その出会いには祝福の紅茶を





 自分以外には誰もこの場にいないと思っていた颯一にとって、その出会いは想定外であった。彼が夢路堂を訪れたとき、石蕗はたしかに「この時間の客は珍しい」と話していた。であれば当然、ほかの客がすでに店をあとにする時間帯なのだろうと想像するのは容易である。ましてや、この風変わりな外観では、ここを書店だと知っていて訪れる者もそう多くはないだろう。そのため、颯一は無意識的に、他者の存在を考えていなかった。不意打ちを食らったような気分ではあったが、おかげで少しだけ恐怖感が薄れた気がした。

「あっ、すみません、驚かせてしまって。部屋に入ってからそのまま立ちすくんでいらしたので、つい」

 気恥きはずかしそうに微笑む少女に、颯一はいえいえ、と控えめな声で返答する。背格好から見て、自分と同学年か少し下くらいであろうか。ステンドグラスの窓から差し込む夕日の赤が照らすのは、夏らしさが感じられる真っ白なワンピースと、腰のあたりまで伸ばした薄桃色うすももいろの髪。そのほっそりとした両腕で、数冊の積まれた本を抱える姿は、客というよりも店員のイメージに近い。そしてなぜだろうか──颯一には、その少女の面影にどこか見覚えがあるような気がしていた。

「えっと、君は……」

 少女はしばらくきょとんとしていたが、質問の意図を察したのか、ぱぁっと明るい笑みを浮かべた。ころころと表情を変える少女のあどけなさに、思わずこちらまで頬が緩む。

桜桃木眠梨ゆすらぎねむり、この夢路堂で書店員として働かせてもらっている者です。石蕗さんには、幼いころよりたいへんお世話になっておりましてっ」

 育ちの良さが伺える口調で、矢継やつばやに自己紹介を始めた眠梨だったが、すぐにはっとしたように口をつぐむ。

「す、すみません……私、人とお話するのが大好きで、いつもつい喋りすぎてしまって……あっ、そうでした。本をお探しでしたら、お手伝いしましょうか?」

 抱えていた本をテーブルに下ろし、照れたように笑う少女の提案は、颯一にとって思いがけない助け舟だった。ただでさえ息苦しいと感じるこの空間で、たった一冊の本を探すなんて、彼には苦痛以外の何物でもない。彼女の力を借りることができれば、すぐに見つけられるだろう。

「じゃあ、お願いしてもいいですか。こんな本なんですけど」

 颯一は梅木に渡されたメモ用紙を取り出し、眠梨に渡した。

「えっと……『放課後のピアノ』ですね。少し待っていてください」

 どうやら本のタイトルに見覚えがあったらしい。五分と待たず、眠梨は一冊の本を持ってぱたぱたと戻ってきた。その本にはたしかに、梅木が指定したものと同じタイトルが記載されている。

「お待たせしました。これ、私も以前読んだことがあって、棚の場所もすぐにわかりました。素敵なお話なんですよ」

 そう言ってにこりと微笑んでみせた眠梨を見て、颯一は複雑な気持ちになる。彼女には申し訳ないが、颯一はもとよりその物語に興味を持っていないのだ。騙しているつもりはないが、それでも彼女に対する罪悪感を抱かずにはいられなかった。だが、彼女のおかげで用は済んだ。あとは受け取った本を購入して、この週末のうちに感想文を作成すれば、面倒な課題はそれで終了だ。颯一は手短てみじかに礼の言葉を残し、棚の奥に見えるカウンターへと足を運ぼうとした。

 そのとき、眠梨は不意に、このような質問を彼に投げかけた。


「あの……もし違ったら、申し訳ないのですけど。もしかして、本がお嫌いなのですか?」


 どきり、と心臓が脈打つ。その一言は、この部屋に入ったときに感じた緊張を、すぐさま呼び戻した。なぜ、どうして気づかれたのだろう。たしかに一般的な客としては、不審ふしんな挙動をしていたかもしれない。だがそれだけで、しかもたった数分前に出会ったばかりの少女に、まるで心を見透かされたかのように言い当てられてしまったことが、颯一には信じられなかった。

 しかし、眠梨は穏やかだった表情を変えず、颯一にこう告げた。

「大丈夫ですよ、隠そうとしなくても。何も責めるつもりはなかったんです。ただ……本をお渡ししたときのあなたの顔が、とてもつらそうに見えたので」

 すべてがお見通しだったことを知り、颯一は自分が情けなくなる。それと同時に、今まで必死に隠そうとしていた感情が、ゆっくりと表出ひょうしゅつしていくのを感じた。それは嫌悪なのか、はたまた恐怖なのか、彼にはわからない。だが、不思議とこの少女の前では、それらをさらけ出してもいいと思えた。

「……正直、今すぐにでもここを出たくて」

 すると、眠梨は何かを思いついたようにはっとした様子で、颯一の手を取った。

「わかりました。でしたら、お会計は後ほどで構いませんので、こちらの部屋へどうぞ。ゆっくりお茶でも戴きましょう」




 眠梨に連れられて洋間を後にした颯一は、洋館の二階にある部屋へと案内された。十畳ほどの部屋の中央には、先ほど見かけたものと同じ円形のテーブルと二脚の椅子が設置されており、颯一はその片方に腰掛けるよううながされた。

 眠梨は「すぐ戻ります」とだけ告げて、颯一ひとりを残して小走りで部屋を出た。

(大きな建物とは思ってたけど……ここは応接間なのか)

 部屋を見渡すと、いかにも西洋の建築物らしい装飾が施された内装に、少数の家具がしつらえてあるのがわかる。奥の小窓からは、入り口から見えた庭園の様子が一望できるようだ。書棚の並ぶ洋間と比べれば簡素な造りではあるが、颯一にはむしろこちらの方が居心地よく感じた。

 そのまま数分が経過し、壁に掛けられた時計が午後七時前を指したころ。こんこん、とノックをして入室してきたのは、眠梨と、ティーワゴンを押す石蕗であった。

「石蕗さんがお茶をご用意してくださったんです。美味しいんですよ」

 対面に眠梨が座ると、石蕗は手慣れた仕草でカップにお茶を注ぎ、ワゴンに用意してあったお茶菓子とともにテーブルに置いた。華やかな紅茶の香りが漂い、硬く強張っていた肩から力がゆるりと抜けていく。石蕗はにこりと微笑み、「どうぞ、ごゆっくり」とだけ言い残して退室した。

「なんか、すいません。ただの客なのに、ここまでしてもらっちゃって」

 申し訳なさそうに頬を掻く颯一だったが、眠梨はなぜか嬉しそうに笑って、

「気にしないでください。私がこうしたくてお声がけしたのですからっ」

 と返した。洋間でも話していたが、この少女は本当に人とのお喋りが楽しいらしい。

 いただきます、と呟き、淹れたばかりの紅茶に口をつける。颯一は普段からそこまで紅茶を口にするわけではないが、これほど美味しい紅茶を飲むのは初めてだ、と思った。

「ふふ、よかったです。私も、石蕗さんが淹れるお茶が大好きで」

 感想を述べたつもりはなかったが、その表情だけで理解したのだろう。眠梨は小さく笑って、颯一と同じように紅茶を味わった。

「少し、落ち着きましたか。先ほどよりも顔色が良くなったようですし」

 改まった様子で、眠梨が声をかけた。

「はい、おかげさまで。本に囲まれていると、どうしても息苦しくて……」

 そう答えた颯一に、彼女はカップをソーサーに置いて向き直る。吸い込まれそうなほど大きな瞳に見つめられ、颯一は少しだけ緊張した。

「よろしければ、お聞かせくださいますか? あなたがどうして、本を嫌いになってしまったのか」

「……」

 返答に困ってしまう。柳颯一は間違いなく、本が嫌いである。しかし、なぜ自分がこれほど本を嫌うのか──その理由は、颯一本人にもはっきりとわかっていない。だが、この場をもうけてくれた書店員の少女を前に黙ってしまうのは、彼の良心が許さなかった。なぜかはわからないが、少女にはすべてをあまさず伝えるべきだとさえ思えた。颯一は躊躇ためらいながらも、ありのままの自身の心情を吐露とろする。

「俺、わからないんです。なんで本を嫌いになったのか。母が言うには、小さいころの俺は絵本や図鑑をよく見ていたらしいんですけど……いつからか、本を読むだけで、本が棚に並んでいるのを見るだけで、怒りとも恐怖とも言えない何かが、頭の中を覆い尽くしていくような感覚を覚えるようになって。今の俺にとって、本を読むという行為は苦痛を伴うものなんです」

 ここまで正直に胸のうちを語ったのは、颯一にとっても初めての経験だった。何が彼にそうさせたのかは、彼にもわからない。だが、目の前で颯一の言葉に耳をかたむけてくれた少女は、それらの言葉を決して否定することなく、優しく受け止めてくれた。

「そうでしたか……なんだか、すみませんでした。とても打ち明けづらいことだったでしょう。でも、あなたの本心を聞くことができてよかったと、私は思います」

 すると、眠梨は唐突に、颯一がテーブルに置いた本を手に取った。

「あの。どうして、この本をお探しになっていたのでしょうか」

 彼女の質問は、至極しごく当然のものだろうと颯一は思った。本が嫌いだと告白した人物が、一冊の本を求めて書店を訪れるなど、事情を知らない者からすれば滑稽こっけいだと思うのも無理はない。

「高校の担任が、その……面倒くさい人で。その本を読んで感想文を書けって」

「ふふ、そうなのですね。でもこの本、あなたにぴったりのお話だと思いますよ」

 颯一は首を傾げる。どういう意味なのだろう。

「お読みになるのでしたら、物語の内容に過度な言及はしませんが、あらすじを少しだけ。この作品の主人公である女性は、小さな頃からずっとピアノが大好きだったんです。でも、ある出来事をきっかけに、彼女はピアノを弾くことも、その音色を聴くことも嫌いになってしまった」

 淡々たんたんと物語る少女の表情は、優しさに満ちていた。おそらく、読書を苦痛だと感じる颯一のために、少しでも興味を持ってもらえるよう考えての行動なのだろう。

「そんな彼女は、学校の放課後に毎日聴こえてくるピアノの音色に、心を惹かれる何かを感じ取るんです。嫌いなはずのピアノも、その演奏だけはずっと聴いていたいとさえ思うほどに。勇気を出して音楽室の戸を叩いた彼女は、ひとりの少年と出会います。その出会いが、彼女の運命を大きく変えてゆくのです」

 眠梨は紅茶をひと口飲み、颯一の目を覗き込むようにして言った。

「きょう、あなたはこの夢路堂に勇気を出して来てくださいました。始めは苦しかったかもしれません。自分を苦しめるものが、無数に陳列ちんれつされている恐怖──ですが、それでもあなたはこの本と出会おうとしたのです。私は、この出会いには大いに意味があるのだと思います」

 そう言って微笑んだ少女の顔は、輝く夕日に照らされ、ひどくまぶしく思えた。

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