異変は夜闇に包まれて
出された紅茶をちょうど飲み終えたころ、壁時計が午後七時を知らせる鐘を鳴らした。
「あら。もうこんな時間だったのですね」
ふと窓の方を見れば、あれほど赤く輝いていた夕日も傾き、辺りはうっすらと
颯一は、思い出したかのようにポケットの携帯電話を取り出した。画面に映し出されていたのは、帰りが遅い息子を心配する母からのメッセージが一件。どうやら長居しすぎたようだ。
「お茶、美味しかったです。ありがとうございました。あと……つまらない話も、聞いてくれて」
「いえいえ、とても楽しい時間でしたっ。心の荷を少しでも降ろせたのなら、私も嬉しい限りです」
石蕗さんにも伝えておきますね、と付け足した眠梨は椅子から立ち上がり、その本──颯一が探していた一冊を差し出した。
「きっと、気に入っていただけると思います。読み終わったら、感想をお聞かせくださいね」
不思議なものだ、と颯一は思った。彼女とこうして会話を交わすまで、自分はこの本に対する興味など
「はい、またお話に来ます。それから……」
取り出した財布から小銭を出し、眠梨に手渡しながら、颯一は続けた。いま思えば、この行為はひとりの客としてはおかしなものだったかもしれない。それでも、このときの颯一はそれをしなければならないような気がしていた。
「……
少女がぽかん、とした表情を浮かべたのは、ほんの数瞬だけ。
「……はいっ。またのご来店をお待ちしていますね──柳さん」
その日いちばんの満面の笑みで、眠梨は応えてくれたのだった。
「もう、ずいぶんと遅かったじゃない。何も連絡ないからご飯も先に食べちゃった」
颯一が帰宅して開口一番、そう小言を漏らしたのはキッチンに立つ母の
「ただいま。ごめん、ちょっと寄り道してて」
歯切れの悪い様子で応答しながら、颯一は食卓に腰掛ける。梅木──董香からすれば
ラップを剥がし、いただきます、とだけ小さく呟く。数十分前に紅茶と菓子を口にしていたためか、それほど食欲はなかったが、それを
「最近どうなの、学校の方は。お友達のひとりくらいできた?」
洗い物を終えた董香が、颯一の向かい側に座る。その質問はすでに三度ほど聞かれた憶えがあったが、颯一の答えは以前と変わらぬ無言だった。董香ははぁ、と小さくため息を吐いて、
「せっかくの高校生活なのに、このまま寂しく三年間過ごすの? 昔はもっと楽しそうに通ってたじゃない」
と、これもまた三度ほど聞いたような台詞をこぼした。
「昔の話だよ。勉強はちゃんとしてるんだし、いいだろ」
「成績だけはいいのよね……一体誰に似たのかしら」
テーブルの下で、子供のようにばたばたと足を振る董香。その視線は、リビングのソファで新聞を読む父──
「……さあね」
ただ一言、嫌味たらしい様子でそう返す。
颯一は、幼いころから父が苦手だった。
思えば、菊斉との明るい思い出はなにひとつなかったかもしれない。物心がつき、学校に通うようになり、受験のために勉強に努めるようになったその節目節目の記憶には、父の姿はどこにもない。思い出せるのは、職業である小説家として執筆に打ち込む姿勢と、厳格な父親としての威厳に満ちた態度ばかり。それはいつしか、颯一の心に影を落とすようになった。父は自分のことを見ていない、きっと愛していないのだ──幼いながらに颯一が感じたのは、孤独であった。
しばしの沈黙が食卓を包み込む。だが、その静寂を破ったのは、颯一にとって思いがけない人物だった。
「……颯一」
父──菊斉が唐突に、こちらに目を向けることなく話しかけてきたのである。普段であれば、颯一と董香の会話に彼が割って入ることなど滅多にない。刺すような緊張感が、颯一の背中を駆け巡る。
「いい加減、進路は決めたのか」
菊斉の口から放たれた言葉に、颯一はぶっきらぼうに答えた。
「別に、まだ。そのうち決めるよ」
──まずい。その返事は、颯一が思っていた以上に、冷たい言い回しとなっていた。
だが、そんな後悔をしたところで、すでに遅く。
「ふん……昔から何事も諦めの早かったお前が、そんな悠長にしていていいのか」
「……なんだよ」
箸が止まる。呼吸が乱れはじめる。ふつふつと沸いてきた怒りが、颯一の心を支配してゆく。
「聞こえなかったか。お前のような出来の悪い息子が、十五歳にもなってそんな調子でいいのかと言っているんだ」
「ちょっと、菊斉さん、なにもそんな言い方──」
気づけば、颯一は勢いよく立ち上がり、テーブルに握りしめた拳を打ち付けていた。
「あんたに……あんたに俺の何がわかるんだよッ!」
だが、颯一がいくら震える声で叫ぼうと、菊斉はこちらを向こうとしなかった。
怒りと苦痛に表情を歪ませ、居ても立っても居られなくなった颯一は、勢いのままに家を飛び出すのだった。
どれくらいの時間、夜の町を走っていたのだろう。
「……何なんだよ、本当に」
息も
颯一は街灯の下にあるベンチに寝転び、ポケットに入っていた携帯電話で時刻を確認した。時計は午後八時を示しており、日は完全に沈んでしまっている。だというのに、九月の夜はまだ不快なほど暑かった。怒りに身を任せ、後先考えずに家を出たはいいものの、これからどうするべきなのか、疲れ果てた颯一にはわからなかった。
『ふん……昔から何事も諦めの早かったお前が、そんな悠長にしていていいのか』
菊斉の言葉が、冷静になった今でも頭のなかでぐるぐると渦巻く。あのときはどう言い表せばいいのかわからなかったが、その言葉を聞いた颯一の心は、醜いほどにどす黒い何かで覆われる感覚がした。それは、これまで自分を愛してくれなかった父に対する怒りか、それとも
「……あぁー、もう!」
体を起こし、心の
「──ん?」
そのときだった。颯一の視界の端に、目を疑う光景が映り込んだのは。
淡く、暗い光を放つそれは、ふわふわと宙を浮いていた。
距離にして三十メートルほど離れているだろうか。球状の物体ともわからないそれはゆっくりではあるが、どこかを目指しているかのように進んでいる。何かの見間違いかもしれない、と目を
(しかも、あの方向って……たしか、夢路堂が)
そう。光球が進む方向の先には、颯一が放課後に訪れ、
考えるより先に、颯一の体はそれを追って、夢路堂へと歩を進める。
少女との再会の約束が、思わぬ形で実現しようとしていた。
簡潔に述べるなら、颯一の読みは的中していた。
ふわふわと浮くそれを尾行するうちにたどり着いたのは、あの風変わりな洋館だった。
(これは……あの石蕗って人に、伝えたほうがいいのか?)
庭園の入り口から光球の動向を伺うと、それは玄関の方ではなく、庭園を大きく迂回して建物の右奥へと侵入していた。近くで見てもその実態がわからず、颯一はある種の気味の悪さを覚える。
あの光球がもし、他者に危害を加えるような存在であるなら、彼が取るべき行動はおそらく家主である石蕗への警告である。だが、こうして見る限りそれはただ浮遊しているだけで、尾行している颯一にもまるで気づいていない様子だ。とはいえ、このまま黙って見ているつもりもなかった。
(二人には、申し訳ないけど……このまま追ってみよう)
颯一は忍び足で、庭園へと足を踏み入れた。まるで泥棒のような心地だったが、彼の中の好奇心はそれに釘付けになってしまっていた。
(……あれ。あの窓、開いてる)
庭園を抜けた颯一の視線の先にあったのは、高さ三メートルはあろうかという大きなステンドグラスの窓──おそらく、石蕗に通された洋間にあったものだろう。その両開きに開いた窓から、光球が部屋の内側へと
──これは、さすがに危険なのではないだろうか。得体の知れない何かが、人の住む家屋へと侵入している状況に、颯一は危機感を抱く。そして、彼は意を決した様子で窓から部屋を覗き込み──
彼の目に映ったのは、神秘的とも思えるような光景。
月明かりに照らされた少女が、その光球に
(そんな、どうして──)
刹那、それは一際強い光を放ち。
その光は、まるで少女と颯一を包み込むように、辺りを輝かしく照らすのだった。
桜桃木眠梨は夢を診る 久音 @ewigkeittraum
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