第4章:東京の短い夜

[34]

 2か月後―。

 新宿駅の西口は秋の風が薫っていた。改札から吐き出されたいくつもの塊の中から、黒い髪を短く刈った男の頭がひとつ現れた。黒っぽいジャンパーとジーパン。脇に本を抱えている。

 私は着脹れした灰色の雑踏に身を紛れさせながら、100メートルほど離れたバス停から男の姿を確認した。普段から島村のようにきわどい情報収集に従事しているわけではない。しかし、今は誰かに監視されていると思っていた方がいい。そう感じていた。

 ウィーンからロンドン経由で帰国した後、私は目白の屋敷に数日、軟禁された。ほとんど審問に近い形の事情聴取が行われた。被告は私。弁護人は不在。検察は結城と島村。公平と言えぬ裁判官は松岡。私は事態の顛末を全て白状させられた。結城はイギリスの使者に《レベッカ》を横取りされたと強く非難した。島村はあの状況下では致し方なかったとして同情を示してくれたが、どう贔屓目に見ても、これは私の失点だった。イギリスの使者―ジムが素直に《レベッカ》から事情聴取デブリした情報を私たちに提供してくれるという保証はその時、誰も持ってなかった。

 3分ほど時間をかける。私は男に対象に近づいた。男との間に約100メートルの距離を開ける。地下街に通じる階段口で、男は右脇に抱えていた本を左脇に移した。下に降りるという合図だった。直後、耳に入れたワイヤレスイヤホンからノイズ交じりの音声が響いた。

「天気は最高(特異動向ナシ)」

 島村の声だった。私は男と前後して、デパートの地階食品売場に向かう。ひと通り売場を回り、上手く雑踏に紛れて、大きな円を描きながら移動した。数分後、私たちは人けのない男子用トイレに入った。男は正式の外交官パスポートを所持していた。男の名前はイアン・パトリック・モーガン。身分は二等書記官。静かだが、威圧的な響きを持った言い方をした。

「用件は?」

「《レベッカ》について」

「男が1人、尾行してきたが」

「私のボディガードのような者です」

「あなたの身分証を」

 私は外務省の職員証を手渡した。モーガンは鋭い一瞥を私の顔に投げて職員証を返した。

「保安部の連中が慌てた訳がようやく分かった。あなたの顔は保安部のファイルに登録されるような顔じゃない。所属が公安や外事じゃないからだ」

 審問の後はイギリスの使者―ジムからの連絡をひたすら待つしかなかった。外務省で普段通りに勤務を続けながら、悶々とした日々を過ごした。契機は3日前。その日は私たち夫婦の結婚記念日だったが、自宅にバラの花束が届いた。妻は私が用意してくれたものだと早とちりして喜んでいたが、私に身に覚えはなかった。花束にはメッセージカードが1枚入っていた。それが待ちに待ったジムからの応答だった。

 翌日、私はカードの指示通りに千代田区一番町のイギリス大使館を訪れた。警視庁の公安が監視する中、私は2時間のうち3回、守衛室の前を通りかかった。接触の合図に出て来た大使館員に「2か月前の亡命について話せる人を」と言い残してその場を離れた。イギリスの反応はその日のうちに返ってきた。そして、今日の接触が組まれたのだった。

「まず、我が大使館は」モーガンは言った。「ウィーンの亡命についてはタッチしていない」

 私はうなづいた。

「本心は気に食わないが、私は大使からの命令でSISの使い走りをしているに過ぎない。だから、この件に関する質問は一切受け付けられない」

「わかりました」

 モーガンは立ち去り際にメモを私の掌に握らせた。モーガンの姿が食品売場に消えるのを見送り、私も動き出した。メモに記載されていたのは予防措置だった。それも執拗な類のものだった。

 JR。私鉄。別の私鉄。またJR。私は都内で乗ったり降りたりを繰り返した。時おりイヤホンに島村の舌打ちが響いた。渋谷や新宿辺りをぐるぐる巡って望みもしないスパイごっこを満喫した。夕暮れ時に指定された池袋のスナックでウィスキー1杯を胃袋に入れた後、午後8時半に地下鉄護国寺駅構内の男子トイレに入った。

 大用トイレのドアの上に手を伸ばした。手に触れたのはコインロッカーのキーだった。そのキーを使って開けたロッカーから茶封筒ひとつを取り出した。レベッカが亡命時に持っていたと思われるリストが手の内に収まっていた。それをコートの懐にしまい、私はようやく家路についた。

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