651話 裏切りの救世主

 執務室にキアラとカルメンがやってきた。

 部屋に入ってきたふたりを見て驚いたが……。

 顔や腕が傷だらけ。

 喧嘩でもしたのか?

 服まで、ところどころ破れている。

 そしてキアラが抱えているのは、タオルに包まれたエテルニタ。


「ふたりともどうしたのですか?」


 キアラの返事より早く、エテルニタが強引にキアラから逃げ出して、俺の膝の上に登ってきた。

 なんつー素早さだ。

 俺の膝の上で、毛繕いをはじめる。

 そんなエテルニタと目が合う。


『みゃぉ~う』


 挨拶のように鳴いて、毛繕いを再開。

 エテルニタの体が、少し湿っている気がする。

 キアラとカルメンは、呆気あっけにとられているオフェリーのところに駆け寄った。

 オフェリーはすぐ真顔になって、ふたりを治癒しはじめる。

 あっという間に治癒は終わった。

 傷が消えたのを確認したキアラは、胸をなで下ろす。


「オフェリー。

ありがとう」


 カルメンも傷が消えたことを確認して、頭をかく。


「助かったわ。

ありがとう」


 オフェリーはふたりにほほ笑んだが、首をかしげる。


「どういたしまして……。

一体何事ですか?」


 キアラが大きなため息を漏らした。


「エテルニタが悪戯をして、カルメンの研究室の薬品をひっくり返しましたの。

それがエテルニタに結構かかりましたわ。

劇薬ではありませんけど……。

危ないからふたりで、エテルニタを洗おうとしたのですの」


 カルメンは疲れたように肩を落とす。


「まさかあんなに抵抗して、暴れるとは思わなかったわ。

泣き叫ぶわ、逃げ回るわ、かみつくわ、ひっかくわで……。

風呂場がなまじ広いから、捕獲にも一苦労よ。

しかも普通の猫より体が大きいから、抵抗する力が強くて強くて。

最後は観念したのか、無の表情になって洗わせてくれたけどね」


 猫って洗われるのがいやなのか。

 毛繕いを中断したエテルニタが俺を見上げる。


『みゃう~』


 なんだろう。

 この助けを求めるような目は。


「もう洗わないから安心していいですよ」


 俺はどうして猫に話しかけてしまったのだろう。


『みゃん!』


 俺の言葉がわかるのか、エテルニタは再び毛繕いに専念しはじめた。

 毛繕いしながら、体を俺にこすりつける。

 俺の服は瞬く間に猫の毛だらけ。

 だがこの前、俺を癒やしてくれたからなぁ。

 好きにさせよう。

 キアラは大げさにため息をつく。


「エテルニタはお兄さまに助けてほしいようですわ。

1番安全なところだ、と知っていますのね……」


 そもそも論としてだが……。


「今度からそんな危ない薬品は、厳重に管理すべきでしょうね」


 カルメンはバツの悪い顔で、頭をかく。


「最近すっかり油断していました……。

今度から棚に管理します」


 それはいい。

 もうひとつ大事なことを忘れているな。

 エテルニタが心配で……それどころではなかったのだろう。


「それより危ない薬品に触れたのでしょう。

ふたりも洗い流したほうがいいですよ」


 キアラはハッとした顔になる。


「迂闊でしたわ。

エテルニタを洗うことに必死になりすぎていました。

お兄さま。

カルメンとお風呂に入って着替えてきます。

それまでエテルニタを、よろしくお願いします」


「ええ。

早くいってください」


『にゃ~ん』


 ふたりが出て行ったあとで、なぜかオフェリーが俺の後ろにやってくる。


「オフェリー。

どうかしましたか?」


 いきなり、背後から俺に抱きつく


「みゃぉ~う。

エテルニタが羨ましいので、私も便乗します。

私のことは猫だと思ってくださいニャ。

それなら気になりませんニャン」


 待てや。


『みゃお~う』


 エテルニタが対抗したじゃないか!


「いまは仕事中です……」


 オフェリーは構わず、俺に頰ずりしはじめる。


「聞こえませ……きゃっ!」


 いきなりオフェリーが俺から離れ、妙に可愛い叫び声をあげる。

 ミルが頰を引きらせて、オフェリーを引き剝がしたようだ。

 普段は非力なのだが、こんなときのミルの力はものすごい。


「油断も隙もないわね。

いまは仕事中よ。

それに昨日オフェリーは、アルの日だったでしょ!」


 昨日は、オフェリーの部屋で寝た。

 それがアルの日かよ!


「まるでなにかの休日のように言わないでください」


 ミルがニッコリと笑う。


「別にいいじゃない。

私たちの間での呼び名なんだから」


 オフェリーまで胸を張る。


「心の休日です。

だから意味としても正確ですよ」


 思わず、ため息が漏れる。

 暢気なエテルニタは、俺の膝の上で昼寝をはじめた。

 もう、いろいろと好きにしてくれ……。


                  ◆◇◆◇◆


 早くも、ベンジャミンが到着したとの報告を受けた。

 翌日面会となる。

 久しぶりに会うベンジャミンは元気そうだった。

 お互い軽い挨拶を済ませて、本題に入る。


「ベンジャミン殿。

アイオーンの子について、書状では伝えにくい……とのことでしたね。

それほど危険なことなのですか?」


 ベンジャミンは苦笑しつつ、肩をすくめた。


「正確には書面に残してはいけないことです。

語ってはいけない人物にかかわる話ですので。

ですが我々の後見人でもあるラヴェンナ卿の要請です。

軽視できるものではありません」


 友好的な関係は、こんなとき役に立つ。

 

「そう考えてもらえて、大変有り難いですよ」


 ベンジャミンは真面目な顔に戻ってせき払いする。


「さらには不穏な兆候も、世界で見受けられます。

黙っているのはよろしくない、と思いました。

なにより石版に語ってはならない、と記されていません

なのでラッビーイーム会議の裁定を仰ぎました。

その結果、を禁じられたのです。

話すのは構わないのですよ」


 まだ、アイオーンの子の噂は広まっていない。

 だが彼らの情報網が、不穏な気配を察知したのか。

 それとも第5拠点の襲撃を言っているのか。

 どちらにしても、協力が得られるのは有り難い。


「つまり……あなた方の知られたくない事柄にもかかわると」


「はい。

我々が契約の山に住んでいた頃まで、話はさかのぼります。

アラン王国が攻めてくる際に、我らの祖先は抵抗したのですが……。

コーレシュの子ヨーセーフは命惜しさに、アイオーンの子に唆され、我らを裏切って敵に味方したのです」


 なにか変だぞ……。

 たしか石版の民が、契約の山を追われたのが1500年前。

 使徒降臨は1000年前だ。

 救済派が教会に合流したと聞いたから、古代人の移住は第一使徒のあとだと思っていた。


「待ってください。

つまり彼らは1500年以上前からいたわけですか?」


 ベンジャミンは満足気にうなずく。


「はい。

我らの歴史を覚えてくださって喜ばしい限りです。

順を追って説明しましょう。

彼らの先祖が、ラヴェンナに住んでいたことはご存じでしょうか?」


「古代人が過去、ここに住んでいたことは知っています」


「さすが耳聡ざといですね。

では古代人がふたつに別れたのもご存じなのですか?」


 そこまで知っているのか。

 当然と言えば当然だった。

 情報に疎ければ迫害された民は、とても生き残れない。

 世界規模での諜報力は、耳目より上だろう。


「ええ。

いつから別れたのか知りませんが、ふたつに別れたと聞いています」


「古代人の移住は2度あったのです。

最初はこの世ならざるものを生み出したときです。

彼らは危険分子と見なされ、ラヴェンナから追放されました。

次に再びこの世ならざるものを生み出し、故郷を捨てざる得なくなったときです」


 血の神子が、2度生み出されたのか。

 しかも追放とはなぁ。

 その前例があってなお、もう一度呼び出したのか……。

 なんて面倒な。

 これは古文書解読に期待だ。


「どちらもアイオーンの子を名乗ったのですか?」


「正確には最初に追放されたものたちが、アイオーンの子を名乗りました。

さらにそのあとで古代人がラヴェンナを立ち去ったとき、ふたつのグルーブに別れたようです。

知識を追求しつづけるものたちと、平和に生きる者たちですね。

知識を追求しつづけるものたちが、アイオーンの子に合流したらしいです」


 なるほど。

 そこまでは、ライサでも知らなかったようだ。

 昔ダークエルフと接触したのは第2陣なのだろう。

 以前追放された連中と合流した、なんて普通言わないからな。


「わかりました。

話をそらしてしまいましたね。

続きをお願いします」


 ベンジャミンの顔が、突然厳しくなる。


「我々は神との契約を守って生きる。

それが誇りであり、義務でもありました。

ところがヨーセーフに、一部の不心得者たちが唆されました。

かくして我々の祖先は、契約の山を追われてしまったのです」


 こんな不名誉な歴史は、文書で残したくなかったのか。

 これだとそのヨーセーフに、契約の山を追われたように聞こえる。

 ただヨーセーフのことを聞けば、ベンジャミンのおしゃべりスイッチが入りそうだ。


「つまりアイオーンの子は、アラン王国と密接につながっていたのですか?」


「当時のアラン王国は、教会とつながる主流派とそれ以外の非主流派に別れていました。

王の側近のひとりは非主流派で、アイオーンの子とつながっていたのです。

それが討伐の任にあたっていました。

たしかエタン・ウードンとか名乗っていたはずです」


 ウードン? もしかしてイポリートの先祖だったのか?

 なんの根拠もないが。

 イポリートはアイオーンの子とは無関係だろう。

 一応確認だけしてみるが……。

 1500年前の先祖なんて、誰が覚えているのかって話だな。


 しかし……権力者とつながっていたのか。

 当時はそこまで危険さを前面に出していなかったのかな。

 これはヨーセーフのことを聞かざる得ないか。


「当時は多少なりとも、関係があったわけですか。

それでヨーセーフは、あなた方にとって裏切り者であると。

裏切って敵を引き込んだのですか?」


 ベンジャミンが身を乗り出した。

 ああこれはスイッチが入ったわ。


「ヨーセーフは有力な祭司の子で、侵攻を食い止めるための防衛指揮を担いました。

同胞の士気はとても高かったのです。

出陣前に皆で『異端の者に降伏するくらいなら、死を選ぶ』と神に誓ったほどでした。

ですが数の暴力には勝てませんし、武器すら不足していたのです。

当然ながら、戦況は徐々に悪化するだけでした。

ついには砦を包囲され、絶望的な状況に。

そこに敵から投降を呼びかけられました」


 ベンジャミンの顔が紅潮しはじめた。


「砦となれば、まだ契約の山までは侵略されていなかったのですね」


「はい。

ヨーセーフは重要拠点の一つを任されていたのです。

多くの同胞は降伏勧告に耳を貸さず、誓いを守って自死を選んだのですが……。

ヨーセーフは最後まで自死を選ばず、自らは投降したのです。

同胞には『最後のひとりになったら、あとを追う』と嘘までついたのですよ。

そして我々の内情を、すべて敵に教えました。

そこからはあっという間です。

契約の山まで包囲されてしまいました。

そして恥知らずにも、同胞に投降まで呼びかけたのです!

ウードンは教会の信徒ではない。

だから異端ではないなど、と詭弁を弄してです!」


 ベンジャミンはかなりヒートアップしている。

 ここで違う見解など火に油を注ぐようなものだな。


「なるほど。

あなた方の理念では許せない行為だったのですね」


 ベンジャミンは我に返ったようで、落ち着きを取り戻した。

 それでも苦虫をかみつぶした表情になる。


「それだけではありません。

その後で我らが契約の山を追われたのは、我々のことが謎だったからだと言ったのです。

人々の無知は容易に恐怖につながると。

まるで侵略された我々に責任がある、とでも言っているようなものです!」


 たしか防備を疎かにしていたから、借金の踏み倒しついでに追われたのだったな。

 石版の民は他民族のことを知ろうとしなかった。

 だから隙をつくってしまったのだろう。

 石版の民の失策も要因の一つだろうな。

 俺の感想などお構いなしのベンジャミンは、いっそうヒートアップする。


「腹立たしいことに、ヨーセーフは歴史書まで記して、自己弁護に努めたのです。

ウードンはそれを後援したらしいですが……。

そのときの我々は、自身の歴史を語る者がいませんでした。

「我らの歴史を知るためには、ヤツの書いた書物を読まねばならないのです。

以後、我らの中でヨーセーフとは、のろわれた、決してつけてはならない名前になりました」


 これは、屈折した憎悪だな。

 忘れることすら許されない。

 憎悪はますます増幅してしまう。


 素性が知れない民族は、他者から脅威に思われがちだ。

 契約の山を追われたのは、そのあたりの事情も関係していたのか。

 教会から迫害されたらしいが、当時はまだそこまで教会の力は強くない。

 ヨーセーフなりに逃げ散った石版の民を救おう、と考えたのかもしれないな。

 石版の民は恐怖の対象ではないと。


「あなた方は口伝で、伝統を保っていたはずです。

もしやその人たちは、全員亡くなったのですか?」


 ベンジャミンは力なく、首を振る。


「ヤツはその伝統を保つ家に生まれたのです。

そして最後の生き残りでした」


 ああ……。

 それは最悪だな。

 もしかして過去の歴史を知り、現在の境遇を考えて未来はないと思ったのか……。

 歴史を記すくらいだから、彼なりに民族への愛情はあったのかもしれないな。


 俺がヨーセーフに抱いた印象は醒めた男だ。

 玉砕などに酔えなかったのだろう。

 そして裏切りの救世主とでも呼ぶべきかと思った。


 彼の歴史書がなければ、石版の民は自分たちを保てなかったかもしれない。

 そんな意味では救世主だろう。


 あまり名誉のある呼び名とはいえない。

 まぁ……順番が逆よりはマシかもしれないが。

 しょせんは、第三者の勝手な感想にすぎないがな。


「それでヨーセフはアイオーンの子のことを、どうやって知ったのですか?」


「ヤツの自己弁護をした著作です。

そこにアイオーンの子について記されていました」


「そんな本があることは初耳ですよ」


 ベンジャミンは苦笑して髭をしごいた。

 どうやら落ち着いたようだな。


「教会が使徒の教えを広めたときに、ヨーセーフの著作は燃やされました。

このような歴史など使徒に知られたくなかったのでしょう」


「アイオーンの子も、よくそれを許しましたね」


「ヨーセーフは小賢しくも、多数の言語でこの本を記しました。

一般に普及していたゴール語版では、アイオーンの子の記述はありません。

なので気づかれなかったのでしょう。

ラヴェンナ卿の見立て通り、アイオーンの子は自分たちの存在が、公になることを望みません。

先祖の言葉である古セーム語版にのみ、アイオーンの子が詳細に記されています。

それを我らが密かに所蔵しており、焚書を逃れました。

ご質問の回答として、ラヴェンナ卿にこれを差し上げます」


 なるほど。

 を禁じられたか。

 既にあるものを渡すのは問題ないわけだ。


 差し出された本は、とても分厚い書物だった。

 見たことのない文字で書かれている。

 文字と絵文字の中間のようだな。


「これが残った本ですか。

古セーム語はいまでも使っているのですか?

古と呼んでいるほどです。

使っていないと思いますが」


「はい。

契約の山を追われたのち、いつの間にかセム語に変わりました。

さらには人間社会に溶け込む必要から、多くの同胞は使徒語しか使っていません。

読めなくては無意味ですので、こちらもお持ちしました」


 ベンジャミンは別の本を俺に差し出した。

 差し出された本の表紙には、古セーム語辞典とかいてある。

 翻訳用の書物のようだ。


「これは助かります。

ベンジャミン殿は歴史書の内容をご存じで?」


「はい。

元々はサライと、その子供だけが読むことを許されています。

アイオーンの子に反応したのはサライだけでした。

それでこの本の存在を知ったのです。

ですがラヴェンナ卿に差し上げる内容か知る必要がありました。

そこで許可をもらって内容を確認したのです」


 見せてもらうのも一苦労だった、と思うがな。


「事前に確認してもらえたのは、とても有り難いですね。

実は名前だけでしたでは困ってしまいますから」


「それでは我々がラヴェンナ卿からの信頼を失いますから。

内容の確認は当然です。

読みましたが、顔をしかめる内容でしたよ。

ウードンの庇護を受けていたヨーセフは、庇護仲間のアイオーンの子と交流があったようです。

投降を呼びかけたのも、そのアイオーンの子でしたから。

交流するうちに、危険さを知ったのでしょう。

彼らに気づかれないように、こっそり書き記したと思われます。

ともかく……説明するより読んでいただいたほうがよろしいかと。

我々もこの本に書かれている以外は存じ上げません」


 かなりの大盤振る舞いだな。

 ベンジャミンが、ラッビーイームたちを説得したのだろう。

 つまり相応の返礼を期待してのことだ。

 そうでなくては、今後ベンジャミンの発言力が弱まる。

 そうなっては、いろいろと面倒だ。


「なるほど。

わざわざ有り難うございます。

これはお礼をすべきでしょうが……。

なにをお望みですか?」


 ベンジャミンは待っていましたと言わんばかりに、目を輝かせる。


「では、経済圏への参加をお認めください。

王都も関係していますが、王家御用達のアッビアーティ商会のみ参加が許されております。

そのお陰で宰相殿の袖の下は随分と重くなったようですね。

我々も参加を望んだのですが……。

宰相殿に『残念だが、袖の下はもう入らない』と言われました。

おそらくアッビアーティ商会が、宰相殿の許可は自分たちのみ、と望んだようです」


 ティベリオが清廉と呼ぶにはほど遠い。

 これは周知の事実だしな。

 それでも一応、賄賂を送った側に義理は果たしたわけか。


「わかりました。

それでは参加できるように取り計らいましょう。

では商務大臣との面会を、こちらで調整します。

そこで条件を詰めてください」


「感謝いたします。

この経済圏構想は、我らにとって極めて魅力的です。

実はラヴェンナ卿にどうお願いしようか、と思案していたところでした。

これを逃しては、みすみす利益を逃すようなものですから」


 やっぱりか。

 これだけ協力的なのだ。

 ベンジャミンには、石版の民内部での有力者でいてもらったほうが、なにかといいだろう。

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