Chap.7-3

 ソファで口を開けたままいびきをかいているユウキ。酔いつぶれてしまった寝顔に短く息をついて、なかなか戻って来ないタカさんの様子を見に行った方がいいかと思い始めたころ、騒がしい物音を立てて店に入って来た者たちがいた。

「あら、やだ! 周年だって聞いて来たのに。主役のタカちゃんはいないの?」

 甲高い声に、一斉に戸口へ注目が集まった。坊主頭の目のクリッとしたオジサンが、両脇に太っちょの若者と、線の細い男を従えて立っていた。てるてる坊主が、ダルマと枯れススキを引き連れているようだ。

 てるてる坊主はカンターのリリコさんに、

「台知久海岸ではどーも」

 と嫌味たっぷりな言い方で挨拶をした。リリコさんの顔が途端に険しくなる。

「何のご用かしら? 見ての通り、店内満員よ」

「せっかくお祝いに来たのにその言い方はどうなのかしら?」

 夏に台知久海岸で遭遇したおケイさんだった。おケイさんはずかずかとカウンターまでやってくると、その迫力に負けて立ち上がってしまったお客さんの席にどっかり座り込んだ。

「ハイ、これご祝儀」

 指先で持った祝儀袋をリリコさんの顔の前でヒラヒラさせる。

 おケイさんに席を譲ることになってしまったお客さんは、困った顔で別の場所へ移動して行く。今まで陽気に喋っていたお客さんたちのトーンが急に落ちて、ひそひそ声になった。眉をしかめている人もいる。

 台知久海岸でリリコさんとおケイさんが繰り広げたバトルが脳裏にチラつく。店で再開をされたら、せっかくの周年が台無しになってしまう。あの時、場をいなしてくれた寺井さんも、気付くと姿がない。帰ってしまったのか、他の店に顔を出しにでも行ったのだろうか。

 不服そうに祝儀袋を受け取ろうとしたリリコさんの顔先で、おケイさんはサッと袋を上へ持ち上げた。

「やだ、何受け取ろうとしてるの? 普通は店主が受け取るものでしょ、こういうものは。礼儀も知らないのねえ。早くタカちゃんを呼びなさいよ」

 ギリギリギリとリリコさんの歯噛みする音が聞こえてきそうだった。このままじゃマズイと思って席を立ちかけたとき、

「タカはちょっとケガをしちゃいましてね。すぐ戻ってくると思いますから」

 と、横に座る源一郎さんが間に入ってくれた。

「あら、そうなの? 何でまたケガなんて。指切っちゃったの? まあ周年パーティーの忙しい時に大変ねえ。主役にケガさせちゃうなんて、あんたたち何してるのかしら。たいしたことはないんでしょ? でも指を切ったとなると水仕事はできないわね。洗いもの溜めると大変なのよ、パーティーの時は。だからうちでは使い捨てコップを使っているの。タカちゃんにも教えてあげなくちゃ」

 事情を説明しようとする源一郎さんの話もほとんど聞かずに喋り倒すおケイさん。源一郎さんから殺気のようなものが沸き上がったが、当のおケイさんは気付かずに好き勝手なことを喋り続けていた。おケイさんの後ろで控えるダルマと枯れススキが源一郎さんの殺気にたじろいでいる。

「そうだ。わたしがひと肌脱いだげるわ。こんな使えない店子ばかりじゃ、ケガしちゃったタカちゃんが大変よ。可哀想に。だいたいそんな格好してやる気あるのかしら?」

 女装した僕やリリコさんを大仰に見まわし、首をすくめておケイさんが席から立ち上がる。モーゼの十戒のようにおケイさんが歩く先の客たちが退いて行く。止める間もなくプリプリでかいお尻を振りながら、カウンターの中へ乗り込んでしまった。

「何勝手に入ってきてるのよ!」

「わたしが臨時で店子やってあげるの。まずはこの溜まった洗い物をなんとかしなくちゃねえ」

 おケイさんが袖まくりをした。皆が茫然としている中、凄い勢いでグラスや皿を洗い出す。確かに手際がいい。さっとひと撫でしているように見えて、ちゃんとコップの底までスポンジを当てていた。皿は回すようにしてヘリにこびりついた汚れをキレイに洗い流す。まるで大道芸か曲芸のようだった。布巾を手にしたお付き二人がそのコップや皿をピカピカに磨き上げていく。

「週末の、ましてや周年のカウンターは戦場なのよ。ぼさっとだべってるヒマなんてないんだから。戦場なだけに洗浄が大事なの。あら、やだわたし上手いこと言っちゃった」

 品のない笑い方をするおケイさん。ダルマと枯れススキが「ケイさんは冗談が上手いなあ」と愛想笑いをした。

 おケイさんの店は太い人と細い人をくっつけるDSバーと言っていたから、二人は店子なのかもしれない。ダルマと枯れススキは、みっちりおケイさんから作法を調教されているようだ。

 止める口実を探して皆が悶々としていた。洗い物をしてくれるのはいいが、接客そっちのけでやられてしまうと、お酒を作ることもできない。

 既に何人かの客が席を立ち始めて、お会計に追われたリリコさんは、文句を言おうにもそれどころではない状況だ。

 僕がボックス席で接客をしていた常連さんも「ごめんね、一平くん。そろそろ終電だからさ……」と自分の荷物に手をのばす。何処に帰るにしたって、もうとっくに終電なんてないのに。鼾をかくユウキがフガと鼻を鳴らした。

「ちょっと、ちょっと。帰りに代金をもらうなんて周年を舐めてるのかしら? ふつうは前払いでしょ、こういうときは。お客さんも待たせちゃうし、最悪ねえ」

 おケイさんが鼻先で笑う。

「うちは、そういうコンセプトじゃないんですよ。お客さんひとりひとりを見送りたいんです。前払いだといつのまにか帰ってしまったりしますから」

 タカさんだった。バックヤードから戻ってきたタカさんが、いい加減我慢の限界をむかえていた源一郎さんの両肩を押さえるようにして、カウンターの前に立っていた。

「タカちゃん! ケガは大丈夫なの? ちょっとでもお役に立てたらと思って」

 おケイさんがドヤ顔でグラスを洗って見せる。

「ええ、ご心配どうも。ちょっとしたかすり傷ですから」

「そう、よかった。そうだ、ご祝儀もってきたの。いっぱい包んできたのよ」

 おケイさんは濡れた手を拭いて、自分の懐をゴソゴソとする。

「いや、けっこうです。受け取れません。手伝っていただいた上に、お金はもらえませんよ」

 手のひらを向けて断るタカさんにおケイさんの顔色が変わった。

 僕にだってわかる。タカさんは言葉を選んだが、持って来たご祝儀を受け取らないなんて、相当失礼な行為に違いなかった。まあそれ以上の失礼なことをされているわけだが。

「そう。そういうこと」

 おケイさんが店内を見渡した。僕ら以外のお客さんが慌てて目をそらす。

「どうやらお邪魔みたいね」

 タカさんは何も言わない。何も言わないが、無言でお引き取りくださいと言っているようなものだった。リリコさんが、ダルマと枯れススキから布巾を取り上げる。

「帰る前にウンコしたくなっちゃったわ。トイレ借りるわよ」

 顔を真っ赤にしたおケイさんがトイレの扉をバタンと閉めた。取り残されたお付きの二人は、急に心細そうな顔をして顔を見合わせた。

「なんだ、あれ。残りっぺでもしにいったのか?」

 肩をすくめる源一郎さんの言葉に、ダルマが思わず声を出して笑ってしまった。枯れススキに脇腹をつつかれて、慌てて口を押さえている。

 しばらくしてトイレから出てきたおケイさんは、無言で僕らを睨みつけると、プリプリ店を出て行った。お供の二人も店の戸口に躓きながら、後を追って出て行く。騒ぎに目を覚ましたユウキが「え、何なに、どどど、どうしたの?」とよだれを拭いながら、寝ぼけた声を出した。

 店内にほっとした空気が漂う。

「あの人……何しに来たの?」

 ユウキが僕に耳打ちをした。

「寝ていたユウキは、そのまま知らなくてもいい。それよりカツラがひん曲がっちゃってる」

「ちょっとー、教えてくれたっていいじゃん。もう今日はそんなのばっか」

 口をとがらせて、ユウキが斜めになってしまった栗色のカツラを真っ直ぐにした。

「タカ、店のワインを何本か開けたらどうだい?」

 源一郎さんが声をかける。

「それ、いいわねえ。気分直しに、パッとやりましょうよ」

 せいせいしたという表情のリリコさんが、棚に並んだワインボトルを勝手に見繕いはじめた。

 事情の分からないユウキも「いいね、気分直し!」と調子の良い声を上げた。肯くタカさんに、常連のお客さんがヒューと口笛を鳴らした。パラパラ、と拍手が起きる。

「僕、グラスを準備します!」

 おケイさんが洗ってくれたグラスを使うのはしゃくに障るが、数を揃えるためにはしょうがない。ピカピカに磨き上げられたグラスが、店の照明を受けて輝いていた。

 手分けしてグラスにワインをついでいく。こぽこぽと注ぐ音が、シーンとした店内によく聞こえた。何ともぎこちない雰囲気だが、改めて乾杯をすれば気分も持ち直すはずだった。

「あれ、どうしたんだろ、ぼく。悲しいこともないのに……」

 見ると、ユウキがワインボトルを片手に、ポロポロと涙を流していた。そう言われると、僕も目がしばしばとして、開けているのが辛い。

「何か、煙くないですか?」

 タバコの煙ではなかった。店内にうっすらと靄がかかったようなモヤが立ちこめている。みんなの動きが静止して、視線が店内を交錯した。

「大変だ、燃えてるよ!」

 客のひとりが声を上げる。声と同時に開け放たれたトイレの扉の向こうで、天井に届く大きな炎がジェットライターのような音を出して燃え上がっていた。


 ◇


 それからはもうめちゃくちゃだった。

 僕はしどろもどろに一一九番へ通報をして、タカさんが大慌てで店内に残っていた客を避難させた。リリコさんやユウキは同じビル内の他の店舗へ「火事です、火事です!」と叫んでまわった。

 源一郎さんが機敏な動きで、お店に設置された消火器を手に取り、片手でピンをはじいてあっというまに消化をしてくれた。まるで戦場で誰かを守るように頼もしく、源一郎さんがいてくれてよかったと思う。

 消防隊がけたたましくサイレンをならしながらやって来た時には、すでに火は消えていた。念のための消化活動をしてくれている間、僕らはぼう然と店の入口に立ち尽くしていた。

 遅れてやって来た警官がタカさんに事情聴取をした。尋問に近かった。またゲイが何かをしでかしたのか、そんな態度だった。

「で、出火の原因はなんなの?」

 警官の言葉に、その場にいる誰もがおケイさんを連想したはずだった。最後にトイレを使ったのは彼だったのだから。

「わかりません。トイレに火の気はなかったんです。お客さんがタバコでも落としてしまったのかもしれません」

 力なくそう言うタカさんに僕らは顔を見合わせた。

「そりゃ、あんたの責任だ。防火管理者はあんただろ? だいたいこの店、消防法を守れてないんじゃない? 非常口も確保出来ていないし、火災検知器ちゃんとついてるの? ついてるだけじゃダメだからね。定期点検が義務づけられてるから。点検の記録を見せてもらわなくちゃなあ。知ってる消防法? あんたのせいで誰か死んでたかもしれないんだよ?」

 警官が聴取の内容を書き留めていたボールペンをタカさんに突きつけた。

 僕はいたたまれなくなって、警官に詰め寄った。

「違うんです、タカさんは悪くありません!」

「おっと、近寄るなオカマ……気持ちの悪い」

 あからさまな嫌悪をむき出しにして、警官は僕から身をそらした。頭をハンマーで殴られたようなショックを受けた。

『僕、普段は女装なんかしていません!』と言いそうになり、そんな自分にも唖然あぜんとした。僕はなんの言い訳をしようとしたのか。無表情で壁によりかかっているリリコさんが視界に入って、目をそらす様にうつむいた。

「とにかく、署まで来てもらおうか」

 ドラマか何かで聞いたことのあるセリフに、言い訳もできないまま、タカさんは連れて行かれてしまった。


 黙々と散らかった店内の片付けをするしかなかった。他に何をしたら良いのかわからなかったし、少しでも店を元の通りに戻したかった。警察が帰ったのを見計らって、隣近所のマスターや店子たちが様子を見に訪れた。

 大変だったわね、大丈夫よ……すぐタカちゃん戻ってくるから、と口々に励まし、片付けを手伝ってくれた。ビルの前は大騒ぎになっていると教えてくれる人もいた。だが、それを確かめる気力も出なかった。

 水浸しにはならずに済んだが、消化剤でトイレは真っ白になってしまった。消防隊がなだれ込んで来たときに落ちてしまった周年の飾りつけや、倒れてしまったイス。床に散乱したお通しのスナック菓子。踏み荒らされた店内。

 ユウキが弱々しい声で「これどうしようか」と床に落ちてしまった飾り付けを僕に差し出した。踏みつけられて足跡のついてしまった手作りの旗を手にする。みんなで飾りつけたものだった。バケツに絞った雑巾の汚れた水が、心の中まで染みこんで来るようだった。みんな力尽きたように無言で、源一郎さんやリリコさんはときどき、こぶしを握りしめていた。

 会社や家族にカミングアウトをしていない人だっている。むしろそういうお客さんの方が多いと思う。警察騒ぎになってしまい、しばらく客足が遠のくかもしれない。警官が言っていた消防法のことも気になった。営業停止とか、そんなことにはなりませんように。

 片付けが終わった頃には、東の空が白みはじめていた。曇りガラスの小さな窓の向こうに見える新宿の空。

 どこかへ行っていた寺井さんが、おにぎりをどっさり買って来てくれた。

「みんな、おなかが空いているだろう?」

 疲れ果てていて、他の人に気を配る元気もなかったので、その心遣いが嬉しかった。コンビニのレジ袋の中から、ひとつずつおにぎりを受け取って、おもいおもい店内に腰をおろした。

 僕は壁際の床に体育座りをして、オカカの入ったおにぎりに食らいついた。酒と騒ぎに疲れた胃に染み渡るように美味しくて、次のひとくちは口の中がいっぱいになるほど詰め込んだ。やり場のない悔しさに自然と涙が溢れて来て、おにぎりの塩気と涙のしょっぱさが入り混じった。


第7話 完

第8話へ続く(来週月曜日18:00頃に公開)

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虹を見にいこう 第7話『タカさんの店の周年パーティー』 なか @nakaba995

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