講義 1日目 選定公国歴58年10月8日の早馬の件

早馬を見て慶事を見るは安住の民、凶事と見るは流浪の民

アヴォン地方の諺


1-①

 馬が走ること自体は珍しいことじゃない。

 しかし、早馬となると話は少し変わってくる。

 ましてや、早馬に乗っているのが明らかに民間人ではない、となると。

 目が良くて、なおかつ多少の見識があり、さらに勘の鋭い者ならば、その異常さに気づいたかもしれない。

 残念ながら、公都からブルーフォレスト城までのいくつかの物見塔、詰め所、関に、その重大性に気づいた者はいなかった。

 最初に気づいたのは、ブルーフォレスト城の正面左の物見塔のチーフ、ロンド・ケアール。

 ロンドは丁度昼の賄を食べて、休憩終わりの一服をするかしないか、いささか悩んでいるところだった。

 視線の先の山々と、辺り一面に広がる麦畑をぼんやり眺める。

 最近、寝起きが悪く、体が重い。

 ブルーフォレストの城周辺は、ここ1年、劇的に治安がいい、とはいえ、いつ冬の民やら例の北の大国と戦いになるかは下っ端には分からないし、明日、治安維持で賊狩りに任命されるかもしれない。何も知らされないくせに、割りに合わない仕事は大概下っ端の仕事だ。

 いろいろ考えた挙句、どうせいつか死ぬから、と草巻きに火を点ける。 

 畜生め!うまい!

 何とも言えない満足感と、虚脱感が同時に襲ってきて、立ちくらむ。

 けだるさに任せて物見窓から再び地平線を眺めると、紫煙の向こうになにか小さい黒い物が見えた。

 十月の草巻き日和の空気―そんなものがあれば、だが―と草巻きの煙とを鼻と口から同時に吸い込むと、フンムと鼻からまとめて吐き出し、もう一度遠くにギョロ目を向ける。

 ロンドの自慢は目。これは父親譲り、だと思っている。親父も物見塔の兵士で、最後には全物見塔の大隊長まで上り詰めた。ロンドは40半ばで、左塔のチーフ。これ以上は平和過ぎて望めないかもしれないが、それはそれでいいと思っている。

 本人は左程自覚症状がないが、ロンドは実は勘もいい。これは母親譲り。お袋はいろいろな作戦に親父が参加する度、危ない、とか危なくない、とか根拠のないかつ曖昧な助言を与えていた。そして、かなりの確率でそれは正しく、危ない、と言われた作戦は、大きな犠牲が出たり、失敗に終わったりしていた。親父は傍から見てもお袋に従順だから、老後をのんびりコリー犬のバロンと過ごす老後を手に入れることが出来た、そう、ロンドは常々思っている。

 そんな両親から微妙で微細で重要な才能をそれと気づかず受け継いでいるロンドだが、本人の意識する自慢は軍装マニアであるところ。

 ぱっ、と見ただけで、国はもちろん、部隊、ランク、そういったことまで分かる。

 唯一の趣味、といってもいい。

 主に休憩中―もちろん、勤務中でも暇なときには、まあ、大体暇だが―各公国の部隊や武装、紋章なんかをまとめた印刷物を眺めては「ほうっ」とか「はあ」とか一人で呟いては、部下に大層気味悪がられている。もちろん、その点本人に自覚はない。

 ロンドは残り少ない休憩時間と残り少ない草巻きのことを考えながらも、目では地平線の向こうから近づく馬―もうそれは分かっていた。あのスピード感で大きくなるのは他にはいない―に目を凝らしていた。

 職業病、とも言う。

 遠くに目を凝らし、収穫を迎えた黄金の麦穂の中、だんだんに近づいてくる馬を見つめていたロンドの眉間に皴が寄る。

 ロンドはいつしか、草巻きの事は忘れていた。

 草巻きから自然に灰が落ち、麦薫る秋の風に舞った。

「大変だ」

 思わず口走ると、慌てたように物見窓から離れて回れ右で駆け出した。余程慌てたのか、途中、物見部屋の真ん中にある椅子とテーブルにぶつかる。

 後に、ストーブでなくてほんとに良かった、と述懐している。

 余談だが、10月末の人事で、ロンドは7年ぶりに昇級することになる。



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