その出会いには祝福の紅茶を
自分以外には誰もこの場にいないと思っていた颯一にとって、その出会いは想定外であった。彼が夢路堂を訪れたとき、石蕗はたしかに「この時間の客は珍しい」と話していた。であれば当然、ほかの客がすでに店を
「あっ、すみません、驚かせてしまって。部屋に入ってからそのまま立ちすくんでいらしたので、つい」
「えっと、君は……」
少女はしばらくきょとんとしていたが、質問の意図を察したのか、ぱぁっと明るい笑みを浮かべた。ころころと表情を変える少女のあどけなさに、思わずこちらまで頬が緩む。
「
育ちの良さが伺える口調で、
「す、すみません……私、人とお話するのが大好きで、いつもつい喋りすぎてしまって……あっ、そうでした。本をお探しでしたら、お手伝いしましょうか?」
抱えていた本をテーブルに下ろし、照れたように笑う少女の提案は、颯一にとって思いがけない助け舟だった。ただでさえ息苦しいと感じるこの空間で、たった一冊の本を探すなんて、彼には苦痛以外の何物でもない。彼女の力を借りることができれば、すぐに見つけられるだろう。
「じゃあ、お願いしてもいいですか。こんな本なんですけど」
颯一は梅木に渡されたメモ用紙を取り出し、眠梨に渡した。
「えっと……『放課後のピアノ』ですね。少し待っていてください」
どうやら本のタイトルに見覚えがあったらしい。五分と待たず、眠梨は一冊の本を持ってぱたぱたと戻ってきた。その本にはたしかに、梅木が指定したものと同じタイトルが記載されている。
「お待たせしました。これ、私も以前読んだことがあって、棚の場所もすぐにわかりました。素敵なお話なんですよ」
そう言ってにこりと微笑んでみせた眠梨を見て、颯一は複雑な気持ちになる。彼女には申し訳ないが、颯一はもとよりその物語に興味を持っていないのだ。騙しているつもりはないが、それでも彼女に対する罪悪感を抱かずにはいられなかった。だが、彼女のおかげで用は済んだ。あとは受け取った本を購入して、この週末のうちに感想文を作成すれば、面倒な課題はそれで終了だ。颯一は
そのとき、眠梨は不意に、このような質問を彼に投げかけた。
「あの……もし違ったら、申し訳ないのですけど。もしかして、本がお嫌いなのですか?」
どきり、と心臓が脈打つ。その一言は、この部屋に入ったときに感じた緊張を、すぐさま呼び戻した。なぜ、どうして気づかれたのだろう。たしかに一般的な客としては、
しかし、眠梨は穏やかだった表情を変えず、颯一にこう告げた。
「大丈夫ですよ、隠そうとしなくても。何も責めるつもりはなかったんです。ただ……本をお渡ししたときのあなたの顔が、とても
すべてがお見通しだったことを知り、颯一は自分が情けなくなる。それと同時に、今まで必死に隠そうとしていた感情が、ゆっくりと
「……正直、今すぐにでもここを出たくて」
すると、眠梨は何かを思いついたようにはっとした様子で、颯一の手を取った。
「わかりました。でしたら、お会計は後ほどで構いませんので、こちらの部屋へどうぞ。ゆっくりお茶でも戴きましょう」
眠梨に連れられて洋間を後にした颯一は、洋館の二階にある部屋へと案内された。十畳ほどの部屋の中央には、先ほど見かけたものと同じ円形のテーブルと二脚の椅子が設置されており、颯一はその片方に腰掛けるよう
眠梨は「すぐ戻ります」とだけ告げて、颯一ひとりを残して小走りで部屋を出た。
(大きな建物とは思ってたけど……ここは応接間なのか)
部屋を見渡すと、いかにも西洋の建築物らしい装飾が施された内装に、少数の家具が
そのまま数分が経過し、壁に掛けられた時計が午後七時前を指したころ。こんこん、とノックをして入室してきたのは、眠梨と、ティーワゴンを押す石蕗であった。
「石蕗さんがお茶をご用意してくださったんです。美味しいんですよ」
対面に眠梨が座ると、石蕗は手慣れた仕草でカップにお茶を注ぎ、ワゴンに用意してあったお茶菓子とともにテーブルに置いた。華やかな紅茶の香りが漂い、硬く強張っていた肩から力がゆるりと抜けていく。石蕗はにこりと微笑み、「どうぞ、ごゆっくり」とだけ言い残して退室した。
「なんか、すいません。ただの客なのに、ここまでしてもらっちゃって」
申し訳なさそうに頬を掻く颯一だったが、眠梨はなぜか嬉しそうに笑って、
「気にしないでください。私がこうしたくてお声がけしたのですからっ」
と返した。洋間でも話していたが、この少女は本当に人とのお喋りが楽しいらしい。
いただきます、と呟き、淹れたばかりの紅茶に口をつける。颯一は普段からそこまで紅茶を口にするわけではないが、これほど美味しい紅茶を飲むのは初めてだ、と思った。
「ふふ、よかったです。私も、石蕗さんが淹れるお茶が大好きで」
感想を述べたつもりはなかったが、その表情だけで理解したのだろう。眠梨は小さく笑って、颯一と同じように紅茶を味わった。
「少し、落ち着きましたか。先ほどよりも顔色が良くなったようですし」
改まった様子で、眠梨が声をかけた。
「はい、おかげさまで。本に囲まれていると、どうしても息苦しくて……」
そう答えた颯一に、彼女はカップをソーサーに置いて向き直る。吸い込まれそうなほど大きな瞳に見つめられ、颯一は少しだけ緊張した。
「よろしければ、お聞かせくださいますか? あなたがどうして、本を嫌いになってしまったのか」
「……」
返答に困ってしまう。柳颯一は間違いなく、本が嫌いである。しかし、なぜ自分がこれほど本を嫌うのか──その理由は、颯一本人にもはっきりとわかっていない。だが、この場を
「俺、わからないんです。なんで本を嫌いになったのか。母が言うには、小さいころの俺は絵本や図鑑をよく見ていたらしいんですけど……いつからか、本を読むだけで、本が棚に並んでいるのを見るだけで、怒りとも恐怖とも言えない何かが、頭の中を覆い尽くしていくような感覚を覚えるようになって。今の俺にとって、本を読むという行為は苦痛を伴うものなんです」
ここまで正直に胸のうちを語ったのは、颯一にとっても初めての経験だった。何が彼にそうさせたのかは、彼にもわからない。だが、目の前で颯一の言葉に耳を
「そうでしたか……なんだか、すみませんでした。とても打ち明けづらいことだったでしょう。でも、あなたの本心を聞くことができてよかったと、私は思います」
すると、眠梨は唐突に、颯一がテーブルに置いた本を手に取った。
「あの。どうして、この本をお探しになっていたのでしょうか」
彼女の質問は、
「高校の担任が、その……面倒くさい人で。その本を読んで感想文を書けって」
「ふふ、そうなのですね。でもこの本、あなたにぴったりのお話だと思いますよ」
颯一は首を傾げる。どういう意味なのだろう。
「お読みになるのでしたら、物語の内容に過度な言及はしませんが、あらすじを少しだけ。この作品の主人公である女性は、小さな頃からずっとピアノが大好きだったんです。でも、ある出来事をきっかけに、彼女はピアノを弾くことも、その音色を聴くことも嫌いになってしまった」
「そんな彼女は、学校の放課後に毎日聴こえてくるピアノの音色に、心を惹かれる何かを感じ取るんです。嫌いなはずのピアノも、その演奏だけはずっと聴いていたいとさえ思うほどに。勇気を出して音楽室の戸を叩いた彼女は、ひとりの少年と出会います。その出会いが、彼女の運命を大きく変えてゆくのです」
眠梨は紅茶をひと口飲み、颯一の目を覗き込むようにして言った。
「きょう、あなたはこの夢路堂に勇気を出して来てくださいました。始めは苦しかったかもしれません。自分を苦しめるものが、無数に
そう言って微笑んだ少女の顔は、輝く夕日に照らされ、ひどく
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