のどかなる牛車(二)

 もし元服前の私が傷物になったら……家族を含む邸の者たちは、嘆く程度では済まぬだろう。かどわかした者のみならず、一族郎党を痛めつける情景が、まざまざと目に浮かぶ。

 無実の者が犠牲になるのは気の毒だ。大切な者たちが関わる事態でなければ、できるだけおとなしくしていよう──などと考えているうちに、牛車が止まった。


「若様。邸へ戻りましたぞ」

「うむ」


 牛の首につける横木が外される音と、わずかな振動が伝わってきた。次いで普段は横木を置くためのしじが、前板の下あたりにコトンと置かれた。


「どうぞ、降りられませ」

「うむ」


 前簾の傍まで移動すると、前簾が上がった。従者に礼を言おうと顔を上げると、大きく綺麗な手が目の前にさし出されていた。


「お手をどうぞ」


 朝長異母兄上の手だった。

 お召しになっているのは『藤重』の狩衣。表が薄色(淡い紫)、裏が萌黄色の色合わせである。

 艶然とした笑みをたたえつつ手をさし出す様子は、お手本のような貴公子の姿である。これで、十二歳……

 五.三尺(約一六〇センチメートル)の身の丈とも相まって、大人顔負けの色気がおありだ。元服なさっているので、たしかに成人男性ではあるのだが。


「異母兄上の手は、大切な方のためにおありでしょう」


 姫君ではないゆえ一人で降りられますよ、と言外に匂わせ、やんわりとお断り申し上げた。それから前板とつながる袖格子そでごうしに指をかけた。だが異母兄上のほうが一枚上手だった。


「鬼武者は、私の『大切な方』だよ」

異母弟おとうとを口説いて、いかがなさいます」

「さて、どうしようか」

「おたわむれは、ご勘弁ください」

「ふふ。困り顔も愛らしいが、このくらいにしておこう」


 実は、昼餉の時刻だと迎えに来てくださったらしい。そこで遊び心を出さないでいただきたい。


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