俺と彼女と
柚月ゆうむ
俺と彼女と
ガタンガタンとリズミカルに心地よい音が響く電車内。外はさぞ空気が澄んでいて開放的であろう。俺がいる車内は淀んだ空気が漂い、圧迫感に襲われている。ほぼ毎日同じ時間の電車に乗っているが、やはり満員電車は嫌なものだ。
少しでも気を紛らわそうと思い、ポケットからスマホを取ろうとしたその時、俺の手が掴まれた。
「こっ、この人、痴漢です」
そう叫ばれた瞬間、俺の手は勢いよく上げさせられ、車内はざわめき始めた。目の前にいた長髪でスーツ姿の女性は、キッと俺を睨んでいる。
「いっ、いや違います。俺は―――」
ジリジリジリー、と目覚まし時計が鳴った。俺の目の前には毎朝見る白い天井があった。手を後ろに伸ばし、目覚まし時計を止める。
夢でよかった。また勘違いされたら、たまったものじゃない。
それにしても懐かしい夢を見たものだ。あの時俺は彼女と出会ったんだっけ。
体を反転させ、時計を見ると、ちょうど十時を指していた。
そうだ、今日は約束があるんだ。
俺はベッドから起き上がり、洗面所に向かった。ほんの少し頭が痛い。昨日飲み過ぎたのかもしれない。むくんだ顔が鏡に映っていた。
俺は、身支度を済ませ、車に乗り、彼女の家に向かった。彼女の住むアパートは、俺のアパートから十分程度の距離だ。今日は休日のためか、道路は空いていて、スムーズに来ることができた。車を停車させ、窓から外を見上げると、二階の彼女の部屋が見えた。ベランダには、プランターが並べられていて家庭菜園がされている。
それにしても、いったいどうしたんだろう。今日の約束は彼女からのものだった。何やら相談したいことがあるらしい、その時の声は少し怯えていたような気がした。
ピンポーンと音が鳴ると同時に、ドタドタと足音が聞こえた。
「達也、待ってたわ。さ、入って」
「今日はどうしたんたんだ。相談したいことがあるって言ってたけど、何かあったのか」
「うん、そうなの。はい、お茶」
「ああ、ありがとう。それで相談ってなんだ」
「うん、あのね。最近私、誰かに見られているような気がするの」
彼女はか細い声で言った。
俺の心に動揺が走る。
「誰かに見られてる……。そ、それはいつから」
「なんとなくそんな気がしたのは、だいたい一ヶ月くらい前」
「そ、そんな前だったのか。どうして相談しなかったんだ」
「ご、ごめんなさい。あの頃はまだそこまで確信がなかったし、それにあなたと付き合い始めたばかりだったし、あなたの仕事を邪魔したくなかったから」
「そうか……。すまない、大声を出してしまった。……確信がなかった、ってことは、今は確信があるのか」
「うん、はっきりとした証拠があるって訳じゃないんだけど、でも確かだと思う。一週間ぐらい前なんだけど、誰かに入られた形跡があってね」
「はあ、家に入られたって、本当かよ」
「もしかしたら、勘違いかもしれないんだけど、私が家を出た時と帰って来た時で、物の配置が違ったの。私、結構几帳面に掃除してるから。……それに、ここ一週間よく同じ車を見るの」
「車?」
「うん、実は今も停まってる」
「えっ、はあ、マジかよ。……ど、どこに?」
「そこの窓から見える」
「ちょっと見て来る」
「気をつけてね。相手から見えないように、そっとね」
とても不安そうな震えた声で言った。
「ああ」
カーテンがわずかに開く。
「あの黒い車か?」
「うん」
「このアパートの住人ってことはないのか?」
「ええ、それはないわ。住人は駐車場が使えるから」
「まあ、そうだよな。……何回くらい見た?」
「この一週間で四回は見てる。もしかしたらもっと前からいたかも」
「警察には通報したのか?」
「したよ。だけど、あんまり協力してくれなそうで。……ごめんなさい、迷惑かもしれないけど、私にはあなたしか頼れる人がいないの。……協力してくれる?」
「ああ、当たり前じゃないか。俺が守ってみせるよ。……今日は、ここに泊まってもいいか?」
俺の心臓がドキッと飛び跳ねた。
「えっ?」
「しっ、心配だからさ。ダメかな?」
「う、ううん。ダメじゃない。ありがとう。……でも、今日は午後から仕事でしょ」
「その予定だったけど、大丈夫。休みを入れてもらうからさ」
「それは、ダメよ。せっかく軌道に乗って来たんだから、邪魔はできない。話せて落ち着けたから、今日は大丈夫。また明日お願い」
「……そうか。じゃあそうさせてもらう。戸締りしっかりな。あと今日は外に出るんじゃないぞ。明日すぐ来るから」
「うん、待ってる……」
「……」
俺はゆっくりと車を発進させた。しばらく走った後、交差点の信号につかまった。白線ギリギリに停車し、ハンドルに頭をもたれかける。
俺の頭の中には、主に二つの感情が渦巻いていた。まず一つ目は、自分に対する純粋な怒りだった。どうして俺は彼女が怖がっていたことに気づかなかったんだろう。こんなにも愛しているのに。全く本当に無能なやつだ、俺は。
ふと目を閉じると、あの日、彼女と出会った日を思い出す。俺は痴漢を疑われ、迷惑な正義感と見え透いた下心を発揮した男どもに取り押さえられて、駅長室へと連行されそうになった。それを見ていた彼女は、犯人は俺じゃないと証言してくれたのだ。あの時たまたま近くにいて、俺の手が掴まれる瞬間を目撃していたらしい。俺は彼女に助けられたのだ。
それなのに、俺は彼女の恐怖に気づくことが出来なかった。本当に情けない。
そして、二つ目の感情。できればこの感情は抑えたいものだった。いや、正確に言えば、今まで抑えてきた感情だった。だが、俺の中にある黒いそれは、着実に膨らんでいった。やはり許すことはできないようだ。
信号が青になった瞬間、俺はアクセルを思いっきり踏みつけた。
夜、三津露駅の改札口。騒がしかった人混みもまばらになってきたとき、俺はやっと目的の人物を見つけることができた。フードをかぶりなおし、ゆっくりと近づく。スーツ姿のその男は、こちらに気づいたらしく、不審そうな目でこちらを見ていた。
「あの、すみません。横山達也さんですよね?」
彼の目をしっかり見据えて訊ねた。
「……ええ、そうですが、……あなたは?」
それは知る必要のないことだ。俺はバッグからナイフを取り出した。刃は鈍く光を反射していた。
彼女は俺のものだ。
***
続いてのニュースです。昨日二十三時頃、警視庁は三津露駅改札口にて、大学生の関健吾容疑者(二十二歳)を殺人未遂の疑いで現行犯逮捕しました。
調べによりますと、関容疑者は、改札で待ち伏せし、会社員の男性(二十四歳)の腹部をナイフで刺し、殺害しようとした疑いが持たれています。男性はその後病院に運ばれ、一命をとりとめました。
また、関容疑者は、被害に遭った男性と交際している女性(二十四歳)に対し、ストーカー行為をはたらいていた疑いも持たれていて、女性の住むアパートからは、複数の盗聴器が発見されたとのことです。
関容疑者は、黙秘を続けています。
俺と彼女と 柚月ゆうむ @yuzumoon12
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます