異変は夜闇に包まれて




 出された紅茶をちょうど飲み終えたころ、壁時計が午後七時を知らせる鐘を鳴らした。

「あら。もうこんな時間だったのですね」

 ふと窓の方を見れば、あれほど赤く輝いていた夕日も傾き、辺りはうっすらとかげりはじめていた。ぽつり、ぽつりと街灯の明かりが増えてゆき、遠くで聞こえていた子供たちの声は、やがて静寂せいじゃくへと変わる。

 颯一は、思い出したかのようにポケットの携帯電話を取り出した。画面に映し出されていたのは、帰りが遅い息子を心配する母からのメッセージが一件。どうやら長居しすぎたようだ。

「お茶、美味しかったです。ありがとうございました。あと……つまらない話も、聞いてくれて」

「いえいえ、とても楽しい時間でしたっ。心の荷を少しでも降ろせたのなら、私も嬉しい限りです」

 石蕗さんにも伝えておきますね、と付け足した眠梨は椅子から立ち上がり、その本──颯一が探していた一冊を差し出した。

「きっと、気に入っていただけると思います。読み終わったら、感想をお聞かせくださいね」

 不思議なものだ、と颯一は思った。彼女とこうして会話を交わすまで、自分はこの本に対する興味など欠片かけらもなく、手に取ることさえ拒絶したい思いだったはずだ。だが、今の颯一には、そのようなうれいは残っていなかった。だから、その差し出された一冊を受け取ることにも、躊躇ためらいはなかった。そして、眠梨が最後にかけてくれた言葉──きっと、彼女にとっては何気ない一言でしかなかったかもしれないが──それは颯一にとって、再会の約束にも等しい一言であった。

「はい、またお話に来ます。それから……」

 取り出した財布から小銭を出し、眠梨に手渡しながら、颯一は続けた。いま思えば、この行為はひとりの客としてはおかしなものだったかもしれない。それでも、このときの颯一はをしなければならないような気がしていた。

「……やなぎです。俺の名前。柳颯一」

 少女がぽかん、とした表情を浮かべたのは、ほんの数瞬だけ。

「……はいっ。またのご来店をお待ちしていますね──柳さん」

 その日いちばんの満面の笑みで、眠梨は応えてくれたのだった。




「もう、ずいぶんと遅かったじゃない。何も連絡ないからご飯も先に食べちゃった」

 颯一が帰宅して開口一番、そう小言を漏らしたのはキッチンに立つ母の董香とうかだ。その語気には怒りというよりは、心配と呆れの色が伺える。四脚の椅子が並んだテーブルの上には、ラップをかけられた一人分の食事が置かれていた。

「ただいま。ごめん、ちょっと寄り道してて」

 歯切れの悪い様子で応答しながら、颯一は食卓に腰掛ける。梅木──董香からすればおいにあたる駿兄さんの課題のために奔走していたことなど、口が裂けても言えない。もともと穏やかで心配性な董香だが、颯一の学校での様子は梅木の口から知らされているようで、家に帰ればいつもその手の話でもちきりであった。もし今回の件も梅木から告げ口をされれば、間違いなく小一時間は拘束されることになるだろう。そのような事態を防ぐためにも、この週末はあの本と向き合わなければならない。

 ラップを剥がし、いただきます、とだけ小さく呟く。数十分前に紅茶と菓子を口にしていたためか、それほど食欲はなかったが、それをさとられぬよう少しぬるくなった夕食を食べ進めた。

「最近どうなの、学校の方は。お友達のひとりくらいできた?」

 洗い物を終えた董香が、颯一の向かい側に座る。その質問はすでに三度ほど聞かれた憶えがあったが、颯一の答えは以前と変わらぬ無言だった。董香ははぁ、と小さくため息を吐いて、

「せっかくの高校生活なのに、このまま寂しく三年間過ごすの? 昔はもっと楽しそうに通ってたじゃない」

 と、これもまた三度ほど聞いたような台詞をこぼした。

「昔の話だよ。勉強はちゃんとしてるんだし、いいだろ」

「成績はいいのよね……一体誰に似たのかしら」

 テーブルの下で、子供のようにばたばたと足を振る董香。その視線は、リビングのソファで新聞を読む父──柳菊斉  きくひとの方へと向けられていた。

「……さあね」

 ただ一言、嫌味たらしい様子でそう返す。


 颯一は、幼いころから父が苦手だった。


 思えば、菊斉との明るい思い出はなにひとつなかったかもしれない。物心がつき、学校に通うようになり、受験のために勉強に努めるようになったその節目節目の記憶には、父の姿はどこにもない。思い出せるのは、職業である小説家として執筆に打ち込む姿勢と、厳格な父親としての威厳に満ちた態度ばかり。それはいつしか、颯一の心に影を落とすようになった。父は自分のことを見ていない、きっと愛していないのだ──幼いながらに颯一が感じたのは、孤独であった。

 しばしの沈黙が食卓を包み込む。だが、その静寂を破ったのは、颯一にとって思いがけない人物だった。

「……颯一」

 父──菊斉が唐突に、こちらに目を向けることなく話しかけてきたのである。普段であれば、颯一と董香の会話に彼が割って入ることなど滅多にない。刺すような緊張感が、颯一の背中を駆け巡る。

「いい加減、進路は決めたのか」

 菊斉の口から放たれた言葉に、颯一はぶっきらぼうに答えた。

「別に、まだ。そのうち決めるよ」

 ──まずい。その返事は、颯一が思っていた以上に、冷たい言い回しとなっていた。

 だが、そんな後悔をしたところで、すでに遅く。

「ふん……、そんな悠長にしていていいのか」

「……なんだよ」

 箸が止まる。呼吸が乱れはじめる。ふつふつと沸いてきた怒りが、颯一の心を支配してゆく。

「聞こえなかったか。お前のような出来の悪い息子が、十五歳にもなってそんな調子でいいのかと言っているんだ」

「ちょっと、菊斉さん、なにもそんな言い方──」

 気づけば、颯一は勢いよく立ち上がり、テーブルに握りしめた拳を打ち付けていた。

「あんたに……あんたに俺の何がわかるんだよッ!」

 だが、颯一がいくら震える声で叫ぼうと、菊斉はこちらを向こうとしなかった。

 怒りと苦痛に表情を歪ませ、居ても立っても居られなくなった颯一は、勢いのままに家を飛び出すのだった。




 どれくらいの時間、夜の町を走っていたのだろう。

「……何なんだよ、本当に」

 息もえになり、体中をじっとりとした汗が流れる。無我夢中のまま颯一がたどり着いたのは、あの公園だった。喉が乾いて仕方がない。何か飲み物を──だが、いつもの自販機を前に、颯一は財布を鞄ごと家に置いてきたことに気づく。全身からあふれんばかりだった怒りが、途端に冷めていくのを感じた。

 颯一は街灯の下にあるベンチに寝転び、ポケットに入っていた携帯電話で時刻を確認した。時計は午後八時を示しており、日は完全に沈んでしまっている。だというのに、九月の夜はまだ不快なほど暑かった。怒りに身を任せ、後先考えずに家を出たはいいものの、これからどうするべきなのか、疲れ果てた颯一にはわからなかった。

『ふん……昔から何事も諦めの早かったお前が、そんな悠長にしていていいのか』

 菊斉の言葉が、冷静になった今でも頭のなかでぐるぐると渦巻く。あのときはどう言い表せばいいのかわからなかったが、その言葉を聞いた颯一の心は、醜いほどにどす黒い何かで覆われる感覚がした。それは、これまで自分を愛してくれなかった父に対する怒りか、それともかなしみか、はたまた別の感情だったのか──しかし、それを考えれば考えるほど、颯一には理解できなくなるばかりだった。

「……あぁー、もう!」

 体を起こし、心のわだかまりを吐き出そうと叫んでみる。だが、その声は誰にも届くことなく、夜の虚空へと消えゆくだけであった。

「──ん?」

 そのときだった。颯一の視界の端に、目を疑う光景が映り込んだのは。


 淡く、暗い光を放つは、ふわふわと宙を浮いていた。


 距離にして三十メートルほど離れているだろうか。球状の物体ともわからないはゆっくりではあるが、どこかを目指しているかのように進んでいる。何かの見間違いかもしれない、と目をこすってみるが、その光球はたしかに颯一の視線の先に存在していた。何者かの悪戯いたずらだろうか──だが、それらしき人影はどこにも見当たらず、公園にいるのは颯一ただひとりであった。そして、気になっていることがもうひとつ。

(しかも、あの方向って……たしか、夢路堂が)

 そう。光球が進む方向の先には、颯一が放課後に訪れ、桜桃木眠梨ゆすらぎねむりという少女と出会った書店──夢路堂があるはずだ。これは何かの偶然なのか、あるいは──

 考えるより先に、颯一の体はを追って、夢路堂へと歩を進める。

 少女との再会の約束が、思わぬ形で実現しようとしていた。




 簡潔に述べるなら、颯一の読みは的中していた。

 ふわふわと浮くを尾行するうちにたどり着いたのは、あの風変わりな洋館だった。

(これは……あの石蕗って人に、伝えたほうがいいのか?)

 庭園の入り口から光球の動向を伺うと、は玄関の方ではなく、庭園を大きく迂回して建物の右奥へと侵入していた。近くで見てもその実態がわからず、颯一はある種の気味の悪さを覚える。

 あの光球がもし、他者に危害を加えるような存在であるなら、彼が取るべき行動はおそらく家主である石蕗への警告である。だが、こうして見る限りはただ浮遊しているだけで、尾行している颯一にもまるで気づいていない様子だ。とはいえ、このまま黙って見ているつもりもなかった。

(二人には、申し訳ないけど……このまま追ってみよう)

 颯一は忍び足で、庭園へと足を踏み入れた。まるで泥棒のような心地だったが、彼の中の好奇心はに釘付けになってしまっていた。

(……あれ。あの窓、開いてる)

 庭園を抜けた颯一の視線の先にあったのは、高さ三メートルはあろうかという大きなステンドグラスの窓──おそらく、石蕗に通された洋間にあったものだろう。その両開きに開いた窓から、光球が部屋の内側へといざなわれるように入っていったのだ。

 ──これは、さすがに危険なのではないだろうか。得体の知れない何かが、人の住む家屋へと侵入している状況に、颯一は危機感を抱く。そして、彼は意を決した様子で窓から部屋を覗き込み──


 彼の目に映ったのは、神秘的とも思えるような光景。

 月明かりに照らされた少女が、その光球におくすることなく触れていた。


(そんな、どうして──)

 刹那、は一際強い光を放ち。

 その光は、まるで少女と颯一を包み込むように、辺りを輝かしく照らすのだった。

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桜桃木眠梨は夢を診る 久音 @ewigkeittraum

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