691話 食事前はダメな話題
アレクサンドル・ルグラン特別司祭からの返事が届いた。
神の涙の件については、まだアレクサンドルに届いていないだろう。
今回は、最初に問い合わせた件だな。
封がされた状態で、オフェリーが書状を手渡してくる。
改竄などしないのは知っているのだが……。
オフェリーなりの考えだと思い、受け取ることにした。
ところがオフェリーは椅子を持ってきて、俺に体を密着させて座る。
ほのかな殺気を感じた。
わかっているが、そちらをチラ見する。
やっぱりミルだった。
こちらを気にせず、仕事をしているようだが……。
頰が僅かに引き
色々と報告が溜まっていて、手が離せないようだ。
あとでフォローするとして、封を解く。
最初は、オフェリーへの私信になっていた。
これは読まずに手渡す。
人のプライベートに踏み込む気になれないからな。
夫婦だろうと、互いにプライベートは大事、というのが俺の信条だ。
それに大事な話があるなら、オフェリーから教えてくれるだろう。
一瞬オフェリーは固まったが、黙って私信を受け取った。
2枚目からは、世界人民共和国と教会の関係が綴られている。
「世界人民共和国は、人々の心の拠り所である教会を尊重する……ですか。
世界主義は、寄生先の教会を破壊されたくはないのでしょう。
あとは使徒と公に敵対もしたくない。
そんなところですか」
この回答は予想通りだな。
さらには、教会内部の動きまで記されていた。
面倒な計算要素が出てきたことに、苦笑を禁じ得ない。
「政教分離を唱える宗派ですか。
こんな知的活動が出来るほど、教会は安全なのか……。
不安に駆られての活動かは謎ですが」
オフェリーは、突然俺の腕をつつく。
「アルさま。
政教分離ってなんですか?」
さすがのオフェリーも、教会で教えないことには疎いか。
その分教会で教えることには、とても精通しているが……。
「世俗と信仰を分けることです。
王や領主は、世俗政治だけをやる。
教会は信仰だけを担当する、といった話ですよ。
これは王侯貴族にとって、暗黙の願望なんです。
教会の前で、口には出来ませんでしたけどね」
オフェリーは不思議そうに、首を傾げている。
「今は違うのですか?」
「違います。
使徒を中心とする世界ですからね。
実質教会が支配する世界ですよ。
領主が裁定を下すときも、教会の意向を無視できないでしょう?
一番大事な処断権を、教会に握られているのですから」
オフェリーはハッとした顔になる。
「言われてみればそうですね。
使徒の正当性が崩れたとき、アルさまが色々教えてくれたのに忘れていました」
「あれは難しい話ですからね。
ここで言っている政教分離とは、世俗の統治に従う形で、神の教えを説くものではありません。
まったく違う形で独立したものでしょう。
王や領主が、教会の教えに反したとしても力で打倒しない。
勧告や破門は出来るでしょうけどね」
とはいえ、世俗が神の教えを侵害してきたら戦うのだろう。
オフェリーはまた首を傾げている。
「それって無意味な気がしますけど……」
実はそうでもない。
もし統一された王国で、王が反したら無意味だけどね。
まだ権力は、複雑に分散して絡まっている。
ランゴバルド王国はだいぶん整理したんだがな。
それでも過去からの連続だ。
すべてを切り捨てられるわけじゃない。
「一応、他者への攻撃材料を与えるので、一定の抑止力になります。
このキモは、教会の教えと、世俗の法は矛盾していないことですね。
これは世俗側にとっても受け入れやすい。
民心の安定に、宗教は便利ですからね」
オフェリーはさらに不思議そうな顔で、俺に顔を近づける。
反対側から舌打ちが聞こえた……。
気のせいにしよう。
「アルさまの口ぶりだと、そのほうがよさそうに聞こえますけど……。
そんな提案しませんでしたよね」
思わず苦笑してしまう。
俺は魔法使いじゃないからな。
「世俗の支配権を手放せるわけがないのです。
使徒という世俗そのものを、絶対としている以上はね。
出来ないことを言っても無意味でしょう?」
オフェリーは
ようやく、答えが出たようにうなずいた。
「もしかして……。
それを考えるほどに、教会は追い込まれているのですか?」
「そう見るべきでしょうね。
教会は、なんとか折り合いをつけようと……もがきはじめたのでしょう。
使徒ユウの失態が続いています。
このまま寄りかかっていると、自分たちも倒れるという恐怖感からでしょうが」
オフェリーは、顔を伏せた。
前は使徒の話が出ても、ここまで反応しなかったが……。
マリー=アンジュの現状から辛くなるのかもしれない。
「マリーはそれを、自分のせいだと思い込んでいますね……。
口にはしませんけど」
「それは本人が考える話ですね。
時間はあります。
ゆっくり考えるのがいいでしょう」
冷たいようだが、責任の一端はあるだろう。
知らずに教え込まれたとしてもだ。
だがすべての元凶だとは思っていない。
「そうですね……。
こんなことを書いてきたのは、叔父さまも賛成だからでしょうか」
賛成でも反対でもないだろうな。
恐らく可能な限り教会組織を温存して、未来につなぐことだけを考えている。
そこには、トマのような保身は感じられない。
ただこの政教分離は、手放しで喜べる話じゃない。
「わかりません。
ただ一定数の支持は得られそうですね。
主に教会の下層部に。
世界主義の隠れ蓑になりそうですが……」
「これが成功すると、どうなりますか?」
余り口にしたくないのだが……。
そう思っていると、オフェリーに揺すられた。
仕方がないな。
「上層部は一掃されるでしょうね。
それこそこの世界を、混乱に落とした元凶として」
オフェリーはハッと息をのむ。
「そうすると叔父さまは?」
「わざわざ口にしたくないですが……。
きっと覚悟の上で残っているのでしょう。
それこそひとりで、生贄になるつもりかも知れません」
俺の腕をつかむ力が強くなる。
だから言いたくはなかったのだが……。
知らずにその現実に直面するのと、心の準備をして直面するのは、どちらがいいのだろう。
「なんとかならないのでしょうか?」
「まずこれはルグラン特別司祭の意思が重要です。
命惜しさに逃げ出すことを、良しとしないでしょう。
教会を統率する人がいなくなって、血みどろの戦いに発展しかねません。
もし命が惜しいなら、さっさと逃げてきていますよ。
本人の意思に反し、逃げることを勧めるべきではありません」
オフェリーは小さくため息をつく。
「叔父さまの意思ですか……」
「無理矢理誘拐した場合も、よくありません。
その結果、多くの血が流れるでしょう。
ルグラン特別司祭はどう思いますか?
世間の悪評と自責の念に苦しめられます。
そもそも誘拐の影響でラヴェンナ市民が不利益を被るなら、私は絶対に許可できません」
下手な希望を持たせる気になれないからな。
かえって傷つけてしまうだろう。
オフェリーは、悲しそうにうつむく。
「困らせるつもりはなかったのですが……。
ごめんなさい」
ダメだな。
つい厳しい口調になって、誤解させてしまったか。
なんとか、話題を変えよう。
「怒ってはいませんよ。
謝る必要はありません。
ええと……書状はもう1枚あります。
次を読みましょう」
読み進めるうちに深いため息が漏れる。
話題を変えるにしても、こいつはなぁ。
これを記したアレクサンドルの気持ちはわからない。
少なくとも愉快な気持ちではないだろうな。
「何というか……。
ここまで人の業が深いとは」
「反革命名簿ですか?」
思わず頭をかいてしまう。
もし政治目的で反対派の撲滅をするつもりなら、かなり慎重にコントロールするだろう。
だがそうとは思えない。
「ええ。
これに名前が載った人は、殺されて財産を奪われます。
これは財産を持っているだけで、リストにのせられそうですね。
むしろそちらが主目的でしょう。
クララック氏の発案とはねぇ。
この人の世間に対する恨みは、相当なものがありますよ。
便乗して旧フォーレ国民が、名前をバンバン追加しているそうです。
革命を推進する偉大な民族なんて、名前をもらったくらいですから。
その偉大な民族は、反革命派を逮捕するのが使命ですよ。
なんとも皮肉が効いていると思います」
トマにブラックユーモアの才能はあるのかもしれないな。
オフェリーは不思議そうな顔をしている。
「それにしても、トマはよく旧フォーレ国民を許しましたね」
ああ……。
その後まで読んでいないのか。
「許していませんよ。
ただ、彼なりの計画があってのことでしょう。
それにしても……。
媚び
オフェリーは目が点になったが、慌てて書状の続きに目を通す。
そして読み終えたときに、深いため息をついた。
「革命を成功させるためなら、なんでもやる……。
その言葉尻を捉えられたようですね。
旧フォーレ国民って、なんだか私の知っている世界の住人じゃないみたいです。
反革命の疑いをかけた人に、自分の便を食べさせるとか……。
食べても、結局許さないのは酷すぎますよ。
誠意が感じられない、とかメチャクチャじゃないですか」
オフェリーはやや興奮気味だな。
嫌悪と怒りを感じているようだ。
空想の世界であれば笑い話なんだけどね。
これは、紛れもない現実なのだ。
「紛れもなく、同じ世界の住人ですよ。
長い間、抑圧されていた歴史があります。
突然、自分たちが主人になった、と思い込んだなら……。
本能のまま、残虐な行為に走るでしょう。
上位者はなにをしても許される。
これが彼らの理論ですからね。
過去の屈辱的な扱いも、この理論で飲み下していたのでしょう。
その理論に従っているだけです」
オフェリーは頰を膨らませる。
かなり興奮しているな。
あまりの異常さに、同じ人だと思いたくないか。
気持ちはわかる。
だが、人は環境次第でああなり得るのだ。
異常な人は人種を問わず、どこにでも現れる。
それをどう制御するかが問題なだけだ。
異質に見える旧フォーレ国民にも、まともな人は必ずいる。
それを表に出せば生きていけないだけでな。
旧フォーレ国民にとって、異常こそが正常なのだからな。
俺の返事に納得がいかなかったのだろう。
オフェリーは大きなため息をついた。
「ギロチンで落とした首を、食卓に並べるって……。
しかもそれを馬鹿にしながら、和やかに食事をしているんですよ。
もうわけがわかりません。
しかも処刑した死体の処理が面倒だから、豚に食べさせるって……。
なんだか気分が悪くなってきました。
豚も餌に困らないから増え続ける。
これで食糧問題の解決になるとか……。
この豚肉を食べさせられる人たちは、どんな気持ちなんでしょうね」
オフェリーの興奮は収まったようだが、昔のような無表情になってしまった。
旧フォーレ国民は、喜々としてやっているだろうが……。
トマは、彼らをただ喜ばせるつもりなどないだろう。
「クララック氏は、これで旧フォーレ国民に民衆の
そしてタイミングを見計らって処刑する。
ガス抜きにするつもりですね。
そうでなくては、革命を推進する偉大な民族なんて名前をつけませんから」
オフェリーは複雑な表情で固まった。
そんな連中が長くない、と聞いて嬉しくなったのかもしれない。
そして嬉しくなった自分を醜い、と思って葛藤しているのだろうか。
それを俺は問いただす気などない。
聞いても無意味なだけだからな。
やがてオフェリーは、葛藤を振りほどくかのように、強く頭を振った。
「彼らは捨て駒なんですか?」
確実にこれは計画的だろう。
トマは旧フォーレ国民の性質を熟知しているはずだ。
そしてそれ以外の民が、どう思うかも知っている。
そうでなくては、保身など出来ないからな。
もしかしたら、世界主義の入れ知恵かもしれないが。
「この手の血なまぐさい処刑は、確実に人心を荒廃させます。
多くの人は、もう勘弁してくれと思うでしょう。
その象徴になっている人たちを
民衆は拍手喝采して、留飲を下げます。
かくして革命は、粛正から秩序構築に移行するのですよ。
民衆は旧体制に戻れば、自分たちが報復されると恐怖しますからね。
誰だって、豚の餌にはなりたくない。
クララック氏はそう吹き込むでしょう」
突然、バンという音がする。
ミルがテーブルに両手をつけて、こっちを睨んでいる。
これは……かなりキレ気味だ。
「ゴメン。
悪いんだけどさ……。
お昼前にそんな話やめてくれない?
今日のお昼に、豚肉が出てきたら……どうしてくれるのよ!」
しまった。
食事前はダメな話題だったよ。
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