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 自衛隊中央病院のすぐ隣にある世田谷公園を通り抜けて通りに出た時、私は背後に尾行の気配を感じた。

 20メートルほどの間隔を空けてついてくる靴音が一対。すでに人けも絶えた歩道に響き、それがいつまでも離れなかった。私は官舎に帰らず、300メートルほど南に下った。下馬一丁目の交差点で世田谷観音の方に曲がってみたが、靴音はついてきた。

 深夜の世田谷界隈は閑散としていた。靴音の主が行く先を同じとする通行人であるはずはなかった。もう少し交通量の多い玉川通りの方向に曲ってみた。交差点の車の排気音で数秒かき消えた靴音はすぐに再び現れ、同じように20メートル後ろで響き続けた。

 私はさらに4、500メートル北に歩き続けた。その間約6、7分。その辺の路地に逃げ込むことは、あえてしなかった。追手もその気になればいつでも距離を詰められるはずだが、それをしようとしなかったからだ。

 コートの懐に隠している封筒を狙っているのか。姿のない殺人者の気配。尾行者の靴音。それらを吸い込んでいく街の闇は途方もなく深かった。いま歩いている道路の行く手、はるか前方に都会の高層ビル群が光り輝いている。

 玉川通りで首都高速の高架下をくぐって向かい側に出る。小さな公園の脇で初めて、私は背後を振り返った。20メートル後ろに尾行者が立っていた。長身の男だった。暗くて顔貌は判別できなかったが、全身のシルエットからみて、日本人ではなかった。

 相手は動かず、近づいてくる様子もない。私は再び歩を進めた。

 世田谷通りから踏切を渡り、私は太子堂八幡神社の前に出た。背後からゆっくりと近づいてくる靴音を聞きながら、私は境内の片隅にあるベンチに腰を下ろした。尾行者はベンチのすぐ後ろまで来た。ダスターコートに沁みた夜気の冷たさが伝わってきた。私は腰をずらして1人分のスペースを空けた。見知らぬ尾行者はそこに腰を下ろした。

「ミスター・エイジ・コバヤシ」ジムは言った。「また会えてうれしい」

「何の用だ?」

「プレゼントは受け取っただろ?」

「取り返しに来たのか」

 ジムは鼻で笑った。

「そんな無粋なことをするのに、わざわざ極東に脚を運んだわけじゃない」

「では、何の用で?」

「警告しに来たんだ」

「またか」

「今回はレベッカじゃない」

「じゃあ何だ?」

「アンタがレベッカを連れて亡命しようとしたあの日、ウィーン国際空港で《北》の外交官が殺された。その殺された外交官が本題だ。名前は崔景姫。外交官は偽装。実際は対外情報調査部の将校だ。知ってるか?」

「いや」

 私は咄嗟に嘘を吐いた。胸中では心臓に太い杭を打ち込まれたようなショックを受けていた。レベッカにかまけている間に、私は景姫をすっかり失念していた。レベッカの亡命当日に同じ都市で殺されていたとは。

「レベッカはデブリでこう話した。自分は今年の2月に処刑された許正麟の秘書だったという。許は朝鮮労働党作戦部の幹部だった人物だ。許は自室の金庫に秘匿していた機密文書を自分に幾度かコピーさせて、それを西側に流してたという。レベッカはそれが《偉大なる領袖》にバレて、許は処刑されたのだと」

「許の動機は?」

「不明だ。レベッカは金庫からコピーした情報を許の部下に渡してた。その部下というのが、空港で殺された崔景姫。景姫のことを調べてみると、いろいろと面白いことが出てくる」

「崔景姫が殺されたことについて、レベッカは何か言ったのか?」

「特にコメントしなかった。ただ、レベッカは『殺されるとしたらあともう1人いる』と言った」

「その、もう1人とは?」

「崔霜成。レベッカは秘書だったから、平壌の許のオフィスに訪ねる崔霜成をよく見かけたそうだ。生業は不明だが、許を訪ねるくらいだから党や情報機関の役職に就いてるはずだということだ。レベッカは崔霜成が景姫のパトロンじゃないかと思ってたそうだ。《北》で景姫のように女性が管理職に就くのはまずありえないことだから、誰かの後ろ盾があってのことだろうと」

 私は背中のくぼみに冷たい汗が流れるのを感じた。崔霜成が平壌で党や情報機関の役職に就いているとするならば、私の眼の前に現れた日本の実業家である崔霜成とはいったい何だったのか。

「俺からのプレゼントは受け取ったか?」

「封筒のことか?」

「それはレベッカからのプレゼントだ。必ずリストはアンタに渡すことがデブリに応じる条件だった」

「リストの内容は?」

「レベッカいわく、《北》に拉致された日本人被害者の生存者に関する情報だそうだ。まだ誰も見ていない」

 私はうなづいた。

「レベッカは今どうしてる?」

「スコットランドのセーフハウスに暮らしてる」ジムが言った。「むろん監視つきだ。将来は韓国に行きたいと話してるが」

 韓国に行ったとしても一生、監視つきだろう。私はそんなことを思った。

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