[37]
「崔霜成の記録を再調査していたのです」
翌日、私は信濃町の大学病院に向かった。レベッカのリストを納めたアタッシェケースを提げて、松岡が入院している個人用の病室に入る。開口一番、出席者たちにこう切り出した。病室の真ん中に置かれたベッドに松岡が寝ている。離れたところに結城が丸椅子に座っていた。島村が窓辺に立って外の景色に眼を向けている。
「崔霜成はいま関係ないはずだ」結城が言った。「レベッカが《北》から持ち出したリストを渡せ」
「崔霜成の記録を再調査していたのです」
私は松岡に言った。確信は無かった。松岡が崔霜成の隠された過去を知らない方に賭けた。
結城がちょっと考えてから言った。
「座りたまえ」
松岡がさっと表情を閉ざした。私はそれを見逃さなかった。脳裏に崔景姫の顔を並べる。知的な額。男性的な眉。鉄の意志を漂わせている少し歪んだ口許。誰が見ても、松岡と崔景姫は父娘だった。
私はベッドの傍にある丸椅子に腰を下ろした。
「韓国でも国内でも《北》の離反者に関する情報が増えてます」私は話し始めた。「崔霜成は経歴を詐称していました。彼は死ぬまで党歴があったのです」
「ペーパー党員じゃないのか、よくあることだろ」結城が口をはさんだ。「親戚付き合いとか、商取引の円滑な運営のためとか」
「我が国の政党とは、質的に異なります。選ばれた者だけが入党を許されるのです」
「それが特権階級の証だというなら、党員証も金で買える」
「崔は朝鮮労働党作戦部に所属する秘密要員だったのです」
私は松岡に眼を向ける。末期の膵臓ガンで衰弱した表情からは何も読み取れない。
「で、どういうことになる?崔が非公然の活動家だったとしたら?」
結城が咎めるような視線を向けた。
「崔が欺いていたとなれば、彼が語った物語は全て疑ってみるべきだと考えました」
松岡はベッドに身体を預けている。天井についたシミのような汚れをじっと見つめているようだった。
「崔が自分の子どもとして育て、62年に北朝鮮に帰国した松岡審議官の娘の記録を洗ってみました。本名は松岡聡美。すると、その娘が64年か65年に行方不明になったという証言が出てきました」
「待て」
結城が話の異常さに気づいた。
「ごく最近、韓国に亡命した《北》の元工作員がそう証言したのです。松岡聡美が当時、平壌郊外の集合住宅に住んでいましたが、その工作員も同じ住宅に暮らしてたのです。その工作員はこうも言いました。あの国で行方不明という噂は本当に死んでしまったか、あるいは強制収容所に入ったか、どちらかだと」
部屋の中に冷気が降りてきた。いったん間を置いてから私は続けて言った。
「その娘が政治犯として収容所に入った可能性は極めて少ない。なぜなら、娘が政治犯であれば、崔の身辺にも必ず変化が起こるはずです。しかし当時、崔が査問を受けた形跡はなく、本国に召喚された記録もなく、彼の経歴にも何の変化はない。したがって、62年に帰国した娘は死んだと考えざるを得ません。帰国した娘の足跡を追うことは困難ですが、日本の崔を追跡することは可能です」
松岡の身体は急に萎んでしまったように見える。今は小さな老人だった。結城はめまぐるしく頭を回転させているように見える。私は突然、ウィーンに飛んで核心に触れた。
「《北》に帰国した娘が死んだとすれば、ウィーンに現れた崔景姫という女性はいったい何者なのか」
「謀略だ。ラングレーの謀略だ。《ユミール》情報の信頼性を損なうためのディスインフォメーションだ」
結城が感情を高ぶらせた。
「帰国した娘は死んだのです」
「お前は間違ってる」
結城はたじろがぬ意志を見せた。
「行方不明という噂は」島村が言った。「《北》ではもうひとつの可能性が考えられるだろう。国家のために特殊任務に就くことだ。だから、崔景姫は姿を消したんじゃないのか。崔景姫の経歴では、64年に金星政治軍事大学工作員速成情報クラスに編入されたとあった」
「それはウィーンで崔景姫を騙って私たちの目の前に現れた何者かの経歴だ。62年に帰国した松岡さんの娘は死んだと言っているんだ」
「崔景姫が帰国した娘だ」結城が言った。「崔景姫が松岡聡美だ」
「証拠があるんですか」
「崔景姫は日本の思い出を話した」島村が言った。「その記憶を審議官に確認してもらって、松岡聡美本人だと判断した」
私は松岡に訊ねた。
「日本にいた頃の松岡聡美はご存知なのですか?」
松岡はベッドの上で黙ってうなづいた。
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