[31]
「なぁ、起こしてくれないか。床で寝るのは嫌いなんだ」
男は舌打ちをひとつした。
「両手を頭に当てて、ゆっくりと立て。変なマネをしたら、殺す」
「そんな度胸はないよ」
私は言われた通りにして、立ち上がった。男の顔を見る。喫茶店や街中で今まで見なかった顔だった。髪はボサボサで無精髭は伸ばしたままだ。眼は赤く血走り、息も荒い。ヤクでもきめているのかと不安になった。男は銃を口に咥え、右手で私の身体を検査した。ジャンパーのポケットに入っていたパスポートを抜き取って開いた。
「フン、中国人か」
男が取り出したのは、カリミから買った偽装パスポートだった。
「妻と待ち合わせてるんだがね」
「黙ってろ!」
男は手近なテーブルを倒した。出入り口に向かって楯にするように動かす。テーブルの脚に女と私をウェイトレスが着ていたエプロンの紐で縛りつけた。今度は窓際に移動し、カーテンを全て閉めた。閉まる直前、私は路地を見やった。レベッカの姿は無かった。野次馬はみなどこかに移動させられていた。防弾チョッキを着た警官だけが走っている。
時刻は午後8時25分。
あの男女が連邦警察本部にいるなら、この喫茶店まで出向いてくるのに半時間はかかるだろう。
私は今でも、あのイギリスの使者が話したことは信じていない。レベッカが警察に同胞の情報を流したりしていたのが事実だとしても、2時間前に電話口で《助けて》と言ったレベッカがその時も嘘をついていたことにはならない。警察に脅されてそう言わされたのなら、なおさらだ。
今夜、この喫茶店で落ち合う計画はレベッカに興信所の調査員を使って知らせた。2か月ほど前、私が住んでいたホテルのバーに足しげく通ってくる中年の男がいた。酒を奢って話をした。男は興信所の調査員だという。調査員は酒の代金を払うと言ったが、私はそれを断って代わりにこう言った。
「手紙を届けてくれたら」
調査員に託した手紙の文面はたった三行。『君のことが忘れられない。コルシツキーガッセの喫茶店〈ファイルヒェン〉で待ってる。電話をしてくれないか』末尾に電話番号を書き添えた。調査員は手紙をラブレターだと思い込んだらしい。
調査員は遠く離れた〈ロゼ〉まで足を運び、手紙をレベッカに届けた。レベッカは私が指定したコールボックスに応答をくれた。そうして連絡が始まり、その後は一度も顔は合わさなかったが、私とレベッカの逃亡計画は出来上がっていた。
レベッカは電話でさまざまなことを話した。私はいつも聞き役だった。話し相手を欲しがっていたのだろう。寂しかったのだろう。だが、私はレベッカの話が全て「香港から貨物船に乗ってウィーンに亡命した北京出身の中国人」を裏付けるカヴァーストーリー(作り話)であることに気づいた。
たしかにレベッカは国を脱出する際にあるリストを持っていると打ち明けた。それは《北》に拉致された日本人被害者の情報ではなかった。レベッカはあくまでカヴァーストーリーを押し通した。レベッカには北京市人事局に勤めていた兄が1人いた。兄の名前は劉少剛。香港から脱出する直前、レベッカは兄からあるリストを託された。それは香港政庁が国内で操る反体制派活動家のリストだという。私はリストを見たいと言ったが、レベッカは条件を付けてきた。亡命が成功した場合のみ見せるという。
レベッカのカヴァーストーリーはこうだ。
レベッカが国境を越えた理由は共産党内部の権力闘争だった。1987年に党内改革派の主導者である胡耀邦が失脚すると、その影響は政治局だけで留まらなかった。あらゆる官僚機構にも改革派の排除の機運が高まり、北京市人事院で改革派に属していたレベッカの兄は知識人たちと結託して学生デモを扇動したと弾劾され、逮捕されたという。
私は大使館から本省の情報調査局に電話をかけた。レベッカのカヴァーストーリーのウラを取るためだった。相手は葉山だった。私からレベッカの話を聞いた葉山は呆れた声を出した。
「香港からの脱出者の話を真面目に受け取ったんですか、先輩」
「あの国から逃げてくるには、それなりの理由があるはずだろ」
「あんな広い大陸で、全員が階級闘争してると思ったら大間違いですよ」
「いいから、早くウラを取れ!脱出者の名前は劉玲。兄は劉少剛だ」
葉山から電話が返ってきたのは小一時間経った頃だった。
「劉少剛は銃殺されてます」
「どういうことだ?」
「今年の5月、北京市が人事局の官僚3名を処刑したと伝えてます。そのうち1名の名前が劉少剛です」
カヴァーストーリーは全て嘘ではない。ほんの少し真実を織り交ぜることで本物らしく思わせるのだ。それが常道である。女を口説くのと同じ手口だ。岸部ならそう言って嗤ってみせるだろう。
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