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私は同窓会に出席したかのように、共有された記憶を話し続けた。
「崔霜成は引揚船で舞鶴港に降り立った時、幼い女の子を抱いていた。あなたの娘です」
松岡の妻は船中で死亡。上官である松岡の行方は不明。崔は周囲に自分の妻は大連で病死したと説明し、女の子に景姫と名付けて自分の娘として育てた。崔は生涯、独身で過ごした。
「崔霜成があなたの娘と暮らした淀川沿いの借家はもう跡形もありません。少女時代の景姫は病弱で軽いバセドウ病を患ってました。隣家からは毎日、凄まじい夫婦喧嘩が聞こえてきます。建物は改装されてましたが、通ってた公立高校は当時と同じ場所にあります」
「お前はわざわざ大阪まで行ったのか?」結城が尋ねる。
私はうなずいた。崔の借家は淀川の堤防と幹線道路に挟まれた低い湿地に建っていた。私は大阪で崔の借家の近所に棲んでいた者を見つけ出した。トタン屋根が風にあおられてカタカタ鳴る音。河川敷を不法占拠した家庭農園で、もぎたてをかじったキュウリの青臭い香り。家中に染みついた濁酒の甘酸っぱい匂い。そうした記憶を一緒に懐かしんだ。
「崔はあなたにそうしたエピソードを逐一、伝えていたはずです。あなたとウィーンで再会させる娘の過去を作るために、そうしていたのです」
「全ては景姫を騙る工作員のカヴァーストーリーだったということか」島村が言った。
「その通り」私はためらいを捨てて話を先に進める。「崔は60年代末から80年初頭にかけて、10年ほどある任務についてました。政治犯の尋問です」
崔の担当は帰国者の政治犯だった。国内事情に熟知していることや、日本語で書かれた資料の取扱上の理由で、在日の組織から選ばれたと思われる。密出入国であるために日本政府の資料から記録を正確にたどることは出来なかったが、朝鮮総連やその傘下団体から漏洩した資料や証言から、崔が帰国者を《北》で尋問した時期をおよそ把握することが出来た。
「74年の秋から、ある女性政治犯の尋問が始まったと思われます」
私は女性政治犯の名目上の罪名をいくつか挙げた。公金横領。妻子ある男を籠絡。
「当時、30歳ぐらいの女性です。その女性の記録は翌75年に日本国内で補足調査がなされてます。崔はその政治犯に特別な興味を抱いたようです」
天羽は松岡の顔をちらっと見る。改めて崔景姫とよく似ていると感嘆した。
注目すべきは女性の死亡記録が組織的に残されたことだった。祖国から日本の親族に宛てた死亡通知。多大な見舞金。共和国英雄と勲章の授与。その女性が次に足跡を残しているのは1976年10月。この情報は最近、公開された旧東ドイツ
「翌77年3月、景姫からの最初の手紙がアムステルダムから届きました。以降、堰を切ったように欧州各国で手紙が出されます。そして、われわれは崔景姫が亡命するのを待った」
私はトロイア作戦を思い出す。
「崔はあなたと再会し、あなたの娘である景姫からの手紙を見せた。大半は偽造された手紙ですが。その結果、われわれはウィーンに引き寄せられた」
私は話を締めくくる質問に入った。
「あなたは眼の前に現れた景姫が実の娘ではないことに気付かなかったのですか?」
松岡は答えなかった。結城が口をはさむ。
「実の娘であることを確認するために、2人はウィーンで初めて会ったんだろうが」
「気付いてたよ」
私は思わず息を呑んだ。結城が「審議官!」と鋭い声を発した。
「崔霜成が全て話してくれた。ウィーンのあのレストラン・・・島村君、名前は何だったかな?」
「〈ラグーン〉です」
「そうだったな。〈ラグーン〉だ。あのレストランに現れた女性は聡美ではない。元政治犯だそうだ。崔霜成が拷問にかけて尋問し、任務に就くことを条件に収容所から釈放した」
「崔霜成があなたにそのことを話したのはいつです?」
私は松岡が話し出すのを待った。
「4月の終わり頃。今年だ」
「事故で亡くなる前ですね」
「あれは事故で死んだのではない」
松岡はぼそぼそとした声で言った。
「私が崔霜成を殺したのだ」
この人は何を言おうとしているのだろう。私はそう思った。まるで鏡の中に逃れていくようだ。そんな幻影が脳裏に過ぎる。
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