夕日が照らすその洋館は




 長かった夏休みも終わり、新学期の始業から一週間が経った。

「……で、明日から週末と祝日休校で三連休だ。くれぐれも人様ひとさまに迷惑かけるような過ごし方はするんじゃないぞー。あと火曜日の授業は──」

 ホームルームを進行する担任の声もよそに、その生徒は窓辺まどべの席から校庭を覗き込んでいた。残暑も厳しく、蝉の鳴く声も未だ鳴り止まないというのに、一定数の生徒たちは放課後の部活に向けて体を動かしている。よくやるものだ、と彼は無関心そうに視線を正面へと移した。

 時刻は午後四時を少し過ぎたころ。教室全体を見渡せるその奥まった位置からは、帰り支度を済ませたクラスメイトたちの様子がうかがえた。姿勢をただし担任のありがたい話に耳を傾ける者、机の下でせわしなく携帯電話に指を滑らせる者、隣の席同士でひそひそと他愛ない会話に花を咲かせる者──どこにでもある高校の、どこにでもある教室風景である。連休という学生にとって少しばかり喜ばしいイベントを前に、心なしか浮足うきあし立ったような雰囲気が伝わってくる。

 だが、話を終えた担任の次の一言に、彼の意識は急に現実へと引き戻された。

「あー、それからやなぎ。お前はこのあと先生と職員室に来るように」

「……はぁ」

 名前を呼ばれた彼──柳颯一やなぎそういちは、返事ともため息とも取れない言葉をこぼした。




「……なあ柳。どうしてそこまでして先生の課題をやってくれないんだ」

 放課後の職員室で、担任の梅木駿介うめきしゅんすけは何度目かもわからない問いを教え子に投げかけた。

 夏休みが終わって一週間、颯一は課題のひとつである読書感想文を提出しようとしなかった。彼はクラスに馴染もうとする素振りもなく、一見すれば気怠けだるげな態度の不良生徒にも思えるが、学業をおろそかにするような人物では決してない。むしろ平均的な成績の生徒たちと比べれば、その学力は頭ひとつ抜けた成績優秀者であり、事実、颯一は前学期の試験でも学年上位と呼べる成績を収めていた。他の課題も卒なくこなし、梅木が担当する国語科目以外の教師からも一目いちもく置かれる存在であるはずの彼が、なぜか国語の──しかも読書感想文という、小学生の子供にもできるような簡単な課題だけは、かたくなに提出しなかったのだ。

「言ったでしょ。俺、本は嫌いだから」

「先生もそんな子供じみた理由は通じないって言ったんだがなぁ……」

 ネクタイを緩め、お手上げといった様子で梅木は天をあおいだ。

「もう勘弁してよ、駿兄しゅんにいさん。試験でちゃんと点数取ればいいんだろ」

「……校内でその呼び方はしないって約束、忘れたか?」

 彼らは生徒と担任という間柄あいだがらであると同時に、颯一の母方の従兄弟いとこ同士でもあった。幼いころから交流のあった二人はこの春から、かたや新入生、片や新任の国語教師として、同じ高校に通っている。梅木が颯一のクラスを担当することになったのは偶然に他ならないが、互いに身内としての関係性は表に出さないことを了承していた。

「それに担任である以上、課題の未提出を見過ごすことはできないからな。だがチャンスくらいはやる」

 そう告げると、梅木は一枚のメモ用紙を颯一に手渡した。

「お前が本を選ぶまで待ってたら永遠に終わらないだろうからな。今回だけ特別に先生の推薦図書を選んでおいたから、それ読んで週明けに感想文持ってこい」

 怪訝けげんそうな顔で、颯一は渡された用紙の字に目を走らせる。そこに走り書きされていたのは、一冊の本のタイトルと『締切厳守!』という字であった。

「ちゃんと終わらせてきたら、今回の件は叔母おばさんには黙っといてやる。……ったく、手のかかる教え子だなぁ、颯一ぼっちゃんは」

「……そっちだって身内扱いしてるくせに」

 くしゃくしゃと乱暴に頭を撫でられた年下の従兄弟は、不服そうにうつむいた。




「……はぁ」

 人影もまばらになった放課後の校庭を、颯一は深いため息を吐きながら歩いた。梅木に呼び出しを受けたその後、メモ用紙に記載されていた本を探すため図書館を訪れたが、タイミングの悪いことに別の生徒に貸し出されていた。こうなれば、書店を探して自費で購入するほかない。例えようもない息苦しさに、再度大きなため息が漏れる。


 柳颯一は、本が嫌いだ。


 それがいつからだったかはわからない。思春期を迎えたころから、物心がついたころから、もしかしたら生まれたときからだったかもしれない。そのきっかけが何であれ、憎らしいほどに本が嫌いだ。空想の物語が気に入らないだとか、誰かが得意げに語る主張に嫌気が差すだとかではない。ただ純粋に、じられた紙の束が、紙いっぱいに埋め尽くされた文字の羅列られつが、印字いんじされたインクの臭いが嫌いだ。

 本が嫌いであるなら当然、図書館や書店という場所も心の底から嫌いだった。棚に並べられた無数の本を見ていると、それだけで息が詰まりそうな感覚におちいる。この精神的苦痛を、少なくとももう一度経験しなければならないと思うと、颯一の歩みは重くなる一方だった。

 校門を出て、二十分ほど経過しただろうか。颯一が向かったのは、通学路からは少し外れた場所にあるさびれた公園だった。近くの古めかしい自販機で炭酸飲料を購入し、ぼろぼろのベンチに腰掛こしかけてそれを飲み干す。じっとりと汗ばんだ体を駆け抜ける清涼感が、ひどく心地よく感じられた。

 この公園は、必要以上の人間関係を求めず静寂せいじゃくを好む颯一にとって、幼いころからのいこいの場であった。住宅街より少々離れた土地にあるため、颯一のほかに人が来ることは滅多にない。小さかったころは、ここで遅くまで時間を潰したことからしょっちゅう母に叱られたが、今となってはそのようなお小言こごともすっかり聞かなくなった。

 一息ついたところで、颯一はポケットから携帯電話を取り出し、近隣の書店を検索してみる。時刻は午後六時に迫ろうとしており、めぼしい書店は軒並のきなみ営業を終了していた。都会の街中まちなかであれば、もう少し遅い時間でも問題なく営業しているのだろうが、颯一が住むこの町はそれほどご大層たいそうな地域ではない。諦めて翌日出直そうか──そう考えていたそのとき、ある建物の写真が目についた。

「なんだ、ここ。本屋というか……洋館みたいだ」

 そこに写っていたのは、茶色を基調としたレンガの壁に彩られた、シックな建物だった。横に広く伸びた外観と、深緑色ふかみどりいろの屋根から伸びる煙突えんとつは、まさに映画や物語の世界に登場する『洋館』のイメージにぴったりである。そして、その写真の下にはこのように記載されていた。

「『夢路堂ゆめじどう』……夢と物語が眠る場所?」

 なんだか回りくどい言い回しだ、と首をかしげた。だが、書店であることは検索結果からも見て取れる。どうやらこの公園からも、それほど遠くない場所にあるようだ。営業時間は詳しく載っていないが、行ってみる価値はあるかもしれない──そう思ったときには、なまりのように重かったはずの両足は、すでに動き始めていた。




 迷路のような街路を抜け、携帯電話のマップが示した先にあった建物は、まさに写真で見たとおりの印象を与えてくれた。

 つい先ほどまで見ていた家屋かおくとは明らかに隔絶かくぜつされた、まるでそこだけが異世界であるかのような違和感。入り口から玄関へと続く庭園には、夏の日差しを浴びて青々としげった広葉樹が、規則正しく並んでいる。レンガで舗装された道を進み、玄関の方に視線を向けると、そこには『夢路堂 OPEN』の掛札かけふだがあった。どうやらここは、本当に書店で合っているらしい。

(本屋じゃないなら、そうであってほしかった気もするけど……ここまで来たんだし、さっさと本を見つけて帰るか)

 いつも見せるようないたずらっぽい笑みを浮かべた梅木が、颯一の脳裏をよぎる。課題を出した暁には文句のひとつでも言ってやろう──そんなことを考えながら、重厚な扉に手をかけた。


 からんからん、と入店を知らせるベルが鳴る。


 最初に反応したのは、嗅覚。埃っぽさは感じられないが、古びた建物の放つ独特の香りが鼻腔びこうをくすぐる。だが、それは決して不快なものではなく、不思議と懐かしさを思い起こすような香りだ。次は、聴覚。店主の趣味だろうか、穏やかなクラシックのやさしい音色が、建物全体を包み込んでいるかのようである。そして、視覚。高さのある天井からは、暖色系のランプがいくつか吊るされており、室内をあたたかく照らしていた。鼻で、耳で、目で感じ取ったものすべてが調和しているかのような、落ち着きのある空間であった。

「おや、この時間にお客様とは珍しい。どうぞこちらへ」

 そう声をかけてきたのは、燕尾服えんびふくに身を包んだ、長身痩躯ちょうしんそうくの初老の男性だった。オールバックに整えられた白髪交じりの頭髪や、汚れひとつない真っ白な手袋など、その姿はまさに洋館に仕える執事然としたものである。彼がこの館のオーナーなのだろうか。颯一は促されるまま、男性のあとに続いて奥の廊下へと歩を進めた。

「……あの。ここ、本屋さんだって聞いたんですけど」

 おずおずと尋ねた颯一に、老紳士は目を細めて笑ってみせた。男性の左胸には、『石蕗つわぶき』と書かれたネームプレート。おそらく、この男性の姓なのだろう。

「ふふ、驚きましたかな。はじめて訪れるお客様は、一様いちようにそのような質問をなさるのですよ。もっとも、蔵書ぞうしょはこちらの奥にある洋間か、別館の書斎にしか保管されておりませんが」

 どうやら、先ほどの広間はエントランスのような役割であり、書店としての機能は別の部屋に割り当てられているようだ。別館という単語が示すとおり、この洋館の敷地は相当な広さを有しているのだろう。

 ほどなくして、石蕗は廊下の突きあたりにある扉の前で足を止めた。

「こちらが書棚でございます。閉館は二十時ですので、ごゆっくりお過ごしください」

「あっ、はい。どうもありがとうございました」

「いえいえ。素敵な物語との出会いがございますよう」

 そう告げると、石蕗はお手本のようなお辞儀をして立ち去っていった。彼の前では愛想笑いを浮かべていた颯一の表情が、みるみる強張こわばっていく。エントランスの雰囲気に呑まれそうになったが、ここからが颯一にとっての鬼門なのである。だが、ここまで来ておいて今更後戻りする選択肢など、とうになかった。

 颯一は意を決した様子で、金属のドアノブに手をかける。ギィ、という音とともに開いた扉の先には、おおかた想像どおりといった内装が広がっていた。心のどこかで、想像とは違ったものを期待していた颯一の意識が、途端に現実へと引き戻される。

 広々とした部屋の中央には、二人掛けの円形テーブルと木製の椅子のセットがいくつか。おそらく読書スペースなのだろう。それらを囲むように、壁面には二メートルほどの高さの本棚がずらりと並び立っている。読書スペースの左右にも数列の棚があり、ジャンルごとにきれいに整列された蔵書の数々が目に入った。ひとつ見慣れないものがあるとすれば、部屋の正面奥にあるステンドグラスの大きな窓くらいなものだが、それ以外の設置物は誰もが想像しうる『書店』のそれであった。

 ──息が詰まる。脈拍が速くなっていく。定まらない視線を、何処どこに向ければいいのかわからない。広かったはずの部屋が、ひどく狭い空間のように感じる。はやく、はやく探さなければ。はやるばかりの心とは裏腹に、その足は固まったように動かない。動け、頼むから動いてくれ──




「あの……本、お探しなんですか?」




 そのとき聞こえたのは、鈴ののような誰かの声。硬直が解けたように、颯一は声がした方へ首を向ける。

 そこに立っていたのは、真っ白なワンピースを身にまとった、華奢きゃしゃな少女だった。

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