[32]

 午後8時35分。

 膠着状態が終わったみたいだ。私はテーブルの脇から喫茶店の出入り口を見た。新たな靴音が響き、防弾楯で固められた喫茶店の入口を私服の男の姿がちらりと横切った。予想した通り、あの不倫を装っていたカップルの男の方だ。相変わらず憂鬱な顔に、今は怒りと侮蔑の色が加わっている。

 楯の向こう側から、その男の声が「人質を解放しろ」と言った。

「《妹》を出せ」男は応えた。

「君の《妹》など、我々は知らんぞ!君の《妹》は半年前に姿を消した。行方不明だ」

「《妹》を連れて来い!」

「無理を言うな。彼女は去年の夏にいなくなった!君は知らんのか!」

「10分待つ。《妹》を連れて来なければ、人質を撃つ」

 男はテーブルの縁に銃口を乗せる。いつでも撃てる構えだ。

 入口の方からは楯越しに「話し合おう」とか「落ちつけ」とか言ってくる。

「あと5分だぞ!」男は怒鳴った。

「頭を冷やせ!君がこの店で待ち合わせようとした《妹》は別人だ。君が2か月前に興信所の調査員に手紙を託したことは知ってる。その手紙を受け取って君に連絡を取ってきたのは別の女だ。分からんのか!」

 公安刑事が怒鳴り続けている。

「君は電話で話してただけで、《妹》には会ってないんだろうが!君が話してたのは別人だ。信じろ!」

「あと3分」

「君は騙されたんだ。我々は嘘をつかん。君は《妹》をネタに誘き出されたんだ。銃を捨てろ!」

 私は戦慄を感じながら、男と公安刑事のやり取りを聞いていた。話を聞いている限り、この男は偶然にも私と同じ方法を使って《妹》という女と接触しようとしていたようだ。

 私も騙されたのか。《誰に?》どこかの女にレベッカを名乗られて私を誘き出したのは誰だ?あのイギリスの使者―ジムか?レベッカの身代わりを使わなければならない程、私は困難な獲物だったわけではない。こんなに簡単に騙される男がどこにいるか。私はたかが女ひとりの声も冷静に聞き分けることが出来なかった男だ。

 茫々とした耳に『助けて』と囁く女の声が響いてくる。甘い声だ。この数日、いつも電話を通して聞いてきた声だった。《レベッカ》という女は実在しない。自分を釣り上げるための撒き餌だった。崔景姫が同じ興信所の調査員を雇ってまで最後に、私に伝えたかったのはこのことだったのだろうか。

 レベッカは今どうしているのか。警察に捕われているのだろうか。もしレベッカが私との脱出計画を警察に話したとしても、誰かに脅され、強要された結果だろう。十中八九、SIS(秘密情報部)に所属しているジムはレベッカのカヴァーストーリーを受けてどう動くのか。「香港政庁が中国国内で操る反体制派活動家のリスト」を持っているというレベッカをジムは無視できないはずだ。私はあのゴミ箱が連なった暗い路地でそう踏んだのだ。

「あと2分だぞ!」男が叫んだ。

 結城からレベッカの脱出を命じられた時、私は何を考えていたか。冷酷な職業意識が脳裏で働いていたのは間違いない。レベッカを脱出させた暁には、今まで不明な点ばかりが目立つ《北》の内実に知見が得られるはずだった。それを足掛かりに、省内で出世もできるかもれない。息子が2人。それに近い将来に娘が1人できる。一家の主として家族を支えていかねばならない。国際情報局の分析官で終わるわけにはいかない。自分はまだまだやらなければならないことがある。

 あの電話の声がレベッカではなかったのか。私は自分の冷静な判断を退け、あらゆる事態が警告していた危険信号から耳を閉ざし、希望的観測で自らを騙していたのか。

 そうして自身の胸の内を覗いてみる。そもそもこの逃亡計画そのものが、自分を騙さなければ決意できなかったのだろう。この計画に対して抱いた自分の不安や絶望を監視者に怯えるレベッカの恐怖とすりかえ、自身の出世や家族のためだと折り合いをつけようとしたのだろう。

「あと1分」男は言った。

 その時、私は物音に気付いた。天井から何かが響いている。コツコツと皮靴で硬い床を叩くような感じだ。一定のリズムを刻んでいる。

 まさか。

 私は物音に耳を澄ませる。

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