[30]
遠目には別人の姿になった私はシェラインガッセを左に曲がった。ドクトル=カール=ラントシュタイナー・パークに向かう。時刻は午後7時50分。
公園の周辺は、爆弾騒ぎで駆けつけてきたマスコミと連邦警察のパトカーと野次馬で、19分前よりいっそう賑やかになっていた。私は野次馬の群れから群れへ移動しながら、公園の方へ近づいた。
硝煙の臭気がまだ残っている。かなり強力な爆弾だったようだ。私を見張っていた厚化粧の女の顔など、もう浮かんでも来なかった。しかし恨みも何もなかった若い女の死はさすがに胸にこたえる。こうした死を日常的にもたらす世界の虚しさがあらためて足元に広がる。
私はまず、見える限り公園を見渡した。
路地にちらほらしている人間をひとり残らず見やり、レベッカの姿がないことを確認した。
時刻は午後8時5分前だった。爆発のあった方角に、鑑識員の制服が群れている。ロープが張られている。見張りの警官が何人も立っている。それを遠巻きにして、見物の人間の人垣がある。それを横目に、私はグラーフ=シュタルヘムベルク=ガッセに入った。
コルシツキーガッセとの交差点に、喫茶店はあった。
午後8時に閉まる喫茶店は閉店5分前の静けさだった。客は残っているのか。いないのか。仮に最後の客がいるとして、その客が店を追い出されるのを待つために、私は数分、事故現場の人垣の後ろに立った。
欲に眼がくらんで爆弾入りの封筒を掴んだ女がブタなら、そのブタを爆弾で吹き飛ばしたのは何様だ。たかが爺さん1人といえども、殴られて倒れたのを黙って見ていた警官の男女は何様だ。いや、こうして喫茶店を待合場所にしたために、これだけの騒動を引き起こした自分こそ、どこの何様なのか。そうしたことをその時の私は真剣に考えようとしたわけではなかった。頭の半分はしっかりと時間を計っていた。
午後8時2分前になった時、私は落ち着いた足取りで人けのない喫茶店の階段口を上がり始めた。ドアを開ける。店内に客はいない。ウェイトレスがこちらに振り向いた。
「もう閉店ですけど」
私は「手帳を落とした」と言いながら、店の中に進んだ。
「どんな手帳ですか・・・」
ウェイトレスは不機嫌な顔で口だけ動かした。もう1人は奥の方で椅子をテーブルに上げ始めていた。厨房にいるはずの男の従業員の姿は見えない。
「黒革のやつ。その座席だったかな」
私は椅子をテーブルに上げているウェイトレスの方に近づいた。
女が顔を振り向けた時、私は不意に脚を払われて無様に床に転がった。背中を踏みつけられた次の瞬間、頭上から手が伸びて女の手から椅子を取り上げて投げ捨て、女の手首を掴んだ。私が首をねじ上げた瞬間、額に銃を突きつけられた。女は「いやぁ」と派手な悲鳴を上げた。
銃の持ち主は店中に聞こえる大声で、もう1人のウェイトレスに怒鳴った。
「警察を呼べ。そこに大勢いるだろう。呼んで来い!」
ウェイトレスは店の外に飛び出していった。たちまち5人か6人の制服警官が店の戸口に現れた。店の奥に転がる私とウェイトレスと拳銃の銃口を見るなり、団子になって立ち止まった。
「妹を呼べ」
再び銃の持ち主は言った。男の声だった。
「そんな言い方では分からん。《妹》の名前と住所を言え」
一番年嵩と思われる警官が答えた。
「連邦警察の公安部にいる誰かに伝えろ。この喫茶店に立てこもった男が《妹》を呼べと言ってるとな。それで奴らに通じる」
制服警官たちは顔を見合せる。1人がすぐに踵を返して姿を消した。男が公安と言っただけで、彼らの顔色は変わった。自分たちには関係のないことだといわんばかりにそそくさと道を譲る。その反応の早さは予想通りだった。
「落ちつけ。今、連絡しているから、そのまま待て。人質には手を出すな」
残った警官たちは言った。
ウェイトレスは泣くかと思えばわめき、またすすり泣く。ショック状態の混乱なのだろうか。気の強い娘のようだった。男は女の首筋を銃口で小突いて「黙れ」と脅した。女の声は聞こえなくなった。
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