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 私はそれから数か月間、わずかしかない個人的な時間を潰して余計な寄り道をした。外務省の地下に置かれた記録庫で長い時間を過ごすようになった。脳裏で袴田の言葉が渦巻いていた。

「《ユミール》の件を調査したのは誰だ?」

 私はあの質問を「調査した者からアメリカに《ユミール》の情報が漏れた」という意味に受け取った。しかし別の意味を含んでいないだろうか。調査した者は《ユミール》の隠された部分を知っている。ならば、袴田は崔霜成を根底から疑っていることになる。

 打ちっ放しのコンクリートの壁に沿ってパソコンがいくつか並んでいる。私は一番奥の席に腰を下ろしていた。前方と左側が壁。雑多な資料を隣の席まで広げ、右肘をついてディスプレイを覗き込む。こうすると誰にも見られない。

 私はキーボードを叩き始めた。個人記録を検索する。崔景姫。崔霜成。ユミール。いずれもなし。別に落胆はしない。結城が隠したに決まっている。いったん手を休めてディスプレイを眺める。脳裏はウィーンの亡命未遂事件を検索していた。正確な作戦名を思い出した。トロイア作戦。結城が命名した。

 エリアスタディを呼び出した。範囲は中欧、オーストリア。《亡命》を選択した。トロイア作戦は入力されていなかった。該当するとおぼしき亡命事件もなかった。トロイア作戦はまだ入力されていないのかもしれない。係員に聞けばすぐ確かめられるが、無用な関心を惹くことは避けたかった。席を立って記録庫を出る。

 私は内線で結城に電話をかける。崔景姫や《ユミール》情報の調査記録がどこにあるのか尋ねる。

「忘れたのだ」結城は声を張り上げた。

「自分で隠したのに?」

「本当に忘れたのだ。どこに隠してか忘れてしまった。隠したことも忘れる。よくあることじゃないか」

「読まれたら、まずいことでも書いてあるのか」

「そんなことはない」

「では、記録を読ませてください」

「その必要を認めない」

 結城は通話を切った。私は受話器を下ろす。脳裏では確信していた。崔霜成や崔景姫の記録は省内や国内に限らず、必ずどこかにある。役人なら誰しも記録を残すという誘惑に勝てない。記録を残し、そして隠すのだ。

 5月に極東のソ連空軍基地で弾薬集積所が爆発する事件が起きた。ウラジオストックの日本大使館からはテロ等ではなく、非ロシア系住民と軍人との間で小競り合いから生じた偶発事故という報告が来ていた。私は局長から出張を命じられた。大使館ではロシア語専門職の手が足りず、ろくな調査が出来ていないだろうからという名目だった。私はソ連に向かった。事件の調査は2週間足らずで終わったが、その後は帰国せずにヨーロッパにしばらく滞在してから帰った。

 降り続いた雨がきっぱり上がった6月最後の月曜日。私は国際情報局のオフィスで関西の建材商社が中国の合弁会社の社員を招いて市場経済セミナーを開催するという報告書に眼を通していた。誰かが私のデスクに腰を下ろした。頭上から島村の声が降りてくる。

「お前、噂になってるぞ」

 私は資料から眼を離さずに「何で?」と言った。

「お前の帰りが毎日遅いんで、奥さんと喧嘩か離婚したから官舎に帰りたくないんじゃないかって」

「言わせておけ」

「毎晩、地下の記録庫に籠って何を調べてるんだ?」

「退官後は自省録でも書こうと思って」

「呑気なもんだ。崔霜成が死んだというのに」

 私は声の震えが島村に気取られないか不安になった。

「事故か?病気か?」

「崔のクルーズ船が三浦の海水浴場に流れ着いたんだ。船に誰も乗ってないんで、独りで船に乗ってて海に落ちたんだろうという話だ」

 島村の声は次いでひそひそ話をするかのように囁きかけてきた。

「2月の終わりにお前が世田谷の神社で外人と会ったのを見た奴が要るんだ。リストはどこだ?」

 私は資料をデスクに放り投げ、腰を上げるやいなや島村の胸倉を掴んだ。揉み合いは数秒も続かず、すぐさま居合わせた他の連中に引き剥がされた。島村にそれほど深い意図がなかったのは鳩が豆鉄砲を食らったような顔つきからも十分に分かった。それでも、私は《この茶坊主野郎》と相手を睨みつけた。島村も崔霜成の秘密を知っていながら、これまで沈黙していたのだ。自分はそれを黙っておいてやる。だから貴様も俺のやることに口出しするんじゃない。

 3日後、私は結城に呼ばれた。私に揺さぶりをかけるよう島村に命じた張本人から松岡に事情説明をするよう命じられる。その後、私は自分のデスクで辞表を書いた。それをデスクの抽斗にしまい、鍵をかける。その日の夜、私は葉山をバーに誘って一緒にブランデーを飲んだ。

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