[29]

 私は一歩踏み出した。ジムはまだ笑っている。この男はなぜ笑うのか。私の愚行がおかしいのか。私の窮地を憐れむのか。

「喫茶店に戻るのか?公安が待ってるぞ。北京の殺し屋もその辺にいる」

「そこをどけ」

 私はまた踏み出した。ジムは行く手に立ちはだかった。数秒にらみあう内に、私はあることに気づいた。知らぬ間に自嘲の笑みを洩らしていた。ジムは私と臭いが違った。最終的に、私はジムの素性をおぼろげに察した。この男の目的を察したのは、そういう臭いからだった。ジムは私の計画をどこからか察知した上で、私と接触するつもりで近づいてきた人間だ。

 しかし、私が圧倒されたのはジムの傲慢な顔に見え隠れしている強靭な自信だった。その自信のよって立つ島国から、臭ってくるある世界の臭気があった。私の血に流れているものとは違う異国の臭気だ。

「へえ・・・」

 私は初めニヤニヤした。笑みはやがて哄笑になる。

「分かったか?」

 ジムもニヤニヤした。

「ふざけるな。レベッカはどこにいる?」

「この国の警察が知ってる」

「じゃあ、あんたが知ってるということだろう」

「この国の警察と我々は目的が違う。警察があの中国人の女をおさえているのは、女を保護して本国に送り返すためだ。北京から、そういう要求が来てる」

「レベッカはどこだ?」

「質問するのは俺の方だ。レベッカの正体は?」ジムは答えた。

「ただのホステスだ」

「あんたの気持ちは分かる」ジムは真顔で言った。

 私は「何が」と怒鳴ろうとしたが、言葉に詰まった。ジムは続けた。

「レベッカが以前から警察に情報を流してた。あんたがそれを知らないことはあるまい。不法就労で眼をつけられて仕方がないとも言えるが、今は立派な情報屋だぞ」

 ジムが『情報屋』と言った時、その口に浮かんだ侮蔑と怒りの表情は私の胸を深く射抜いた。そんな言葉を当たり前のように使うこの男に憎悪がつのった。

「作文はそれで終わりか?」

「作文だと思うなら、試しに店に戻ってみるか?」ジムは呆れたように首を振った。「頭を冷して考え直せ。悪いようにはしない」

「あんた、俺を何だと思っているんだ。領事館に行っても、俺が喋ることなど何もない」

「あるかないかは、こっちが判断する」

「喋るかどうかを判断するのは俺だ。俺は誰にも迷惑はかけないし、誰も裏切るつもりはない」

「レベッカは来ないぞ」

「だったら、あんたは国の役に立つことをしろ。レベッカの親族に1人、北京市人事院の高級官僚がいる。レベッカは国を脱出する際、あるリストを持ち出した。香港政庁が中国国内で操る反体制派活動家のリストだ」

「金を返してやろうと思ったんだがな」ジムはまたにやりとする。

「何の金だ」

「あんたがカリミから偽造パスポートを千ドルで買ったそうだな。その代金のお釣りだと思えばいい」

「ほかに金で買えるスパイを探して、そいつにくれてやれ」

「貴様の棺桶に飾る花代にしてやる」

 ジムは笑い出した。この路地にも、自分にも、無縁の笑顔だった。

「貴様の上司によろしく」

 私はそれを最後の言葉にした。ジムは「おい」と間の抜けた声を上げる。私の手首を掴んできた。私はそれを振り払って男を押し退け、歩きだした。

 ライナーガッセに出て私は少し走った。シェーンブルク通りに入った。路地の暗がりに潜んで、私はコートを脱いだ。スーツの上着を脱ぎ、大して似合ってもいないネクタイも外した。足が痛かった革靴も脱いだ。ボストンバッグに入っていた古いセーターをジャンパーに着替え、履き古したズックを履いた。

 私は再び歩き出した。別に、何かと訣別したわけでもない。縁起を担いだ儀式をしているつもりもなかった。着慣れた衣服に着替えたのは、ただ単に人目をごまかすためだった。金や旅券はスーツの上着のポケットから、ちゃんとジャンパーのポケットに移した。私の頭は半分が充分に冷静だった。残り半分がどうだったかというと、夢見心地という表現がおそらく一番当たっていただろう。

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