※ 大規模な軋轢(一)

 顔を険しくなさった父上が仰るには──

 

「──そもそもの始まりは、さかのぼること永治元年(一一四一)、十二月七日のことであった」

 

 鳥羽法皇陛下が、崇徳天皇陛下のご退位、合わせて躰仁なりひと親王殿下のご即位を決められたことがきっかけであった。

 二十三歳の崇徳天皇陛下にとっては、十八年間築き上げてきた天皇の位を、わずか三歳の異母弟おとうとみやに突如奪われた形となり……第一皇子としての自尊心を、ひどく傷つけられるものとなった。

 公卿や付き従う貴族・武家にとっては、どなたが即位なさるかで立身出世の道が決まる。

 崇徳天皇陛下が、崇徳上皇陛下へ。

 躰仁親王殿下が、近衛天皇陛下へと。

 それぞれに立場を変えられる過程で、一部の公卿方が己の欲のために動いた結果。

 内紛が起こった。


 時を経て久寿二年(一一五五)八月二十二日。昨年のことだ。

 近衛天皇陛下が、十七歳の若さで御病みやまいにて崩御された。

 守られてしかるべき年齢で、天皇という位に祭り上げられたの方は……政権という魔物に取り憑かれた大人たちの、犠牲となられたのだ。

 次の皇位継承の候補として、形式的に名が挙がったのは、

 十六歳の重仁しげひと親王殿下(崇徳上皇の皇子)

 十三歳の守仁もりひと親王殿下(後白河天皇の皇子)

 十九歳の暲子あきこ内親王殿下(鳥羽法皇の皇女)

 このお三方であった。

 いずれの方がお立ちになろうと、鳥羽法皇陛下が実権を握ることは明白であった。そこで、最も都合のよい守仁親王殿下に決定された。ただし、守仁親王殿下は十一歳から仁和寺へ入られている。


 十月二十三日。

 守仁親王殿下が〝しかるべき御歳おんとし〟になられるまでの中継ぎとして、父宮の雅仁まさひと親王殿下が二十九歳で即位されることとなった。

 現在、雅仁親王殿下は御上おかみとして、後白河天皇陛下と称されている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る