乾対へ向かう道中にて(一)

 近江が下働きの者から伝言を受けた。


「若様。玄斎師がお見えになったそうですわ」

「相わかった」


 私は近江を伴い室を出た。

 ここは主殿しゅでん。父上、母上、同母兄妹たちとともに住んでいる場所だ。

 玄斎師にご教授いただく場所は乾対いぬいのたい。書物庫を兼ねた学問部屋だ。名称は、主殿を中心として乾(西北)の方角へ建てられたことに由来する。乾対へ向かうには、波多野の方々がお住まいの西対にしのたいを通る必要がある。主殿から東西南北以外の方角へ渡殿わたどの(渡り廊下)を通すことは方角を侵すと見なされ、忌むべきこととされているためである。

 幸い、西対の方々には歓迎されているように見受けられる。本日も、ありがたく通らせていただこう。

 庇の間に歩を進めると少しして、年若の女房たちの重袿が御簾に透けて見えてきた。九歳の私が十代の彼女たちを『年若』と称するのも、妙な話ではあるが。


「光の君がいらしたわ」

「菖蒲重のお召し物が愛らしいですわね」

「本日も良い香りですこと」


 こちらから見えているのなら、向こうから見えているのは当然のことだが……最後の者は、すごいな。二間(約三.六メートル)ほど離れているのだぞ?

 この距離で、ほのかな香りがわかるとは……警察犬並みの嗅覚を持っているのだな。いや、この世界に警察犬はおらぬが。ものの譬だ。


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