わず
狂犬のバランス感覚については、以前話したことの重複になる。
ざっと話したが、皆は辟易とした顔をしていた。
疑り深いとは、裏を返せば自分の判断を放棄して、楽な方向に偏ることだと思う。
だから噓だと知っても狂犬のためと言われれば、信じる方向に傾く。
追認するしかないだろう。
仲間が増えると守りに入って、冷徹な判断が出来ない。
裏切られるかも……という恐怖に耐えられないだろう。
だからとすべてを捨てることは出来ない。
狂犬にとっての家族が出来てしまったのだ。
捨てられるはずもない。
ならば……家族を信じた、と思い込むしかないだろう。
そう聞いて、皆が納得してくれた。
人類連合に関しては、ニコデモ陛下からの指示待ちになるな。
こちらからも問い合わせておこう。
それにしても忙しい。
近日中にアレクサンドル特別司祭が、挨拶に来る予定だ。
そんなとき教皇ジャンヌから、茶会の誘いが届く。
これは断れない。
独立宣言についての意見交換なのは明白なのだ。
まあそれは口実だろうけど。
再びキアラの秘書たちのため息を想像しながら、誘いを受けることにした。
急なことなので、俺ひとりで会いにいくことにする。
護衛にはいつものモデストがついてくることになった。
モデストが馬車の中で
「女性にモテますね。
老若問わず」
これだけだ。
俺は苦笑するしかなかった。
ジャンヌの屋敷に到着すると、すぐ別室に案内された。
そこにはリッカルダもいる。
挨拶もが終わるとジャンヌは悪戯っぽくウインクする。
70を超えた高齢なのだが、不思議とキツくない。
心は若いようだ。
「無理な呼び出しに応じていただいて感謝します。
本来なら、礼儀正しく列の最後に並ぶべきでしょうが……。
今回の問題は、大きな話ですからね。
あとは割り込まれた側も、きっと
今回の騒動で、どう動くべきか迷うでしょうから。
ラヴェンナ卿を前に、迂闊なことを言っては命取りになるでしょう。
延期となれば……。
何人が辞退するでしょうね。
前置きはこのくらいにしておきましょう。
それでどう思われました?」
実は辞退する連中に貸しを作る意図もあったのか。
なかなか食えない人だな。
そして話題はひとつしかない。
「ランゴバルド王国としてどうするのか……。
私の一存では決められません。
陛下のご意向を伺わなくては」
ジャンヌは薄く笑った。
「ラヴェンナ卿の立場では、そのような回答になるでしょう。
ご心配なく。
回答出来ないことを問うほど、私に残された時間は多くありません。
意向とは無関係な問題について、意見交換をしたいのです」
こうなっては付き合うほかない。
「
それで……
ジャンヌは上機嫌な様子で、目を細めた。
「生死は主の思し召しです。
お気持ちだけは受け取っておきましょう。
あの独立宣言を追認すれば、他の者たちも独立を企図すると思います。
人類連合と直結すれば、従来のアラン王国にとどまるより、支援は手厚くなりますからね。
王国にとどまったところで、将来の展望はないでしょうから。
沈みゆく船からネズミが一匹逃げ出せば、あとに続くネズミは多いでしょう」
これだけ先が読めていて、俺に相談とはなんだろうか。
なにか言質をとりに来ている気がする。
マガリにしてもジャンヌにしても……俺に関わる老女は食わせ者しかいない。
「アラン王国が、往年の力を取り戻すのは不可能だと思います。
根底から構造を変えない限りは……ですけど。
そこまで変わってしまったら、それはアラン王国と呼べるのか……。
難しいところですね」
「そうですね。
復活するような改革は不可能でしょう。
つまり船は沈むだけなのです。
そうなると教会は、どうすべきか。
今まではアラン王国に認められた土地を、教会領としてきました。
アラン王国が形骸化しては問題だと思いませんか?」
「
ジャンヌは真顔になってうなずく。
気休めとか社交辞令に重きを置くタイプじゃないからな。
「荘園は寄進されたもので奪ったものではありませんでした。
それでも貴族たちは、取り返すことを
過去にすすんで寄進した貴族ですら、このありさまです
維持出来る大義名分と正当性を失った結果……としか言えません。
ラヴェンナ卿を非難しているのではありません。
維持を怠った教会に、問題があるだけなのですから」
現実的に考えると、そうなるな。
教会と協調するメリットは安定させることだ。
独立当初なら勢力拡大を優先して、教会領に手をだすことも有り得る。
アラン王国と対立するから、関係が密接な教会を味方にすることは出来ない。
そう考えるからな。
教会に恩を売って、アラン王国と教会を離間させようとする国が現れるかもしれない。
それは可能性だけの話だ。
危険性がある以上は、対処を考えるのだろう。
この点について俺の考えを聞かれているようだ。
それにしても荘園か。
なにを言っても危険だな。
感謝すれば、後ろめたさを持っていると思われる。
教会が悪いと言えば、余計な反発を招く。
そして俺は知らないと言えば、貴族たちの梯子を外したことになる。
いずれもジャンヌのカードになるだろう。
ジャンヌは教会の利益を最大限優先する。
だからこそ、安易に隙を見せるのは愚策だ。
あえて触れないでおこう。
「アラン王国は教会と密接な関係を築いてきました。
だからこそ教会の領地を守ることが国是でもあります。
アラン王国の正統な後継であれば、その点は問題ありませんが……。
後継でないなら、それを守る義務はありません。
教会領に手をだすことも有り得ますね」
ジャンヌは手で、口を隠して笑いだす。
俺の回答がお気に召したようだ。
俺が荘園の話題に触れたら失望されるパターンだ。
つまりジャンヌにとって、荘園の横領は些細な問題にすぎない。
それより教会をどうやって生かすか。
それだけが関心事なのだろう。
「このような現実的な話が出来るのはラヴェンナ卿だけです。
他の貴人たちは、教会領の保護について回答出来ません。
なにか別のことを心配するからでしょうね。
これは失言。
忘れてくださいね。
そこで教会としての立ち位置を決めたいのですよ」
保護の話をしたら荘園の話になりかねないからな。
したくても出来ないだろう。
それにしても……。
ジャンヌの言っていることはわかる。
だが俺にする話ではない。
「それはわかります。
ですが……。
他国の者にする話ではないでしょう」
ジャンヌは楽しそうに目を細める。
「あら! 存外お人が悪い。
もし教会で決めたことでも……。
ラヴェンナにとって不都合なら、いくらでも介入してくるでしょう?
それとわからないように」
事実そうなる。
俺はラヴェンナの利益を最大限追求する立場だからな。
「私は他国に干渉する立場にはありません。
ただラヴェンナの利益を守るだけです」
ジャンヌは笑って手をふる。
「そう堅苦しい話ではないの。
老女の戯言に付き合ってくださるかしら?
私と違って、残された時間は多いでしょう」
これは逃げられないようだ。
諦めて付き合うしかない。
「ここで断るほど非礼ではありませんよ」
「それは助かるわ。
教会は元々、世俗の統治に向かないのです。
だから世俗のことは、王権に任せてきました。
任せると言っても……。
時折口は挟んでいましたね。
それは王権が、強固だからこそ出来たことです。
その王権が揺らいで消えようとしている。
世俗に関わらざるを得ないでしょう。
ラヴェンナ卿が枢機卿なら、どう思われますか?」
「私は枢機卿が、どのような考え方をされるか……。
世俗の一領主としてはうかがい知れません。
あくまで世俗的な考えとしては同感です」
ジャンヌは満足気にうなずいた。
ここで反対するようでは、最初から話にならない。
俺が真面目に答える気になった、と考えたのだろう。
「それは結構。
聖職者も人間です。
食べなくては生きていけません。
幸いにも奪われた巡礼街道は、ニコデモ王のご厚意で返還されました。
これで食べていくことには困らないでしょう。
ラヴェンナ卿の尽力には、心からの感謝を」
ようやく正式な事務処理に入ってくれたか。
一安心だよ。
「話が
使徒騎士団にも相応の役目を求めますからね。
それには地盤が必要でしょう」
「お若いのに不思議なほど、領土欲のない人ですね。
元から返還するつもりだったのでしょう?」
領土欲がいい方向に働くケースは稀だ。
そもそも俺は支配や征服で高揚するタイプじゃないからな。
「どうでしょうか。
土地も政治の道具に過ぎません。
遠隔地を統治して得られるメリットが、デメリットを下回った。
それなら返還した方がいいと考えただけです」
ジャンヌは目を細めるが……。
品定めするような雰囲気がある。
まあ、領土欲のない領主なんて少ない。
土地は多ければ多いほどいい。
普通はそう考える。
「巡礼街道だけではありませんよね。
リカイオス卿から奪った土地も、シケリア王国に返還してしまう。
内乱時のデステ家の時もそう。
総指揮官なら、自分への褒美として奪ってよかったのでは?
土地に興味がないように思えますよ」
有効活用出来る土地ならほしい。
それ以外は不要だ。
土地を増やすとは、問題や矛盾を抱え込むことにつながるのだから。
「人は土地に生きるものです。
奪った方は、戦勝気分に浸れますが……。
土地が奪われた側は、恨みを持つでしょう。
ラヴェンナにとってデメリットでしかないのです」
「恨まれるとしても、その土地を育てれば利益が上がるでしょう?
その結果、恨みも薄れるのでは?
ただの収奪ではなく……。
こと成長させる手腕では、ラヴェンナ卿の右に出る者はいないと思っていますよ」
なかなか納得してくれないな。
もう少し具体的に話さないと解放してくれないようだ……。
「人と金は有限です。
育てるとは……限られた資源を、優先的に回すことになります。
そうなると元の領地がなおざりになります。
手に入れた土地は、注力すべき緊急性が高いですからね。
領内の矛盾は拡大して、外からは恨まれる。
それを誤魔化そうとすれば、また奪わなければいけません。
勝ち続けられない限り……破滅への道ですよ」
「そこまで考えて、領土欲はなかったと。
理に適ってはいますが、理解はされないでしょうね。
おかげでランゴバルド王国の貴族たちから、随分叩かれたのでは?
自分たちの分け前が増えると、勝手に思い込んでいたでしょう」
国内の貴族の夢を叶えることは、ラヴェンナのメリットにならない。
都合が悪くなれば、手のひらを返すのだ。
それなら奉仕してやる必要はない。
俺になにかしてほしいなら、相応の見返りを用意してほしいものだよ。
「私にとって、外交とは国内事情や各国が唱える普遍的正義に左右されるべきものではありません。
外交はとても危険なゲームです。
それを今後有利にすすめられるか……それだけですよ。
小さな駒をとって、大きな駒を失う危機に陥るのですから」
ジャンヌは唇の端をつり上げた。
怒ったわけではないようだが……。
「面白い発言ですね。
神に従う正義や義務も、悪魔の唆す憎悪や利益にも左右されないと。
世俗は世俗に住む者たちで決める……。
現実的姿勢とでも言ったらよろしいですかね。
古い教会の人たちが聞いたら卒倒するでしょうけど」
平たく言えばそうだな。
内輪だけの理論を押しつけるのは無意味なだけではない。
無益だ。
相手にも内輪の論理があるのだから。
それを無視して押しつけても……。
得られるものは優越感程度だろう。
「卒倒するかはわかりませんが……。
理解はされないと思います。
それと言葉で定義しては、余計な敵を作りかねません。
あえて言及は差し控えます」
「ああ……進歩派ね。
称したことで余計な敵を作ってしまいました。
ただ……愚かとも断言出来ません。
内部の結束を高めないといけないでしょうからね。
それはそうと……。
今後の教会は、世俗権力として並立する気はありません。
ですが世俗の一角を占める必要があると思っています」
「自らの身を守るには、そうするしかないでしょうね」
「ラヴェンナ卿と奇しくも似たような考えになりますが……。
最低限の土地があればいいと思っています。
現状で満足すべし。
これ以上の領土など増やしようがありません。
昔のような力を持っていませんからね。
荘園の返還を求めると、一斉に反発されるでしょう。
力に見合った規模で、未来を探るべきだと考えています」
やはり現実的だな。
現実的な考えだからこそ、理念に生きる教会では白眼視される。
それでも実力は本物だから敬遠されるだけで済んだ。
皮肉なことに、性別がジャンヌを守ったのだろう。
もし男だったら既得権益層にとって、現実的な脅威だ。
教皇になるかもしれないのだから。
慣例上有り得ないからこそ敬遠するにとどめた。
危険はないのに、無理に猛獣を倒すような愚は犯さなかったわけだ。
「それが賢明だと思います。
ただ……。
大多数に理解はされないと思います。
聖職者も人ですからね。
景気のいい話や、過去の夢に
「だからこそ私が決めなくては、教会は消滅するしかないでしょう。
もし過去の土地を取り戻そうとしたら……。
ラヴェンナ卿はどうされますか?」
そのようなことをすれば、世界はさらなる混乱に陥るだろうな。
従来の世界はあらゆるものを単純化して、時間を止めてきた。
だからこそ維持出来たわけだが……。
今は要素が増えている。
ひとつの短慮が複数の問題を招きかねないだろう。
「私の一存ではなんとも。
ただ協力は難しいでしょう。
協力したとしてそれに見合う利益は得られないでしょうね。
仮に取り戻せたとして……。
破門された人たちで立ち上げた新興宗教との争いが激化すると思います。
彼らは自分たちこそ正当だと言っていますから。
領主から土地を奪うよりは楽ですし、彼らを傀儡にして利益を欲する者たちも介入してきます」
ジャンヌは上機嫌な様子でうなずいた。
俺が、ジャン=クリストフ一派を失念していないことが面白かったようだ。
今のままなら、危険因子にまで成長しない。
教会が勢力を取り戻そうとすれば危険因子へと成長してしまう。
「よくお気づきですね。
取り戻したとして、人手が足りません。
維持すら困難でしょう。
それこそ世俗を巻き込んで、大きな騒乱の火種になりかねません。
ただ教会内の常識は違います。
あの一派は異端なのだから、必ず滅ぼされると思い込む始末。
そのような夢の世界に生きる者たちは、だいぶん減りましたけどね」
減っても健在か……。
困った連中だ。
必ず滅ぼされるねぇ。
その願望が実現するなら、ラヴェンナはとっくに滅んでいるよ。
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