[33]

 喫茶店の入口で動きがあった。楯の向こうで防護服を着た制服警官たちが動き出す。突破する用意を始めたようだ。公安の男は怒鳴り続けている。

「妹は行方不明だ、いない者をいつまで待つ気だ!」

 壁にかけられた時計の秒針が最後の一周を回り始めた。男は天井から響く音に気づいていない。どこかでぐずぐず泣く声が聞こえた。すっかり忘れていた。隣でテーブルの足につながれたウェイトレスが泣いていた。

 確信は持てなかった。しかし、泣きじゃくるウェイトレスの顔を見ている内に決心がついた。

「いい加減にしろ・・・!」私は中国語でわめいた。「どこの人か知らんが、たかが《妹》ひとりがどうしたというんだ。子どもじゃあるまいし。何を言ってるんだ!」

 男は私の顔を見下ろした。怒りと敵意に満ちた黒い眼がこちらを睨み返してきた。

「黙れ!」

「《妹》はもういない!刑事さんがそう言ってるじゃないか。いない人を待ってどうするんだ。こんなことして、待ってるのは刑務所だけだ!」

「黙れって言ってるんだ、この野郎!」

 男は銃口を私の額に押し付けて撃鉄を起こした。

 ウェイトレスがテーブルの陰で悲鳴を上げる。

 喫茶店の入口に並んだ楯が動いた。私はテーブルの縁から入口に視線を送る。楯の間から黒く長い筒のような物が飛び出した。

「撃てるものか!この腰抜けめ!」私は怒鳴った。

 怒号と轟音が重なった。私は思わず眼を閉じる。入口から何人もの警官の頭が見え隠れし、楯が立ち上がる。警官たちが飛び出してくる。

 私は眼を開けた。床に男が仰向けに倒れている。額に穿たれた小さな銃創から赤黒い液体が溢れ出す。眼は虚ろだ。

 制服警官が両手を縛っていたエプロンの紐を解いてくれた。防護服から火薬の匂いがぷんと鼻をついた。

「ありがとう」

 私はカバンを手渡してくれた制服警官を見た。ヘルメットと目出し帽で表情は分からなかったが、眼を見れば分かった。ジムだった。

「天井の音は・・・」私は言った。

「おれの《相棒》の1人が喫茶店の上の階でバレエ教室をやってる」

「霞ヶ関の本省にも《相棒》がいるんだろ?」

 ジムはうなづいた。

「アンタがガボンに赴任する際、無線とモールス信号をいじれるようになったことも知ってる」

 立てこもりの最中、天井から響いてきた物音は一定のリズムを刻んでいた。モールス信号の符牒だと分かるまでに大した時間もかからなかった。いったん冷静になって信号を解読する。天井からのモールス信号は「挑発しろ」と言っていた。その時、私の脳裏にジムの傲慢な面構えが浮かんでいた。

「危険な目に遭わせやがって」

「あれしか方法がなかった」

 ジムは私の腕を取って喫茶店の入口へ歩き出した。周囲の警官は何も言わない。

「男の正体は?」

「過激派。大統領府の爆破未遂事件の主犯」

「男の《妹》は?」

「公安の男が言った通りだ。数か月前に失踪してる。公安がこの喫茶店で見張ってたのは、アンタが目的じゃなかったんだな。あの過激派がターゲットだった」

 喫茶店の外に出る。

「おれの役目は果たした。あとはアンタだ」

 ジムは私の手に航空券を2枚押し付けた。行き先はフランクフルト経由のロンドン。

「ウィーン国際空港はダメだ。他の空港からヒースローに向かえ」

「何で?」

「北朝鮮の女性外交官が撃たれて殺された。警官がウロウロいるからやめた方が良い」

 私はその場で呆然と立ち尽くした。

「ヒースローで、おれの《相棒》が待ってる」

 ジムはそう言い残して、夜の街に消えた。私はしばらく経ってから歩き始めた。パトカーや救急車がひしめく道路を夢遊しているように歩き、非常線をくぐる。不意に野次馬の中から近づいてくる人影があった。私は思わず緊張した。

 眼の前に立った人影は、レベッカだった。ベージュのコートを着て青いカバンを持っている。

 私は緊張で顔が強張っていた。まずレベッカは「ごめんなさい」と言った。

「電車が事故に遭って、遅れちゃったの」

「大丈夫だよ。まだ間に合うから」

 私はレベッカの手を取った。

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