Chap.7-2
〇時を過ぎて盛り上がりも最高潮に達した頃、ふらっとお店に一人で入って来るお客さんがいた。知らない顔だったので、飲み放題の看板に釣られた一見さんかな? と思ったら、
「ゲンちゃん! 何だよ、どうしたんだよ。もう野たれ死んだと思ってたよ!」
とタカさんがその人を見るなり両手を広げてカウンターの内側から大歓迎した。
ゲンちゃんと呼ばれたお客さんは、カーキ色の迷彩柄ズボンに白いシャツの袖をまくっていて、その袖口から太い腕があらわになっていた。無精髭と濃い眉毛。ズボンの太ももはパツパツではち切れてしまいそうに見える。まるで熊みたいな人だ。沖縄っぽい顔立ちをしているので、タカさんの同郷の知り合いなのかもしれない。
「ん、ちょっと日本に帰って来たから顔だそうと思ってさー。なに、今日は何かのお祝い?」
ゲンちゃんはカウンター席にヨイショと腰を下ろし、愛想の良い笑顔を見せた。とても自然体で、慌てず騒がず落ち着いている。見た目は愛嬌のある森のクマさんなのに、ちょっとした仕草にも隙がないというか。熊は熊でも眉間に傷のあるグリズリーのような獰猛さが見え隠れしているようにも思えた。
「今日は周年パーティーだよ。まさか、偶然?」
「ハハハ、ちゃんと覚えてた。今週末あたりかと思って帰って来たんだ」
白い歯見せる。
「まったく、ゲンちゃんは変わってないなあ」
「こちらの方は?」
遠慮がちに聞いてみる。
「ああ、昔からの知り合いでね」
そう紹介するタカさんに、ヒゲ面の顔をクシャッとさせて、
「どうも、源一郎といいます」
と答えてくれた。
「一平です。今日一日限定ですけれど、お店の手伝いをしています」
と頭を下げる。
「そうかー、どうりで初々しいと思ったよ」
「一平が初々しいのは、店子が初体験ってだけじゃないんだぞ」
タカさんが僕をチラリと見て、源一郎さんに言う。
「僕、去年ゲイデビューしたばっかりで。まだこちらの世界のことは勉強中と言いますか」
源一郎さんの前に、酒の入ったグラスを置いた。
「ええ? いま何歳?」
「今年で三十歳になりました」
恥ずかしさを誤魔化そうと思って、わざとおどけた言い方をしてみる。
「そうかあ、今までずっと誰にも言えなかったか。それとも目覚めちゃったとか?」
二十九歳でゲイデビューをした。それしか伝えていないのに、源一郎さんは僕の心の底まで見透かすような深い眼差しをしたので、ドキッとさせられた。
「どちらにしても、短期間でよくこんな立派にバケられたもんだ」
しげしげと見つめられ、自分が女装をしていたことを思い出す。身じろぎして、顔がカーッと熱くなった。
「この仕上がりはなかなかどうして。男好きのしそうな実にエロい女じゃないか」
「それ、リリコさんにも言われたんですけど」
「ハハハ、確かに。リリコが言いそうだな」
その口ぶりから、どうやら源一郎さんとリリコさんも顔なじみのようだ。
「なんだ、なんだ! 源一郎くんじゃないか。帰って来てたのかい?」
ぎゅうぎゅうの人波をぬって、寺井さんが近づいて来た。寺井さんは床屋をやっていて、店が休みの火曜に飲みに来ることが多いようだ。だから夏に台知久海岸で紹介してもらうまで僕は知らなかったのだが、今日は周年ということもあって珍しく週末に顔を見せていた。
源一郎さんは、寺井さんの差し出した手を握ると、満面の笑顔で、そのままぐっと引き寄せ抱きついた。熱い抱擁を交わす。
「日本に帰って来た……てことは、普段は海外で暮らされているんですか?」
小柄な寺井さんが、源一郎さんの大きな胸に半ば埋もれながら、
「暮らしてるというか、戦ってる感じかい?」
と代わりに応えた。源一郎さんは曖昧に笑った。
「ゲンちゃんは戦場カメラマンをやっているんだよ」
タカさんが教えてくれた。
「戦場カメラマン! てことは、ソマリアとか中東ですか? あとは、カ、カシミール?」
思わず声が上ずる。自分の頭の中の語彙を総動員しても断片的な地名しか出てこなかった。そもそも地名以外他に語るべきことが思いつかない。それくらい自分の日常から、かけ離れた言葉だった。
「店に入って来たとき思ったんですよ。ただ者ではない雰囲気が漂ってると」
「そうかな? 自分じゃよくわからないなあ。寺井さんの方が、ただ者ではないオーラで言ったら上じゃないか?」
「はは、言えてるかもしれないね。ただ、寺井さんは、武器の密売人みたいな感じだな」
とタカさんが笑う。
「タカちゃん、そりゃ失敬だねえ。私の武器はこの身体ひとつだよ。この身体で何人の男を泣かせてきたものか」
ハイハイわかりましたよ、とタカさんが酔っ払った寺井さんを宥める。僕からすると、寺井さんは何というか……土地を転がしていそうなイメージだ。
「そうなると、自分の武器はこのカメラかな」
源一郎さんが大きなリュックサックから一眼レフカメラを取り出した。ずいぶん使い込まれていて、背面についた傷が生々しい。神聖なもののような気がして、すすめられたが触れることは遠慮しておいた。
源一朗さんがカメラを構えてくれる。タカさんや寺井さんと並び、ピースサインでパシャリ。背面の液晶画面で見せてくれた撮ったばかりの画像は、照明の暗い店内なのに僕らの表情が鮮明に写しだされていた。周年パーティーの楽しい雰囲気も伝わってくる。素人目に見てもやはりプロのカメラマンは違うのだと感じた。源一朗さんはこのレンズを通して、今までどんな一瞬を捉えて来たのだろうか。
仕事のことをもっと聞いてみたいと思ったが、あまり根掘り葉掘り聞くのも失礼かもしれない。そもそも何を聞きたいのかも漠然としていた。
「ワイドショーって好きかい?」
タカさんが他の客に呼ばれ、寺井さんもふらふらとトイレへ立ってしまうと、源一朗さんから突然そんな質問をされた。
「え? ああ、どうでしょう……あんまり好きではないかもしれません。なんとなく事件や事故を興味本位で騒ぎ立てている気がして」
お替りの水割りを用意しながらそう答えていた。
どんな事件や事故にだって、それぞれの事情がある。プライバシーの観点から僕たちに伝えられない事だっていっぱいあるはずだ。結局、ワイドショーで語られるのは、断片的な情報をつなぎあわせて、コメントしやすいように作られた上辺のことでしかない。凄惨な事件や事故ですら、アイドルの結婚や芸能人の不倫と同列で語られて、どうでもええがな、と人々に消費されていくのはちょっと違うような気がする。
「自分たちが撮った写真や映像は、ニュースやワイドショーで使われることが多いんだよ。今は買ってくれるお客さんのほとんどがテレビ局だからね。戦場カメラマン、報道カメラマンが撮っている写真は、まさにそんな興味本位の種に使われるわけだ。自分たちはそれで飯を食っている」
「でも、源一朗さんたちが撮っている写真は、そこであった本当の事じゃないですか。その場で撮った事実です。ワイドショーや週刊誌が書き立てるようなニセモノじゃない」
源一郎さんのことを批判してしまったような気がして、慌てて取り繕うようなことを言った。だが、ワイドショーも戦場カメラマンも、確かに本質は似ているのかも知れない。
「そうだね。でも今や、テレビやインターネットが発達して世界のどこにいても、世界中のホンモノの映像や画像へ気軽に触れられるようになった。ふと虚しくなることもあるよ。手軽になればなるほど、どんな真実も、それは重さの無い空虚なものになってしまいがちだ。見る人によって受け取り方も様々で、きっと誤解だって生じるだろう。でも、自分たちが撮る写真や映像には、そこに撮り手の視線が必ず反映される。撮り手が何を伝えたいと思っているかということだね」
戦争の映像が流れても、それはどこか遠い国の自分には関係のない出来事だ。ミサイルの炎が夜空に伸びていく市街地の映像を僕はトーストをかじりながら朝のニュースで見たりする。垂れ流しの映像や画像は僕らにとって興味のない日常になってしまう。
「写真一枚で、そこに写っている人の人生や国や背負っているものの重さ、そういうものが伝えられたらと思う。自分が撮る写真や映像はそういうものでありたい。人は想像をする生物だからね。ほんの少しでいいんだ。写っている人のことを、その土地のことを思ってくれたら……世界の人がちょっとずつ想像をして、自分の人生に重ねてくれたら、きっと何かが変わると思う。ソマリアや中東は変わらなくても、その人の手の届く範囲の人たちが幸せになるはずさ」
源一朗さんの手にしたグラスの中で氷が溶けて、コトリと音を鳴らした。店内は相変わらず喧騒に包まれていたけど(特にユウキがだいぶ酔ってリリコさんから叩かれていた)僕は源一朗さんの話しに吸い込まれて、ひととき店の喧騒を忘れていた。
「世界の人口は七十億人もいるだろう? 自分が撮った写真が世界のどこかに小さな変化のさざ波を起こせたとしたら、その波が次の波を生んで、重なり合って、自分が立ち、シャッターを切り続けている土地や国まで届くこともあるんじゃないか。そう思いながらカメラを向けているよ」
ほろ酔いの源一郎さんは熱のこもった目で僕を見つめた。深い洞察力や、広い視野の協調性、世の中を変えたいという強い思い。一方で、客観的に物事を捉え、写真一枚で残酷に現実を切り取ろうとする。そんな相反する力が拮抗している。それが戦場カメラマン……少なくとも源一郎さんという人なのだと思った。
ゲイとして活動していなければ出会えない人がいっぱいいる。バーでふと隣り合わせた人が戦場カメラマンであったり、普通のサラリーマンかもしれないし、もしかしたら政治家かもしれない。学校の先生かもしれない。その人の職業を知る機会は少ないかもしれないが、たぶん自分とは違う世界に生きて、でも同じ世界のひとりで。タカさんのお店で縁があって同じ時間を過ごしている。その人の考え方や生きる世界に少しだけ触れることができる。たとえ一瞬のことだとしても、それはとても不思議で奇跡的なことのように思えた。
ボンヤリとそんな想いを口にした。源一朗さんがヒゲ面をクシャッとさせて笑う。
「自分はね、一期一会って言葉が好きなんだ」
そう言いながら手を握られて、ウィンクをされた。
身体がきゅっと緊張する。
「ちょっと、店のカウンターで何見つめ合ってるのよ?」
リリコさんの声に、急いで手を引っ込めた。カウンターの角に小指を盛大にぶつけて、ジーンと痺れて涙が滲む。
「あんた、まだ生きてたのね?」
源一郎さんを見るなり、リリコさんが悪態をつく。タカさんがリリコさんを連れて戻ってきたのだった。
「この店が開店したときも、リリコとゲンちゃんにはだいぶ手伝ってもらったんだよ」
気の向くまま、風のむくまま。昔からそういうやつだった、とタカさんは昔を懐かしむ目をした。
「手が早いのも、昔から変わってないわね」
リリコさんが、源一郎さんと僕を見比べる。
「一平くん、さっきの態度はちょっと冷たくないかい?」
ヒゲ面がちょっとだけスネた表情になる。さっきは慌てて、源一郎さんの手を払いのけるような感じになってしまった。
「いや、あのすみません、冷たくしたつもりはないんです。みんなが見ている前では、恥ずかしいと言うか……」
「へえ、じゃあみんなが見ていなかったらオーケーなんだ?」
そう言われて、思考が停止する。頭から蒸気が噴出しそうで、口をあぐあぐさせていると、
「一平は純情なんだから、あまりからかわないでくれよ」
とタカさんが言ってくれた。
「からかってるつもりはないのだがなあ。こっちはいたって真面目だよ。一平くんにその気があったらぜひ一度お手合わせをお願いしたいね」
と、急に思い立ったようにタカさんに向き合った。
「ああ、そういうことか。もうタカが目をつけてるってことかい? なんだよ、まったく。リリコ、言っとくが、手が早いのは間違いなく自分よりタカだぞ。だいたい、マサヤのときだって先を越されたんだったよな、確か……」
グラスの砕け散る音が響いていた。床に割れたガラスが飛び散る。タカさんが磨いていたグラスを取り落としていた。
慌てて破片を拾い集めようとしたタカさんから、
「――っつ!」
と声が漏れた。しゃがみこんだタカさんの指から血がドクドクと溢れて滴り落ちた。
「大丈夫ですか、タカさん!」
「え? ああ……ハハ、大丈夫、大丈夫。まいったなあ、これは……」
タカさんがぼんやりとした声を出した。リリコさんと源一郎さんが顔を見合せて、何か僕にはわからない目配せをした。
マサヤ……。聞いたことのない名前だった。だけどタカさんは、その名前に動揺していた。
「すまない、ちょっとバンソウコウを貼ってくるよ」
「本当に大丈夫ですか? 結構、傷が深そうですよ」
ぎゅっと押さえた指の隙間から、次から次へと血が滴り落ちている。
「見た目より深くはないと思う。しばらく失血していれば止まるさ。ちょっとだけ頼むよ」
僕とリリコさんに言って、タカさんが立ち上がる。
タカちゃんどうしたの? 指切っちゃったの? と他の客からもタカさんに声がかかる中、申し訳なさそうに頭を下げて店の裏に消える姿を目で追った。
リリコさんが割れたグラスを片付けはじめる。
「タカのやつ、まだ気にしてるのか。マサヤのこと」
「世界を飛び回っているあんたとタカじゃ、時間の流れ方が違うのよ。あんたにとってはもう昔のことかもしれないけれど、少なくてもこの店では時間が止まったままなの」
リリコさんは表情を変えずにそう言った。
「こっちも忘れたワケじゃないさ。いつまでも辛気臭くしているよりは、ときどき思い出して昔話をしてやるくらいの方がいいじゃないか」
「何なに、タカさんどうしちゃったの?」
タカさんの消えたバックヤードを気にしながらユウキがカウンターの内側に入ろうとする。
「ユウキには関係のない話よ」
びっくりするぐらいリリコさんの声が冷たかった。
「ちょっと、何だよその言い方」
ムキになったユウキの肩に手を置く。
「タカさんがグラスを割ってケガをしたんだ。まだ破片が残ってて危ない。あっちへ行こう。リリコさんが片づけてくれるから」
「そうなの?」
あまり納得していない様子のユウキを引っ張って、ボックス席へ連れ出した。僕自身、なんとなくこのままリリコさんと源一郎さんの間に挟まれているのは、居心地が悪かった。
ボックス席で客の相手をしながら、ときどき振り返ると、カウンターで源一郎さんとリリコさんは神妙な顔つきで何かを話していた。そして、タカさんはずいぶん長いこと店の裏から戻って来なかった。
Chap.7-3へ続く
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