新時代の都市論 《イディッシュ凪》
2007年8月8日 レビュアー イディッシュ凪
きらびやかなサクセス・ストーリーとおどろおどろしい闇社会が交錯する物語。
一見そう読めてしまうのですが、これは場所を巡るストーリーです。都市論として眺めてみれば、キャラクターたちの紆余曲折はあまり重要でない細部として遠景に押しやられてしまうでしょう。
世界にあまたある姉妹都市には、人口規模であったり、産業形態であったり、とどこかに共通点がありますが、この物語のワートとギアロ・デ・ラ・コスタにはわかりやすい共通点は見当たりません。つまり二つの都市はあまり似ていない姉妹なのです。
全体主義国家におけるエンターテイメントの中心であるワートには、無数の厳しい検閲とそれをかいくぐって個性を放つ無数の才能がひしめいています。人口雨を降らせる科学者と廃棄された高速道路上に密集する貧しい人々。セレブレティは実は彼らの足元、断絶した
一方、ギアロ・デ・ラ・コスタはバイロッサムという別の大陸の国家に属しています。セドトルース都市圏の延長部分にあたる海岸に位置し、聖者スワルトの生誕地として巡礼が絶えないと、作者による、いくらか投げやりな説明があるばかりです。ヒロインのファスダはどことなく首都を毛嫌いしているのですが、その理由が明かされることはついぞありません。雪深いギアロは火山リヴェータの麓にあり、その地熱の恩恵に預かっているとも記されますが、それがどんなテクノロジーなのかSF的興味を満たす気も作者にはなさそうです。
とはいえ、物語運びに抜かりの無い作者があえて語らない都市の生態にこそ、この作品の本領が隠されているのではないでしょうか。ギアロには特産である毛蟹を専用で運ぶ鉄道路線が存在します。その形状は「子供がでたらめに結んだリボンを白痴がほどいたような」と表現されています。同じ比喩はワートの高速道路にも使われるのは意味深でしょう。このような照応関係は枚挙に暇がなく、両都市の公衆トイレに描かれた楽譜や、市長の息子たちの綺麗好きなど(潔癖と汚物恐怖という違いがありますが)、至るところに散見されます。どちらの都市のタクシー運転手も若い女と見れば口説かずにはいられませんし、鴉の死骸はいつも質屋の店先に落ちてきます。さらには二つの都市にはまったく同じ高さの給水塔(ギアロでは「配水塔」と呼ばれる)が登場します。
一見、淡泊に映りがちですが、これほど都市そのものが表情豊かに活き活きと描かれた作品はありません。人間たちは都市の上を軽薄にうごめく虫のようなものだと言えるでしょう。ファスダの栄光もヒューロの失墜も都市のタイムスパンから見ればほんの束の間の出来事です。この作品にとって人間は都市を映し出す拡大鏡のようなものと言えます。
これは都市の物語である以上に物語の形を借りた都市論でもあります。この視点に立ってみるならば、まさに姉妹である二つの都市の囁き交わす声が聞こえてくるようです。
最後に蛇足ですが、通りの酔っ払いと巨匠オーリングが二つの都市の滅びを夢想する場面はなんとも示唆的です。ギアロの酔っ払いは火山の噴火を、映画監督は人口雨による洪水の脅威をそれぞれに口にします。姉妹都市にどんな運命が待ち受けているのか、もちろん作者の筆はそこに及ぶことはありませんが、美しい都市の滅びの様を見てみたいと不謹慎な気持ちを抱くのはわたしだけではないはずです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます