652話 黒歴史

 商務大臣のパヴラ・レイハ・ヴェドラルに、ベンジャミンとの打ち合わせの指示をだした。

 そのときのパヴラは、耳と尻尾が垂れ、絶望顔になったらしい。

 経済圏構想の推進に加えて、シケリア王国との交易再開。

 さらに交渉好きな石版の民と調整。


 絶望したあげく、商務大臣執務室に設置した祭壇に、祈りをささげたようだ。

 当然ながら、女神ラヴェンナ像と木彫りのニシンが鎮座している。


 新設の省庁に足りないもの。

 それは中間から上位の役人。

 まだ、ノウハウもたまっておらず試行錯誤の真っ最中。

 頼りになるはずのイザボーは出産に伴い、子育てに専念している。


 顧問のオリヴァーが、やむなく旧部下を呼び寄せようと考えた。

 ところが、パリエース地方総督テオバルトが難色を示す。

 オリヴァーの旧部下とは、現顧問のアナスタージウス・ハウスホーファーの部下でもある。

 スタッフの減少など、簡単に受け入れられないわけだ。

 数名はなんとか、商務省に引き抜くことに成功。

 それでも絶対数が足りない。

 かくしてパヴラの苦難は続く。


 もうひとつの指示である歴史書の解読だが……。

 図書館の別室が、翻訳作業場となっている。


 進捗確認がてら、館長のティト・ジョクスを訪ねた。

 ところが俺が手にもっている本を見て、失礼にもギョッとした表情になる。


「ジョクス館長。

別件で翻訳の依頼を……」


 俺の言葉を聞き終える前に、ティトが崩れ落ちた。


「私がアルフレードさまから、館長に任命されたとき……。

皆が哀れむような目で見たこと。

それが今理解できました……。

仕事量が限界のところに、お代わりをもってくるなんて鬼ですか!

失礼、魔王でした……」


 違うというのに。

 だが突っ込んだら負けだ。


「翻訳作業は手一杯なのですか?」


 ティトは憤慨した顔で立ち上がる。


「当然です。

そもそも翻訳作業ができる教養をもった人は少ないのです。

しかもアルフレードさまから『機密なので、可能な限り外部の人間を携わらせないように』と言われています。

外から雇うこともままならない。

足りない! とにかく人が足りないのです!」


 すべてを最優先に、といった思考放棄をする気はない。


「なら優先順位を決めましょう。

この歴史書で、アイオーンの子の記載がある部分は最優先。

次に地下都市からの古文書。

歴史書のそれ以外の部分は落ち着いてからでいいです」


 ティトはガックリと肩を落とした。


「わ、わかりました……。

ツィマーマン女史からの苦情は、すべてそちらに回しますよ!

今でも催促が激しいのです……」


 ああ……。

 レベッカは、押しが強いからな。

 それはこちらで引き受けよう。

 俺がだした指示だからな。


「そうしてください。

ちなみに催促が激しいからと、ムリな作業量で仕事をしていませんよね」


 ティトは苦笑して首を振る。


「むしろムリしてでもやれ、と言われたほうが楽です。

待遇はとてもよく、勤務時間も限られ、休暇をきちんと取らせる。

その上で成果をだすことが、これほど大変だとは……。

ムリな仕事のさせ方だったら、できないときの言い訳は簡単なのですよ……」


 その場合は『真摯さが足りない』などと言われ、理不尽さに腹が立つと思う。


「翻訳を完成させることが目的です。

ムリをさせた結果『職員をつぶれるほど働かせました。 結果ダメでした』という茶番を演じる余裕などありません。

それに過重労働を強いても、ミスが頻発します。

ほんの一時だけ頑張ることは必要かもしれません。

でも頑張るとは、一時的に全力を注ぐから頑張るというのです。

ずっと頑張るなんて誰もできやしません。

普通のペースで続ける。

これが最も効率のいいやりかたですよ」


 それだけ考えていても、世の中完璧に進まない。

 どうしても負荷をかけるときはくる。

 そのときは頼むしかない。

 だが普段からムリな作業量を、ノルマにしないよう努力していないと、まったく説得力がない。


 説得力がなくても命令だからやるだろう。

 そんなことに慣れてしまった人が、上の立場になったら?

 気軽にムリな作業量をノルマにするだろう。

 説得力など不要で、それが常識になるからだ。

 かくしてそれが常態化する。

 負のスパイラルだな。


 なにかの変事が起こったとき、対応する余力がないまま大惨事を招く。


 上司が部下を酷使。

 その上司は何故か頑張っている、と評価される。

 俺に言わせれば、上司が考えを放棄して楽をしているだけだ。

 それならその地位にいるのは誰でもいいのではないか、とすら思う。

 誰でもいいなら、高い報酬などいらないだろう。


「他所とは真逆ですよ。

他所はとにかく、寝食を削って打ち込むこと。

それが頑張りであり真剣さだ、と評価されますから。

余裕をもって早く完成させるより……。

はるかに予定を超過しても、心身がボロボロになって完成したほうが評価されますよ」


 そんな仕事ゴッコなどする余力はない。

 仕事とは達成するためにやるのだ。

 非効率でミスを誘発しやすい状態にして、ムダに時間をかける。

 そんなのは、子供のゴッコ遊びにしか思えない。

 給料が支払われるだけ、子供の遊びよりなおタチが悪い。


「そんなムダなことを評価する気などありませんよ。

私は『できることが長続きする』ことを求めます。

上に行くほど頭を使い、効率よく仕事を采配する能力が必要でしょう。

ただ怒鳴り散らして、部下を酷使する人なんていりません。

私はそのような輩を無能だ、と判断していますから」


 ティトは苦笑交じりに頭をかいた。


「精神論で怒鳴られるほうが、ずっと楽だと気がつきましたよ……。

昔は理不尽だと腹が立ちましたけどね。

見かけだけ頑張るフリをして、ダラダラやれば評価されるのですから。

そして自分も仕事を頑張っている気になれます。

どおりで、そんな仕事のやりかたが常識になるわけですよ。

今は生まれてから最も頭を使っています。

そして時間の大切さも、骨身に染みました」


 ジョクス商会当主のティトですら、未知の世界か。

 商売の世界は、経済的合理性が求められる。

 最も効率を重視する商売人ですらこうなのだ。


「大変結構ではありませんか。

多民族領のラヴェンナで、精神論なんて振りかざしたら大変です。

合う種族と合わない種族がでますからね」


「言われてみればそうですね。

ここでも種族はバラバラですので、暗黙の了解を期待して痛い目を見ましたよ……」


 その報告は受けていた。

 ただその失敗以降、同じ過ちを繰り返していない。

 だから俺は不問に処したわけだが。


「なので客観性のある、生きた理論が大切なのですよ。

余裕をもって早く解決できる人は、どんどん昇進させていくべきです。

まあ……管理が苦手な人もいます。

そんな人は、腕利きの現場職員として頑張ってもらうしかありませんが。

作業と管理では、求められる才能の質が変わりますからね」


「それにしても計画の大切さを、ここでたたき込まれましたよ。

ムリに働かせずに、目標を達成する。

これには正確な現状把握と計画性が必須ですから。

だからこそ現場を知らなくてはいけません」


 ティトの大きなため息に、つい苦笑してしまう。

 愚痴混じりだが、俺の方針に賛同して頑張ってくれていることは事実だからな。


「だから私の指示がその要求と合わないとき、理由を説明できれば受け入れていますよ」


 俺の涼しい顔を見て、ティトは恨めしそうな顔をする。

 愚痴る程度で仕事をしてくれるなら、いくらでも聞こう。


「その理由の説明も大変なんですよ。

現状把握としっかりした計画がないと、説明なんてできませんから。

でもラヴェンナが急激に発展する要因はわかりました……。

怒鳴る暇があれば頭を使って達成しろ、という領主がここにいますからね」


「だって税金はそのために徴収しているのです。

ムダ使いはできませんよ」


「そこは怖いほど徹底していますね……。

『言い訳は大歓迎。ただし、下手な言い訳はダメ』と言われたとき、目が点になりましたけど……。

こうやって実際に作業を管理する立場になって、それが最も効率的だと痛感しましたよ。

部下が正当な言い訳を用意できるときは、その上司の落ち度になりますからね……。

常時、試されているようなものです。

これでは手のぬきようがありませんよ。

実感しましたけど……。

ラヴェンナでは偉い人ほど大変なのですね」


 社会的地位と価値観を両立しなくては、健全な社会にならない。

 だが地位の高い人を無条件に尊敬しろ、というのはムリがある。

 地位に相応しい能力があれば、自然と尊敬されるだろう。


「だから相応の社会的地位と報酬を用意しているのですよ。

大変なことをしているなら、相応の報酬があってしかるべきですよね。

上にいくほど楽ができるなんて、金のムダ遣いですから」


「とても正しく当たり前のことを言われていますが……。

大変ですよ。

目を光らせないと、組織は腐っていくわけです。

放置すれば、皆は楽なほうに流れていきますからね。

『なんとかしろ』と怒鳴るだけなら、とっても楽ですよ……」


 思わず俺は笑ってしまった。

 『なんとかしろ』は、魔法の言葉じゃないのだけどな。


「『なんとかしろ』と怒鳴って物事が解決するなら、世の中の問題の7割くらいはなくなりますよ」


「残りの3割は?」


「元からどうにもならない問題ですよ。

それすら『なんとかしろ』で解決するなら、世の中に問題など存在しません」


                  ◆◇◆◇◆


 今日はダンスの稽古がない日だ。

 つまり屋敷にいるであろうイポリートを訪ねる。

 アイオーンの子について確認しておきたかったのだ。


 屋敷につくと、使用人に庭へと案内された。

 イポリートは庭の真ん中に置かれたテーブルに座って、珍しく黄昏れている。


「イポリート師範。

どうしましたか? 珍しく物思いにふけっているようですね」


 イポリートはいつもと違うキレのない動きで苦笑する。


「ああ……。

それよりなにかアタクシに、用事があってきたのでしょ。

それを先に片付けましょう」


 俺はイポリートの対面に座る。


「1500年ほど前です。

アラン王国にエタン・ウードンという人がいました。

王の側近らしいのですが……。

師範はこの名前を知りませんか?」


 イポリートは、いきなり吹き出してしまった。

 まあ俺自身、間抜けなことを聞いている自覚があるからな。


「ぶっ。

1500年前の先祖なんて知らないわ。

3代前が限界よ。

それにウードン性って、アラン王国にそこそこいるわ。

それにアタクシは、役人の息子よ。

先祖代々の付き合いなんてないわ。

貴族階級の生まれなら違うかもしれないけどね。

仮にそんなものがあったとして……。

誰かが過去の縁で訪ねてきても門前払いするわ。

アタクシはアラン王国なんてどうでもいい、と思っているもの」


 たしかに故郷であるアラン王国に、よい感情をもっていないことはわかる。

 ここまで突き放すとは思っていなかったが。


「そうなんですか?」


「アタクシ自身、アラン王国をでられた喜びがあるもの。

あそこにいたら、自分がダメになると思ったわ。

ここにきてよかったと、心から思っているもの。

あそこは一定の技量を超えたら、あとはなれ合いよ。

門下生の取り合いと、政治工作にお熱になるの。

それ以上の高みを望むと敬遠されるわ。

だからアラン王国では、ラペルトリ嬢以外、誰を信用していいか……わからなかったの。

道を究めようとするアタクシにとって、信用できるのは、同じく道を究めようとする人だけよ」


 怒濤どとうの如く吹き出るアラン王国への批判。

 思わず笑ってしまった。


「なんというか……。

いろいろ不満があったのですね」


 イポリートはバツが悪そうに苦笑する。


「おっとゴメンなさいね。

ついラヴェンナ卿の前では愚痴っぽくなるわ。

そんなわけで、あそことアタクシは無関係よ」


「済みません。

一応聞いただけです。

それでなにか、悩みがありそうですね」


 イポリートは真顔に戻ってから、悪戯っぽく俺にウインクした。


「そうねぇ。

なにか悩みを解決してほしいわけじゃないけど、ただ愚痴を聞いてもらおうかしら。

ラペルトリ嬢のことなんだけどね。

アタクシがあの人に憧れて、ダンスを極めようとしたのは知っているでしょ?」


 今日の俺は、人の愚痴ばっかり聞かされているな。


「ええ。

イポリート師範にとっては特別な人ですよね」


 イポリートは軽く手を振る。


「別に恋愛感情とかじゃないわよ。

純粋な憧れだからね。

それにアタクシの好みは、たくましい殿方よ。

ラペルトリ嬢はあの事件以来……。

自分を性的な目で見る殿方に出会うと、反射的に恐怖してしまうの。

幸いなことにアタクシはそれに該当しないから、気軽にお話しできるのだけどね。

ところが……あのロンデックスさんよ。

最近、ラペルトリ嬢に呼ばれて、ふたりでお食事をしているくらい親密なの。

男とふたりで食事なんて信じられないわ。

別にそれはいいんだけど……」


 イポリートとヤンは水と油ではなく、そもそも住んでいる世界が違うからな。


「ラペルトリさんが、過剰に恩義を感じてムリしているかもしれないと?」


「違うわ。

この前のことよ。

アタクシを含めて、3人でお茶したの。

まあロンデックスさんはビールだったけど……。

そこで話題が、踊りになったのよ」


 ヤンは天然な言動で、人の古傷をえぐるかもしれない。

 だからこそエミールが苦労するわけだ。


「ロンデックス殿が、なにか無神経な発言でも?」


 イポリートは笑って、首を振る。

 違うのか。


「ラペルトリ嬢が踊れなくなった原因はいろいろあるけど……。

そのひとつを教えてくれたの。

『稽古もしなくなって久しい。 今更踊ったとして、昔のイメージを期待している人に失望されるのが怖い』ってね。

今までアタクシったら無神経に、昔の踊りを褒めていたのよ。

そんなプレッシャーをかけていたのかと……。

ちょっとした自己嫌悪よ」


「師範の称賛は、憧れからくるものでしょう。

プレッシャーではないと思いますよ。

それとラペルトリさん自身も、踊りに未練はあるのかもしれませんね」


 イポリートは小さくため息をつく。

 今日のイポリートは暗いな。


「そうだといいのだけどね。

ところがロンデックスさんは『それで飯を食っているわけじゃないなら、別に踊らなくてもいいだろ』とか言い出すのよ。

さすがに絶句したわ。

それで暢気にこう続けたのよ。

『それで他人に失望なんてされる筋合いはないだろ。相手が勝手に期待しただけさ』ってね。

さすがに開いた口がふさがらなかったわ。

批判を封じ込めたら、上達なんて有り得ないからね。

そんな遊びじゃないと言いたかったけど……」


 言わなかったと。

 イポリートは明敏で、客観性も十分もっている。


「ロンデックス殿の言葉に、正しさを認めてしまったと」


「悔しいけどそうね。

あの人学はないし、下品が服を着て歩いているようなものだけど……。

いうことが、妙に核心をつくのよ。

元来踊りとは楽しむものだからね。

ラヴェンナ卿が天才と称するのは、こんな人なのだなと思ったわ。

正直天才がいるなんて認めたくはないけどね。

ロンデックスさんが、最後に言った言葉にはお口あんぐりよ。

『なんで踊りたければ踊ればいいし、なにを言われても気にすることはないさ。 それで誰かが死ぬわけじゃないだろ』よ」


 ヤンなら言いそうだな。

 直感的に、ゾエの恐怖と願望を見抜いたのだろうか。

 だがこれを口にすることもない。

 逆説的にイポリートが、ゾエの恐怖と願望を見抜けていない、というようなものだ。


「まあ……。

ロンデックス殿はダンスに、興味がないですからね。

軽い気持ちで言ったのでしょう」


「それだけなら『こんな人なんだ』で済む話よ。

ところが、それを聞いたラペルトリ嬢が踊る、と言い出したの。

もうビックリよ」


 たしかにビックリだ。


「それでどうだったのですか?」


 イポリートは小さく笑って肩を落とす。


「ブランクは冷酷よ。

技術的な面で指摘したい部分が、いっぱいあったわ。

ダンスの目標だった人はもういないのだ、と落胆しかけたの。

でもね。

ラペルトリ嬢の嬉しそうな顔を見たら、そんなのどうでもよくなったの。

なによりショックだったのが……。

アタクシたちじゃなく、ロンデックスさんがラペルトリ嬢を踊らせたことよ。

今まで多くの人が試みてできないことを、ロンデックスさんは、ものの数分でやってのけたのよ」


 昔の自分を知っていない人に見せるのならば、と勇気がでたのかもしれない。

 少なくとも過去の自分と比較されないからな。

 この話を聞くと、ゾエはヤンになかなかの好意をもっているように感じる。


「むしろダンスと完全に無関係な人だから、自分の気持ちに正直になれたのかもしれません」


「そうね。

実はこの話にオチがついてね。

負けじとロンデックスさんが、踊りを披露したんだけど……。

あれは酷いものだったわ。

なんでも戦いの合間に酒を飲んで、皆とわいわいやる踊りらしいけど……。

ラペルトリ嬢が誘われて、あろうことか一緒に踊り出してしまったわ。

しかもロンデックスさんが、にダメ出しする始末よ。

『もっと楽しくやるんだよ! 形なんてどうでもいいから!』といった次第でね。

挙げ句の果てには、ラペルトリ嬢に一緒に踊ろう、と誘われたの。

憧れの人から誘いよ。

そうなったら、アタクシは踊るしかないでしょ。

もう黒歴史よ……。

あまりの黒歴史に、その夜アタクシはひとりベッドでもだえ苦しんだもの。

それに比べたら、ラヴェンナ卿の暴走トロッコ激突逃亡未遂事件なんて可愛いものよ」


 まてや。

 事件ってなんだよ! しかもなげぇよ!

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