[39]

「結城君、すまんが起こしてくれんか」

 結城が不慣れな手つきでベッドを操作して、松岡の上体を背上げする。松岡はベッドに身体を預け、ひと息をついた。その後で説明を始めた。

「崔霜成は海釣りが趣味でね。葉山のマリーナに自分のクルーズ船を持ってる。そこで話をしようと崔から話を持ちかけられた。さっきも言ったように、4月の終わり頃だ」

「あなたは葉山に出向いた」私は言った。「そこで、崔は何を話したんです?」

「崔景姫の正体について。洗いざらい喋ると」

「審議官、待ってください」結城が口をはさむ。「崔霜成はどうしてそのことを話すつもりになったのか?」

「あれは怯えてた。崔は身体も度量も大きい男だったが、ものの見事に震えてた。自分はおそらく平壌に殺されるだろう。その前に重荷を全部捨てたいと言い出した」

「崔は平壌から殺される理由を話したのですか?」私は尋ねた。

「大韓航空機爆破事件だよ。あの事件で逮捕されたのは、対外情報調査部に所属する女性工作員だっただろう?事件後に《偉大なる領袖》の『女性工作員は信用ならん』という鶴の一声で、部署の如何に関わらず、女性工作員と上官たる工作担当者ケースオフィサーは処罰の対象とされた。処罰というより処刑だな。現に、ウィーンに現れた崔景姫を名乗ってた工作員は・・・」

 私はその後の言葉を引き取った。

「空港で殺害されました」

「だから、次は自分が殺される番だと」

 私はうなづいた。

「話の続きを」

「ウィーンに現れた崔景姫は私の実の娘ではない。《北》の元政治犯だと。崔はそう言った。平壌では、政治犯の尋問を担当していたことも話した」

「崔は景姫となる工作員をどうやって獲得したのですか?」

「8か月に渡って工作員の候補になりうる政治犯を尋問と拷問で責め続ける。そして、最後にこう囁く。『何も喋るな。君はよくやった』それで対象はこちらの手に落ちる。そうやって、崔は政治犯の中から筋金入りの闘士を拾い出しては、収容所から解放していった」

「崔霜成が政治犯を処刑場に送ったという実際の記録もありますが・・・」

 私はとまどいを隠して反論した。

「君の調査結果の通りだ」松岡は平静に述べた。「崔は指導者と党に忠実な尋問者として、何人もの政治犯を処刑場に送り込んだ。理解を示せとは言わないが、望んで地獄に堕ちた革命家が現実に存在することは認めてもらわないと困る。今の言葉は崔の受け売りだが」

 私は行き場を失った。結城が尋ねる。

「崔は何故、審議官に偽の娘を再会させたのです?」

「決まってるだろう。朝鮮労働党作戦部による対日浸透作戦の一環だよ」

「あなたは先ほど崔を殺したと言いました」私は言った。「どういう意味です?」

「言葉通りだ。崔は拳銃を持ち出した。自殺できないから撃ってくれと頼んだ。葉山のマリーナから30キロくらい沖合に出たところで、崔はクルーズ船を止めた。それから、船の舳先に立った崔を私は撃った。眉間と胸に1発ずつ」

 終わりは唐突にやってきた。

「帰りはどうしたんです?」

「葉山に顔を知った漁師がいる。無線で連絡して来てもらった。崔のクルーズ船は錨を外した後、海に流してやった。拳銃も帰りに海に捨てた。この漁師は長年付き合ってた協力者でね。この件については死ぬまで何も言うまい。その漁師とはそういう約束を交わしてる」

 さっきまで小さな老人に見えていた松岡が生気を取り戻していた。

「天羽君、これで君の興味は全て満たしただろう。レベッカの文書を見てくれないかね?」

 有無を言わさぬ口調だった。

 私はしぶしぶアタッシェケースを開け、文書を松岡に手渡した。松岡が文書に眼を通し始める。途端に大声で笑い出した。その様子に結城が訝り、私たちを代表して文書を一読する。結城が叫んだ。

「こりゃあ、香港のイギリス政府が中国国内で操る反体制派のリストじゃないか!」

 その時、私はどういう表情をしていただろう。レベッカはこの文書を北朝鮮による日本人拉致被害者の生存者リストだと言って、ジムに渡したという。私は不意に気づいた。レベッカは私たちの眼の前にぶら下がった囮に過ぎなかったのだ。許はレベッカを騙したのだ。

 松岡は笑い続ける。その哄笑が病室に虚ろに響き渡った。

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