エピローグ
[40]
翌日、松岡は息を引き取った。私たちに墓場まで抱えるには大きすぎる秘密を押し付けて独りで先に逝ってしまった。松岡の告白は私がカセットテープに録音していた。だが、松岡の殺人を裏付ける物証は何も無い。崔霜成の遺体も拳銃も東京湾の広大な海の底に沈んでいる。松岡が無線で呼んだ漁師は事件の関係者だが、もはや何も言うまい。私は崔霜成、崔景姫の調査資料とテープを段ボール箱に入れて官舎の押入れにしまいこんだ。
結城は袴田の慰留にも関わらず、外務省を退職した。トロイア作戦の責任を取らされたことは自明だった。袴田が本気で結城を留めようとしたのかという噂がひと頃立ったが、真偽は不明だった。結城はその後、民間の調査機関である東亜調査会の顧問として松岡の後を襲った。島村や私に変化はなかった。岸部はそのまま在ウィーン日本大使館で副領事になった。季節ごとに絵葉書を寄越すようになった。
私は結城が退職した日、定時で外務省を出た。玄関で省内の送迎会から解放された結城につかまり、そのまま世田谷の官舎に帰らずに新橋に向かった。ガード下にある行きつけの居酒屋に入り、2人で死者に献杯した。冷酒で乾杯した後は2人で黙って飲んでいたが、しばらくして島村が姿を現した。また冷酒で乾杯。
「結局、許と崔霜成は何がしたかったのか・・・」私は言った。
「死人に口なしだ。その話をするな」
私は結城に構わず続けて言った。
「結局、許は女秘書ひとりを西側に亡命させたことになる。レベッカはこちらに送り込まれた二重スパイというわけでもなさそうだし、一体どういうわけで、こんなマネをしたんだか・・・」
「腹に許のガキを孕んでるとか」
「そんなんだったら、昼ドラの方がまだマシだ」結城が島村を怒鳴りつける。「今さら何もわかるまい」
「崔景姫の件はどうなる?松岡審議官は《北》の対日浸透作戦だと言ってたが」
「しつこいぞ」
「単純に考えれば、ってとこだろう」島村が言った。「お前なら分かるだろうが、《ユミール》情報は8割が真正だった。最初は本物を掴ませて信用させ、本格的に取り入った段階でこちらから情報を吸い上げる一方でカスを掴ませる腹積もりだった。審議官はそんな筋道を立てたんだろう」
結城が尋ねる。
「そう言えば・・・レベッカのリストはどうした?あんな物、ウチはいらんぞ」
「情報調査局の金庫の中」私は言った。
結城が意外だという風に言った。
「あのリストをイギリスに渡すつもりはないのか?」
私はうなづいた。
「ウィーンでSISにひどい目に遭わされたから」
島村が鼻で笑った。
「所詮この世界はお互い様だ」
結城が突然、バンとテーブルを叩いて腰を上げた。
「さあ、今日から俺は自由だぜ」
数時間前まで北東アジア課首席事務官だった結城はそう言ってほくそ笑む。今からさらに回りたい場所があるんだと言いつつ、1万円札を置いて店を出て行った。この25年間やりたくても出来なかったこと、望んでも叶えられなかったこと、踏み外そうと思っても踏み外せなかったことが山ほどあるのだということだった。
久我山の自宅で奥さんが待っているはずだった。そういえば子どもがいるはずの結城の口から、今まで一度もそうした日常の話を聞かなかったことを私は思い出した。それがいかにも結城らしいと改めて思ったが、明日からはどうなるのか。
私と一緒に結城を見送った島村がどういう風の吹き回しなのか、こんなことを言い出した。
「なあ天羽よ、現世の徳は積んでおけよ。俺たちは相殺する分が大きいからな。それで来世は人並みってところだろう」
私は心から湧き出る賛意を禁じえなかった。
「じゃあな」
島村も軽い笑みを残して店を出た。その方向が地下鉄でもJRの駅でもないと気づいた時には、島村の姿はもう夜闇の中に消えていた。
維納《ウィーン》の長い夜 伊藤 薫 @tayki
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