第44話 美夜の表情

【十二月三一日 午後七時】

 美夜みやに告白したあの日から色々な関係性が変わっていた。なんでも今まで同じようにはいかない。その中でも変わらないものと言えば夜空に浮かぶ月はいつものように冬の冷たい空気の向こう、空の上で静かに漂っている。

 世間の大抵の人は大晦日の午後七時を迎えた今頃には、年越しの準備をとうに終えて残りゆっくりと流れる時間に身を包んで明日を迎えるのだと思う。中には除夜の鐘つきや初詣を控えて心踊る人、準備に忙しなく追われる人だっているのだろう。

 その中でも俺と美夜はきっとちょっとだけ例外。年越しはそれぞれの家族で過ごすのだけれども合間を縫って少しの時間だけ逢瀬をする。


「美夜、話聞いてた?」

 関係性が変わった。そんな後遺症の一つかこれだ。

「え?えー。何―?」 

 彼女の歯切れがものすごく悪い。快活で明瞭だった彼女は二人きりになると懐ききった家猫のように蕩けた表情で甘えてくる。辺りに人影があるとシャッキリしたいつもの美夜なのだけれども、今はカラオケで二人きり。本来は彼女のギター練習に付き合うはずだった。彼女の名誉のために弁明すると一応一時間くらいは練習をしていた。その後はべったりと引っ付いて離れない。


「美夜性格変わった?」

「んー。変わってないよー。元に戻っただけー。かな?」

 膝の上で寝転ぶ彼女は声を発するけれども俺の身体に吸い込まれてくぐもった声になってしまっている。

かおるは前の私の方が良かった?」

 くるりと反転して寝転びながら上の俺を向いてイタズラに微笑む。タートルネックのセータに埋もれた小さな顔から短い髪がこぼれて膝の上で広がっている。

「どっちの美夜も好きだよ。」

「あはは。よかったぁ。」

 彼女が空いた左手をそっと伸ばしてきて、俺の身体の心臓のあたりに頭を押し付ける。甘いような凛としたような彼女特有の香りが鼻の奥をくすぐする。


「ちょっとやっぱり心臓の音が早いね。」

「美夜だって同じくらいに早いだろう。」

「あはは、秘密。」

 そう言って美夜はまた膝の上で猫のように丸くなる。膝を抱えてソファに器用に寝転んで頭を乗せている。よく小さなソファの上でここまで綺麗に落ちずに丸まれるものだ。

「間違えて落ちないでくれよ。」

「薫がしっかり支えていて。離さないようにぎゅっとしてて。」

 通路側からは明るい恋を唄う流行りの曲が漏れ聞こえてくる。それと部屋を温める空調の音。あとは二人分の呼吸の音。吸って吐いて、繰り返して。部屋の外から聞こえる曲とは違う二人だけのリズムを刻んでいく。



「美夜この後は何処へいく?」

「……君だけが居ればどこへだって行けるよ。」

 美夜のセリフは歯が浮いてしまいそうなくらい気恥ずかしい。よくもまあ口に出せると感心する。絶対何かの歌詞に影響されているに違いない。

「それは……そうだけど、今のは違うだろう?」

「分かってる。でもちょっと唄いたくなったの。だから――いいでしょ。」

「また、何か誤魔化された気がするなあ。」

 彼女は膝の上で身体ゆすりながら器用に笑う。

「美夜ちゃんと一緒に居られると貰える特典だよー。」


 つい先日に泣きながら抱きついてきた彼女とは大違いだ。今の彼女と俺は何処まで甘えられるのか確かめあって探り合っている。そうして丁度いいポジションを探し合って、二人は長い時間を過ごして行けるようになるのだと思う。

「お得な先輩だなー。」

 美夜の頭を撫でる。柔らかくて短いその髪を掬うようにかき分けて頭皮を刺激するように撫でる。

「ふふ、私、猫じゃないんだけどー?」

 くすぐったそうに身を捩る彼女の横顔はどこも嫌がっていない。まんざらでもなさそうだ。また彼女の知らない表情を見ることが出来た。髪からかき分けて見える小さくて白い耳を優しく触る。


「あは……やっぱ猫でもいいかも……。」

 ただ砂糖菓子のような時間が過ぎていく。大きく頬張ったそれがゆっくりと崩れ去りながら口の中いっぱいにとろけるような甘さとなって、シャクシャクとした耳障りの良い感触が音を奏でているようで心地良い。

「あー。やばいー良い。脳みそ溶けちゃいそう。」

 少しお腹が空いてきたのだけれど、美夜が今心地いいのならまだこの時を過ごせばいい。

「美夜は大袈裟だなー。」

 後でまた話をしよう。明日の話、来週の話、そして来年の話。いや、明日にはもう来年だった。だから再来年の話。

 美夜がどんな場所に行きたくて、どんな彼女自分が好きなのか。俺がその時何が出来ることができるのか。懸命に生きてきた彼女には、ただ今は一休みしてほしい。


 #


 その後もひとしきりじゃれ合って十分に満足したとは言えないのだけれど、夜の街へと戻る。彼女には大切な家族がいるのでいつまでも専有するわけにはいかない。

「薫。これあげる。」

 今日出会った時からずっと抱えていた紙袋を手渡してくる。

「あ、何くれるんだ?」

「えっと、その、お節料理……。私……料理はまだ下手っぴだけど、おばあちゃんが見ていてくれたから、それなりに、そこそこには食べられると思うの。」

 今日で一番照れたように頭をかきながら俺の手にその紙袋を握らせる。

「……ありがとう。きっと美味しいでしょ。」

「あはは、ちょっと甘すぎたり、しょっぱすぎたりしても許してねー。見た目はイケてるから。あはは。」

 帰ったら食べないけれどこっそり覗いてみよう。きっと何も問題ないはず。

「食べたら感想言うよ。」

「あはは、言わなくていいー!」

 横を向いて手で横顔を隠しながら必死に否定する。それでも目線だけはこちらをしっかり見ていてどこか期待している。そんな年上の彼女は可愛らしいことこの上ない。

「ちゃんと言うよ。約束。」

 彼女の一回り細くい小指を少し強引に絡みとって約束をする。

「薫くん……あ。薫は強引だなー。もー。」

 わざわざ言い直さなくてもいいのに。その僅かな仕草と声音にまた心がまた弾けるように恋に落ちていく。一度落ちたらどうにも戻って来られないらしい。

「そういうこと、ダメか?」

「さっきの仕返しのつもり?」

 駅前に吹きつける冬の風は体表から温度を拭い去っていく。でもそれ以上に心臓が働きすぎるせいで体温が下がりはしない。トットッと鳴る心臓の音が指と指を伝わって彼女にも聞こえているかもしれない。もしかすると聞こえているこの音は彼女のものかもしれない。


「んー。秘密。」

 しーっと指を口に当てて息を吹きかける。白く染まる吐息が風に吹かれて煙のように広がって霧散して透明になっていく。

「ふーん……ふふ、そっかー。」

 約束した指を優しく振りほどいて、彼女は家の方角へと踵を返し俺に背を向ける。折り悪く踏切の遮断器が甲高い警告音を立て始める。遠くの方から電車がこちらに向かってくる気配がする。


 美夜はゆっくりとこちらを振り返り、出逢った時のような顔つきになる。イタズラ気質で爛漫で、でもどこかプライドの高い彼女が見せる年上の表情。


「…。…。…。…。…。…。」

 踏切を電車が通り過ぎる音でかき消されるようにして彼女はわざと小さな声を出した。ただその口は大きく開かれていて声が聞こえなくてもはっきりと伝わった。


 遮断器の警告音が止み、一瞬静寂の音を挟み遮断器の棒が劇の幕を上げるようにすっと上がる。それが今日の別れの合図。

 心の中からすっと何かが欠けたような空虚感が湧き上がる。だけれども、それをぐっと堪えて踏切を超える彼女を見送る。思い切り叫べば彼女は戻ってきてくれるだろう。子供っぽいそんな想いを押さえて後ろ姿を見送る。


 ぽつぽつと歩く彼女が立ち止まる。澄んだ冬の空気の向こう。20mくらい先の街灯の下に彼女が照らされている。いつかの夜のように彼女は振り返って大きく手を降ってくれる。二人してあの頃から変わらないやり取りに微笑みながら今度はちゃんと離れていった。

 

 夜空には満月を過ぎて少しだけいびつな形をした月が爛々と輝いていて、行く道を十分過ぎるくらいに明るく照らしている。一人歩くのは少しだけ寂しいけれども、同じ夜空の下。それこそたった数キロメートル向こう側に美夜は確かにいる。


 さっきの彼女の口の動きを真似して一人、夜空に言葉を投げかける。

「大好きだよ。美夜。」


 どんな空も好きだけれどもどうしても一番を付けるのならば夜が好きだ。

 ただ、この夜空をただ黒と表現するには何処か味気ない。青と表現するには明るすぎて味がしすぎる。藍色?群青色?いくつかの言葉が思い浮かぶけれど、どれも半音ずれたように後少しだけしっくりとこない。もっと夜空を知らないときっとこの感情は表現しきれない。

 いつか美しいこの夜空を自分だけの言葉で表せるように……なりたい――。

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月夜に響く 四季 @siki1419

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